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アサイゲルマニウムの東南アジア進出(前編)




アサイゲルマニウム(有機ゲルマニウム)の海外事情

ゲルマニウムの名称はドイツに由来することはなんとなく想像される方が多いかもしれない。ドイツは英語でGermanyで、その民族はゲルマン民族として過去に習っているだろう。(今の学校カリキュラムは知りませんが・・・)
というわけで、ゲルマニウムの名称は発見者であるWinklerが祖国ドイツの名称にあやかって付けたという。最近つくられた新元素群の中にニホニウム(ニッポニウム?)というのがあるが、似たようなマインドで名付けられただろう。
ゲルマニウムは重量順に数えて32番目の元素である。その前後の元素は天然に多く存在しているし、周期律表を見て、性質が似ている縦のライン(同族元素)はどれもメジャーな元素であるが、ゲルマニウムだけは非常に希少で、上下左右の周期律表を埋める元素が見つかっていても、そこだけは元素が見つかるのが遅かった。それで、周期律表を発明したメンデレーエフは、この部分にはまる性質の元素がケイ素と類似する元素として存在するはずだとして、”エカケイ素”という仮称で予想していた。
果たして、後になってWinklerは予想通りの性質を持つ元素を発見した。それがゲルマニウムだ。実際に、メジャーな元素より遥かに存在量が少なく、レアな存在であるため、レアエレメント(稀な元素)として扱われているし、希少なために高額になるという、ぼくらゲルマニウムを使って事業を営むものには脅威的な(根本的)悩みを提供している。
そんなゲルマニウムを石炭の中に見出し、木質部といわれる部分に比較的集中して存在していることを発見したのが、浅井ゲルマニウム研究所の創始者であり、アサイゲルマニウムの生みの親・浅井一彦先生である。
浅井先生は明治生まれの傑人であり、第二次世界大戦前にドイツに渡り、そこで石炭(研究)にであって、戦後に日本で石炭綜合研究所を設立し、いわばアサイゲルマニウムの構想ならびに合成に若い研究者たちと共に取り組んだ。
20年以上の歳月をかけ、苦心して完成したのが、水に溶解する有機ゲルマニウム化合物としてのGe-132だった。
浅井先生は、この物質の本質を考えるうえで、世界に広めようと努力され、世界各地で講演された。アサイゲルマニウムは世界中で注目され、それを生み出した浅井一彦先生の名も世界に刻まれた(このあたりの経緯は先生の著書『ゲルマニウムと私』に記されている)。1982年、浅井先生は逝去され、道半ばでアサイゲルマニウムを広める働きも絶えていった。

その後、浅井ゲルマニウム研究所は薬事法違反により厚生省より告発され、海外どころの騒ぎではなく、国内での事業継続も危ぶまれる状況になる。1997年のことだった。いわゆる健康食品に事業転換し、化粧品原料にも登録され、20年の歳月が流れた。2000年頃に海外への輸出を試みたことがあったが、諸々の事情で頓挫してしまった。そしてアサイゲルマニウムは衰退の一途をたどり、本当にごく一部の古くからのユーザーが知るのみの材料となってしまったが、時折ぼくの英文の研究論文を見たり、古い浅井先生の英語・独語の著書を読んだ海外の方々から連絡が来た。そんなことがあったので、海外でも需要は一定数存在するのだと感じながら過ごしてきた。2016年以降、いよいよ事業が立ち行かなくなりそうな中、国内の需要が伸びないなら海外で一定のニーズにアプローチしたほうが早いかもしれない!と思い(そんな甘い話は当然ない・・・笑)、過去に海外展開などを調査したことのある先輩社員とともにJETROに相談に行くなど始めた。JETROの担当職員だった方が非常に興味を持ってくれて、海外の有機ゲルマニウム事情などもネットで調査してくれ、かなり多くの偽物商品Ge-132あるいはビス-2-カルボキシエチルゲルマセスキオキシドの名称でネットを賑わしており、アメリカやヨーロッパ諸国でも一定の需要があることが分かった。
この担当者の方が退職後にアサイゲルマニウムを海外に販売する手伝いを申し出てくれて、興味を持ったオーストラリアの方や、中国の方に少し話をしたが、結局は金額面での折り合いがつかず、高額すぎるから繋がらなかった。
ぼくも個人的にメールで問い合わせのあったトルコの方や、チェコの方個人輸入の手伝いをしたことがあった。EMSでの製品の郵送と、銀行の送金などは非常に手間で、関税もかなり高額に掛かるため取引は難しく、もともとの製品価格が高いことで先方が家族のためとはいえ厳しすぎると断念せざるを得なくなった。
そんな頃に現れたのが、別記事で記したバトファ・ジャパンの嘉丸さんだ。嘉丸さんの取引先は海外の富豪が多かった。取り扱う品が高級中古車メインだったためだ。そのため、多少の商品価格の高額であることは健康のためなら目を瞑るという方が多かった。また、そのような既存の中古車売買の顧客への説明であるため、アサイゲルマニウムを知る前から関係性ができているので、アサイゲルマニウムの紹介をしっかり行うことができた。そのため、使用結果も非常に良好で、多くのがん患者や難病の方が効果を体感したのが大きかった。

アサイゲルマニウム in Thailand

嘉丸さんの関係でタイのお客様は太客が多いようだった。知り合って間もない2018年頃にはタイ人の富豪のお客様の来日の折に面会の申し入れがあり、度々アサイゲルマニウムの説明をしてきた。タイでの事業展開のための話を聞いていたこともあり、他国に先んじてAsaigermaniumの登録商標をタイで申請し、取得している。2019年にはタイに一緒に来てほしいと嘉丸さんから頼まれ、度々の依頼に断りにくくなったが、タイには行ったことがないこと、また南国はあまり興味がない(暑い地域が好きではない)こと、渋滞が大嫌い(好きな人はいないか(笑))というわけで、それでも頑張ってくれている嘉丸さんに応えなくては・・・との思いから、2019年末頃には来年はご一緒します!という気持ちで、実際に口に出して返答していた。が、しかし、コロナ禍がやってきて海外に行く道は閉ざされていくことになる。
ただ、ぼくは2020年の正月に台湾の最南端にある墾丁というリゾート地に妻と旅行した。どこかの記事に書いたかもしれないが、ぼくのおくさんは大の中国茶好きで、たびたび台湾や中国へ一緒に行き、現地で大量のお茶を買って帰ることを繰り返していた。ぼくは、たまには南国リゾートも楽しんでみたいと伝え、前回の台北とは最も離れた墾丁に行こうと決めた
既に、このときは大陸では新型コロナ騒動が起き(ちょうど武漢が大変なことになっていた)、いつ日本にもやってくるかという騒ぎの始まった頃だった。台湾では総統選挙が真っ只中で、日本の冷めきった選挙報道のない国政選挙との違いを思い知らされた。日本は選挙戦で国民が参加しないよう、しないよう、長い年月をかけてシステム化されてきた。結果として政治に無関心で、自らの生活がおかしくなっても政治を糾弾することなく、政治家の好き放題が許されて市民のためになるようなことは行われないというのに慣らされてしまった。そんな日本でも、水際対策という言葉がよく聞かれるようになった時だった。そんな国で水際対策など効果が出るはずはない。実際振り返ると失笑するしかないものがゴマンとあった。
それはさておき、
ぼくが南国リゾートを訪れるのは就職して数年目の頃に、親友の結婚式がハワイで行われた時、次が七年ほど前に両親を連れて沖縄に旅行した時、そして3回目がこの時の墾丁だ。

墾丁ビーチのハンモックで
墾丁ビーチで海を見つめて・・・


久々の南国リゾートで、忙しい毎日を忘れてプライベートビーチっぽいところで夫婦で過ごしてみて、南国も悪くないぞ!と思い直し、タイに行くのも頑張ろう!と決意を新たにしたのに、無駄になって3年半が過ぎた(笑)

コロナ禍も4年が経ち、やっと騒動が収まった(まだ騒いでいる人はいるが)。嘉丸さんは、2024年になって堰を切ったように海外に出張するようになった。そして、ぼくも海外に出歩くようになった。妻と中華圏をぶらつく旅行に年始(台北、台中)と3月に(香港・マカオ)出かけた。

台北駅(1月)
故宮博物院(1月)
香港島(3月)・・・髪の毛が赤い
澳門(3月)

さらには7月に、中村篤史先生御一行でぼくと妻も加えられ、ソウルへの韓国ツアーが。ソウルと(北朝鮮との)国境の近いことに驚き、漢字や英語の記載がない店ばかりの街を歩くことの不便さを初めて味わいながら初めての韓国を楽しんだ。古民家を借りた中村先生一家にお世話になり、毎晩のように中庭でゲルマニウム談義や健康についてのあれこれを話し、楽しい数日を過ごしていた。・・・そんなソウル滞在中に嘉丸さんからの国際電話が入った

明洞の中心街(7月)
スリースターの冷麺屋(7月)


嘉「来週、タイのお客さんを連れて函館に行って大丈夫ですか?」、
中「私はいませんが、来てもらったら誰か案内できると思いますよ」、
嘉「いやいや、中村さんいないと意味ないです。タイのすっごいお金持ちと医者さんが来るので、直接説明してもらいたいです」、
中「その日は前日が札幌でのセミナーで、終わったあと夜の便でゆっくり帰る予定です」、
嘉「なんとか早くならないかなぁ。タイのお客さんはそれだけのためにタイから来て、その日にタイに帰っちゃうんですよ…」、
中「いっやぁ~、飛行機の便も予約しちゃって変更できないし、それまでが超多忙なので流石に厳しいんですが」、
嘉「わたしたちもまだ飛行機予約してないんですけど、昼くらいに到着するのでぇ、何とかなりませんかぁ?」、(話しながらJALの空席状況を見ると同時刻に丘珠からの便が函館に着くことを見つけた)
中「まぁ、予約した便は無駄になりますが、取り直せば帰れないことはないですが・・・」、
嘉「なんとかお願い致しますぅ」というやり取りをし、
結局ぼくは折れてしまった。

タイから、函館まで、それだけのために4人の方がやってくるという。都合をつければ行けないことはない状況の中、無理をするしかない。ただ、その日の晩は他に熱海からのお客様を函館に迎え、翌日まで接待の予定になっている。
超々無理をしているのは明らかだった。
一週間の間に、韓国から戻り、セミナーの準備をし、札幌に行ってワクチン後遺症の問題を提起するセミナーに参加(これは仕事とは関係なくクリスチャン仲間の集まり)し、翌日は自らの札幌でのアサイゲルマニウムセミナーを主催し、翌朝の飛行機で札幌から函館へ・・・。

7月20日の札幌アサイゲルマニウムセミナー

空港でタイからのお客様を迎え、家に帰って着替えをして、会社に速攻で出社し、タイのお客様を会社見学に案内し、それからアサイゲルマニウムセミナーのプレゼン資料を英語に修正した資料でプレゼン。
空港にお見送りし、函館駅近くのお店にて別のお客様の接待をし、やっとのことで自宅に戻った。しかし、既に満身創痍、力尽き、同時に腰の痛みに耐えきれず、結果的には翌日のお客様を案内することは叶わなくなった

今振り返っても、無理すぎる(笑)羅列しただけでも無理無理!!(笑)

それでも、”ぎっくり腰一歩手前”で持ちこたえ、翌日は洞爺湖の高齢者施設に仕事で出張。さらに翌日には東京からきた甥っ子を千歳空港でピックアップして、ぼくの母校である帯広畜産大学のオープンキャンパスに連れて行った。三泊、キャンプして(これはリフレッシュになり腰も治った)、函館に500km弱の道のりを運転して戻った。その最中に嘉丸さんからの電話がかかってきた。

安平町のキャンプ場で


安平町道の駅


嘉「中村さぁん、先日のお客様がアサイゲルマニウムのことをすっごく気に入っちゃったんです。それで、8月の終わりにバンコクで行われるイベントに来て説明してほしいと言っています。どうしますか?」、
中「いやいや、今はもう8月ですし、8月の末は予定が詰まっています。すでに決まっているイベントに出てアサイゲルマニウムの話をしても、他の素材に埋もれて興味を持ってもらえないだろうから、別の機会がいいですよ!」、
嘉「そうですね。私もそう思います。それじゃあ、何とか他の機会に(訪問を)遅らせてもらうように伝えます!」、、、とのやりとりの5分後くらいに、
嘉「やっぱりどうしても来てほしいと言ってます。通訳も準備するし向こうでの滞在はすべて用意するから、何とか来てくれないかぁということです」、
中「いやいや、いま無理だから遅くしようと言ったばかりですよね!?タイに行くつもりはコロナ禍前から決意してたから、行くのはやぶさかでないのですが、ちょっと今回は期間もないし無理すぎます!」、
嘉「私もそう言ったんですが、今回のイベントはとても重要で、この機会にどうしてもと言っていますから、何とかならないですかぁ?」、
中「いやいや、無理でしょう。で、何日から来いと言ってるんですか?」、
嘉「8月29日にイベントやると言ってます。どうですか?」、
中「8月は25日には神戸で有機ゲルマニウム研究会のセミナーがあって、その他に熊本にも行かなきゃならないんです。まぁ、神戸からの帰りの飛行機を放棄して、そのまま帰らずに九州に行って、福岡空港からバンコクに飛べば8月29日に間に合わないことはないですが・・・」、
嘉「何とかお願いしますぅ」・・・中「帰ってから考えます。少し時間ください」


帯広でのキャンプ飯
トウキビ丸焼き
ご飯を炊く

結局、帰って日程調整してみたら何とかなってしまう日程だった。4年間待たせてしまったし、そこまでアサイゲルマニウムを気に入っていただいたなら、無理を押してでも行くべきかもしれない・・・と魔が差した
札幌から函館への(札幌出張への復路の)航空便、神戸(というか伊丹)から函館への復路の航空便を無駄にし、最終的に福岡空港からバンコクに飛ぶコースでタイ国際航空の便を予約する決断をした。
そして、長い年月を経て、浅井先生以来の海外でのプレゼンテーションに向かうことが決まった。8月の初旬のことであった。

日本(福岡空港)からタイ(スワンナプーム国際空港)へ

結局ぼくは8月24日に函館を出立し、神戸・熊本・福岡・熊本・福岡を経由して28日の午前の便でタイ・バンコクのスワンナプーム国際空港へと向かうことになり、24日に神戸入りした。ちょうどこの時は日本に過去最大規模との触れ込みの台風が近づきつつあり、ぼくが神戸を去ったあとに四国方面から入ってきて関西に直撃する話だった。ナカムラクリニックに着くと、週明けの予約の状況について電話で患者さんに連絡し、予約状況の変更のために大変な状況になっていた。そんなわけで、少し申し訳ない気もしながら、ぼくの去ったあとの関西に台風が来るので、なんとか避けて移動できるつもりでいた。ところが・・・

まずは神戸で25日の有機ゲルマニウム研究会セミナーを実施。翌日26日は午前中に会社の研究部のゼミがあり、ナカムラクリニックの場所をお借りしてZOOMでミーティングに参加した。お昼ご飯を篤史先生ご家族やケンちゃんと食べてから新幹線で熊本に移動し、定宿の山鹿温泉に宿泊した。27日には熊本での仕事を済ませてから福岡に移動し、福岡で交流のある医師と面会して、再度熊本市に戻り宿泊。この医師との会食で台風は急に進路を変え、自転車よりもゆっくりな速度で九州縦断コースで向かってきているという話になった・・・(そりゃないぜセニョール)!!
28日は会長宅にお邪魔し近況を伝え、その後は熊本のビレモさんのユーザーさんや有機ゲルマニウム研究会のメンバーの医師・獣医師の方々との懇親会を・・・。そんな最中に、タイ国際航空からのメールが届いていた。明日の便は台風の影響で30分早めて出発すると・・・。

タイ国際航空からのメール
ShanShanを避けるって(爆笑)

この頃、過去最大級の台風10号(シャンシャン…パンダ?)というのが九州の南で離島の木々をなぎ倒していた・・・(汗)
懇親会の終了後に、翌日の朝は早いからとのことで熊本の北部(菊池)にあるビジネスホテルを予約してもらっていた。到着する頃は非常に風も強く、夜中は時折激しい風の音で、落ち着いて眠ることもできず。ウトウトするくらいで過ごして朝を迎えた。
早朝に菊池郡を発つことになったが、風は激しく、雨は猛烈、ビレモの貴子社長が福岡空港に送ってくれると言うが、行きは良いにしても福岡からの熊本への帰り道が心配でならなかった。よく、台風の報道では車が立ち往生し、風に飛ばされたり、雨の影響による洪水で浸水して動けなくなるなど・・・こんな日に自動車移動などしなくてもよいのに、と思うことが多いのですが、ぼくのせいで送らなければならなくなってしまっていることを大変申し訳なく感じていた。JRもバスも公共交通機関は台風に備えて計画運休だったから、福岡空港に行くには自家用車かタクシーを選択する以外にはなかったのだ。
しかし、熊本では風・雨とも非常に強かったが、福岡空港に着く頃には海に近いだけあって風は強いものの、次第に雨は落ち着いた。流石に北のはずれにあるだけはある。自転車より遅いといわれた台風から逃げ切った感が強い。ただし、福岡空港の国内便は全てこの時点で欠航が決まっていた。

天草とか長崎がやばそうに見える…当時の予報
空港内は普段の感じ…

福岡空港に到着すると、国際線出発ロビーは空いているものの普段の雰囲気で、悲壮感はない(笑)
出国手続きを普通に済ませ、登場ロビーで運動不足を補うためにルナサンダルでいつもどおりウォーキング(笑)到着便はかなり遅れが出ているようだが、出発便は予定通り出発していく。しかし、滑走路を見ていると時間を追うごとに雨風が激化していくのが分かる。
そして、予定通りに飛行機に乗り込んだが、風で機体が強く揺れる。乗客は非常に少ない。聞くところによれば、7,8割の乗客がキャンセルしたとのこと。そりゃ公共交通機関が止まってたら来れないものねぇ。
結局、30分ほど遅れてぼくらの便(今回はケンちゃんが付き人として同行)は飛び立った。当たり前だが、雲の上は青空が広がるのみ

離陸待ち時間に
台風の日の上空


5時間かけてスワンナプーム国際空港へ無事到着することになった。
ちなみに、前日の夜にビレモさんの懇親会に参加した函館研究所から来た後輩研究員の武田くんは、2日間も熊本空港からの便が欠航したため、函館に帰れずに熊本のホテルに缶詰だった(笑)
ぼくは、人の思い煩いや苦悩の無駄さを改めて思い知らされた。結局は神のみぞ知るところに、素直に従いゆくのが大事だ。
タイに行かないで済むのではないか・・・と淡い期待を抱いたが、タイに行くのが神が用意してくれたレールで、あり得ないような状況でも道が用意され、バンコクでのプレゼンに往くのが、ぼくの為すべきことだったのだと覚悟を決めた。あとは楽しんで、知らない世界を堪能し、アサイゲルマニウムを未だ知らない海外の方々に伝える機会を感謝してやるのみだ!

(後編のバンコクの話に続く)


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