共感必須!松井玲奈さんが好きなことも苦手なこともすべて詰め込んだエッセイ集『私だけの水槽』の一編を特別公開
クリストファー・ロビンに従って
地方での撮影を終えてようやく自宅に戻ってきた。猫たちは飼い主が帰ってきてもまったりくつろいで我関せずで、荷物を下ろすと緊張の糸が切れ詰め込んでいたセリフたちが頭から耳へと流れ、外にドロドロと溶け出していった。数日間の撮影の中、朝から晩までみっちり毎日十何ページも撮影しセリフを喋り、もうしばらくセリフなんて覚えたくない! 台本なんて開いてたまるか! 頭を休めさせてくれ!と荒んだ気持ちだった。初めてのチームの中に飛び込んでいった緊張感もあり、疲労感はいつもの倍以上。移動の車の中で泥のように寝ていたせいで目はしょぼしょぼ、他人が見たら糸ほどの薄さでしか開いていなかっただろう。体の力が抜けヘナヘナと床に倒れ込んだ。床にべたりと頬をつけながら、「ああ、またセリフを入れないと。確認することもあるし、原稿だって書かないと。……ダメだ。明日やろう、そうしよう」と力を振り絞って、溶け始めた体を引きずり顔にのっかったままの化粧を拭い去ってベッドへ飛び込んだ。猫たちはノロノロやってきてペトリと私の足元にくっついて毛繕いを始めたが、二匹の寝息を聞く前に私の意識はぷつりと途切れた。
酷く疲れた日の眠りとは不思議なもので、さっき目を閉じたばかりのはずなのにあっという間に朝になっている。深い眠りとも違う、「寝たはずなのにまるで寝てないみたいだ!」といった感じで理不尽な気持ちになる。そんな時は二度寝をすればいいが、二度寝が苦手な私は不貞腐れながら猫に引き連れられて起きるしかない。
帰宅した時は無関心なのに、ご飯の時は甘えた細い声で「ごはんくれーごはんくれー」と私の足の間を器用にぬいながら歩く猫たち。こちらもまた器用に避けながらご飯の用意をし、体を起こしていく。
頭の中にぼんやりあるのは「なんにもしたくない」ということだ。『くまのプーさん』に出てくるクリストファー・ロビンが「世界で一番好きなことはなあに」とプーに問いかける場面がある。プーは「君がはちみつはどうだいって言うことさ」と言うけれど、クリストファー・ロビンは「なんにもしないことだよ」と答える。私はこのセリフが子供の頃からずっと気に入っている。なんにもせず自由気ままにしていられることがどれだけ幸せか。
小学生の頃はいかにして学校に行かずに済むかを考えていた。ずる休みした日の音のない家の中で、罪悪感を抱えながらもリビングでだらだら寝転がる。毎日寝起きをし、生活をしている家なのに不思議と私だけの秘密の空間に感じられた。同級生が勉強をしている時間に私だけは家にいて、大声で下手くそな宇多田ヒカルの曲を歌おうが、兄のゲームや漫画を勝手に借りようが誰にも怒られない。家にいない母には何も言えまいと、王様気分で食パンにたっぷりのいちごジャムとマーガリンをのせ『笑っていいとも!』を見た。月曜から金曜まで同じ時間に同じ場所で生放送をしてタモリさんは飽きないのだろうか、私なら飽きちゃいそうだなあと、しょうもないことを考えていた。
同じ頃、私は団体行動が何よりも苦手な子供だった。学校に行きたくない気持ちの大半はみんなと一緒に何かをしなければいけないことが窮屈だったからで、移動教室やトイレに行くのまで友達同士で目くばせをし合って連れ立って歩く様子に辟易していた。自分ひとりで教室は移動できるし、トイレだってなんで友達と一緒に行かないといけないのか不思議でしょうがなかった。
その中で特に嫌だったのは夏にやってくる水泳の時間だ。私は水の中に浮かんでいるのが好きだった。小さい頃にスイミングスクールに通っていた私は、上手くはないけれど、クロールも平泳ぎもわざわざ学校で教えてもらわなくても泳ぐことができた。だから水泳の授業では準備運動が終われば泳げる子はお好きにどうぞといった感じで、自由に泳がせて欲しかったのだがそうはいかない。全員できっちり準備体操をし、ばた足の練習、ビート板を使って25メートル泳ぎ、それからビート板なしで泳げる人は列を成して決められた距離を往復して泳ぎ切らなければいけなかった。私にとっては開放的な水の中なのに、前を泳ぐ人の足からふわふわと押し寄せる水圧を煩わしく感じ、後ろを泳ぐ人の水をかいた手が時々自分の足に当たると気持ちが急かされた。誰かに挟まれながら泳ぐのはとても窮屈で居心地が悪い。自由にさせてくれと叫び出したかった。
息継ぎをする度に先生がメガホンで「列を乱すな。みんな同じスピードで」と言っているのが聞こえ、水の中で誰にも見えないようにしかめっ面をする。先生の気分が変わって、ただ浮かんでいたい人のレーンを作ってはくれないだろうかとずっと考えていた。
中学になると、泳ぎの速い人のレーンと遅い人のレーンに分かれるようになった。泳ぐのが遅い私はゆったり自分のペースで泳げることに最初は喜びを感じていたけれど、次第に与えられたノルマの距離を泳ぎ切るのに必死になり、水泳の授業の後は疲れ果て、濡れてぐしゃぐしゃの髪のまま人の目も気にせずに机に突っ伏して眠るようになった。この頃、体力もなく体調を崩しがちだった私は次第に水泳に参加することがなくなり、中学三年生の頃には水泳の授業はずっと見学をし、代わりにレポートを提出していた。四十五分の授業の間、同級生のクロールの腕が上がる度に飛んでくる水しぶきが足にかかって濡れることが煩わしかった。それでもなんにもしないで雲がただ流れていくのを見て楽しんだり、プールサイドのタイルが何か意味のある模様に見えないかと考えを巡らすことに心躍らせていたし、タイルの間から生えた雑草を抜いて自分の周りを綺麗にすることに達成感を覚えていた。
大人になるほどなんにもしないことはできなくて、ぼーっと雲を眺めたり、意味もなく雑草を抜くことなんてなくなった。今となってはせかせかと詰め込んだ予定に追い抜かれないように必死になって走る毎日だ。
もやがかかったままの頭の中で「うわー、なにもしたくない」と小さな私がずっと駄々をこねている。大人として、“やらねばならぬこと軍”に白旗をあげ屈することにするかと、渋々仕事部屋に入ったがどうにも落ち着かない。ああ、そうだ。前々からこの部屋の家具の位置が気に入らなかったのだ。扉に向かって置かれた作業机はリビングの様子が見えて気が散ったし、本棚の位置もどうにもイマイチで圧迫感があった。せっかく置いたドレッサーも、部屋の奥まった位置にあるせいで鏡に映る自分の顔が暗くどうにも化粧がしにくい。考えれば考えるほど家具の配置に対する不満が溢れ出してくる。こんな部屋で今からやろうとしている仕事が捗るわけがない。そうこうしているうちに、「えいやー」という掛け声と共に大掛かりな模様替えに取り掛かったのである。人はどうして現実逃避に走るとき掃除を始めるのだろうか。
中学の時も高校の時も定期試験の度に部屋の掃除を始めてしまい、本棚に並ぶ漫画を片づけるつもりが漫画に夢中になったことが何度あっただろう。棚から全てのものを引き出し、「いるもの」「いらないもの」を分けるつもりが収拾がつかなくなり、散らかった部屋の中心で何度も途方にくれた。結果のよくなかった答案用紙を見つめながら、次はちゃんとやろうと心に決めたにもかかわらず、数ヶ月後にまた同じことを愚かにも繰り返す。
本棚を一人で動かしながら、私はいくつになっても現実逃避の口実に片づけを始めるのだなと恥ずかしくなった。
しかし、今回の片づけ掃除という名の模様替えは絶対に成功させなければならない。なぜなら私には今日中にやらなければならないことが山ほどあるからだ。部屋の雰囲気が変われば気分も変わりやる気が起きるさ!と自分に言い聞かせ、本棚に体重をかけ押し動かした。重たい本棚はゆっくりと動き始める。
今でこそ部屋をそれなりに綺麗に保つことができるようになったが、東京に出てきたばかりの頃は全く片づけができなかった。仕事の合間にネットショッピングしたものが家にどんどん届き、部屋がもので溢れていく。収納の仕方もわからない私はただ山積みにすることしかできず、時々母が東京に来ては私の荷物を実家へ持って帰ったり、処分してくれていた。これではダメだ!と収納の仕方を勉強するために買った本や仕分けボックスが次々と部屋の肥やしになっていくのだ。
部屋を綺麗に保てるようになったのは猫と生活をするようになったことが大きなきっかけだと思う。一緒に暮らすぞと決めてから、床にものは置かない、しまう、ものを減らすという三つを心がけるようになると劇的に生活がしやすくなった。以前は買ってきた本やもらったものを大きな紙袋に入れて床に置いていた。全て撤去した床に寝そべりゴロゴロと転がると、私の部屋はこんなに広かったのかと驚いた。広々とした床をダーッと水拭きすると窓から差し込む光をいっぱいに受け止め、床が嬉しそうにキラキラと輝き、部屋全体がパッと明るくなった。
次はものを減らすために使わないものは容赦なく処分した。いつか使うは使わない、必要なときにもう一度買いなさいと自分に言い聞かせ、今本当に必要なものだけを残すことにした。洋服も、本も、雑貨も、食器も、部屋にある収納部分に入るだけにすれば自然とものが溢れ出ることはない。それを実践し始めてから、無駄な買い物がグッと減った。買う前に一度自分と入念に会議をする。本当にこれが必要かを考え、どうやって使うかシミュレーションする。そこから更にしまう場所はあるかを考え、一晩か二晩「欲しい」と思った感情を寝かせることにする。改めて考えてみて、欲しい、必要だ、と思えればそこでやっと購入することを決める。
しかしこの方法にはかなり大きなウィークポイントがある。欲しい気持ちを寝かせるうちに売り切れてしまうことだ。そうして「ああ買っておけばよかった!」と悔し涙を流すことが何度もあった。その度にこれは人生の大切な勉強だと学びにし、今は、絶対に欲しいから買うものと、吟味して買うべきものを分けるようになった。
模様替えのついでにと、今度は本棚の整理まで始めてしまった。他にやるべきことがある時に絶対にしてはいけないのが本棚の整理である。途中で本を開いてしまい、作者順に並べ替えようとか、好きな作品はこの棚に並べようなどと始まってしまう。本棚を動かすだけでは飽き足らず最大の禁忌に手を出した私は、この並びは今の気分と違うではないかと、せっせと本を引き出し、本の高さを揃えながら見た目が美しくなるように並べ替える。
ピチッと並んだ本棚はタキシードを着てばっちり決めた紳士のようで惚れ惚れする出来だった。背表紙の高さがきっちりと揃った本たちのてっぺんに手を滑らせていくと、大切な本たちが更に魅力的に感じられた。
そうこうしているうちにあっという間に午前中が終わってしまい、「流石に仕事と向き合わねばなるまい」と思うのだが、やはりなにもしたくないのだ。仕事部屋の模様替えと掃除はまだ終わっていない。床の上にものを置かないと決めているのに、ものを動かすためにどかしたり棚から出したものが床に散らばっている。こんな状況で仕事をしようにも集中できるわけがない。やはりまだ片づけを続けるべきではないだろうか。
今度はとりあえずの荷物が積み上げられたドレッサーに取り掛かる。部屋の奥にひっそりとあったものを窓際に移動すると、自然光で以前より顔がはっきり見えるようになり、顔色も心なしかよく感じる。これでチークを塗りすぎたなんて失敗が減ることだろう。暗い場所でメイクをすると全てがくすんで見えるせいか、いざ明るいところに行ったときにアイシャドウもチークも濃すぎてリップの色は全く合っていなかった。「なんか今日メイク変じゃない?」と友人にも指摘され、恥ずかしくて逃げたくなったことがあった。それ以来ライトのつく洗面台で完成したメイクを確認するようになったのだが、明るい窓際にドレッサーが来たことにより、その手間もなくなりそうだ。何より窓を開け放ち気持ちの良い風が入り込んでくる中でメイクできるのがいい。
ドレッサーの上にはまだ開けていない基礎化粧品の箱たちや、棚の中に入っていた雑貨が乱雑に積み上げられていた。そのひとつひとつを元あった場所に戻すとあっという間にスッキリと片づいた。どうせならメイク用品も整理しようじゃないかとドレッサーについている引き出しを開けると、数ヶ月前に減らしたばかりなのに化粧品がパンパンに入っている。特にリップは、ここに入るだけと決めているケースから溢れ出し、リップの上にまたリップを重ね小さなジェンガのように積み上げられている。
リップを塗るためのくちびるはひとつしかないのにどうして次から次へと買ってしまうのか。一晩置いて冷静になって考えているにもかかわらず、不思議と増えていく。更に不思議なのは似たような色ばかりあることだ。自分に似合う色、自分の好きな色を選んでいるのでそうなるのも当然だが、サーモンピンク、サーモンピンク、モーブピンク、サーモンピンク。サーモンピンクのリップに取り憑かれているのではないかと疑うくらい、どれを塗っても似たようなサーモンピンク時々モーブなのだ。アイシャドウも、チークも、ファンデーションもそう。ひとつの顔に対して化粧品の所有数が多すぎる。
使い始めてから一年たったものはさよならすると決めて片づけ始めると、棚の中は随分とスッキリしたが、どうせまたすぐにリップの収納部分にジェンガができることだろう。みんなどうやってリップを買うのを我慢しているか教えて欲しいくらいだ。
部屋の片づけもいよいよ終盤に差し掛かった。散らばっている残りの雑貨を元の場所へ戻し、ゴミをまとめて捨ててしまえば終わってしまう。終わってしまうということは切羽詰まった時の片づけ(模様替え)の幻想に別れを告げ、現実と向き合わねばならない。私は苦し紛れに床を磨きだした。こんなところに汚れがとか、傷があったな埋めておこうなどとやっていると段々と部屋が薄暗くなり、グレーがかった太陽の光が床に反射し、部屋の中がモノクロに見えた。
「またそうやってなんにもしないで片づけ散らかして」
定期試験の度に片づけ始めてしまう私に母はそういって顔を歪めていた。だって部屋が汚いとやる気が起きないんだもんと口を尖らせ反論していたが、あの時の私は片づけているふりをして、やるべきことに対して何もしていなかった。大人になって「なんにもしない」はなかなかできないと思っていたが、いくつになっても私は「なんにもしない」を続けていた。
模様替えをし、前より広く感じるようになった部屋の中でようやくこれを書いている。「なんにもしない」片づけも時にはいいものだ。