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エッセイ|私が世界を映すとき
「朝露」というものを初めて目に留めた。きっと過去にもわたしの瞳に映ったことはあるはずなのに、別段気にしたことがなかった。
小さな小さな緑の上にこれまた小さくまあるい水の粒がキラキラと朝の光を抱いて世界を映している。とても純粋に、綺麗だ。
でもそう感じた自分の純粋さがどうにも恥ずかしかった。「はいはい、小さなことに感謝するみたいなやつね」とのっぺらぼうの声が聞こえる気がしたからだ。
本当は些細なことを大げさに掬い上げてこれでもかと愛したいのに、いつしか顔も見えない化け物に怯え、自分の感性が信じられなくなっていた。
のっぺらぼうが付きまとい始めたのはSNSのコメント欄を見るようになってからだ。それまでは「かわいいな」「綺麗だな」「おもしろいな」「これは好きじゃないや」と感じたままを自分の心に留めておけた。
ところがコメント欄を開くと、私は答え合わせをするような感覚に襲われた。他人と意見が違うと焦燥感や疎外感を覚え、私と同じような感想を見つけるとなんだかホッとするのだ。いい意味ではない。授業中に先生に当てられて一か八か答えてみたら合っていた、みたいな緊張と緩和だ。
自分の感性は世間とずれていないか、道徳的に正しく不適切ではないだろうかとコンプライアンスの意識が個人のプライベートな感情にまで干渉してきている。
他人を否定せず多様性を認めましょうという型をガッチリ用意され、そこに適応できなければ排除される個性や感性をいくつも見てきた。わたしの中にも、あなたの中にも。
結局は認められる多様性とそうでないものがあることを悟ると、それがとんでもなく恐ろしく感じられるのです。
しかしそもそも感じたことに正しいも間違いもなく、あるのはただ「私はこう感じた」という事実のみのはずで、そこに正誤や善悪といった意味を結びつける必要などないし他者と同じであることも違うことも何の意味も持たない。ただ同じであり、ただ違う。
“私は私であなたはあなた”
こんな当たり前が今やぐちゃぐちゃにこんがらがっている。それを私は少しずつ解いているところだ。私は私の個性を他人のために捨てることはしたくない。
満員電車で一歩奥へ詰めてくれない人を糾弾するのではなく、詰めてくれた人の優しさを抱きしめて感謝を伝えたいし、15分で作ったご飯を3分で掻き込む味気なさを感じるくらいなら、お湯を入れて3分待つ間に踊り、変わらぬ味にほっと一息付きたいのだ。
不満だって素直に言おう。雨の日は低気圧でしんどいから笑顔じゃなくても許されたいし、野菜嫌いを咎められても私は生野菜は食べない。ちなみに唯一好きな野菜はじゃがいもだ。炭水化物で何が悪い。
間違っても雨の日も笑顔を絶やさないあなたや野菜好きのあなたを蔑ろにしているんじゃない。あんなに美味しいじゃがいもが好きじゃないあなたのことも私は好きだ。
これから私は私の純粋さをじわじわと取り返していく。もっと自由に、もっと気ままに「私はこう感じた」を私の世界で好きなだけ走り回らせてやりたい。そして私が世界を映すとき、その世界があの朝露のように美しくあってほしい。
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