アサイゲルマニウムの営業マンはつらいよ
第一話 アサイゲルマニウムの研究から営業へ・・・
1.アサイゲルマニウムの営業
ぼくがアサイゲルマニウムの研究を始めたのは1995年のこと。大学院(帯広畜産大学修士課程)を修了し、株式会社浅井ゲルマニウム研究所に入社した時だ。
ぼくの浅井ゲルマニウム研究所での研究者としての歩みについては『アサイゲルマニウムとは何なのか・・・』に長々と記したので、興味のある方は時間を見つけて一読してほしい(研究をとおしてアサイゲルマニウムというものがどのようなものなのか、読み手にも見えてくるのではないかと考えて記している)。
いわば、研究者というのは第一義的には実際の研究を手掛け、実験する研究員のことだと思っている。しかし、広い意味では、指導者も含め研究者であると言えるだろう。だから、ぼくは今も研究者の端くれなのかもしれない。
でも、明確に立場が変わったのは2016年の春に取締役に就任することになったためだ。取締役になることを一旦拒んだことは前述の記事の中に記している通り。その時に、前副社長にプレイングマネージャーになれば良いと伝えられたのを今も覚えている。一方で、ぼくのような無能なものが、両方をやってのけることは無理だろうと思っていた。
実は、これに先立つこと3年ほど、不思議な立場で経営会議などに参加することを求められ、現社長と現取締役、そして現工場長とともに会社の将来を模索するチームに研究部係長職でしかないぼくも加えられていた。既にその時点でアップアップで(笑)自分の能力の低さを呪ったものだ。マネジメントのあり方を聞き齧り、書籍も読んで、ある程度理解した(つもり)。それを実践し、研究部門でシェアすることを行ってきていた。研究部の皆さんには、かなり辛辣なことを言って叱咤激励した。自分のことは棚上げして、偉そうなことを言わなければならないのは性格的には苦手だったが、あれをやっていたことが今の研究チームの躍進につながっていると感じている。
当時の浅井ゲルマニウム研究所は長く赤字経営が続いていた。最も大きな原因は、1997年の薬事法違反事件から始まる事業転換や、薬事法により縛られる健康食品業界の営業の難しさによるものだ。しかも、現在に至るまで株式会社化した1975年から49年間にわたって営業部を持たない企業がこの浅井ゲルマニウム研究所だ。
健康食品というのは、特別に定義があるわけではなく、『いわゆる「健康食品」』という呼称を持ち、”いわゆるけん”と検索ワードで入力すると登場する(笑)
ご存じない方で、興味のある人は以下の厚労省のいわゆる「健康食品」のホームページ・・・から調べてください。
まぁ、入社した折には認可を受けた一つの製剤も持たない製薬企業だったが、その後にいわゆる「健康食品」にカテゴライズされる製品を製造する食品製造の企業になり、それに化粧品の原料を製造する企業としての顔も追加されて25年以上が経過したわけで、この業界の大変さが身に沁みている(笑)
上記のページを見たらわかるのだが、アサイゲルマニウムは何なのかというと、”いわゆる「健康食品」”の中の”その他のいわゆる「健康食品」”に帰属している(汗)もうねぇ、なんというか・・・かなり意味不明な世界。ある面では仕方ない部分はあると、ぼくも思っている。でも、様々な制限がある中で、前述した2016年に会社役員になってからの7年ほどは、「健康食品の営業マンはつらいよ」ということを強く実感する日々であったし、今も変わらない。そして、そうした中でも特に「アサイゲルマニウムの営業マンはつらいよ」と思わされるのだ。結論から言えば、「何も言えねぇ」。特徴を言えないなら、営業など出来るわけねぇのだ。
「聞いてらっしゃい見てらっしゃい。結構毛だらけ猫灰だらけ。となりのオヤジはクソだらけってねぇ・・・」と渥美清さんの声が聞こえてきそうな、「男はつらいよ」のパクリのタイトルで書ける範囲のことを記していきたい。2016年から気が付けば7年も経過して、突っ走ってくる中で諸々のことを忘れてきているように思うので、この辺で少し振り返っておきたいと思い、ペンを取った次第である(もちろんキーを叩くだけでリアルのペンは手にしていない)。
2.アサイゲルマニウムの販売会社
さて、2016年はぼくにとって大きな変化がもうひとつあった年だ。
株式会社浅井ゲルマニウム研究所(以下、浅井研と略す)はアサイゲルマニウムという有機ゲルマニウム粉末を製造する会社で、いわゆる(←健康食品という言葉とセットとは限らない)食品原料のメーカーである。浅井研は、消費者ではなく健康食品を販売する販売社に原料としてのアサイゲルマニウム粉末をバルクとして販売するか、もしくはカプセル製品に加工して販売する ”B to B" の企業である。アサイゲルマニウムを仕入れて販売している企業はいくつかあるが、グループ企業(完全子会社)があり、この販売会社がエンドユーザー(最終消費者)にアサイゲルマニウム含有健康食品をお届けする ”B to C" の企業になっている。
2016年4月に浅井研の取締役になったぼくは、同年8月に子会社の代表取締役になるよう、親会社である浅井研の代表取締役であった志柿社長から指示を受けた。はっきりいうと、青天の霹靂である。喩えが良くないが、死ぬほど嫌だった。なんで自分がそのような役回りをしなくてはいけないのか。こんな赤字会社の社長とか、首でもくくれということか・・・。と呟きたい思いでいっぱいだった。
(子会社の)前社長からは、とある喫茶店で諸々のアドバイス(あまり参考にならなかった)を受け、「これまでは俺の役割だったけど、これからは中村くんの役割になるから・・・。」という、まぁ当然の言葉を最後にいただき、心のなかで「そんなの知らないよ!なんで俺がやんなきゃいけないのよ?」と毒づいた。というのも、その頃は毎年”一千万超え”の赤字を出す状況だったのだ。
前途多難・五里霧中・暗中模索。そんな不安だらけの船出だった。
会社の所在地は東京。社長は函館にいる・・・でいいのか?というのもありつつ、営業の最前線の社長を受けることになった。
そもそも、研究者なんていうのは人と接するのが得意ではなく(まぁ人にもよるが)、話し下手な人間も多い。ぼくも、どちらかというとそんなタイプだ。積極的に人に話しかけることはしないし、基本的に避ける。いわゆる(←またでた)内弁慶である。そして、ぼくの場合は加えてテキトーときている。
でも、不安はあれどやるしかない。責任者にされてしまった以上は、なんとかするしかない。こうなったら、神にすがって進んでいくしかない。ぼくには出来なくても全知全能の神にはできる!そんな思いで受け入れていった。
これが、ぼくのアサイゲルマニウムの営業マンとしての歩み始めだった。
3.展示会出展
ぼくも梅田さんも、会社について考える立場になったはいいが、何から初めていいか分からない部分が多かった。少なくとも、ぼくらは入社して2年目(ぼくにとっては3年目の最初の月)で会社が薬事法違反による被告になったのだ。それからの20年は、とにかく目立たないように、知られないように、ホッカムリして歩んできたと言ってもいい。だから、当然のことながら人に言っても「浅井ゲルマニウム?なんですか?それ」という状況。まずは知ってもらうことから始めようということになり、ぼくらが選んだのが展示会。
展示会は、当時の超赤字会社では厳しい高い壁があり、つまり出展料を払うのが難しかった。大体の場合、展示会の出展ブースというのは20~50万円ほどの出展料を支払って、ブースサイトを確保し、ポスターや説明に必要となる商品サンプルなどの展示物を持ち込んで行うが、親会社も子会社も決算は真っ赤っ赤で、これを工面することは難しい状況だった。既に、全ては節約ムードであり、経理部門からは毎年のように予算計画時に緊縮財政を言われつづけ、やったところで何の成果があるか分からない展示会に数十万円をポンと出すことはできなかった。
そんな中、函館には公益財団法人函館地域産業振興財団という組織があり、地域産業振興のために様々な取り組み・企業支援を行っている。ぼくらは当該財団が北海道内の企業の産業展示会に道南エリアの企業紹介ブースエリアを用意していることに目をつけた。まだ、ぼくらが役員になる前のこと・・・2015年梅田現社長は当時は総務部長だったが、この展示会に申し込み、札幌での展示会に二人で準備して出展することにした。何度か見学に訪れたことのある展示会のブースを思い出しつつ、見様見真似でアサイゲルマニウムの説明ポスターを作り(当時はまだGe-132と表記していた)、製品群などの空箱やサンプルを集めてテーブルに並べ、ぼくの書いたアサイゲルマニウムに関するFOOD Style21の記事の別刷りや、その他の書籍『有機ゲルマニウムの科学』などを脇に並べておいた。2015年秋の札幌での展示会『ビジネスEXPO』、それがぼくらのデビュー戦だった。二人では厳しいということで土井山くんにも出向いてもらい、3人で未体験の展示会挑戦なのだが、アクセスサッポロの我々浅井ゲルマニウム研究所ブースの前をひたすら人々が通り過ぎていくのを眺めていた。
そのうち、意を決して「ゲルマニウムは知っていますか?」と小声で聞いてみるようになった。そうなると、少しずつ慣れがでてきて、声掛けしたり、資料を渡してみたり・・・。
結局、2日間で立ちっぱなしで疲れる体験をして終わった感が強かったが、それでも何人かの方々が興味を持ってくれて、有り難かった。
そこで、一人のお客様が興味を持ってくださった(正確には2名でうち1名が購入にまで至った)。
この方は、農園を経営されている小西さんという方だった。介護などの事業もされているということで、アサイゲルマニウムの健康作用に興味を持たれたのだ。といっても、ぼくらができるのは作用説明、あとは販売会社に繋ぐ意味で販売会社の製品としてどの様なラインナップがあるのかをお話した。
購入したいということだったので、販売子会社を紹介して、後日になってめでたく購入に至った。
4.RUN伴と小西さんとの再開
それから月日が流れて、卸販売顧客となっていた小西さんを訪問する機会を得た。2019年のことだった。2018年に北海道厚真町を中心に起こった大地震の時、ぼくらの住む函館も電気の供給がしばらく途絶え、ブラックアウトという未曾有の災害を体験した。
話は少し外れるが、浅井ゲルマニウム研究所は2011年の東日本大震災をキッカケに始まったRUN伴というNPO法人認知症フレンドシップクラブ(DFC)が主催する催しに初年度から賛同し、少しずつではあるが支援をしてきた。https://runtomo.org/
これは、DFCの井出訓理事長の提案で認知症になっても安心して暮らせるまちづくりを進めるための企画で、これを啓発する運動として、一つのタスキを繋いで函館から札幌までをランナーがつなぐというものだった。途中の区間では認知症の当事者の方も参加し、ランナーが伴走。一緒にいるから大丈夫!とのことで、安心して引きこもりがちな状況から外に出てもらう。震災から大きな心の傷を負った我々日本人の特に弱者に目を向けて、どの様な助けを持てるのか・・・そのことを考えた時に、大きな大切な働きだと感じた。
井出理事長は、ぼくの結婚における証人という役割をご夫妻で担ってくれた方で、ちょっとだけ(笑)恩義を感じている。企画を連絡いただき、「何かできない?」との無茶振りに、タスキを繋ぐランなら、水はいるよねぇ・・・という感じで、深く考えずに「うちの会社の製品使った水製品がありますから、それを供給できないか聞いてみますね?あと、伴走に自転車がいるということなので、ぼくのマウンテンバイク貸しますよ(笑)」と軽く答えてしまった。答えてしまったものの、ふと考えると一本2000円近い500mlのペットボトルの水を協賛するといっても、とんでもない金額になるよなぁ。という悲壮感漂う想像だけだ(笑)
そう思いながらも、ぼくは販売会社の社長に相談した。意外なことに、この企画に大西社長は乗ってきた。そう。大西さんは超・駅伝好きだったのである!過去に様々な提案・企画を伝えたが、殆どの場合は却下された。なのに、この企画は極めてスムーズに受け入れてもらえた。ぼくはここにも不思議な神の導き”天の配慮”があったように思う。
ただし、この水はRUN伴の走者からは不評で「酸っぱすぎて飲みにくかったっす!」とのことだったので、自年度以降はなんと独自専用製品が造られていくことになる。それはまた別の項目で記すことにする。
なぜ、ここでRUN伴のことを記したかというと、2018年の厚真地震の後、翌年の北海道でのRUN伴のファイナルを厚真にしようということになったからである。(ちなみに、協賛企業の中のトップで浅井ゲルマニウム研究所が載ってます)
ぼくは厚真でのファイナルの地に参加することにし、浅井研でRUN伴に最も協力する立場で活躍してくれていた輪島周平くんと厚真に行った。
そして、合わせて厚真の近隣の安平町というところにも寄ることにしたのだ。
この安平町・・・小西農園の小西さんがキャンプ場経営もはじめ、キャンプ場の管理人室におられるというので、そこに営業にいったのだ。おそらく、健康食品業界でキャンプ場に営業で出かける人は珍しいだろう。
でも、この時にぼくの営業第一号のお客様である小西さんと再開できたのは、非常に嬉しかったのを覚えている。一応営業だから・・・というので、キャンプ場にスーツという奇妙なスタイルで出かけたのを覚えている(下記写真参照)。今なら間違いなくスーツという選択肢は無かっただろう。というか、最近はぼくのスーツ姿はほぼ皆無。滅多に見ることができなくなっている。運良く見られたら、写真撮っとくとよいですよ(爆笑)
ちなみに、今なら、LUNAサンダルで半袖Tシャツでついでにキャンプもします!ということになっただろう。
5.アサイゲルマニウム展示会出展のその後
さて、2015年に始めた展示会だが、翌年も札幌のビジネスEXPOに出展した記憶がある。たしか、役員になった年も出ているので、3年続けて行ったのだろう。
札幌での展示会は、もう一つ忘れられないものがある。『札幌ビジネスマッチング』というタイトルで行われていたもので、毎年京王プラザホテルで開催されていた。
こちらは、ビジネスEXPOと比べるとずっと小規模で、ブースも側面が区切られていないオープンなタイプで、長テーブルと背面のポスター表示用のパネルがセットになっているものだ。長テーブルのサイズもさほど大きくないので、展示物は限られる。2016年1月に実施された際に、ぼくらもこれに参加した。そこで、大きな出会いがあったのだ。2016年の初頭なので、まだ役員になる前の出来事。当然、ぼくは単なる研究者としてその場に立っていた。
テーブルの前を次々と人が通り過ぎていく。そんな中、年配の方と若めの男性・女性各1名という三名の一行が通りかかった。ぼくは「有機ゲルマニウムってご存知ですか?」と尋ねた。すると、若手の男性が「有機ゲルマニウムね。知ってますよ。先生、有機ゲルマニウムの会社ですよ。」と年配の方に向きを変えて声がけされた。意外な答えが年配のお客様から返ってきた・・・「よぉく、知ってますよ。使っていますし。浅井さんに使いたい旨を申し込んだこともあったんですけどね。」とのこと。「???ええとぉ、どこか別の会社さんの有機ゲルマニウムをお使いということでしょうか?」と恐る恐る聞いて、そのとおりであるとの返答を頂いた。
さて、どうしたものか。他社の製品をお使いなら、アサイゲルマニウムよりかなりお安く仕入れて使っているのだろう。え~い、関係ない!やれることをやるのみ!
「そうですか。では弊社よりも安価なのだろうと思います。が、私どもの製品の説明をさせていただきますね。」と始めた。「弊社のウリは研究です。私は研究員で、実際にアサイゲルマニウムのことを長年研究してきました。他社とは違い、安全性の確認試験もきちんと実施してきましたし、その安全性が確認されている唯一の有機ゲルマニウムで、どのように生理作用が現れるのかを分子メカニズムも含めて研究しているのは、世界中で弊社だけですので、ただ有機ゲルマニウムの似たような製品とは違う付加価値をご提供することができると思っています!」と、営業マンらしく、かつ研究者らしく説明を続けた。
「他社製品も、すぐに死亡事故を起こすような危険なレベルのものを作っていないことは事故が起きていないことから分かります。それなりに危険がないように純度をアップするようにしているのでしょうから、劣悪な品質ではないと思っています。しかし、私どものように多額の費用と時間をかけて安全性を証明してきて、その作り方でいまも作り続けているのは、安心してお使いいただくためですが、他社にはそのような考えがなく、弊社の研究成果としての毒性試験データをそのまま使って、自分で研究の費用を出さずに流用していますが、製造方法が異なるので本来は適応できないものなのです。」という説明をした。「他社の有機ゲルマニウムは分子がどの様な性質であるかも分かっていないので、弊社はその付加価値について判断していただけたら嬉しく思います。」他にも、実際の研究を実例を上げて紹介していった。できる限りのことは話した。そして、「金額的には難しい選択だと理解しています。もしかしたら倍くらいの金額かもしれませんが、パイオニアの企業としてサポートをしっかりと行うことができると思いますので、ご一考いただければと思います。」と話した。
「浅井さんのが良いのはわかっているんですよ。使いたいと思って会いに行ったこともありましたし・・・。検討します(笑)」と言って、素敵な笑いとともにお供の二人と去っていった。
これが、驚くべき大きな出会いであったことは、当時は全く分からなかった。ただ、他社製有機ゲルマニウム製品扱いの会社の方に営業をしたのは初めてで、緊張もしたが、貴重な経験だった。
これが、株式会社ベル・クール研究所の柴田社長(現会長)、柴田専務(現社長)そして担当していただいて様々な製品づくりに協力してくださった坂田製造チームリーダーとの出会いだった。
ベル・クール研究所の現会長が、この後2年ほど経った時に神戸ナカムラクリニックを開業して間もない中村篤史医師に有機ゲルマニウムについて伝え(中村篤史著『奇跡の有機ゲルマニウム』下記写真参照)、浅井先生の著書を読んだ篤史医師が、これまた他社の(海外製)有機ゲルマニウムを購入して使い始めて、有機ゲルマニウムについてブログで発信して、回り回ってぼくとの出会いがあったのだ。そのことは、後になって知ることになる。
もし・・・あのビジネスマッチングに出ていなかったら、あの時にブースを離れていて声掛けしなかったら、あの時に他社の有機ゲルマニウムを使っているということで怯んでいたら、他社の有機ゲルマニウムと自社のアサイゲルマニウムの違い・自社の優越性を説明できなかったら・・・と振り返って考えると恐ろしくなる。
持っていないものは、どうしようもない。説明する能力を培っていなかったら、それは「無い袖は振れない」という諺通りに終わるだろう。しかし、まだ営業経験の浅いぼくが、あの時に必死で説明したことに対して力を与えてくださったのは、やはり”天の配慮”上からの天与の力だったように感じている。
小さな、ここ(展示会)に出ていて何の足しになるのだろう・・・という展示会だったような気もする。しかし、犬も歩けば棒に当たる。このような出会いを重ね、それが種のように撒かれて、やがて芽を出し、現在のようにチョットだけアサイゲルマニウムの認知が広がって、クソ高い価格の問題はあるにしろ驚くべき機能の恩恵に与る人たちが増えていっているのだ。そこには感謝しかない。能力もないものに、力づけ、機会を与えてくれる不思議な導きをぼくは体験し続けている。
最初の展示会出展をおこなった2015年から、既に9年が過ぎた。今ではぼくが展示会ブースに立つことは機会が減り、企画部の皆さんを中心に様々な場に出ていって、述べ伝えてくれている。毎年継続され、年々ブラッシュアップされ、初回のみずぼらしいブースとは全く違うものになった。でも、恐る恐る始めたことが、やがて力になっていくのだ。と、改めて振り返って思う。あの頃、展示会でぼくらの拙い説明を聞いてくださったすべての人に感謝します。そういえば、いつもアサイゲルマニウムを昔使ったことがあるという人が、ちょっとずつおられたのを思い出します。
懐かしい、甘い、切ないセピアになった記憶とともに。
(2024年5月20日第一話掲載 第二話に続く)
第二話 アサイゲルマニウム販売会社で(I)
1.AG Vet's交流会
さて、浅井ゲルマニウム研究所での営業活動は主に展示会での出展でのブースへの呼び込み、そして説明であったことを第一話に記した。また、2016年の8月から製品販売会社の代表を務めることになったことも書いたけれど、ぼくがアサイゲルマニウムの販売会社に関わったのは、それが初めてではなかった。
恐らく、一番最初に関わったのはAG Vet's交流会だった。その会は青山ダイヤモンドホテルというところで行われていたように記憶している。毎年、アサイゲルマニウムをご利用の獣医師の先生方に一同にお集まりいただき、利用症例をシェアする形で行われていた。ぼくが呼ばれたのは、赤血球代謝の研究を話してほしいということで、初代社長の大西さんに頼まれた。ぼくは帯広畜産大学出身なので、獣医師の中には何となく近しく感じられる方もいるだろう(とはいっても獣医学科ではなく農産化学という学科)し、恐らく、臨床のデータばかりではなく基礎研究の方もちゃんと行っているのだということを伝えたかったのだろうと思う。
獣医師の臨床症例発表はぼくにとっては初めて聴講するもので、様々な言葉が理解できず、難しかったのを思い出す。いま聞いても、まぁ近い状態だろうという気がする。
症例発表などのあと、ぼくの研究紹介があり、それから立食パーティー形式の交流会を行った。物珍しくもあって、何人かの先生方に声をかけていただき、便の色変化の話などを話したのを覚えている。
結局は、(対費用効果が悪い・・・あまり意味がないとの判断で)AG Vet's交流会はその後数年で終了となり、獣医師の先生方の集まりはなくなってしまった。
2016年に代表の立場になったとき、既に会はなくなっていたが、製品を動物病院で治療に応用されている先生方も多くおられたので、その中の主だった先生のところを訪問して御用聞きをはじめた。一応、そのような過去の会合出席で何人かはお顔やお名前を覚えていたので、入りやすかった部分がある。
ぼくが代表交代する直前に、獣医の先生方を担当されていた大ベテランの女性社員が定年を迎える少し前であったが早期退職していた。そんなこともあり、引き継いでいく意味でも早いうちに顔出ししておく必要性もあると感じていたからだ。
獣医師の先生方と話すには、一般的なエンドユーザーに製品説明するのとは違って、多少なりとも専門的な知識も必要だし、作用についても理解していて解説しながらオススメする必要がある。そういった意味では、ぼくの研究で培ってきたアサイゲルマニウムについての様々な知識が役立つ場面であった。
動物病院まわりは(他の製品仲卸顧客挨拶まわりも含め)、小野寺由美子さんというぼくの大好きなお姉さん(笑)とのコンビで出かけていった。もしかすると、最初の頃は前社長の大西さんもご一緒したかもしれない。だんだん、ぼくと小野寺さんのコンビでのお得意様訪問のスタイルが出来上がっていった。小野寺さんは、ぼくが浅井研に入社する少し前にゲルマニウムクリニック(成城クリニック)に看護師として就職した方で、看護師としての知識があるので、ぼくとしても安心感があった(臨床の現場というのはぼくは経験がなかったから)。小野寺さんは、現在は既に定年退職されたが、ぼくは今も親しくしていただいており、今年の1月にはご主人も一緒に、ぼくら夫婦と四人で台湾旅行にまで行ってきた仲である。キャンプにも一緒に行き、楽しい経験を共にする最高の仕事仲間の一人である。
2.動物医療発明研究会
獣医師関係ということで、時系列的には少し飛ぶが一つのエピソードを記しておこう。ある時、小野寺さんに動物医療発明研究会にでませんか?と誘われた。ぼくはその会を知らなかったので、どんな集まりなのか尋ねたところ、元々はアサイゲルマニウムを使っていた獣医師さんが始めた会で、仲卸として病院でアサイゲルマニウムを使ってくれている方も何人かいるという。
日曜日の午後に代々木八幡で行われるというので、午前中は教会の礼拝出席をし、急いで向かうと間に合うので、参加することにした。
駅で待ち合わせたが、代々木八幡では降りたこともなく、各停しか止まらない長閑な駅で新宿にほど近いとは思えない場所だった(笑)。小野寺さんと合流して会場になっている場所(ペット関連の出版をしている会社の会議室)へ移動して会に参加したが、ひどく暑いカンカン照りの日だったことを思い出す。この発明研究会は、初期には関係性が深かったため確り参加していたが、理事の先生が代わり、表敬参加する(というか顔見世?)意味合いが薄れたことで、前社長はあまり参加する意味はないと判断していたという。
ぼくらが参加した年(後の記録を見ると2017年だった)、理事は清水動物病院の清水邦一先生だった(おそらく今も)。清水先生ご夫妻(奥様は宏子先生)は、前項のAG Vet's交流会で参加した際の懇親会で一番多く話をした先生だったので、よく覚えていた。とても温厚で優しい感じのお二人は印象深かった。奥様は明るくチャキチャキと会の進行を務められ、アットホームな感じで会は進められた。途中、我々も含む企業参加者(いわゆる業者さん)も自己紹介があり、アサイゲルマニウムの販売社の代表であることを自己紹介すると、休憩の時に何人かの獣医師の先生方に声掛けいただいた。
この会で面白かったのは、この年は聴診器の販売会社さんがプレゼンテーションをして即売会を行ったことだった。この聴診器のすごいところ(発明)は聴診器は通常だと両手を使って片耳ずつセットしなければならないが、当該品は片手で手早く握って離すだけで両耳にセット完了するところだ。獣医さんが一人で診ている動物病院も多い中で、診察する子(動物)を保定しながら聴診器をセットするのは大変なのだという。獣医学科ではなかったぼくには思いもつかないことだが、聞いてみてなるほど!と納得した。これは便利だ!と。聴診器は飛ぶように売れ、感心したのを覚えている。
そして、会の終了時に驚くことが起こった・・・。
小野寺さんが、清水夫人に「うちも来年プレゼンさせてもらえませんか?」と聞いているではないか!ぼくは小野寺さんすげぇなぁ。プレゼンもやる気満々だぁ。と思っていたら、「いいですよ。じゃあ、来年お願いします!」みたいに軽く決定した。ふむふむと感心していたら、小野寺さんが「来年プレゼンうちもさせてもらえるそうです(笑)」というので、「小野寺さん、めっちゃ積極的ですね!プレゼンもされるんですね!」と答えた。すると、「なに言ってんですか!中村さんがプレゼンするんですよぉ!」。中「・・・???ぼくですか?」、小「そうですよ!決まってるじゃないですか!」、中「いやぁ・・・決まってないでしょ(笑)」というわけで、1年後の会でのプレゼンテーションが決まった。
動物医療発明研究会。動物医療における発明を論じ合うのが本筋だ。1年間ずっと考えた訳では無いが、アサイゲルマニウムの当該領域での発明はなんだろう・・・。アサイゲルマニウムは50年間もの長きにわたり研究を続けられてきた。その最初は、水に溶けるゲルマニウム化合物を作るという発明で、浅井一彦先生がこれを発明し、浅井博士のチームがこれを成し遂げられたわけだ。まさに一大発明である。しかし、発明と言えば特許であるが、既に50年もの間に提出した物質としての特許は期限切れし、合成法も公開されているので、他社によって真似し放題だ。もっとも、浅井ゲルマニウム研究所のアサイゲルマニウム合成法は大量生産に向かない方法だし、原料からして製造コストも多くかかる。だから、量産して安価に市場に出回らせるのは困難な物質だし、他社も同じ作り方は行わない。しかし、構造自体はほぼ同じものを別の原料(二酸化ゲルマニウム)を用いているのが実情だ。
さて、しかしながら、ぼくは腐っても研究出身(爆笑)であり、アサイゲルマニウムについての研究でも多くの使用法特許を提出し、許認可されている。そのような研究成果をベースに発明の応用面として発表することを決めた。
そして、翌年2018年6月3日の研究会で発表したテーマは『高齢および緩和ケアのアイデアと工夫』という内容にした。アサイゲルマニウムの名称を隠していたのは、色々と考えてのことだったんだろうと我ながら微笑ましい。。
結果、このプレゼンテーションは非常に受けが良かった。その場での販売をしたら良かったのかもしれない(笑)でも、幾人かの出席者の先生からご注文をいただくようになった。
それと、その時に出席されていた大物の方から興味を持っていただくに至った。
研究会の終了後に、近くのイタリアンレストランで懇親会が行われた。ぼくの隣に座られた方から、「ゲルマニウムって手塚先生の癌が良くなったアレだよねぇ?」とお声掛けいただいたのだ。中「手塚先生、ご存知なんですか?」。「よく知ってますよ。ゲルマニウムのことも聞いてたけど。そうですか、あのゲルマニウムですか(笑)」という感じで、2枚の名刺をいただき、様々なお話をすることができた。翌日だったと思うが、当日差し上げたサンプルの中にあった商品をご注文いただいた。その後、ずっとコンスタントにご注文いただいたし、ペット業界の新たな展開をご提案いただき、企業紹介もしていただいた。残念ながら、コロナ禍に突入したこともあり、新規製品開発の話も泡と消えてしまった。
翌2019年の研究会も、今度はプレゼンはないが参加させていただいた。そこで新たな出会いもいただいた。その年は企業プレゼンは無かったが、大阪の岸上動物病院の岸上義弘先生の数々の発明について講演があった。非常に刺激的で、興味深い内容だった。特に、小型犬の前足骨折の問題と、その治療についてのお話は面白く、アサイゲルマニウムが骨粗鬆症に有効であることや、骨の再生・骨折の修復が早いこともあるので、前年同様に懇親会での交流の機会にその旨をお伝えして興味を持っていただいた。
後日、その年に出版された書籍「生命に驚きの力を発揮するゲルマニウムの秘密」手塚修文著(玄同社)と資料をお送りした。すると、本を読んで感激したとのことで、この本を多くの友人に知らせたいと、様々な方々をご紹介いただいた。ぼくが販売会社を退いて久しい今も、岸上先生とは連絡をとりあっている。この発明の紹介の中で、幹細胞再生医療についての犬猫に対する使用例もご紹介いただき、その後は幹細胞培養液の分野で非常に活躍されているのは多くの方がご存知かもしれない。ただし、この分野でのコラボレーションはほんの少し話に出たが、これまで行われていない(笑)
そんなわけで、動物医療発明研究会は多くの御縁をいただく場になった。機会を頂いた清水先生ご夫妻には本当に感謝している。
3.アサイゲルマニウム生誕50周年集会
前項の清水先生との繋がりに関して、本項ではアサイゲルマニウム生誕50周年事業について記しておこう。ぼくが二度目に清水先生ご夫妻と会ったのは、動物医療発明研究会の初回参加の時だった。その次に会ったのは、病院への挨拶回りではなく、50周年事業の一つとして行った記念の集会だった。
1967年、ぼくが生まれる2年前(1967年)に世に出たアサイゲルマニウム。その半世紀経過の年2017年はひとつのマイルストーン的な年である。
販売営業的な視点で言えば、このことを利用しない手はない。
そんな訳で、この年は経営難な状況を変えるために様々な手を考えて、種々の企画を行った年だった。ぼくが販売会社の代表になって2年目のことである。
印象に残っているのは、小野寺さん提案の50周年集会と、ぼくの企画によるお客様の函館研究所への無料ご招待キャンペーンだ。
50周年ということで、コジツケて(笑)予算をかけて、元を回収しようと張り切った。
50周年集会は、小野寺さんの提案の元、過去に様々な研究集会を運営側で経験されてきた前社長・当時株式会社ジールスラボの代表だった大西さんが協力してくれた。
様々な研究集会というのは、一つはゲルマニウム研究会というGe-132の研究の学術的進展を図る研究会、もう一つはゲルマニウム臨床研究会という文字通りの臨床家たちが症例報告をし、より有用な症例を検討していく研究会だった。
また、2つ前の項目として記したAG Vet's交流会も大西さんの手によるものだ。
これら3つの集会を年々開催してきたノウハウは大きく、短期間で構想は確り進んでいった。一方で、大西さんの考えが色濃くでる集会にもなっていったのは当然のことだった。
集会は二本立てで構成された。会を実施する場所は、往年のゲルマニウム研究会の会場として使われた東京プリンスホテル。そこで、主に販売会社の製品を仕入れて販売してくださっている仲卸顧客の皆様をご招待し、アサイゲルマニウムを更に深く知っていただくための記念講演を第一部として行った。
講演は、九州大学名誉教授であり、レオロジー機能食品研究所ならびに藤野ブレインリサーチの社長であった藤野武彦先生。そして、アサイゲルマニウムの黎明期の研究を中心的に実施され、免疫作用を明らかにして論文を次々に発表された、2017年当時東北大学農学部教授(現在東北大学名誉教授)の麻生久先生。加えて、ビッグネーム二人のあとでは少々気の引けるところでありながら、アサイゲルマニウムの研究面での現状をもっとも知っているぼく・中村宜司がスピーカーとして講壇に立った。
藤野先生は、脳神経系の関係でプラズマローゲンとアサイゲルマニウムの脳機能に対する有用性について、研究をベースに紹介いただいた。続く麻生先生は、開発が始まった当時のこと、浅井先生のこと、石田名香雄先生のことや、黎明期の免疫に関する研究などについて紹介してくださった。
ぼくは、2015年に明らかになった論文発表内容であるアサイゲルマニウムとアドレナリンなどの生理活性物質の反応性や、ライフワークとして取り組んできた赤血球への作用性についての研究内容を紹介するとともに、アサイゲルマニウムの今後ということで、現在に至る作用パートナー分子を介した調節作用研究のヴィジョンを話させていただいた。その後、7年が経過したが、このヴィジョンは非常にクリアに結実してきている。作用相手が分かれば、起こる事象も想定できるのだ。
講演内容はさておき、この講演の講師紹介の紙面に略歴が記され、ぼくの出身校が帯広畜産大学であることが書かれており、それを目にした清水先生が「中村さんは帯広畜産出身なんですね。私もなんですよ!」と声がけいただいたのだ。帯畜大は学生数より牛が多い大学で、一学年が300名に満たない希少種である。そんなわけで、「え!清水先生、大先輩だったんですね!宜しくお願い致します!」などと調子の良いことを言って親しくしていただいたというわけだ(笑)
この集会は、多くのご出席者をいただき、それまでにお会いしたことのなかったアサイゲルマニウムを扱ってくださっている仲卸顧客ユーザーさま方に出会うことができ、面識を持つことができたので、非常に良かった。その後、少しずつではあるが小野寺さんと一緒に挨拶回りに伺い、御用聞きするキッカケになった。獣医師や医師も多く参加してくださっていたのを思い出す。
4.AG交流会
アサイゲルマニウム販売会社の定例イベントとして、AG交流会という企画があった。実は、この交流会・・・浅井ゲルマニウム研究所の薬事法違反でGe-132を使用できなくなってしまった治験に参加されていた元患者様に、アサイゲルマニウムが健康食品としてリスタートしたこと、そしてGe-132を手元から奪われてしまったことになったお詫びで各地に出向いて説明したのが始まりとなったと聞いた。
こちらも、ぼくがまだ研究者として活動していた若い頃に”研究の紹介をする”という名目で札幌での交流会に参加したことがあった。この時、ぼくは超寝不足で参加し、眠くて眠くてしょうがなく、ちょっと座ると居眠りしてしまう状況だった。昼過ぎから開始予定で、販売会社のスタッフの皆さんは東京から飛行機で移動してきた後、お昼ご飯をホテルのカフェで一緒に食べて、午後に会場準備してから交流会開始という流れの予定だった。
そこで、会が始まって社長の挨拶があり、社長に紹介を受けて研究紹介をすることになっていた。
しかし、眠さ爆発・・・。お昼ご飯を食べたら余計眠くなると心配な状況だった(汗)ところが、そこで頼んだメニューの料理に付け合わせとしてシシトウの炒め物が入っていた。ぼくは、そのシシトウを食べて飛び上がった(爆笑)激辛唐辛子もびっくりな辛さで、一気に目が醒めた。一緒にいたスタッフの皆さんにも同じメニューを頼んで食べた方がいたが、ぼくの飛び上がる状況に驚き笑い、皆さんのシシトウは普通で、全く辛くないとのこと・・・。ぼくに目覚めよとの喝が入ったような形だった。ぼくを良く知っている人は、異様な辛いもの好きなのを知っているので、この時の様子を見て「あの辛い物好きな中村さんがこれだけ飛び上がるんだから、普通の人だったら大変だったね(笑)」と呑気に笑っていた。
さて、会はぼくの研究紹介のあとは皆さんの質問・疑問に応えるコーナーがあり、最後に会社の紹介として製品の紹介などを行っていた。あとは、参加されたお客様どうしの交流。リラックスした雰囲気の中、どんな時にこんな使い方をしたとか、家族の使用体験などのシェアがされていた。
このAG交流会は、2016年のぼくの代表就任以降も2019年まで続いた。コロナ禍がなければ続けられていたかもしれない。
毎年、札幌・上野・池袋・渋谷・名古屋・大阪での交流会を行った。上野と札幌は徐々に参加者が減ったので、打ち切りになり、変わって横浜などでやろうと話していたが、残念ながら終了してしまった。
ぼくは、この交流会が好きだった。ただ、スタッフの負担が大きく、大勢(大体が4,5人が参加)で土日の休みに実施するので、社内では続けたくはなかったのかもしれないと振り返る。
でも、この交流会で顔と顔を合わせ、お客様の要望や不満も聴くことができる。それは、ぼくにとっては非常に大切な機会だった。
『アサイゲルマニウムとは何なのか』の最終章にも書いたことだが、この交流会の質問で、会の終了後の会話の中で製品中の添加物を無くせないのか?とのことを伺っていて、その思いに共感していたから、後になって状況がかなった時に思い切って良くない成分を除いていったという経緯がある。
お客様と社長が、直接話し合える場所があるのは素晴らしいことだ。
ただ、全体として参加者は年々減少傾向だった。いま実施すれば、非常に多くのお客様が参加されるだろう。でも、恐らく実施されないように思う。会社としては、負担が大きく後ろ向きだったように感じるからだ。参加者が減る中で、ぼくはなりふり構わず知り合いを誘った。終いには父親や親友まで(笑)来てくれて、参加してくれた知人たちは、父親も含めてファンになってくれた。ぼくはそれでいいと思っている。アサイゲルマニウムはそういう素材なのだと。本当に大事な人には高いけど使ってほしい。ここぞという時に飲んでほしい。そうなった時に説明しても遅いから。平時から知ってもらうのが良いと感じている(笑)
そんな訳で、今は社長でも無くなってしまったが(笑)自由な立場になって自分一人で”あの会に似たものを作ろう!”と考えて始めたのがアサイゲルマニウムセミナー&交流会だ。本当にぼくが大切にしたいのは、この交流会の部分。アサイゲルマニウムについてのぼくのセミナーは、そのための出汁でしかない(笑)話しも下手だし、参加者の皆さんからも難しすぎるというご意見をいただいている・・・(汗)
明日、2024年6月1日も、仙台セミナーを開催するので、もう少し分かりやすくしなくっちゃ!
(2024年5月31日第二話掲載 第三話に続く)