【エッセイ】チェリーパイ
タカアンドトシが目の前に現れたら、絶対に言いたい言葉があった。
彼らは北海道をうろちょろしている。ほかの芸能人よりは、会える確率が高いはずだ。
そんな機会がくることはないと思いつつ、幾度となくシュミレーションをした。
それから1年後。
地元の温泉にて職場の宴会をしていたら、にわかに辺りがざわつき始めた。支配人が会場に顔を出して「タカアンドトシさんがロケで来てるんですよ」と教えてくれた。
同僚たちが宴会場の入り口からちょっとロビーをのぞく間、私は突然の出来事に混乱する思考を整理し、興奮と緊張で縮こまる体と心を奮い立たせた。
時は来たり。
同僚の脇をすり抜けてロビーに出てみたが、それらしい人はいない。支配人によると、タカさんは風呂に入っていてトシさんは今出ていったとのこと。
ああ、遅かった…。
「まだ間に合うかもしれないよ」
私の落胆ぶりを見て、支配人が言ってくれた。私はその言葉に背中を押されて、玄関のサンダルを足に引っかけ、駆け出した。
暗がりの中、ひとりの男性の背中がぼんやりと見えた。スタスタと歩いていく。
「トシさん」
男性は応えない。聞こえないのか、無視されているのか。さらに近くまで走りよる。もう、答えてくれなくてもかまわない。
「トシさん、ハロー!」
男性はピタリと立ち止まり、上体を少しこちらに向けて
「欧米か!」
と言った。確かに、テレビで聞くそのもののトシさんの声だった。顔はやっぱり暗くて良く見えなかった。トシさんはまたすぐに歩き出す。
「ありがとうございました!」
背中に言って駆け戻った宴会場で、私は最後までぼんやりと時を過ごした。
その後のオンエアでは当然ながらカットされていたが、何度思い出してもうっとりとしてしまう。
人生史に残るとてもとても大切な思い出だ。
あれから5年くらい経ったのだろうか。
停滞する日々の中で、私をつかの間幸せな気持ちにしてくれる数少ない出来事だった。
願えば叶うこともある。そんな当たり前のことを私に知らしめてくれたのだ。
もうお会いできることはないだろうが、もし機会があれば今度は明るいところで、しっかり顔を見て言ってみたい。
「ハロー!」
そのあと万が一にも好きなものを問われたら、答えはもう決まっている。
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