運命を変えるアサイゲルマニウム2(浅井博士の場合)
浅井博士の運命を変えたアサイゲルマニウム
浅井一彦博士は明治41年(西暦1908年)に満州の大連で生まれた。その人生は鮮烈で、生きざまに深い憧憬を覚える。
先生の人生の冒険活劇、ならびにアサイゲルマニウムを誕生させた経緯については浅井ゲルマニウム研究所の以下のnote記事をご覧いただくか、著書『ゲルマニウムと私』をお読みいただきたい。
75年の人生において、まさにアサイゲルマニウムを生み出されるために非常な苦心をされたわけだ。ぼくは以前も記したように先生のお目にかかったことがない。1982年、ぼくが中学生になった頃に先生は逝去された。しかし、残された様々な記録から先生の人柄を窺い知ることができ、また先生と共に過ごされた先輩方から諸々のエピソードを聞き、人物像を想像する。
浅井先生は実に偉大な方だった。それ故に、ある意味偶像化されて、本来の姿はわれわれのような直接会ったことがない者には本当のところは分からない。ただ、浅井先生を知る人達の大半は口を揃えて素晴らしい方だったと振り返る。そうした謂わば偉人は珍しいだろう。実際に、浅井博士は自らのことよりも周囲の他人や弱さを覚える人たちを励まし、寄り添う方だったようだ。お元気だった頃のエピソードとして、浅井先生は毎日難病を抱える方々の自宅への訪問を受け、日によっては何人もの難しい話を聞いていたようだ。これは先生の残された日誌に記されているので間違いない。そして、かなり疲労困憊されていた。例えば、医師として難病の患者と向き合うのも大変なことだろうし、神経をすり減らすはずだ。しかしそれは、ある意味では仕事として診察料を頂いて行うことでもある。ところが、浅井先生の場合は医学は素人で、生物学も独学。法学部卒業で、ドイツにて炭鉱の冶金学で工学を学び、後に京都大学で工学博士の学位を授与された方である。
そこへ難病の方々が全国から押し寄せて悩みを聞くのは如何ほど大変なことだったろう・・・まして診断して薬を処方するということも叶わない。
浅井先生としては、ご自身の開発されたアサイゲルマニウムが多くの難治疾患に効果的であろうと確信があるが、これは未承認の医薬品という位置づけなので販売することもできない。そこで、持ち合わせのアサイゲルマニウムを困っている訪問者や手紙をくださる方々に差し上げてしまっていた。このため、無償で高価なアサイゲルマニウムが会社から出て行ってしまっていたということが度々あったようだ(会社としては問題になった様子)。浅井先生のお気持ちは痛いほど分かる。
ぼくでも、セミナーなどで出会う難治疾患の方々の話を聞くと、なんとかして差し上げたい!と強く思うのだ。しかし、販売してくださっている会社さんもあり、高くても無理をして健康状態が良くなっているから、と年金から多くを割いて購入してくださっている方々もいる。たまたま会ったからといって安易に差し上げるわけにはいかないのだ。ぼくの好きな子ども小説でイギリスの作家オスカー・ワイルドが著した『幸福の王子』という作品がある。著名な作品なのでご存知の方も多いだろう。王子は街を見下ろす台座の上に立てられた銅像だ。街中の貧困で苦しむひとを眺めては心を痛めている。助け手となったツバメに自分の身体に填め込まれた宝石を、その貧困者たちに届けるよう伝える。すべてを与え尽くして、その時は既に冬が来ており、王子とツバメは死を迎える(もっとも王子は銅像なので擬人化だが)。しかし、魂は天に上げられ、幸せを得るという物語だ。
この話を例に挙げずとも、たしかに困っている人を助けたいが、自分のものをただ与えていくだけなら、すぐに枯渇してしまう。
なんとか、アサイゲルマニウムによる保険制度(互助会制度)を作って困った時に購入費用が出るようになればよいのだが・・・。保険業界の方、なにか良い手はありませんか?
話がそれたが、浅井先生は困っている人たちをそのままに放置できるような方ではなかったのだとぼくは感じている。やさしい愛の人であったのだろう。
とにかく、東大の法学部を卒業し、外交官試験に合格していたのに発表でリスト漏れした。この不運と取れる事態が浅井先生をドイツに渡すことに繋がり、そこでの挫折が炭鉱につなげ、石炭研究をしてゲルマニウムと出会い、終戦直前に日本に帰国して石炭綜合研究所を築く礎となる東大生たちと出会い、炭研で有機ゲルマニウムの生体利用を思いつき、及川先生たちの尽力(note記事『インフルエンザとアサイゲルマニウム』参照)によりアサイゲルマニウムが創られた。外交官になっていたら、すべては無かったのかもしれないのだ。そして、アサイゲルマニウムができたことにより、生み出した親として浅井先生は新たな人生の航海に出帆した。
浅井先生の最後の著作は『ゲルマニウムと我が人生』との銘であるが、言わずともここでのゲルマニウムはアサイゲルマニウムを指す。
書籍の名になるほど、アサイゲルマニウムは浅井先生の運命を変えたのだ。
浅井先生の娘さんたちから聞く話では、炭研解散の頃は本当に貧しく大変な状況にまでなったそうだ。どれほどの苦労であったか。著書にあるように、その当時は満身創痍、ご自身がリウマチと痛風を併発して大変な体調になっていたという。ぼくの部屋に保存されている浅井先生の当時の日誌にも体調について多少触れられている。やはり、浅井先生もご自身の飲用体験により、最悪だった体調が速やかに回復し、その体感によって人々に素晴らしさを伝えなければならないと使命を燃やしたのだと確信している。
さて、『ゲルマニウムと私』のP164に”「創意通天」の心境”という項目がある。この項の最後に、”私はゲルマニウムの研究に二十数年打ち込んできた。そして、ゲルマニウムが私に教えてくれたことは、まさに<創意通天>であった。”と締めくくられている。この短い項は僅か2ページ程である。しかし、がん患者に関して記している当該項は浅井先生の強い思いと、アサイゲルマニウムによって変えられた人生、浅井先生の創意が天に通じたことで天(神)に応えられたことの告白であると、ぼくは感じている。そして弊社の本社事務所にはこの文字の掛け軸が額に入れられて今も飾られている。
さて、浅井ゲルマニウム研究所では不思議な行事が存在する。以前にも記したかもしれないが、動物実験に関するもので、「実験に供された小動物のための感謝の式」というものが20年に渡り毎年行われてきた。日本国内はおろか、世界中見回しても同様の行事を持つ企業・団体は無いのではないだろうか。
今年(2023年)の感謝式で、ぼくの通う花園キリスト教会の牧師が聖書から解き明かしてくれたこととして、神の存在は造られたもの(この世に存在する被造物としての世界や動植物)によって明らかである。ということだった。人間の身体ひとつとっても極めて緻密なものである。ぼくも、ヒト(に限定しないが生き物)を形作る一個一個の細胞が精巧に造られ、間違いも自分で修理しながら、その中におびただしい量の分子が混乱することもなく動いていることに驚異を感じざるを得ないし、その事にデザインされた神の存在を感じたものだ。
その行事を終え部屋から出てきたところに、過去資料を整理していた社員が駆け寄り、以下の浅井先生の手書きメモを見つけたと手渡してくれた。
偽らざる、先生の思いであろう。
記述、記録により、考えや思いは残される。
浅井先生の残された様々な記述やメモなどから、神がゲルマニウムを浅井先生に委ね、アサイゲルマニウムを創製するに至らせ、導き、恵みを与えられたことを感じとって、感謝されていたことが見え隠れする。
もう一つ紹介したいのは、聖書のもっともはじめの創世記1章1節を書き写したメモだ。現在、ぼくの居室に浅井先生の当時の資料・日誌などの一部があり、その中から見つけたメモ書きだ。このように、神に導かれて人生を変えられて、大志をなした浅井先生もアサイゲルマニウムによって神の導きの中で運命を変えられたのだとぼくは感じる。
浅井博士が研究所の若ものたち、現在の社員も含む人たちに残された『ゲルマ大樹』の詩がある。ジールスラボの故大西社長が作成された『The GERMANIUM STORY ゲルマニウム物語』の最終ページに記されているので、これを持って本稿を閉じたい。
大きな木になり給え
若ものよ
やがて人類がきて
君の葉かげで憩うように
なるために
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