アサイゲルマニウムとは何なのか 第一章(長編連載~第一章完結)2023年4月7日 第一章 5および6話追加
アサイゲルマニウムとは何なのか…についての紹介文
これはぼくの後半人生の大きなテーマです。昨年、思い立って人生を振り返り、特に後半の25年程を中心に自伝のようなものを記しました。ちなみに、A4用紙で81ページになりました(汗)
ぼくの四半世紀(25年)の歩みは、ある意味このタイトルの疑問をもち、それを辿る旅路だったと感じるからそのように名付けています。
今日(2023年3月24日)、Twitterでのフォロワーさんのコメントに対し、ぼくが如何にアホだったかを伝えたかったのですが、伝えきれないとアサイゲルマニウムがぼくに対してどう働いたかを解ってもらえないだろうと感じたので、ちょっとずつnoteに転載していこうかと思っています。
一応、確認がてら二話ずつくらい追記して行く形で、章ごとに分けて連載したいと考えています。
途中から、有料記事にするかもしれませんが、とりあえず最初の方は無料記事ではじめます。
なお、過去の内容はできるだけ深く思い出しながら書きましたが、一部に正確ではない記述もあると思います。記録にもとづかない記憶からの記載もありますので、どうか間違いについてはご容赦ください。(あきらかな間違いがありましたら指摘いただきたくお願い致します)
はじめに
およそ研究とは縁のない、勉強嫌いだったぼくが、どのようにして研究者になっていったのか、そしてアサイゲルマニウムの妖しい魅力によって魅了され、この魅力を伝える思いに駆られるようになったのか。
様々な、普通には経験できないような体験をとおし、やる気のないぼくが背を押されて歩き続けた道・・・その道は振り返ったときに敷かれたレールを霧で見えなかった中でも突き進んできたように感じられるのです。そして、折々に“天の配慮”が配置され、ぼくのようなどうしようもない人間でも用いていただいたように感じます。
『なすべき良いことを知っていながら行わないなら、それはその人には罪です。』ヤコブの手紙4章17節
『あなたが右に行くにも左に行くにも、うしろから「これが道だ。これに歩め」と言うことばを、あなたの耳は聞く。』イザヤ書30章21節
よく分からずに、わき道に逸れそうになりながら歩いてきたぼくですが、道を示され、良いところに導いてきていただいたと感謝しています。
このために必要な多くの事柄を用意し、助けてくださる皆さん、ともに歩んでくれる仲間、支えてくれる妻も与えていただき、今があると思っています。
『初めに神が天と地を創造した』との聖書の冒頭に記される言葉が、浅井先生の古い日記の最初のページに自筆で大きく記されていました(浅井先生のお母様はクリスチャンだったそうですが浅井先生は違いました)。そして、浅井先生が好んで使われた『創意通天』との言葉が、今になってぼくの歩んだ道と重なると実感しています。
この書に、ぼくのこれまで歩んだ道のエッセンスを記しました。お読みになった方々に、アサイゲルマニウムとは何なのか・・・、が心のうちに見えてくれば嬉しく思います。まだ、アサイゲルマニウムの本質は全て明らかになっていません。
浅井先生を通して、そして過去から現在に至るアサイゲルマニウムに関わった人々の脈々と継続される尽力を通して、成されるべきものが何であるのか、これからもなお「追究が研ぎ澄まされていく」よう期待します。
そして、アサイゲルマニウムが世界中の人々の健康に貢献し、身体と精神の健やかとともに、幸福な歩みを持つことに寄与できるよう願っています。
2022年 12月21日 中村宜司
第一章 アサイゲルマニウム研究端初(ニッテン研究時代)
1. 研究のはじまり
「中村くんはウンコ好き?」
アサイゲルマニウムに関する研究の第一歩が、この衝撃的質問から始まった・・・。
ぼくは即座に答えた「好きでも嫌いでもありません」
この質問をされたのは、ぼくの研究人生を決定づけた師匠ともいえる方である。ぼくには研究の師匠が3人いると思っている。その中でも最も関わりが深かったのが名倉師匠(第一の師匠)だ。
名倉泰三さんは、日本甜菜製糖株式会社(通称ニッテン)の総合研究所の若手研究員だった。名倉さんは後にひとりネプチューンと呼ばれるようになる人物で、我々の同世代である人気芸人ユニットであるネプチューンの名倉潤、そして原田泰造の姓と名が一体化したような方である。(良くぼくの親友がホリケンはどうした・・・とネタで言っていたが、後になって師匠の後輩でホリケン;堀内健さん,が入ったのには流石に驚いた)
さて、最初から脱線したが名倉さんの答えは、
「よかった~。この仕事はウンコ嫌いだとできないんだよ~」
「まぁ追々わかると思うけど」
一体何のことを言っているのかさっぱり解らない。分かるのは何かとんでもない仕事をしなければいけなくなりそうだということである。
「はぁ。そうなんですか」と答え、職場の案内をしてもらったのを覚えている。
ぼくは大学院を出てすぐに浅井ゲルマニウム研究所という会社に就職したが、初日から別企業に“出向”という名の研修に出されることになった。入社した自分の会社に一度も通うことなく、出身校である帯広畜産大学と同じ帯広市稲田町にある砂糖会社のニッテンさんで研究することになった。ニッテンは砂糖大根としてしられる甜菜(テンサイ)からショ糖を抽出し、精製販売している歴史のある企業で、北海道ではスズラン印のお砂糖として馴染みのある会社である。ぼくは入社してニッテンさんの研究技術を研修し、身につけてくることをファースト・ミッションとして社会人人生を歩み始めたのである。
ニッテン総合研究所はとても古い工場の建屋を再利用し、研究専用の事業所としていた。広大な土地の中にひっそりとレトロな三角屋根の工場建屋があり、中にはいると改築されている研究室が5つのセクション(第一課~五課)として3階建ての建物の各フロアーに設置されていた。ぼくが配属されたのは第二課で、後から砂糖・食品ユニットという部門となった。砂糖とその他の甜菜に含まれる食品機能性成分の研究を行う部門で、当時は総合研究所の所長であった佐山所長が見つけられた天然の難消化性オリゴ糖ラフィノースの研究を始め、ベタイン、ビートファイバーの研究などを手掛けていた。名倉さんが研究されていたのは難消化性オリゴ糖による腸内細菌叢への影響を評価することで、理化学研究所の辨野先生から学んだ腸内細菌の嫌気性菌を培養する研究手法を用いた研究だった。
ざっくりと、この話を聞いて、入社が決まったときに話を聞いた微生物研究が腸内細菌の研究であったことをぼんやりと理解した。しかし、腸内細菌の研究とウンコが好きかどうかに関係があろうとは、この時点では全くわかっていなかった。
2.浅井ゲルマニウム研究所入社の経緯
ぼくの浅井ゲルマニウム研究所入社に関わった人物として、農林水産省食品総合研究所の所長を務められた梅田圭司博士がいた。会社関係者で最初に出会ったのが、当時会社顧問として研究のサポートをされていた梅田先生だった。梅田先生が北海道大学の信濃教授と帯広畜産大に来られたのは既に秋深かったと記憶している。国の研究機関のトップの人物が地方の単科大学で当時はお世辞にも研究が進んでいる大学ではない畜大に来る。大学の先生に聞いたのは「例えるなら、天上の人が降りてくるようなもんだ」という謎の解説だった。入社の経緯も今考えると不思議なことだらけである。先に秋深かったと記したが、それはつまり秋深くなるまで就職先が決まっていなかったことを意味している。
ぼくははっきり言って、どうしようもない学生だった。なぜ大学院修士課程まで進んだのか、時代の為せる業としか言いようがなかった。1990年代後半・・・つまり、バブルが弾けて就職氷河期といわれる時代が迫ってきている頃で、ダメ学生は就職が難しくなってきている時期だった。4年で卒業して就職しようと考えていたが、甘い考えであった。ぼくは勉強が嫌いで、北海道の自然を満喫し、大学生活を遊び倒すために日々を送っていたような人間で、友人たちに言わせると「中村の成績は無駄がないよな。超低空飛行。にもかかわらず墜落しない(笑)」といつもからかわれていた。実際に、ほとんどの教科は可で通っており、おそらく優はなく、良も片手で足りるほどのカリキュラムしか無かったように記憶している。きっと採用募集で応募した時、就職先担当者が書類選考の時点で落としたくなる学生だったはずである。そんな訳で、学部を卒業する時点で受けた企業は全て落ちた。なぜか、でたらめダメ学生であるぼくを研究室の助教授が誘ってくれて大学院に進学することになったのだ。
さらに、ぼくは微生物学というのが苦手で、細菌類の分類の学名を覚えるのが嫌で、微生物学は必修科目にも関わらず試験に落ち、レポート提出でなんとか単位を出してもらった。微生物学教授だった佐藤先生の覚えはすこぶる悪かったのではなかったかと思う。その年の就職担当教員は佐藤教授であった。
ところが、浅井ゲルマニウム研究所で求めていた微生物の研究を行うための募集で佐藤先生が目をつけたのがぼくだったのである(汗)ある日、佐藤先生と廊下ですれ違った。
佐藤先生「あ!中村くん、中村くんは就職まだ決まってなかったよね?」
中村「はい・・・まだです」
佐藤先生「中村くんは確かぁ、(北海)道内就職希望だったよね?」
中村「あ、はい」
佐藤先生「中村くんは確かぁ、東京出身だったよねぇ?」
中村「そうです・・・」
佐藤先生「ちょうどいい会社があるんだけど、興味ある?」
中村「あ、はい。まだ決まってませんので」
このやり取りのあと、程なくして帯広に梅田先生と信濃先生がやってこられたのである。
なぜ、このお二人が来られたのか、ぼくには全く分からなかった。ただ、会社の顧問だという梅田先生は「アサイゲルマニウムっていうのは非常に面白い物質で糖を異性化するのに役立つんだよ。いま研究者を募集しているから興味があったらこの名刺の電話番号に連絡して、八角さんという秘書さんに伝えてよ。いまは東京の会社だけど北海道の函館に移転する予定なんだよ」と言って、ご自身の名刺を渡して「とにかく面白い会社なんだよ」と話された記憶がある。既に28年前のことなので、はっきりしたことは覚えていない。
お二人は程なくして帰られ、研究室の同期のメンバーたちから「中村どうだった?」「会社の名前がやばくねぇ?」「大丈夫な会社なの?」と質問攻めにあったのは忘れられない(笑)
ぼくは佐藤教授の推察通り、道内就職で引き続き北海道で遊び暮らすことを考えていたし、東京出身で家族は東京にいたが、全く就職で帰りたいとは思っていなかった。しかし、仕事で東京に帰ることがあれば帰省にかかる費用も不要になるかも。との考えで、この怪しい名前の株式会社浅井ゲルマニウム研究所に興味を持った。思い起こせば、実家の近くで小学校時代の友達の家が、彼らが引っ越した後にゲルマニウム温浴という謎な店舗?に変わった。小学校高学年になった頃だったが、少々古めの小さな一軒家でゲルマニウム温浴という施設となり、ゲルマニウムの風呂が家の中に所狭しと並べられ、そこに人々が次々に入る姿を想像して、なにか滑稽な思いがしていた。あれと関係有るのだろうか・・・。
興味を持ったので、八角さんに電話してみた。すると、一度来社してください。とのことだったので、直ぐに上京して訪問した。ぼくは地図を見るのが得意で、道を間違うことはあまりないと自負していた。しかし、焦ったのか、この日は小田急線の狛江駅を降りて逆の方向に歩いてしまい、とうとう世田谷通りまで南下してしまった。実際は駅の北側に会社はあり、慌てて走って20分程で汗をかきながら到着したのを覚えている。おそらく秋深かったので助かったのだろう、真夏なら悲惨な状況だったに違いない。
到着してすぐ案内されたのは社長室で、当時の社長柿本博士と梅田先生が部屋で待っていた。二人が話したのは、まったくゲルマニウムを知らないぼくにはチンプンカンプンな話だった。うっすら覚えているのは、二年ほどで函館に会社移転することが決まっている、そこでは今の数倍の規模の工場および研究所を作る。まだ一般社員は移転の話を誰も知らない。アサイゲルマニウムは素晴らしいもので、糖の異性化を素晴らしく促進する。この事業はものすごいことになる(大儲けだ)。とにかくその事業に会社として賭けている。ということだった。なんだか分からないがアサイゲルマニウムの糖異性化は素晴らしく、その研究をするのかな・・・。という印象であったが、実は勉強嫌いのぼくは糖も苦手、糖の構造というのは複雑で、色んなタイプの糖の構造、オリゴ糖や多糖の構造を覚えるなどは、とても手に負えない(笑)
その後、関連施設なども紹介してもらった気がするが、別れ際に「入ってみる気になったら八角さんに電話してください」と柿本社長に言われた。
ぼくには選ぶ余地は残されておらず、アサイゲルマニウムは一縷の望み、背水の陣、クラッチング・ア・ショート・ストローだ。あまり深く考えることもなく、採用試験を受けてみるしか無いと考えた。ただし、糖も微生物も全く心得もなく、会社が期待する分野の研究を担えるような人物ではないことだけは確かだ!そんな人間が入社試験を受けても、これまでの他社入社試験と同様に落選間違いなしのはず。しかし、奇跡が起こった。「入社してくれるんですか?」と八角さんの電話の声・・・。「それでは必要な書類を送ってください」
そのうちに試験日程か面接の日程が知らされるのだと思っていたが、手元にあったのは入社にかかる案内で、採用条件とか書かれていた。そして総務の担当者の伊藤氏から電話が来て、正月に実家に帰るときでも研究所に寄ってください。との話であった。ウ~ン、正月に試験かぁ。
結局、正月になってから狛江研究所に行くために実家に帰った。修士論文も放置し、普段の年末年始には決して近寄らなかった実家に。しかし、結局は試験は行われず、上司となる部長と、直属の上司になる生物室長を紹介され、就職の条件などを部長代理の伊藤さんから詳しく聞き、会社の施設を案内してもらって終わった気がする。「当社は給料は良くないんですが、ボーナスはかなりいいんです。期待してください!」と笑顔で言われ、ちょっと期待したのを覚えている。どうしようもないダメ学生を「来ていただけるんですか?」と言って試験も面接もせず、スルーで入社させてしまう変わった会社。大丈夫なんだろうか・・・。増々不安になりながらぼくの入社は確定した。
3.実験の始まり
話はニッテンでの研究生活に戻る。
名倉師匠「中村くんは微生物好き?」
中村「いやぁ、どちらかというと苦手で嫌いです」
名倉師匠「よかったぁ。この仕事は微生物学好きな人じゃないほうがいいんだよね」
中村「???微生物の研究なんですよねぇ?」
名倉師匠「そうなんだけどね。微生物の分類学とかやってる人には合わないんだよね」
中村「??・・・ふぅん。そういうものなんですか」
名倉師匠「そうなんだよ。普通じゃないからねぇ」
中村心の声「ふつうじゃない・・・どういうことなんだろう」
数日後に、謎は解けた。早速、腸内細菌の研究が始まった。まずは準備から開始された。腸内細菌たちを分離する装置と希釈液の入った試験管数百本。それと分離識別する様々な寒天培地や、性質を確認するための液体培地。他には細菌液を移液するためのピペット、培地に塗布するためのガラスのコンラージ棒。空気全くない状態(嫌気状態)で培養するための一連の装置。
そして、二重に重ねた透明ポリ袋。
その日、ラフィノースのヒト試験でボランティアの検体からサンプル採取して一連の作業の研修が開始された。
まず、寒天が入っていた空缶の蓋を開けると、例の二重ポリ袋が入っており、その中に検体が入っている。奥まった特別室のドアを締め、検体を取り出すと微妙な臭気が鼻を突く。名倉師匠「中村くん、見本みせるから、真似てやってみて」といって、その茶色い検体を粘土をこねるように机に押し付けてポリ袋の上から混ぜだした。「この作業はねぇ。できるだけ手早く行う必要があるんだよ。腸内細菌ってのは偏性嫌気性の菌がほとんどだからね。空気に触れている時間が長いと死んで減っちゃうんだよ。だから手早く。そして元の体温を保った温もりがあるくらいに処理してあげれるといいんだよ」
中村心の声「うぇっ。まじか・・・うぅ。くせぇ」
名倉師匠「あ、中村くんはウンコ嫌いじゃないから大丈夫だよ!すぐ慣れるから。午前中にこの処理終わってすぐ、昼にカレー食べれるようになるからさ」
中村「・・・」
名倉師匠「中村くんカレー好き?」
中村「はい。大好きです・・・」
数回、ヒト試験やラットの試験で糞便を扱うようになり、師匠の言の通りにすぐ慣れた。ぼくらは帯広にあるスリランカカレーの店であるライオンハウスに一緒に通うようになったのは、それから直ぐのことだった。
ある時、ヒト試験が始まる際にぼくも被験者ボランティアに加わることになった。
師匠「中村くん、試験期間は制約が多いから気をつけてね。腸の細菌たちに影響を与えるようなことはしちゃダメだからね。ヨーグルトとか納豆とか、ぬか漬けなんかの発酵食品は止めることと、最悪なのは抗生物質。風邪はひいちゃダメだよ。風邪はたとえひいても、病院に行かずに気合で治せ!」
中村心の声「前半は分かるが、後半何いってんだか・・・気合で治るか!」
師匠「俺くらいになると、サンプル見ただけで誰のものか分かるようになってくるからね。前の日に食べたものまで分かるんだよ」
師匠の言う通り、後日試験に加わっていたボランティア社員さんの前日の食事がとある店のとあるメニューであることを言い当てたのは、大したものである。今の時代なら大問題になったかもしれない(笑)
試験中のある日のこと・・・
師匠「なかむらぁあ。おまえやっただろ・・・ダイナマイト食っただろ・・・」
中村「はい。食べましたがなにか?」
師匠「菌に影響することするなって言っただろ」
中村「してませんが」
師匠「おまえのサンプル、異様に菌が少ないんだよ。死んじまってるんだろ!辛すぎるんだよ!」
そして、ぼくは超辛口スリランカカレーの最辛ランクであるダイナマイトは強い抗菌作用があることを覚えた!レベルアップした。
そんな日々を過ごしながら研究を少しずつ進め、休日は共通の趣味であるアウトドアに勤しみ、師匠の趣味であったカナディアンカヌーでの川下りや湖畔のキャンプでカヌーやぼくの趣味であるフライフィッシングを楽しんだりしながら、あっという間の日々が過ぎていった。師匠は新婚間もなく、家庭にも招待してくれてニッテンの平屋社宅でバーベキューをしたのは懐かしい思い出だ。
その頃、ニッテン総研のトイレは大便の個室の壁はしたのほうが15cmほど空いていた。名倉師匠はなかなかの下品さで、「中村くん、腸内細菌は出たてほど正確なデータが得られて、空気で死んでしまうから、ウンコしたてを処理するのがベストなんだよ」(非常に当然のことを言っている)「だから俺が中村くんの個室の後ろに入って手を出して受け止めてあげるから、ウンコしたてで検査しよう!」・・・さすがにこの申し出はスルーしたか、丁重にお断りしたと思う。ただ、こんなやり取りの中でも、師匠から大腸の中がいかに空気が存在しないかについて、事ある毎に刷り込んでいただいたのを覚えている。そのことが後になって、ある発見に結びつくことになる。が、それは改めて別の章で詳述することにする。
4.アサイゲルマニウムとの遭遇(函館社員旅行)
そんな中、6月頃に浅井ゲルマニウム研究所から電話が来た。社員旅行があり函館に移転する予定地を東京からみんなで見学に行くツアーがあるという。中村くんも北海道だから函館に来て一緒に社員旅行しよう!という趣旨だった。開催日は6月末だったのではないかと思う。なぜそう思うかというと、ちょうど社員旅行の直前に特別な事件があったのだ。Wikipediaの記述によれば1995年6月21日に全日空857便の羽田空港発、函館空港行でハイジャックが起き、日本で初めて強行突入が函館空港にて行われたというものだ。確かその一週間後に同じ便で社員たちが函館に向かったという記憶があるからだ。
このツアー、東京の社員は羽田から僅か一時間ちょっとで函館に到着する。しかし、帯広から汽車で函館に向かったぼくは千歳で乗り換えて8時間ほどかけて夕方に到着した。
既に観光を多少済ませた社員たちと函館駅にて観光バスで合流し、早速宿泊場所であった湯の川観光ホテルに向かった。
そして、男性若手社員宿泊部屋に到着した時、ぼくは衝撃的な出会いを果たした・・・アサイゲルマニウムとの。
先輩社員たちはカプセル入りのシートを大量に取り出し、そこから片手でもう片方の手にカプセルを凄まじい勢いで取り出していった。小さな白いカプセル10個はみるみる掌に飛び出した。同室に泊まる予定の5人が同じ行動をし、おもむろに全てのカプセルを口の中に放り込んだ。そして水をコップから流し込み、カプセルをひと飲みにしたのだ。それは生まれて26年にして初めて見る光景だった。
健康な若者たちが、どう見ても薬のカプセルを10個も一度に口に放り込むのである。なんの躊躇もなく、意気揚々と飲むことに唖然とした。「あのぉ。それなんですか?」
先輩「え?中村くん知らないの?ゲルマニウムもらってないの?」
それがアサイゲルマニウムとの初めての出会いだった。
当時はアサイゲルマニウム(名称は開発記号のGe-132)を承認薬にするため、臨床治験の最中であった。そして、その頃はカプセルという剤形は医薬品だけに使われる専用の剤形であり、カプセルを飲むということは薬を飲むことに他ならなかった。カプセル剤を病気で処方されても通常は一回3カプセルが限度である。10カプセルをシートから全て毟り取って一気飲みするなど、狂気の沙汰であるし、通常は副作用を心配して忌避する行為である。それだけに、社員たちが病気でもないのに10カプセルも一度に飲むというのは極めて珍しい光景だったというわけである。
先輩方に聞くと、アサイゲルマニウムを酒を飲む前に沢山飲んでおくと酔わない、悪酔いしない、たくさん呑める。というのである。
ここでアサイゲルマニウムの紹介をしておく必要があるだろう。アサイゲルマニウムは浅井ゲルマニウム研究所の創業者である浅井一彦工学博士の創製した水溶性有機ゲルマニウム化合物で、この物質を健康に役立てられるはずと考えられていた。当時浅井先生が作られた石炭綜合研究所にて同労者であった故及川浩博士(後に東洋大学で教鞭をとられた)が当該合成研究に尽力され、及川先生の指導の下で部下であった若手研究員が初合成した。浅井博士は、当時体調が最悪の状態であった。自分でその効果を確認しようと、出来上がったものを毒性試験もしないうちに自身で飲んでみた結果、薄皮をはぐように健康な身体を取り戻したことを自伝の『ゲルマニウムと私』に記している。
その後、体調の悪い方々にアサイゲルマニウムを溶かした水を差し上げ、様々な疾患が良くなるのを目の当たりにされた。そうして浅井先生は個人研究所としての浅井ゲルマニウム研究所を設け、1975年に株式会社化するに至った。浅井先生の人脈で研究者が集まり、医師も参画し、この水溶性ゲルマニウム(浅井ゲルマニウム研究所での開発記号Ge-132)の研究開発が行われ、夢の癌治療薬に向けて臨床治験へと進んでいった。
そのような中で、東北大学医学部の石田名香雄先生(東北大学学長も務められた)のグループを中心に免疫活性化の性質が見つけられ、免疫賦活作用による様々な疾患への有用性が評価され、臨床治験が重ねられていった。
この函館旅行は、そのような中で20年ほどの研究開発が行われたころの出来事になる。大きな飛躍をめざして東京から函館に新工場と研究所の建設(移転)が行われることになったのだった。
その日は、ホテル到着後温泉に浸かり、早いうちから宴会場で大宴会が始まった。社員およびアサイゲルマニウムに関わる多くの先生方がツアーに参加し、浅井先生の奥様エリカ夫人も参加されていた。
ぼくは温泉に入ったので浴衣に着替え、宴会に臨んだ。ほとんどの方は初対面であり、しかし皆さん旅行なのでラフな服装ではあったが、浴衣で臨んだのはぼくの他にはほとんどいなかったように記憶している。ちょうど入社三ヶ月だったので、試用期間が終了となり、柿本社長も遅れて宴会場に到着したため、その場で辞令を受け取ることになった。浅井ゲルマニウム研究所の歴史が54年を数える中、浴衣で入社辞令を受け取ったのはぼくだけであるのは間違いない。
ぼくの出た帯広畜産大学は当時は所謂バンカラな校風で、酒飲みが多かった。ぼくは体育会弓道部主将だったので、注がれた酒は必ず飲み干す!という謎の風習に慣れきっていた。そして、この社員旅行の宴会では入社初の顔見世であるぼくを珍しがり、また腸内細菌研究と腸内での糖の異性化反応によるオリゴ糖発生について、という画期的研究を充てがわれたことに興味津々だったはずである。次々に年配の方々が入れ代わり立ち代わりし、ぼくの盃は注がれては消え、溢れては飲み干し・・・いつしかぼくの記憶は曖昧になった。あの時、先輩方とともにアサイゲルマニウムを飲んでいたら、酔いつぶれることはなかったのかもしれない(笑)宴会終了後にいずれ幾度となく登ることになる函館山の夜景を貸切バスで皆で観に行った。山にはロープウェイで上ったが、初めて見る夜景の光は美しかったが左右に揺れ動き無数の光の筋が流れるように見えた(汗)。もちろん、過剰の飲酒により酩酊して左右に揺れ動いていたのはぼくの頭の方だったことは言うまでもない。
その後、帯広に浅井研から社員の健康福祉用のアサイゲルマニウムカプセルがまとめて送られてきたが、腸内細菌試験のボランティアだったぼくはそれらを飲用することはできないまま暫く過ごした。
2023年3月31日 第一章 3および4話追加
(つづく)
5.アサイゲルマニウム研究の開始
そんな数ヶ月が過ぎたある時、
師匠「中村くん、ゲルマニウムの試験やってみるか」
中村「いいんですか?」
師匠「大体の必要な手技は教えたからね。まずはラットの試験だね」
中村「ラット・・・ですか。実は畜大にいながら動物実験はやったことがなくて、ネズミの解剖はやった経験がありません。魚ならいつも開いてますが!」
師匠「いやぁ、中村くんは話には聞くけど俺の前で釣ったこと無いからなぁ(笑)ま、岸田氏に教えてもらえばいいよ」
岸田氏とは、ぼくの第二師匠とも言える人物である。ニッテンの研究員で動物実験を担当されていた。岸田師匠はとても丁寧に細かく実験手技を教えてくれた。実験に供するラットたちを腕に抱き大事に撫でる姿は忘れられない。
岸田さんの指導の甲斐あって、解剖の技術は比較的短期に上達したように思っている。もっとも他に比べる人物もいないので一般的な熟練速度より早かったかどうかは判らない。岸田さんには、様々な研究のことを教えていただいた。そして、一番勉強になったことは研究に対する取り組み方だった。
ぼくが研究対象について調べていて疑問に思ったことがあったので、岸田さんに質問した。残念ながら質問内容が何だったのか、今では忘れてしまった。それは午前中に質問したことだけは覚えている。それから岸田さんを部屋で見かけなかったので、夕方まで忙しいんだろうと思って、ぼくは別の仕事をしていた。すると、終業時刻近くなって「中村さーん!わかったよ!」といいながら居室に戻ってこられた。
中村「???何がわかったんですか?」
岸田さん「いやぁ、午前中に質問されたあれ図書室で調べてて、わかったんですよぉ!」
中村「・・・え?ずっと調べてたんですか?」
岸田さん「うん、気になっちゃってさぁ!でもわかりましたよ!」
ぼくは自分で知らないことだから、岸田師匠ならしっているかも・・・と思って軽い気持ちで聞いたのだが、大事な時間を4~5時間費やしてぼくの軽い気持ちで発した質問に答えを見つけてきてくれたのだ。
「いや、知らないなぁ」で済ますこともできたはずだが、岸田師匠はそのようにせず、時間をかけて調べ、答えを見つけて分かりやすく教えてくれたのだ。
ぼくはこのことに非常に感銘を受けた。そして研究者の心持ち、分からないことを調べ、明確にする。さらにそのことを伝える。それが大切なのだと思った。研究者になどなる気はなかったが、ぼくは運命に翻弄されて研究をするものになってしまった。だから研究の心構えなどは持ち合わせていなかったが、岸田師匠の研究に対する真摯な態度がぼくの研究への姿勢を変えてくれるきっかけとなったのは間違いない。
岸田さんは、その後ニッテンを退職し、愛媛大学の教員になられ今は栄養科学の教授となられた。やはり教育者としての片鱗を発露していたのだと回顧して思う。
岸田師匠に教わりながら、ラットへのアサイゲルマニウム投与実験をおこなった。初めてのアサイゲルマニウム実験で、アサイゲルマニウム入りの餌を作ることから始めた。様々な(栄養素の)粉や油を混合し、粉末餌を作り上げていく。栄養学などろくに学んでいなかったぼくには新鮮だった。粉だけど、必要な栄養素が組み合わされて、ラットの健全な状態を保つことができる。そこに極々微量のアサイゲルマニウムを混ぜる。既に実施していたオリゴ糖の投与実験では全成分の実に5%もの量を置き換える。一方、アサイゲルマニウムを混ぜるのは爪の垢程度の0.05%で、オリゴ糖試験の百分の一に過ぎない。名倉師匠に聞いた話では、以前にその濃度の餌をラットに与えたところ下痢をしたという・・・。そこで水分をキープできるように餌にセルロースを加えて食物繊維に水分をキープさせる話になった。これは実に効果的で、下痢をした個体は全く無かった。
そして、驚いたのは投与して数日で糞便の色がはっきりと変わったことだった。割と暗い部屋で飼育されていた(というと問題がある;実際はラットのケージの影が暗かった)けれど、糞がとても明るい色になり、緑がかった色から黄色く変化していたのだ。しかも全て(たしか5匹)のネズミで同じ変化だった。
かなり大量に作った餌(4kg?くらい)に2千分の一(0.05%;2gくらい)加えただけのものが、こんなにも糞の色を激変させるのか。という驚きがあった。これがアサイゲルマニウムの作用に興味を持ったきっかけである。いったい身体の中で何を起こしているのだろう。アサイゲルマニウム(当時はGe-132)って何なのか?
岸田師匠に分からないことを調べ、どのようになっているのか解明していく大切さを学んだので、ぼくはこの糞の色の変化について興味を持って調べるようになった。
そんな頃、ぼくが浅井ゲルマニウム研究所に入社して腸内細菌の研究をすることになった理由を知らされるようになった。一応、会社での所属は研究部生物室ということになっていて、上司は室長の小林さん、そして部長の秋葉さんがいた。普段は月に一度、研修報告という形で一ヶ月間の業務を報告書にまとめ、東京の小林室長に送っていた。小林さんとのやりとりは、報告書の提出と、その内容の不明点を電話で質問されて答える、というのみだった。ある時、腸内細菌学の学会が東京で行われ、これに名倉さんと参加する目的で上京した。そこに秋葉研究部長が来られ、懇親会の時などに色々と話をした。
秋葉「中村くんの、こないだのレポートさぁ。あれ面白かったよー」
中村「そうですか、こないだのってのはいつのですか?」
秋葉「こないだってのは、便の色が変わったやつさ」
中村「あぁ、あれですか。はっきりと変わりました」
秋葉「あのウンチの色が変わるってぇのは患者さんで起こるんだけど、理由がわからないんだよ。そんでもって、柿本さんが調べろってんで、東薬(東京薬科大)で調べてもらったんだけどぉ。岡希太郎っていう僕の仲のいい先生に頼んでさぁ、学生にゲルマニウムを飲んでもらったら、ウンチの色がみんな変わって、おならがすっごい出るようになったって言うんでさぁ(笑)尿の分析したらインドール酢酸が変わってるって言うんで腸内細菌が変わってんだろうって話なんだよ」
秋葉「そんでもって、柿本さんが糖の異性化に興味もってるってぇのは君も聞いてるでしょ?・・・中略・・・要するにオリゴ糖でもウンチが黄色くなるんだけど、これとおんなじでゲルマニウム飲んだら腸の中で糖分が異性化されて、オリゴ糖ができて、それがビッフィズス菌を増やすっていうこと何じゃないかっていう仮説なんだよ!君のレポートがそれと関わるんだよね」
中村「はぁ」
つまり、ここで明かされたのは、ぼくが成すべきことは糖の異性化の研究をすることではなく、経口摂取したアサイゲルマニウムが腸の中で糖分を異性化し、難消化性のオリゴ糖を作りこれがビフィズス菌に餌として食べられて、腸内細菌叢を良い状態に整えるので、がんにも効果が出るようになるのではないか。ということについて調べることだったのだ。
秋葉部長はとても話し好き。そしてマシンガンのごとく研究の話を楽しげに語り続ける方だということを理解した。
そんなわけで、ぼくはアサイゲルマニウムとオリゴ糖の比較試験を名倉さんに指導してもらいながら計画立てていった。
既に書いたとおり、アサイゲルマニウムは餌の0.05%、オリゴ糖はラフィノースを用いて餌の5%量とし、両方の混合群も設定した。見るのはオリゴ糖のビフィズス菌資化作用による腸内菌数と割合の調査。そして糞便の色合いの変化についての調査。そして、糞便の胆汁酸についての分析等だった。
ぼくは大学時代の卒論・修論ではコメ・イネの脂質研究に取り組み、脂質の不飽和度と耐冷性の関係性を研究していた。そこで使用した分析技術は極めて単純で、①コメやイネの葉から油を抽出する。②抽出した油をケイ酸クロマトグラフィーで成分分離する。③分離した各種脂質を薄層クロマトグラフィーで分離して脂肪酸分析をガスクロマトグラフィー分析する。④各種脂質のクラス分けを液体クロマトグラフィーで分析する。
この4つがほぼ全てだった。たったこれだけだったが、これが役立った。コメの油は抽出すると緑色をしていた。これをケイ酸クロマトグラフィーで分離するとまっさきに緑色の色素が分離し、やがて黄色の色素がそれに続く。サンプルによっていくつかの色素が別れて出てくるのを興味深く思っていた。それで、色は有機溶媒で脂質抽出すると一緒に取り出せる。そしてその色付きの脂質をクロマトグラフィーにかけると、色素が分離してくる。ということだった。
たった4つしか知らない分析方法で、ラットの糞を処理してみたところ、有機溶媒に黄色い色素が見事に抽出された。そして、薄層クロマトグラフィーで分析してみたら、こちらもきれいに2~3種類の色素が分離できた。黄色、赤茶、オレンジ。一番多い色素はきれいな橙黄色(オレンジ)だった。
ぼくの僅かな大学時代の研究歴が奇跡的に役立った(笑)
端的に書くと、アサイゲルマニウムとラフィノースの比較投与試験から判ったことは、
① アサイゲルマニウムによる糞便の色変化はすべての個体に生じた
② 糞便はアサイゲルマニウム摂取で黄色くなり、くすみが無くなった
③ ラフィノースによる糞便の色変化はアサイゲルマニウムほどではなかった
④ ラフィノース摂取のラットは盲腸が発酵により肥大化した
⑤ アサイゲルマニウムの摂取は糞便の色素を増やしオレンジ色の色素が増加する
これらの結果を元に、この変化する色はなんなのか?という興味が一気に大きくなった。
あれっぽっち餌に加えただけの有機ゲルマニウムがこんなにも確実に便の色を変える。非常に興味をそそる事実だった。ぼくは過去の勉強嫌いを忘れたように理由を探すために大学時代の生理学の教科書、生化学辞典、生化学ガイドブックという試験一夜漬け勉強にしか使ったことのなかった書籍を読み漁った。
生化学ガイドブック(南江堂)には後半にポルフィリンについて書かれた章がある。ポルフィリンは生物になくてはならない分子で、動物ではヘモグロビン,ミオグロビン,シトクロム,カタラーゼ,ベルオキシダーゼといった重要なヘム蛋白の素材であるし、植物でもクロロフィル(葉緑素)として絶対不可欠な素材である。前者群は環状のポルフィリン環の中心に鉄イオンを錯体として持ち機能し、後者の植物ではマグネシウムイオンを錯体として利用して機能する。
ぼくは先に記したとおり、コメの研究で分離される緑の色素クロロフィルの分離をしていたので、この章に興味を持って読んでいくと胆汁色素の生成という項目が最後にでていて、ヘモグロビンが分解代謝されると最終的に糞便に黄色い色素であるstercobilinという色素ができるということを見つけた。そこでステルコビリンを生化学辞典第2版(東京化学同人)で調べたところ、『ステルコビリノーゲンの中央のメチレン基が脱水素により酸化されて生成される。―中略― 橙黄色で、糞便の着色に関与していると考えられている。』と記されていた。これだ!ぼくはこのステルコビリンを調べることに決めた。
試薬メーカーのカタログでステルコビリンを調べても、中々扱っていない。しかし、一つだけ販売しているメーカーを見つけた。なんと5マイクログラムで17,000円との値がついている(汗)この試薬の購入はちょっと勇気が要ったが、浅井研に電話して買ってもよいか聞くと、必要なら構わないとの返事。前駆物質のビリルビンやビリベルジン(これらは安価な試薬が販売されていた)と一緒に注文して、届くのを楽しみに待った。
ぼくが研究において、学生時代も含めて実験を楽しみに待つというのは初めてだった気がする。あれほど勉強することに意味を感じられず、嫌がっていたものが大きな変化だった。要するに、興味を持てる対象に変化したことで勉強が勉強ではなくなったのだ。何が起こっているのか、どうしてこんなことになるのか、知りたい気持ちで溢れているので、どちらかというと勉強というよりは探検の遊びをしているような感覚なのかもしれない。
糞便の抽出色素とともに、標準品であるステルコビリンの色素溶液を薄層クロマトグラフィーにかけ、その糞便色素の中のオレンジ色の成分と同じものであるかどうかを確認するのであるが、色素が薄層プレートの上を移動していくのが目に見えるので、結果は一目瞭然である。通常の検出試薬をかける、検出処理をする、というステップをすっ飛ばして、移動していく色素を見つめながら標的の色素がステルコビリンであることを確認するのには5分とかからず理解できる。実際には完全な分離終了までは40分前後かかる。移動度の違う色素がどんどん別れていく様を観るのも楽しいものだ。
ステルコビリンがターゲットであることが確認できたので、高速液体クロマトグラフィーを使って分離定量することにした。薄層クロマトグラフィーでは定量までは行えず、定性分析といってものが同じである、量が多そう(濃い)・少なそう(薄い)などである程度判断できるというくらいまでできる。数値化して、どのくらい量が変わったのかを観るには定量分析が必要である。しかし、ステルコビリンを定量したという話は聞いたことがない。そこで、カラム(分子を吸着して分離する道具)のメーカーに聞いて、胆汁色素の分離をしたいということで相談しながら、適切な分離カラムを選定していく。
詳細を書いてもつまらないので、結果に飛ぶが(笑)、ぼくの定量データによれば、0.05%のアサイゲルマニウムを餌に混ぜて摂取すると糞便の中のステルコビリンは摂取しない倍位より1.7倍増える!という事が判った。
ところで、この研究はラフィノースとの比較試験である。アサイゲルマニウムがビフィズス菌を増やす力を持つ異性化糖を腸内に増やすかどうか、それを確かめるために入社したのだ。つまり、アサイゲルマニウムを投与したラットの腸内細菌叢がビフィズス菌優勢になり、発がん性を高める悪性菌を駆逐するかどうか。それが重要だった。結論から言うと、アサイゲルマニウムを食べさせたところで、腸内でビフィズス菌を増やす働きは無かった。
ある意味では、浅井ゲルマニウム研究所に入社して数ヶ月・・・浅井ゲルマニウム研究所に通うこともなく、自分の入社目的の研究に否定的なデータを出し、役目を終えたのだ(笑)
さて、しかし探求に目覚めてしまったぼくはお構いなしである。なぜウンコの中にステルコビリンが増えるのか、アサイゲルマニウムは何をしているのか・・・。既に興味はそこに移ってしまっていて、ぼくの研究目的は異性化糖とは無関係になった。
6.アサイゲルマニウムによる赤血球代謝促進仮説
アサイゲルマニウムを摂取すると便の色が黄色くなる。
この事実が何を意味するのか、それがぼくの興味の本体になった。黄色くするのはステルコビリンが増えることによるものだということも判った。それでは何故ステルコビリンが増えるのか。
前項目に、ぼくがステルコビリンを注目した理由を書いたが、生化学ガイドブックには胆汁色素の代謝が記されていてスタートはヘモグロビンになっている。ヘモグロビンは言わずとしれた血液の成分で、生化学を学んでいれば酸素運搬はヘモグロビンに依拠しており、それが赤血球の中に詰まっていて酸素と二酸化炭素を運搬していることも常識範囲である。さすがに勉強嫌いだったぼくも理解していた。生理学の教科書を読んでみると血液の項目に赤血球のことやヘモグロビンとその代謝が記されているし、前述の生化学ガイドブックにも血液の項目に赤血球についてあっさりと記述がある。さらに、『寿命120日。網内系細胞の食作用で破壊される。』とも記されている。それまでに考えたこともなかった細胞寿命や、聞いたこともなかった網内系細胞という言葉(笑)もしかしたら、学生のときに居眠りしている間に先生が講義していたかもしれない(汗)
ぼくは知らない言葉は生化学辞典や生物学辞典などで調べ、この興味深い代謝について学んでいった。
風が吹けば桶屋が儲かる。ゲルマを飲めばウンコが黄色くなる。この両者の間には様々な過程がある。遡っていけば原因に突き当たるだろう。
ウンコが黄色くなる⇐ステルコビリンが増えるから⇐ウロビリノーゲン(ステルコビリノーゲン)が酸化しているから⇐ビリルビンがウロビリノーゲンに還元されているから⇐ビリベルジンがビリルビンに還元されているから⇐ヘムがヘムオキシゲナーゼによりビリベルジンに酸化されているから⇐ヘモグロビンが分解されてグロビン蛋白が切れてヘムになるから⇐赤血球の寿命が尽きて網内系細胞の食作用で破壊されたから・・・⇐アサイゲルマニウムを食べたから
大体は上の流れが矢印で示したように逆向きで進んでいったことが予想される。つまりアサイゲルマニウムを食べると赤血球が網内系細胞の食作用で破壊されるのである。
網内系がキーのようである。網内系を生化学辞典で調べると、『細網内皮系』としるされている。細網内皮系を更に引くと、『血流かリンパ流に直接接するところにあり、古い赤血球、細胞、病原菌などを貪食し、消化する基本的防御組織を構成する細胞系である。』と記されている。また、他の書籍で調べると肝臓のクッパー細胞や肺や脾のマクロファージもこれに当たるようだ。
結論から言えば、アサイゲルマニウムを食べると古い赤血球を壊すマクロファージなどが赤血球を食べて壊すのを促進する。だから糞便のヘモグロビンの代謝最終産物であるステルコビリンがウンチの中に排出促進されるのだ。と考えられる。
しかし、ここで一つの疑問が生じる。赤血球が沢山壊されたら貧血になっちゃうじゃん(汗)
この答えは既に実施した試験の結果として出ていた。つまり採血した血液をみると赤血球量を示すヘマトクリット値は変化していないのだ。ぼくは寿命120日の赤血球について更に調べた。赤血球が壊されているのに量が変わらないのなら、死亡数と出生数の関係で総人口が規定されるのと同じ原理だ。寿命が尽きた老化赤血球と見合って新生した赤血球があればよいのだ。実は色々と赤血球について調べる過程で、鉄イオンというのはヒトが失血しないことを前提に体内で再利用されていることを知った。すなわち老化赤血球が破壊されてヘムオキシゲナーゼによりヘムが分解されて不要になった鉄イオンはヘモジデリンという形で一旦貯蔵され、その後新生赤血球でヘモグロビンの合成に再利用されるというのである。女性の場合は月経によって経血として鉄分が失われるので、その結果鉄不足になりやすい。また、そうでなくても電解質として汗などから一部失われる鉄分も補う必要がある。何らかの理由で出血があった時も鉄分が失われて貧血になる。また、再生不良性貧血という言葉を聞いたことがあるかもしれないが、この鉄イオンのリサイクルによる赤血球産生における再生がうまくいかない病態でも貧血が生じる。
つまり、赤血球の一生は鉄の利用ライフサイクルとして回転していて、その回転をアサイゲルマニウムが促進しているのではないか、という仮説を考えついた。
この仮説を思いついたのが1995年、そして概ね正しかったようだと確認できるのが2019年。実に24年もの期間をかけてしまったのは、ぼくの知識の足りなさ、実験経験の浅さ、そして浅井ゲルマニウム研究所の薬事事件によるところが大きい。このあたりは別の章で改めて詳述したい。ちなみに、ここに記した一連の研究と関係する肝臓の遺伝子発現研究のデータや胆汁中の色素の量と抗酸化能を分析したデータを加え、2010年にぼくのアサイゲルマニウムに関する最初の英文による論文は掲載になっている(JHS, Nakamura et al., 2010; https://www.jstage.jst.go.jp/article/jhs/56/1/56_1_72/_pdf)。全体像として合っていたことが証明できるまでにそこから更に9年かかったことになる。
なんにせよ、アサイゲルマニウムを食べると胆汁色素の排出が促進されているであろう部分、すなわち色変化の糞便色素より上流の変化をまずは調べることが必要だった。そこで、第二師匠岸田さんに胆汁色素について検討したいと相談した。岸田さんは北海道大学農学部の修士課程を出ていて、出身の栄養学の研究室では桐山先生、原先生がおられたことを聞いた。研究室では胆管に管を通し(胆管カニュレーション)、その管を体外にだすことで胆汁液をとりだす技術を駆使して研究が進められていると教えていただいた。岸田さん自身は解剖時の胆汁採取までしかできないといいながら、技術をレクチャーしてくれた。もう一つ岸田さんに教えていただいたのは、浸透圧ポンプなるものがあり、カプセル中に試験液を入れて腹腔内に埋め込んで閉じると、カプセル内の液体が徐々に腹腔の内部に浸出するという手法だった。前者の胆汁の採取技術は学ぶまでで終わったが、後者は実際に中和したアサイゲルマニウム溶液を腹腔の中に本法で設置し、ダイレクトに体内に投与する形にした。
結果、口から食べた場合は糞便が黄色くなるが、体内に直接投与されても糞便の色が変わらないことが示された。つまり、アサイゲルマニウムで老化赤血球が分解促進されるのは口から摂取することが重要だということだ。
この他に、ヒトの摂取試験も実施した。こちらも腸内細菌叢には影響を及ぼしていないということが明らかになり、会社の期待する結果とは全く異なるデータを示すことに終わった。
便の色素については全く知識がなかったが、様々な文献を取り寄せて読むようになり、生化学辞典や教科書の領域から少しずつ研究に進んだ。
面白いのは赤血球の寿命についての研究で、既に戦前には論文が出されていた。窒素安定同位体の含まれるグリシン(人間の体内でも作ることのできる非必須アミノ酸)を食べて、便の色素に排出してくるこの同位元素を観るという研究で、食べたグリシンが5-アミノレブリン酸(5-ALA:広く自然界に分布する天然のアミノ酸)合成に使われ、5-アミノレブリン酸がプロトポルフィリンという前駆体を経由してヘムとなり、ヘモグロビンが合成される。このヘモグロビンが赤血球で酸素運搬に使われることはよく知られていることだが、やがて赤血球が酸素により膜を酸化され、老化すると壊されるのである。壊された赤血球からヘムが出てきて代謝されることで胆汁色素になり、そして胆汁色素は消化液である胆汁の成分として腸内に排出された後に糞便色素になるということらしい。
この糞便色素は元のグリシン由来の安定同位体窒素を含んでおり、これを分析することで赤血球の平均的な寿命が分かるというものだ。これは、一研究者が自分で同位体元素のグリシンを経口摂取し、人体実験したもので、その後の研究では放射性同位元素を用いた動物実験がメインになっていったことが文献から伺い知れる。
ここで学んだのは、自分が検体になって自分でサンプリングすることだ。アサイゲルマニウムを飲む前と飲んだ翌日の糞便を採取し、色を見る。たしかに黄色く明るい色に変化している。6カプセルを飲んだ翌日のウンコと、その飲む前のウンコをサンプルとし、色素を抽出する。ネズミで行ったのと同様にオレンジ色の色素が有機溶媒抽出される。あとはヒトであろうとネズミであろうと一緒である。薄層クロマトグラフィーにて色素分離する。結果は一目瞭然で、摂取翌日はいくつかの色素の割合が増えていることが確認できた。
ここからは興味から行ったことだが、名倉師匠は新婚であり、翌年ぼくが色素研究にのめり込みだした頃に初めての子が生まれた。彼の生後間もない頃のウンチを分けてもらうことができた。「名倉さん、ぼくにお子さんのウンチをください!」「おぉ、まかせとけ」まったく馬鹿な会話だ。実は、新生児の腸内細菌は大人のそれとは全く異なる。このことは腸内細菌学の書籍に記されている。胆汁色素ビリルビンが糞便色素ステルコビリンになるには腸内細菌の作る酵素で代謝されなければならないと書いてあった。
要するに、生まれたばかりの子は母乳あるいは粉ミルクで育っており、乳とオリゴ糖の支配によってビフィズス菌が圧倒的に優勢である。これが離乳食などで変わってくると、乳酸菌以外の菌株が激増し、胆汁色素ビリルビンが代謝される。
だから、赤ちゃんのウンチにはビリルビン以降が無いのではないかという興味で師匠に掛け合ったのだ。奥様がOKしていたのかは知らないが、手に入れたウンチを自分のウンチのときと同じように処理して色素抽出する。見事に抽出液の色が異なり、真っ黄色の抽出液が得られた。また色素分離してもビリルビンしか検出されず、想像通りの結果に満足したのを覚えている。あの貴重な実験結果は写真でも撮っておけばよかった。
腸内細菌叢というのは我々人間にとって非常に重要である。たとえばラフィノース等の難消化性オリゴ糖は他の細菌たちの餌となる前にビフィズス菌等の乳酸菌に栄養として利用され、乳酸菌は発酵により乳酸と酢酸を主に作り出し、乳酸菌優勢な菌叢を築き上げる。この菌叢は若干ではあるが赤ちゃんのそれに近づく。腸内細菌叢には非常に多種多様な細菌が潜んでいて、中には腐敗物質を作り出すものもあるし、発がん促進するものもいる。細菌叢のバランスをこれらの細菌が増えすぎないように調整することは健康上とても大事だと思った。
もう一つ、ニッテンにいた頃に知った重大な事実がある。アサイゲルマニウムは火傷に対して驚くような働きをするということだ。ぼくの当時の仕事は腸内細菌の研究、最初のサンプルはウンチであり、様々な菌の塊である。しかし、分析が進んでいくと菌株が作る培地上のコロニー(集落)の純粋な単一種の細菌株になる。このあたりは、周囲の環境中の浮遊菌、落下菌等が入り込むと結果に影響を与えるため、糞便サンプルを希釈した後は無菌的処理によって多くの作業はクリーンベンチ(菌を除菌ヘパフィルターを通した空気を送り込んで一定の箱(ベンチ)を無菌環境にする作業空間)の中で行う。ある時、クリーンベンチが故障したことを名倉師匠が告げた。「中村くん、クリーンベンチが壊れてるから、アルコール消毒をしっかりして、ガスバーナーの近くで上昇気流下で落下菌無いように注意しながら処理して」「わかりました」ところが、不慣れなぼくはアルコールを手に多量に噴霧して乾く前に作業を始めてしまい。結果バーナーから手に残る大量のアルコールに引火した。
簡単には消化されず、とにかく近くの流しに行き、流水をかけて火を消し、大量の水を出して引火した手を冷やした。周りにいた師匠やパート社員の山崎さんも大慌てだった。
冷やしている水をかけている間にも手の甲や掌が“ジンジン”と痛みだした。
そんな時、不意に秋葉部長から聞いた「ゲルマは火傷にはスゲェいいんだよ。東薬(大)にいた頃は学生がガラス細工で火傷すると、ゲルマニウム塗って直ぐ痛みが引くから助かってたんだよ」との言葉を思い出した。
火傷薬(といってもオロナインとか?)も無いし、物は試しに高濃度の実験用のアサイゲルマニウム溶液をかけてみよう…。そうしたところ、液をかけて数分としないうちにジンジンが取れてきた。またぶり返す痛みに再度溶液を振りかけると痛みは止まる。結局、あの痛みはどこに行ったのか。痛まずに終わってしまった。翌日、手を細かに見ると、アサイゲルマニウム溶液を手の甲から振りかけたので、液がかからなかった指の間にだけ小さな水ぶくれが出来ていたが、他の部分は火傷痕もなければ痛みもなく、水ぶくれにさえならなかった。これにはとにかく驚いた。火傷はめちゃくちゃ痛い、それなのに痛むこともなく終わってしまったのだ。これは驚異的な効果だ。
思い起こせば、一年半のニッテンでの研究生活は公私共に充実して楽しかった。また、自身の研究への興味の扉を開いてくれた場所でもあり、懐かしく、また感謝が絶えない。
1996年秋、会社からの連絡で函館に赴任するよう知らせが来た。いよいよ本格的にアサイゲルマニウムとの関わりが始まる・・・。
2023年4月7日 第一章 5および6話追加
(第一章完結 ~ 第二章につづく)