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パンジャサーヒフ(パキスタン 2010)とグルナーナク


パンジャサーヒフ Panja Sahib

 世界遺産で有名なタキシラ、その少し北西にシク教の聖地の一つが忘れ去られたようにひっそりと佇んでいる。ナンカナサーヒフに比べさらに知名度の低いこの聖地はインド人に教えてもらいそしてわざわざやってきたのだ。入口に警備員がいて、確か持ち物検査を受けてから中に入ったように思う。入口をくぐると他の聖地とされるグルドワラに比べかなり小さく、大勢が礼拝するには無理そうだ。ここは他のグルドワラと違ってシク教徒の住む街に建てられたわけではない。元々はムスリムの敷地だったためか地元民に遠慮しているかのようにこじんまりとしている。ここにはこんこんと湧き出る聖なる泉があって、その上にグルドワラ(シク寺院)が建てられているのだ。この泉はなぜ神聖視されているかというとグルナーナクが座っていたところから湧いてきたからだという。そしてさらに見どころは泉のところにある石に刻まれた手形、これがなんとグルナーナクの手形といわれているのだ。ここには次のような伝説が残されている。

 初代グルのナーナクは弟子や支持者たちとこの地元のイスラム聖者のところにお邪魔していた。喉が渇いたのでイスラム聖者に水を求めたところ、拒否された。するとグルナーナクの座っていたところから水が湧き出し、イスラム聖者のところの泉の水がなくなってしまった。それに怒ったイスラム聖者は山の上から岩をナーナクめがけて投げつけたが、ナーナクは片手でその岩を受け止めたという。パンジャサーヒフのこの手形はその時にできたナーナクの手形なのだという。

 実に都市伝説さながらのような気がしなくもないが、この伝承を信じるかどうかは別にして、少なくともナーナクは実際にここに滞在したのは事実のようなので滞在中はこの泉から水を飲んだのだろう。インドパキスタンが分離独立をする前は多くのシク教徒がこの水を聖水として持ち帰っていたのではないかと思う。

 ここで泉を見学した後にグルドワラを一周してみた。この時参拝者は他にだれもいなかった。会ったのはグルドワラ関係者のみ。他の聖地と比べシクのコミュニティーと離れているためか、巡礼者のいない聖地は敷地の狭さがより狭く、そしてグルドワラも少し寂しそうに感じられた。


 
 

グルナーナクの生涯

 グルナーナクはパキスタンのラホール郊外のタールワンディー村(現 Nankana Sahib ナンカナサーヒフ)で生まれた。ヒンドゥーの家庭で父親は徴税官又は会計官とされている(*2)。つまり税の徴収又はそれの計算の役人だったらしい。そして当時の村では強い権力を持っていたという。したがってナーナクは裕福な家の出身ということになる。しかし11歳の時に上位カーストで行われる聖紐の儀を拒否したという話(*1)が残されており、子供ながらカーストによる不平等を疑問に感じていたらしい。ヒンドゥーの教義を学ぶだけでなく、地元のモスクに通ってアラビア語、ペルシャ語を学んだとされる(*2)。当時は中東からインド方面の政府はペルシャ語を公用語としているので彼の階級では別に普通のことだったらしい。しばらくすると姉夫婦の住むスルタンプル(パキスタン)へ移り商人経営者として働いていた(*1)という。結婚もして二人の息子がいた。ここまでは上流階級としてはごく普通の家庭のように思われる。特に宗教活動的なことはあまりなかったようだ。しかしこのスルタンプルは当時、イスラム学門の一つの中心地であっただけでなく、ヒンドゥー聖地の巡礼の通過点でもあったため、そういった宗教関係の旅人や学者に恵まれていたことが思想形成に役立った(*2)といわれている。

 

 

ナーナクの遊学

 何不自由のない平穏な日常を送っていたはずのナーナクだったが、ある日沐浴にでかけてから彼の生活は変わってしまった。

 沐浴で神の声を聴いたのである。三日間の間、ナーナクは神と交感していた。聖なる声を聴き、目の前に甘露で満たされた器が現れナーナクはそれを飲み干し、そして彼の人生は一気に変わることになるのである(*1)。

 彼は“絶対真理”なるものを体験し、そして宗教的真理を教えるのが天職であると神からの啓示を受けたのである。そのためいきなり商人経営を辞め、なんと妻子を両親の元に送り返して諸国というか世界に遊学の旅に出かけることにしたのである。このときナーナクは28歳。イスラム教徒の音楽家であるマルダーナーと二人でインド国内はおろかイラクやサウジのメッカにも足を延ばしヒンドゥー、イスラムだけでなく仏教の聖者の元へ訪れ学んでいった。しかし例外的にジャイナ教は無神論なので受け入れがたかったらしい。この旅は25年にも及んだという。したがって戻ってきたときには53歳になっていたことになる。

 遊学後ナーナクは晩年になって、ラヴィ川沿いの土地を手に入れ自分の理想とする共同体を建てた。カタルプル(神の街)と呼ばれ、宗教の隔てなく皆が一緒に調理し食事をとるランガルを中心に運営された。ランガルによって人類は大家族であることを共有しようとしたわけである。

 

 

ナーナクとカビール

 ナーナク(1469-1538)が影響を受けた人物としてカビール(1440-1518)がいる。誕生年を調べると年齢的には29歳、つまり一世代ほどカビールが年上になる。長い歴史という尺度でみれば二人はほぼ同時代に生きていた。思想的に大きく影響は受けてはいるが実際に二人は会ったのかどうかはいまだに不明らしい。

 カビールは不可触民の出身でヒンドゥーのカーストを否定し、宗教を超えた神が存在するとした。そして形式的な儀式を否定した。これらの思想はシク教にも共通するのでナーナクのオリジナルではなくカビールの影響を受けていたとされる。カビールは思想家として当時の王にも厚遇されたが残念なことに文盲だったために残されているのは弟子が彼の話を書き記したものだけになってしまい、不明な点が多いとされている。現在でもカビールパントと呼ばれる彼の思想による教団が細々と残っているらしい。カビールとナーナクは思想の柱となる部分ではナーナク側がタントラ(密教)の影響もある以外は共通するところが結構多いとされる。しかし思想が似ているにもかかわらずどうしてここまでシク教は大きな教団として発達する一方カビールの教団はほとんど知られない程の小さなレベルなのか、この大きな差は一体何かというと、あくまでも個人的な考えではあるがやはり出身カーストの違いがあると思う。ナーナクの父は会計官で地元の有力者だった。おそらく財産も一族でそれなりにあったと思われカタルプルの土地を手に入れられたのではないか。そして上位カーストのため高等教育も受けられ数か国語に堪能で様々な経典や聖典を読むことができ、そして弟子に口述させるだけでなく自らも文章を書き残すことが可能だった。さらに自らキルタンという宗教歌を多く作ったことで一般人にも理解しやすく広めやすくしていった。さらにカビールは不可触民の家庭に対してナーナクは上位カースト出身というのも民衆から信頼される点では大きいと思う。上位カーストという生まれながらの絶対的有利を手放してまでの人類平等という主張には説得力がある。やはりシステムを批判するのは上位にいるものが行った方が信頼されやすいし、下位にいるものが批判しても負け犬の遠吠え的な現状の不満に文句を言っているだけと揶揄されかねない。そしてナーナクは何よりもランガルの資金も捻出できて大勢の人に無料で食事を提供できたことが信者獲得の最大の差となっていたのではないだろうか。このランガルという無料食堂は貧富に関係なく老若男女問わず誰でも一緒に食事をするという人類の平等性を説くナーナクの思想の中で重要な柱の一つなのである。当時の食に困る貧しい人はこぞってカタルプルに押し掛けたとしても不思議ではない。そして食べ物をいただけるのであれば、農業や街建設などの労働にも喜んで力を貸したのではないだろうか。つまり貧しくて寄付ができなくても労働力として街に貢献していったのではないだろうか。そしてパンジャブという土地がインドの穀倉地帯といわれるほど肥沃だったことも有利なのではないかと思う。これも個人の推測なのだが、ランガルを行う上で最初は当然ナーナク一族の資金の持ち出しであったが、信者が増え信頼され共同体への寄付が増え、ランガル用に多くの食料が寄付されるようになって運営上は後からすぐに黒字になっていたのではないのか。よくシク教では10分の1税のことが出てくるけど、それは第5代グルのアルジュンの時代で制定され最初は寄付で賄われた。一応調べた限りにおいてカビールにはランガルを行ったという記述はない。ランガルはカビールの全てを超えた人類の平等性の思想をナーナクが実践として形で具現化したともとれる。そう考えるとカビールはあくまでも理想論的な思想家、哲学家に過ぎないのに対し、ナーナクはそういった理想を語るだけでなくカタルプルという理想の町まで自ら作り上げて実現までしてしまったというとんでもないパワフルな実行論者だと思う。高名な聖職者が自分の寺院や教会を建てた、もしくは朝廷や藩主の後押しで建てたというのは歴史上よくあると思うけど、街そのものまでを建設してしまったというレベルになるとなかなかできることではない。資金だけでなく膨大な数の信者を一気に集めて何もなかった土地を新たに開墾し家を造らせ定住させる,これには相当の理由がないかぎり誰も付いていかない。つまり今までの住んでいた町や家を自ら捨ててまでナーナクに従って移住するには余程の絶大な信頼をあってこそ可能になる。当時のナーナクにはそこまで村人を惹きつけさせるほどのカリスマ的な宗教的信頼があったわけである。

 

 

宗教改革者として

 グルグラントサーヒフなどの聖典では様々な宗教の影響が見て取れるという。今までにあった、キリスト、イスラム、仏教がそれぞれ、イエス、マホメット、ゴータマ・シッダールタというたった一人の偉人から始まったというのを考えると、私見だがシク教はナーナク一人の考えではなく真理追求のため他の宗教からいわば集合知のごとく知識をまとめ上げたともいえる。つまり古典的宗教の絶対者一人の主観の元で成立したのとはかなり異なり現代的な考えで既存の宗教を客観的に見た上で作り上げられたという印象だ。今風に考えると真理や人生、神などをウェッブで検索するのと発想そのものはほとんど変わらない。ただ手段としてネットの代わりに自らの足で学者や聖者の元へ訪ね歩いたということになるのではないかと思う。それを考えるとナーナクは宗教家としてはかなり現代的な発想の人物だと思う。そして何よりも25年というとてつもない長期の旅をして知識を集約し、理想の町まで作り上げていったというのは神の啓示が例えあったとしても体力的にそこまでやり遂げるのは並大抵ではない。彼の場合はただの思想家というにはとどまらずそれを形にしてしまうというパワフルな信念と実行力が際立つような気がする。ナーナクは宗教改革を行った偉人であったのは事実だが、本やらwikiの情報でも宗教家と書いてあるだけでは彼を表現するに全く足りないように感じるのは私だけだろうか。思想だけにとどまらず超人的なエネルギーの塊のような人であってそれを実現する知力、体力、財力もそれなりに持ち合わせていた。ただの理想論的な思想家を仮に有言実行の有言とだけで考えるとナーナクの方は有言実行というより有言実現といった方がどことなくしっくりする。実行してもそれが結果的に自分の理想とする世界まで実現するとは限らないからだ。それだけ彼の作り上げたものは大きいような気がする。

 ナーナクはカビールの思想を骨格に様々な宗教哲学で肉付けをしていった。思想的にはナーナクがカビールの後継者的な意味合いに近いと言われる。ナーナクが幼い時から感じていた不平等などの疑問をカビールの思想が解き明かし、それによって覚醒したナーナクはそれをさらに開花していったのではないだろうか。インド哲学史の中でヒンドゥー思想全盛の中いきなり現れたカビールという新星は直後に現れたナーナクという巨大な星の前で影となってしまい存在が忘れ去られそうになった後にナーナク星に吸い込まれていった。しかしカビール星は存在そのものが消えたわけではなくナーナクという超巨大な星の中で大きなコアとなり一緒になってさらに太陽のように光を放ち始めたのである。その光には絶対神や平等という色をもちナーナクの巨星のエネルギーで大勢に照らすことが可能だったわけである。それを考えるとナーナクという巨星が誕生し、さらに吸い込まれなければカビール星は忘れられた可能性があるのだ。しかし逆にナーナクという太陽に必要なコアがカビール星だったわけでもある。そう考えると両星は結果論ではあるけど不可分でお互いに存在が必要であった。インド哲学という広大な星空の中で、シクの偉大なる星は二つの星の下に誕生したといってもいいのかもしれない。

*PS 自分はシク教の研究者でもなく、現地での話や数冊の本を元に自分なりに理解した部分で書いていますので多少間違いがあるかもしれません。もし間違いがあれば指摘していただければ思います。

 

*1 青土社 N.G.コウル.シング著 高橋尭英 訳「シク教」
*2 春秋社 G.シン.マン著 保坂俊司 訳「シク教」




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