浅井ゲルマニウム研究所
浅井ゲルマニウム研究所
明日は3月1日、明々後日ぼくの誕生日です・・・それはどうでも良くて、3月1日は株式会社浅井ゲルマニウム研究所の創立記念日となっています。そんなわけで、今日はこの会社について歴史概略を記します。
ぼくの所属する株式会社浅井ゲルマニウム研究所は、創立者の故浅井一彦博士がアサイゲルマニウムの研究を行うために1968年に設立した私的研究所でした。ぼくが生まれる一年前になります。
この前年の1967年に同じく浅井先生が設立された財団法人石炭綜合研究所にてアサイゲルマニウムが初合成され、浅井先生の著書「ゲルマニウムと私」の中にある記述の通り若い研究員が合成したての水溶性有機ゲルマニウム化合物を先生のもとに届け、それを飲用した瞬間が『アサイゲルマニウム』の誕生だったと思っています(ぼくが勝手に思っているだけか?(笑))。
私的研究所として誕生した浅井ゲルマニウム研究所でしたが、その後1975年には株式会社となり、アサイゲルマニウムの開発番号であった「Ge-132」としての研究開発が活発に行われていきました。
浅井ゲルマニウム研究所狛江研究所
浅井ゲルマニウム研究所は当初は浅井先生の住居もあった調布市にありました。1970年から医薬品を目指しての開発が始められていますが、前述の通り1975(昭和50)年に株式会社化されます。狛江市和泉本町に4階建ての新築の研究所が建設され、医薬品としての開発が進められていくことになりました。
それからの20年は様々な大学・研究機関・医療機関と提携しつつ、実に様々な研究が実施されました。浅井ゲルマニウム研究所を中心としてゲルマニウム研究会が組織され、やがて臨床治験が行われる中でゲルマニウム臨床研究会が別途立ち上がり、様々な剤形での臨床応用が検討されていったようです。免疫療法剤という、それまでの医薬品とは一線を画す分野での医薬品を目指し、当初は「夢の癌の特効薬」にするべく多くの研究者・医師らが力を結集して申請に尽力していました。
”癌”とひとくちに言っても、非常に多種多様で、いわゆる進行度も悪性度も全く異なります。弊社は大手の製薬メーカーとは異なり、製薬のためのノウハウもなく、ただの一つも認可された薬品を持たない製薬メーカーであり、恐らく闇雲に(というと当時の先輩方に叱られそうですが、そういう面があったろうと思っています)努力したのだと思います。
癌(悪性腫瘍)に対しての臨床試験は医薬品の認可に至りませんでした。そこで、その後は骨粗鬆症、帯状疱疹、肺疾患、慢性リウマチという、大きく括れば免疫疾患に対する臨床治験を次々と実施していきました。
最終的に、ウイルス性疾患についての研究を1980年代後半から実施している中で、他社から”単分子構造が同一の結晶構造が異なる製剤”による医薬品認可がおりてしまいました。「プロパゲルマニウム」製剤のB型慢性肝炎治療薬です。
水に溶解したときの構造が同一であるため、法廷闘争になったそうですが、最終的には結晶化された製剤としての構造が異なるため、別物質であるということが決め手で裁判に負けたということです。
ぼくが入社した1995年は、そんな時期にあたり、治験データの不十分によりいずれの医薬品としての認可も得られないままの20年が過ぎた頃だったわけです。
浅井ゲルマニウム研究所函館研究所
そんな時分、アサイゲルマニウム(当時の呼び名はGe-132)は大きな転換点を迎えました。アサイゲルマニウムの水溶分子が糖と相互作用する(結合性を持つ)という事に関する研究です。この研究は当時、農水省の研究機関であった食品総合研究所との共同研究で実施されていました。この相互作用は糖異性化という分野に極めて有用で、安価な糖を高付加価値な糖に変換する効率を飛躍的に高めることが出来るものでした。
実は、この頃の研究データは当時は論文として未発表であったため、ここ数年で当時研究に携わっておられた研究部の長澤孝枝さんが数報の論文にまとめ上げて、査読付きの投稿論文として掲載されてきました。この反応機構に関する研究を行った前研究部長だった佐藤克行さんの論文も合わせ、計4報がこの10年の内に掲載になっています。つまり、25年経っても色褪せない研究成果だったとも言えると思います。
さて、そんな凄い技術が明らかになったその頃、医薬品開発は行き詰まり・・・さらに運命の不思議な導きの中で浅井ゲルマニウム研究所は新たな船出を迎えました。
東京都の道路(拡張)計画により、狛江の研究所の土地を立ち退かなければならなくなったのです。当時の会社の経営陣が、医薬品開発を続けていっても先行して認可を受けた同様の物質がある以上、先々認可を受けることはできないはずだと考えたのは当然だと思います。それで臨床治験を取り下げる意思決定になったそうです。当時は新入時期だったぼくには知る由もありません(笑)
そこで、異性化糖の技術でアサイゲルマニウムを応用し、社会に役立つことを目指し、より大きな研究施設、安定した生産をより良い製造施設で行うことが出来る新研究所の建設を模索し始め、ぼくが入社するために面接を受けたときには北海道函館市に新研究所兼工場を建設して、その2年後には移転する計画になっていました(当時の社長から入社前の面接で聞きました)。
1996年、夏過ぎから函館研究所の建築が始められました。大きな期待とともに、食品製造のための素材を研究開発・製造するための新たな器として、全社を上げて約半年に渡る建設が行われました。また、それに続く医薬品工場としてのGMP対応の必要事項;バリデーションの実施。狛江工場以上の設備が整い、製造も開始する準備ができ、社員も函館に移転するメンバーは引っ越し、いよいよ1997年4月に船出しようという期待度マックスの時。ぼくたちは一気に崖から落ちる思いをすることになったのです。
厚生省による告発で(一応)製薬企業であった浅井ゲルマニウム研究所が薬事法違反に問われることになりました。これは医薬品製造メーカーとしては前代未聞のことだったそうです。
結果、大嵐の船出となったわけで、暗中模索・五里霧中、将来のことなど考えられない中でしたが、入社二年目のぼくは既にアサイゲルマニウムの妖しい魅力に取り込まれていたので、25年間夢中で研究し、いまに至るまで走ってきました(実態は・・・振り返るとチャランポランでサボってばかりだったようにも思います)。
そんな28年間のことを振り返って記したぼくの半生ものの書き物がありますので、今後小出しに紹介していきたいと思います。