私のお気に入りの孤独(1)
今なら、胸を張って言える。
あの頃の自分の経験は間違いじゃなかったと。
「雨がひどいですね」
「ひどいわね」
円山笑子(まるやまえみこ)は、自宅から歩いて数分の駅、1番ホーム向かいのベンチに座って、列車を待っていた。
前日から降り続いている雨のせいで、来るはずの普通列車は朝から全線運休になっていた。笑子はそれを駅に着いてから知った。
何となく癪で、それに何となく思うところがあって、彼女はそのままベンチに座って、いつ来るとも知れない列車を待っていた。お気に入りの薄手のチェックのワンピースは、湿気でしおれていた。
「降り止みませんね」
「降り止まないわね」
待ち続けて30分ほど経ち、ふと気がつくと、ベンチには先客がいた。笑子の左隣に腰掛けて、やはり茫洋と列車を待っていたその老婆に、笑子はそれとなく声をかけた。そしてふたりは互いにぽつぽつと口を開いたのだった。
ポーンと音がして、ホームにアナウンスが鳴り響く。始発の駅とふたりのいる駅との中間地点から、あと2時間後に、代行列車を運行するという報せだった。
「2時間ですか」
「2時間ね」
1番ホームと2番ホームしかない、古びて、小さな駅だ。2~3人用のベンチは塗装が剥げかけて、ところどころ赤茶色の錆びが見える。ベンチの向かいの自動販売機に並んでいる飲み物は、一昔前のラインナップのままだ。強い風に煽られ、笑子と老婆のもとにも、雨粒が舞い込んでくる。
「・・・・・・ロビーに戻らないんですか」
「あたくしはいいわ。雨のなかで考え事をしたいの。それよりあなたは戻らないの」
「わたしはいいです。雨のなかで考え事をしたい気分なので」
「気が合うのねえ」
老婆が笑った。
「そうみたいですね」
笑子は苦笑した。どうにも風変わりなおばあさんだと思った。自分のことをあたくしと呼んだり、雨のなかで考え事をしたいと言ったり。笑子の言葉をオウム返しするのは、本当に考えていることが同じだからなのか、それとも、童顔の痩せ形、黒髪のおかっぱ頭の笑子を子ども扱いして、あやしているつもりなのか。笑子が老婆の言葉を繰り返したのは、老婆の真意を探りたくなったからだ。
「ところで、あなた、どこに行くの? せっかくの旅行がふいになって、残念ね」
「旅行?」
「だって、トランクを持っているじゃない」
老婆は、とても珍しい動物を観察するかのように、大きく目を開けて笑子に問う。今度は笑子が老婆に「風変わり」だと思われているらしい。
「引っ越しをするんです。それで、昨日も今日も必要になるようなものだけ、こうやって手持ちで運びたくて。他は送りました」
「へえ、どこへ?」
「実家です」
「実家?」
話せば話すほど老婆のなかの「?」が広がっていくようだった。正直、笑子にはそれは面白くなかった。ちゃんと最初から最後まで話さないと、分かってもらえないのではないかと思った。それに、ここに来てずっと心に影を落としているもやもやが、誰かに話すことで、少しは晴れるのではないかという期待も生まれた。
「はい。隣町の実家へ。実家はJR駅のすぐ側で、バス停はすごく遠くて、それで」
「隣町の実家へ、お引っ越し? どうしてまた、わざわざそんな」
「そうですね・・・・・・」
笑子は俯きながら話し始めた。
1
生まれたときからの記憶を振り返って、笑子が最初に思い出すことができるのは、3~4歳の頃のものだ。
1987~88年にかけて、笑子は私立幼稚園の、今でいう「お受験」のため、連日、机にかじりついての猛勉強を強いられた。
笑子の背中には、常に、母・弘子(ひろこ)の冷たい監視の眼があった。
弘子の監視は執拗で、問題が出来なかったり、勉強に飽きて椅子を離れようとしたりするたびに、縄跳びの縄でぶたれた。まるで、よくしなる鞭のように、弘子はそれを使いこなした。受験直前には、笑子の小さな背中は、無数の傷跡で埋め尽くされ、洗うこともままならなかった。
笑子は子どもなりに一所懸命やった。弘子にぶたれないようにと。
しかし、努力は実らなかった。
受験に失敗し、普通の公立の幼稚園に入ることになったのだ。
私立幼稚園の入口に張り出された合格者発表を母子揃って見に行くと、笑子の番号がないと言って、弘子はその場で激しく取り乱した。まわりの父兄に諫められてさえいた。笑子はおののいた。一体、家に帰ったらどんな目に遭うのだろう。車のなかに入った時点でぶたれるのだろうか?
笑子の予想とは裏腹に、ぶたれるほどの執拗な干渉を受けることはなかった。
代わりに弘子の深い溜息が、ふたりきりの車内を包み込んだ。
「この子は、ダメなのね」
弘子が笑子に向けた呟きと眼差しは、落胆というより、諦念や軽蔑に近かった。
その眼差しと、ひりつく背中の傷跡が、今でも身体の感覚として、笑子のなかに、はっきりと刻み込まれている。
弘子は後に、当時の行為の背景について、笑子にこう語った。
弘子の生家は東京にあり、父は都議会議員で母はその秘書、上の姉は直木賞作家、下の姉は元女優という、超エリート一家だった。弘子ひとり、なんの取り柄もなく、「無能な子」扱いされて育った。
両親に常に厳しく叱責され、ふたりの姉に見下され、時にいじめられて育ったことが原体験としてあり、弘子は自分がされたことを、ついそのまま、笑子に行なってしまうのだった。
弘子は大変な努力家だった。私立女子大附属の幼稚園からエスカレーター式に短大文学部まで進むと、姉たちと違い、両親のコネは一切無しで、大手食品加工会社に就職し、広報部に配属された。
心の穴を埋めるため、死にもの狂いで働いた。同僚や先輩に妬まれ、嫌がらせを受けたりもしたが、弘子は全ての雑音をはねのけて昇格していった。
そして、同じ会社の優秀な開発者として活躍する、笑子の父・勇(いさむ)と出会い、24歳で結婚、寿退社。25歳で東京を離れ、勇の職場の近くに、建ったばかりの高層マンションを購入、娘を出産。
両親に、姉たちに、完璧な復讐を遂げたはずだった。笑子が幼稚園の受験に失敗するまでは。
弘子の話は、笑子自身には本来、何の関係もないはずだった。しかし弘子は過去をきちんと清算できずに、こだわってしまうために、自分の過去の姿を無意識に笑子に投影する癖がついて、それを長い間、修正することができなかった。
笑子が次に思い出す記憶は、1992~3年、7~8歳の頃の、父・勇の姿だ。
大手食品加工会社の開発部のエースとして、現在では定番商品としてよく知られている、スポーツドリンクやスナック菓子などのヒット商品を次々と世に出していった。そんな、前途洋々の開発者としての勇の人生に、大きな影を落とす出来事があった。
笑子が小学校に入学する直前、多額の資金を投じ、部をあげて開発に臨んだ商品が全く売れず、会社は大赤字になってしまった。勇はプロジェクトのリーダーとして、営業部への左遷というかたちで責任を取らされたのだ。
親兄弟は代々、研究者や職人といった、理系の道で成功しており、勇もまた、学生時代から理系一直線だった。営業部に左遷されたのが事実上の肩たたきであることも薄々感づいていた。そんな勇が、営業部に適応できるはずもなく、半年で退職。その後1年弱にわたり、無職の生活を余儀なくされた。
後にも先にも、穏便な勇があれほどまでに荒れていた時期はない。
笑子が自宅のリビングで食事をしながら、テレビを観て、大声で笑ったら「うるさい!」と罵声が飛んできた。友だちを家に呼んで、二階の自室で走り回っていたら、友だちが帰った後でこれまた酷く怒鳴られた。すぐに弘子が飛んできて、笑子は自室に引っ張られ、「お父さんは大変なのに!」と、縄の鞭をまた背中に打ち付けられた。
この時期の勇は完全にノイローゼ状態にあり、弘子は彼の顔色を常に窺っていた。彼は、精神的に追い詰められ、弘子にもよく当たり散らしたのだ。
失業を知った父や兄弟――笑子にとっては祖父や伯父たち――に、勇は「一族の恥」と断罪され、縁を切られたそうだ。そのために、再就職先を探すのにコネを使えず、また不器用で挫折知らずの勇は転職活動自体もうまくなかった。相手の企業側も「元開発者のエリート」をどう扱うか戸惑うことが殆どだった。
むしろ、いわゆる普通の企業が、部署のリーダーや営業の経験を高く買うことが多かった。初めのうちはそのような反応を受け止められずにいたが、無職の生活が1年に近づき、開発の仕事に戻れないと悟った勇は、生活のため、やむを得ず誘いに乗った。それは妥協であると同時に、大きすぎる挫折であった。
この一件で、勇と弘子の夫婦間にも隙間風が吹き始めた。失職は不可抗力の出来事なのだからと、弘子は勇を非難することができなかった。しかしながら当時の勇の仕打ちは堪えがたいものがあった。かねてより、弘子には沢山、沢山、勇に聞いて欲しい愚痴や相談事があった。生家でお手伝いさんにいつも話を聞いてもらっていたように、勇にもいつでもべったりと頼りたかった。
そんな期待を抱いて勇に話しかけても、開発や研究に関すること以外何事にも無関心で、感情の起伏がとても少ない彼は、合理的思考で「そんなことを考えていては時間の無駄だよ」と切り捨てるか、風のなかを歩くように受け流すのだった。一方で、ヒステリックになっている勇はとても怖かった。 弘子は、やがて、勇に心を開くことを諦めた。
弘子のなかには恐怖や怒りがどんどん溜まっていき、それらは時期によってかたちを変えながら、ことごとく、笑子へと向けられた。
父が壊れていた1年弱の記憶は、時間をかけて笑子を深く傷つけ、それは今も笑子のなかから消え去ることはない。
失業から1年弱が経った1993年、勇は、家族で暮らしている都市の外れにある自動車販売店に、営業・販売職として採用され、何とか再就職を果たした。笑子が小学2年生のときだ。
会社は中小企業で、失業前、大手企業に勤めていたときに比べ、収入は大幅に減った。しかし高層マンションのローンは円山家を特例で免除してはくれないし、何より笑子の教育費がある。
勇が前の職場で左遷されたのが笑子の小学校入学前ということもあり、危機を察知した夫妻は笑子を私立ではなく公立の小学校に進ませた。お陰で、小学校の時点で一家が経済的に追い詰められることはなかったが、夫妻はその先のことを常に考えていた。笑子を必ず大学まで進学させる。そのためには多額の蓄えが必要だ。
かくして、勇の再就職からほどなく、弘子は、近所のクリーニング店にパート勤務で出て、生計を助けることになった。
片や、理系の研究者一族に生まれ育ち、開発者として順調にキャリアを積んでいたのに、自動車販売店で泥臭い営業・販売の仕事をする羽目になった。そして片や、エリート一家に生まれ育ち、一流企業で活躍し、早くに寿退職出来たのに、クリーニング店でちまちまと汚れた衣類を預かりながら、家事や子育てまでこなす羽目になった。
ふたりの落胆と絶望は深かった。それが日々の疲れを、何倍にも増して感じさせた。
笑子の前で、両親は、疲れと絶望を隠さなかった、いや、隠せなかった。
「間違えるな」と勇は言った。「頑張りなさい」と弘子は言った。ボロ雑巾のように、しおれきって、くたくたに疲れ果てた姿で。
笑子は長女で、下に兄弟が出来る気配もなかった。小さな両肩には、自ずと両親の期待という重圧がのしかかった。
(わたしがうまくやらなきゃ、わたしががんばらなきゃ)
気がつけば笑子はそう自分に言い聞かせるようになっていた。
私立幼稚園の受験の時とは打って変わって、一心不乱に勉強に力を注ぐようになっていった。
間違えないために、頑張るために、ぶたれないために、叱られないために。
愛する両親の、期待に応えるために。
幼い頃は、両親にいつも叱られ、諦められていた笑子だったが、やがて真面目で大人しく、手のかからない優等生に育った。
小学校も中学校も高校も、成績は学年トップクラスだった。しかも塾や家庭教師といった大きな出費なしに、学校の宿題を繰り返し解くなどの独力で。
両親からは、それまでが嘘のように、褒められ、可愛がられた。そして、彼らがなし得なかった、或いは挫折した、「社会的成功」「失敗のない人生」といった、打ち砕かれた自らの夢を、託されるようになった。
「いい大学に入って、いい会社に入って、あなたは幸せになって」
弘子は呪文のように笑子にそう言い続けた。
(頑張れば、褒めてもらえる。頑張らないと、結果を出さないと、わたしには価値はない)
そんなメカニズムで、笑子は走り続けた。
勉強漬けの毎日で、友だちは殆どできなかった。友だちの作り方も、わからないままだった。
高校1年生の夏頃から、笑子は不眠や抑うつに悩まされるようになった。布団に入っても何時間も眠れなかったり、逆に早く目覚めてしまったり、わけもなく気分が沈んだり。でも、普段読んでいる小説や、弘子が観ているテレビドラマでは、思春期の若者にそういった例がよく出てくるし、彼らは大人になったらいつの間にか治って、健康を取り戻している。だから笑子は、自分も同じように、思春期の、一過性のものなのだと思い、勉学のスピードを落とさなかった。
高校3年生になるといよいよ症状は悪化したが、「受験のストレスは多かれ少なかれみんなに起こること、今我慢すれば終わる」と信じて、笑子は症状を抑え込み、両親にも不調のことは話さなかった。
努力の甲斐あって、笑子は有名国立大学に入学することができた。
大学は実家の隣町だが、「自立して立派になるため」に、笑子は実家を出て、ひとり暮らしを始めた。
すると、糸が切れたようになった。起きられない、動けない、なのに何日も眠れない、或いはずっと眠りっぱなし。学校に通えるわけもない。
様子を見に訪れた弘子は、笑子の異変に気付き、すぐさま彼女を病院に連れていった。
笑子は「うつ病」という診断を受けた。
結局、僅か1ヶ月弱しか大学に通学できず、引きこもりに近い状態が半年ほど続いた後、やむなく退学することになった。
2003年9月30日、弘子は笑子の代わりに退学届を大学に提出した。奇しくも、その日は笑子の19歳の誕生日だった。
両親は絶望した。笑子の挫折は、そのまま彼らの再びの挫折と、自己否定に直結するからだ。
とはいえ、この時期、勇は仕事に追われていた。望まない仕事とはいえ、職場からそれなりに信頼を勝ち取り、多くの仕事を振られ、必死に一つ一つをこなしていた。
勇は「子育ては弘子の仕事」とみなし、手伝うことも、話を聞くこともしなかったため、またしても弘子が笑子の問題を抱え込むことになった。
日常生活を送ることも困難な笑子の面倒をみるために、この時期から、弘子が週1回、笑子の住むマンションを訪れる「習慣」が始まった。
大学入学から1年、退学から半年が経った頃、笑子は強い抑鬱状態を抜け出した。
それは決してまだ「安定」に至ったわけではなかったが、笑子は自分の置かれている状態、犯した罪、それによって両親が代わりに被っている罰――もっと言えば「負債」――を知っていた。
隣で渋い顔をしながら彼女を見守っている弘子の、悶々とした様子から、笑子はそういったことを嫌でも悟らなくてはならなかった。
大学の入学金、1年分の授業料、マンションの家賃、光熱費。そういったお金がどこから出たか。そしてどれだけ無駄になったのか。自分のせいで、円山家の財政状況がどれだけ苦しくなったのか。
(お父さんやお母さんに、もう迷惑はかけられない)
笑子はそう考えて、駆け出すようにアルバイト生活を始めた。
医師には、当然止められた。
「君の病気は、焦るのは禁物なんだ」
そう何度も説かれたにも関わらず、焼け付くような焦燥感と罪悪感によって、笑子は突き動かされてしまったのだ。
医師の言う通り、半年もすれば、笑子の抑鬱状態は簡単に再発した。そのために、バイトを辞めることを余儀なくされた。
言わんこっちゃない、という医師の声が聞こえてくるようだった。にもかかわらず、笑子は激しい焦燥感からじっとしていることができず、少しでも調子を取り戻すとまた新しいバイトを探しに、ハローワークに行き、情報誌を読み漁りだすのだった。
笑子の病は慢性化した。
治ってはバイトを探し、働いては半年程度で抑鬱をぶり返して辞める繰り返しが続き、職歴は履歴書に書ききれないほどに膨れ上がった。年月が経つほど、心が折れてから立ち上がるまでのスパンが長くなり、挫折の繰り返しで心そのものも疲弊して、修復がききにくくなっていった。
24歳から始めた仕事で、笑子はやっと1年以上働き続けることができた。しかし、その直後に、またもダウンした。
病院からは遂に「就労不能」の診断が下された。
診断を受けて、笑子は休職を会社に願い出た。ほんの1~2ヶ月程度で戻れるだろうと。しかし、半年経っても復帰のめどがたたない。
そして九月末付で、笑子は契約を打ち切られ、退職へと追いやられ、それは事実上の、社会人としての「リタイア」を意味した。
働けず、仕事も探せない状態のまま、何ヶ月も過ぎていき、僅かな蓄えはすぐに底をついた。笑子は、生活費を実家から援助してもらいながら、辛うじてひとり暮らしを維持することになった。
笑子を自滅へと追い込んだ激しい焦燥感の背後には、常に弘子の存在があった。
大学退学後、アルバイト生活を始めると当時の医師に宣言したとき、医師に反対された笑子がそれを弘子に伝えると、たちまち弘子は激昂し、病院を替えるように言われた。
弘子の命令通り転院した病院は、いわゆる5分診療の病院で、笑子は流れ作業のように「処理」された。調子はどうか、薬の副作用はないか、医師にそれだけを早口で問われ、「ハイ終わり」と診察室を追い出される。イエスとノー以外の回答は歓迎されず、病状を詳しく話そうとすると、途中で遮られる。そのような場所だったから、笑子の病状の慢性化や悪化、そういった現象が起こる背景は、見ようともされなかった。
その後、笑子が就労不能の診断を受け、リタイアを余儀なくされると、弘子は今度は大病院への転院を強く勧め、笑子は言われるがままに転院した。
金銭面で援助をしてくれて、大学入学の年からずっと、週1回、忙しいパートや家事の合間を縫って、世話をしてくれる。そんな弘子に、笑子は反論することができないのだった。
母子の関係が悪化していったのは、笑子への実家の金銭援助が半年を過ぎた頃からだった。金銭援助は、全て弘子のパートの収入から捻出されていた。そこから弘子のなかに不満が溜まっていったのだ。
「あなたのためだけに、一体幾らかかるのかしら」
「もうお金がないのに」
弘子は寝込んでいる笑子に聞こえるように、小さくない声で呟いた。その繰り返しは、笑子の精神を次第に追い詰めた。
「どうして強くなれないの。お母さんは、逆境に出会うたびに、負けないって自分に言い聞かせて、這いつくばって頑張ったものよ」
「頑張りなさい、甘えてちゃだめ。お母さんは24歳でお父さんと結婚して、25歳であなたを産んだのよ。お母さんに出来たことが、どうしてあなたにはできないの」
これらは、もっと以前から、笑子が弘子に言われ続けていた言葉だ。24歳のとき、25歳のとき、ただ働くだけ、それすらも出来なくなっただけの笑子に、こうした言葉は刃物のように深く突き刺さった。
「どうして、できないんだろう」
弘子が来ない日、笑子はひとり、そう呟いては涙を零した。
そして、風呂場などで、カッターナイフを自らの身体に当てた。
人目につかない、太腿や肩などを選んで、笑子は自分を罰した。
リタイアから1年が経つ頃には、笑子の自傷行ためはエスカレートしていた。
カッターナイフによる切り傷は全身に及び、「人目につかない場所」というルールはないも同然となっていた。
ただ、医師にそれを知られることだけは回避したく、季節が冬なのをいいことに、服で身体を覆い隠して毎回の診察に臨んでいた。
しかし、百戦錬磨の医師に、小細工は通用せず、ある日、左腕の切り傷を見つけられた。そして、笑子は厳しく問い詰められた。
相手はプロだ。嘘は通じないと笑子は覚悟を決め、幼年期からの記憶や体験を、覚えている限り全て医師に打ち明けた。
医師の反応は迅速だった。
その日の診察から1週間後に、笑子と弘子を診察室に呼び、家族面談を行なったのだ。
医師は笑子と弘子を交互に見ながら、こう言い渡した。
「過去のご両親の笑子さんに対する行為は、ドメスティック・バイオレンス、つまり家庭内暴力にあたります」
「近年、笑子さんとお母さんは、きわめて危険な母子密着状態にあります。お母さんの一つ一つの言葉が、笑子さんを追い詰め、結果として笑子さんを、このような自傷行為に走らせているんです」
そう言って医師は笑子の左腕を掴んで引っ張り上げ、服の袖をまくり、左腕を埋め尽くす無数の傷跡を露わにして弘子に見せた。
「笑子! あなた、どうしてそんなことを――」
「だから、お母さんのそういう反応が問題なんです」
医師は弘子の言葉をわざと遮って言った。
「いいですか。あなたたち母子は、離れる必要があります。笑子さん、ご両親とは当面、絶縁してください。そして生活保護を申請しましょう。お母さんの影響のない環境で、治療に専念しなければならないんです」
生活保護という単語を聞いて笑子は呆然とした。
「これは命令です」
医師の強い口調と眼差しに、笑子は動揺が収まらないながらも肯いた。
「何ですって? 何よ、この病院! あなたには笑子を任せられません、今すぐ転院します!」
弘子はヒステリーを起こして医師に噛みついた。しかし医師は動じる素振りも見せず、さらりと言い放った。
「もう一度言いますが、これは命令です。お母さん、あなたが、笑子さんを救いたいとお思いなら、この方法しか今はないんです」
弘子は絶句し、やがて顔を覆って泣き出した。
それを横目で見ながら、意識が今にも遠のきそうなのを堪え、笑子は医師に向かって言った。
「わかりました」
今まで世話になってきた医師のなかで、この医師が最も真摯で、時間をしっかりとって、話もじっくり聞いてくれた。笑子は、その実感に賭けることにしたのだ。
翌年、笑子は、前年にもらった障害者手帳と、両親から離れて療養しなくてはならない理由を書いた、医師の意見書を持って区役所に行き、生活保護の窓口で申請に向けた相談をした。そして、手持ちのお金が殆どなくなった2011年3月、笑子は正式に生活保護を申請し、翌月に受理された。
よりにもよって、東日本大震災と同じタイミングだった。しかし、なにせ生活保護を受けるという、人生の一大事の渦中である。国じゅうを揺るがす震災さえも、どこか他人事だった。
翌月から、笑子はそれまでと同じ病院で、デイケアを1年、集団療法を1年受けた。しかし、笑子にはどうにも水が合わず、いずれも挫折してしまった。
集団療法に挫折した笑子は再び抑鬱が悪化し、家で寝込みがちの病状に戻ってしまった。
定期的な通院での治療が難しいとの判断が下され、医師は、自宅療養に加え、訪問看護を週に1回入れる予約をすることを提案した。
笑子は言われるがまま新しい治療を承諾し、書類にサインをし、担当者との顔合わせを行なったが、どっしりと重たい頭には、担当者の説明も話の内容も何一つ入ってこなかった。
そうして、笑子の「ひとりの生活」が始まった。
それは2013年の春。列車を待ちながら話をしている2015年夏から、およそ2年前のことだった。