【サッカー本大賞2024】宮市亮が3度目の膝の大ケガで「エゴイスト」にならずに済んだ理由 横浜F・マリノスの仲間たちの教え
横浜F・マリノスで教えてもらったこと
吹っ切れていたとでもいうのだろうか。3度目の前十字靱帯断裂という大ケガを確信し、ピッチを退いたあと、ロッカールームに戻った僕は、状況をどこか冷静に考えることができていた。
試合に勝ち、優勝を勝ち取った日本代表チームのロッカールームには喜びがあふれていた。その雰囲気を壊したくなかった。自分の身に起きた出来事を泣いている場合ではないと思った。
優勝のために活躍した選手を、勝ったチームを祝福したかった。だから僕は、努めて平静を装った。「とにかくチームのため」。そんな思いだった。
過去に大ケガをした時には、まったくできなかった振る舞いだった。特に初めての大ケガ、ウィガンで右足首をケガした時はひどかった。他のチームメイトが全員で勝利を喜ぶロッカールームで、僕はずっと泣いていた。その時考えていたのは自分のことだけだった。
この時は違った。ロッカールームで、優勝を記念してみんなで写真撮影をした。笑顔を心掛けて、写真におさまった。作り笑いといわれればそうかもしれない。でも、本当に優勝がうれしかった。無理をしたつもりはない。日本のために、このチームでわずか3試合だったが戦うことができてよかったと、心から思っていた。
そう思えたのは、F・マリノスの一員になって、チームメイトに教えてもらったことが大きかった。
F・マリノスでは、チーム全員が仲間のゴールを心の底から喜んでいた。試合に出ていない選手も、本気で、素直に喜ぶ。勝利した時もそうだった。
ヨーロッパでは、ゴールは自分自身がのし上がるためのものだった。自分のキャリアアップが第一だった。他の選手たちも、どこまでも上を目指す“個人戦”を戦っていた。
日本に戻って、このチームで見てきた一つひとつのゴールは違った。それは、すべてがチームを勝たせるためのものだった。
そんな光景に、「どうしてここまでチームのために素直に喜びを表現することができるんだろう?」と思いながら、毎日を過ごしていた。
そして、あることに気がついた。僕よりも年上で経験もある3人の選手(水沼宏太選手、實藤友紀選手、中林洋次選手)の振る舞いがチームのムードを作り上げていた。
もともとチームといっても、僕たちはプロのサッカー選手で、それぞれがチームと契約した個人事業主の集まりだ。それぞれの生活もかかっていて、家族もいる。チームメイトであってもポジションを争うライバルになる。
高校生の頃なら、年末年始の全国選手権や夏のインターハイなど、ひとつの大きな目標に向かってみんなが自然と一致団結できた。だがプロになってからは、勝利が目標であることは間違いないが、なかなかひとつになることが難しい面もあった。
F・マリノスには、自分を犠牲にしてでもチームのために行動できる選手が多くいた。特に経験のある選手たちの態度が、チームの特別な雰囲気を作り上げていた。
彼らはみな、チーム内の成功については誰のものであろうと素直に喜んで祝福し、その一方で、出番に恵まれなくても、自分が今できることをやり切っていた。そんな姿勢がお手本となり、チーム全体に広がっていた。
それは、このチームが誇る強さの理由のひとつでもあった。
もちろん、自分がゴールやアシストを決められたほうがうれしい。出番も、ないより、あったほうがいい。当たり前だ。より多くのゴールやアシストを決めるために、「エゴイストになれ」と言われたこともある。
ただ、それがすべてではない。たとえ今はそのような機会に恵まれていなくても、チャンスが巡ってきた時に力を発揮できるように、普段から準備を怠ってはいけない。そんな選手がたくさんいるチームは間違いなく強くなる。勝てるようになる。
そして、チームの勝利がさらに選手たちを奮い立たせ、日々の努力を後押しする。F・マリノスにはそんな好循環が存在していた。だから強いのだ。
F・マリノスに加入してから「チームのために戦うこと」の意味や、チームプレーの本質がわかるようになってきたと言ってもいいかもしれない。自分自身のためではなく、チームのために力を尽くすことが何より大事だと思うようになった。
チームのために、今自分にできることをやり切る。それを続けていれば、最終的には、必ず自分自身に返ってくる。そう思えるようになった。
「自分のケガでふさぎ込むより、まずはチームの優勝の喜びを優先しよう」
そんな今までにない心境になれた背景には、そんな経験の積み重ねもあった。
冷静に受け入れることができた診断結果
ただし、日本代表の仲間とともに優勝の喜びに浸ったあとは、あらためて右膝の大ケガという現実と向き合う必要があった。
試合後、すでに遅い時間帯だったが、ホテルに戻るチームメイトと別れ、日本代表の医療スタッフに付き添ってもらい、そのまま精密検査のために病院へ移動した。院内は真っ暗だった。
MRI検査のためにベッドに寝かされ、半円形のドームの中に20分ほど入った。何度も経験していたが、これまでは寝てしまうことが多かった。
ただ、この時だけは、いろいろなことを考えた。プロになった時からの思い出が、まるで写真や映像となって頭の中に次々と浮かんでは消えいった。
「次やったら、やめよう」
そうぼんやりと考え始めたのは、2018年夏ごろ。きっかけは前十字靭帯断裂の3度目未遂だった。
もちろん、周囲にはっきりとした意思表示をしたことはなく、妻にも、それとなく話したことがあった程度だったが、何となく心の中で決めていた。
サッカー選手としてこれだけ長い間ピッチに立てない時期がある。にもかかわらず、期待してくれる人もいる。その中で、結果も出せないもどかしさ、リハビリばかりで選手としての時間が削られていくような感覚があった。
いろんなシーンが浮かんできた。同時に、いろんな人に対する申し訳なさで、胸がいっぱいになった。
ずっと期待して支えてくれた家族、これまでのチームメイト、指導者や先輩、後輩。何よりファンやサポーターのみなさん。一人ひとりに「申し訳ありません」と詫びて、「いつかこの人たちに顔向けできるよう、また前を向いてやっていこう、ほかの道で」。
検査を終え、部屋を出ると、ドクターのパソコンの画面上には、右膝の画像が映し出されていた。
「切れてます」と、申し訳なさそうに告げられた。言いづらそうだった。僕の反応は淡々としたものだった。たぶん「はい、そうですね。ありがとうございます」と答えた。「そんなに気を落とさないでください。逆に僕のほうこそ、こんなことになって申し訳ありません」と、僕のほうから伝えた気がする。
絶望的な診断結果をすんなりと冷静に受け入れる僕に、お医者さんは、逆に驚いているようだった。きっと、「なぜ落ち込んでいないんだろう?」と思ったはずだ。