陰謀論はなぜ生まれるのか?「世界は不条理でできている」ことを知る重要性 <内田樹×岩田健太郎>
■この世は不条理なものである
内田:岩田先生のお話を聞いていると、やっぱりアルベール・カミュの『ペスト』を想起させられます。コロナ下において示唆深いことが、この小説にはいくつもあるんです。
パヌルーという神父が出てきます。彼の考え方は、今で言うところの反ワクチン主義者に近いんです。つまり、人間がペストに罹って、死ぬのは偶然ではなくて、その背後には人智を超えた摂理が働いていると言うんです。パヌルー神父は、「疫病は神が下した懲罰である」と説きます。信仰が足りないからペストに罹る。自分が信仰心が篤いと思っていても、ペストに罹る。信仰が足りないから。そういうふうに考えると、一見ランダムに見えるペストの拡大にもある種の法則性があることになる。
この世にランダムに起きることはない。すべてはある法則に従っていると信じたがるのは人間の本性なんです。事実、宗教も科学も、ランダムに見える事象の背後には美しくシンプルな数理的秩序が存在するという直感に基づいている。ですから、パヌルー神父のペスト懲罰説を論破するのは、けっこう難しいんですね。武道家にも同じような考え方をする人がいますし。
岩田:え! そうなんですか。
内田:武道の世界には反ワクチン派は多いと思います。生きる力は修行によって獲得するものであって、化学的に合成した薬剤で病が治癒したり延命するのはおかしいという考え方をする人は武道家には多いんです。
岩田:多いですね。医者の世界でも、一部で漢方やスピリチャル、ホメオパシーとかに「ハマっている」人には強固な反ワクチン派がいます。あと、子宮頸がんなどを予防するHPVワクチンでは一部のキリスト教徒の医者が強固な反ワクチン派で難渋しました。歴史的に、キリスト教は「性」については非常に抑制的で、性に関わるツールにとても否定的な見解を示す人がいるのです。
内田:岩田先生は、わからないことは「わからない」とはっきり言われますよね。しかしパヌルー神父は宇宙にはある種の摂理があるので、ペストのふるまいは「理解可能だ」と考える。今の日本でコロナウイルスを擬人化して語る人もそうですね。コロナウイルスをマンガのように図像化する人もたぶんそうだと思う。「わからないもの」を相手にしたくないんだと思います。
岩田:ウイルスに条理はありません。極めてランダムに動く不条理な存在です。
内田:でも、ウイルスのふるまいには「条理がない」という事実そのものを受け止めることが難しい。何とか解釈して、そこから有用な「教訓」を引き出したがる習慣から、なかなか脱け出せない。
岩田:感染症をはじめこの世の多くのことは不条理ですよね。生命を研究すると、そのことが骨身に染みてわかります。患者さんの治療を続けながら、「世の中とはメッチャ不条理なんだ」という一種の諦念に日増しに支えられているのを感じるんです。そもそも感染症の流行自体や患者さんそれぞれのふるまいが非常にストカスティック(確率的な)ですからね。ある地域では大流行し、別の地域では流行しない、「なぜか」流行が収束したり、あるいは収束しなかったりする。ある患者は無症状のままでも、別の患者は重症化し、あるいは死亡する。長期の慢性症状を出す人もいれば、そうでない人もいる。ワクチンが効く人もいれば、副作用に苦しむ人もいる。そこにはある「確率」があり「傾向」もあるのですが、しかし個々の流行、個々の患者レベルで言えば、起こっていることはランダムです。善人だと重症化しないとか、そういう「摂理」はありません。
感染症で言えば、1980年代にエイズ(後天性免疫不全症候群)が「死の病」として世界中の人々を恐怖に陥れました。当時も「エイズという病気は、同性愛者に対する神の罰だ」という言説があったんです。でも実際には、同性愛者同士の一回の性行為がもたらす感染は、1%かそれ未満の確率でした。もしもエイズが「同性愛者に対する罰」だったら百発百中で感染しなくてはならないはずです。それに異性愛者でも、エイズは発症します。つまり感染症に摂理なんて何もない。発症したら医者と患者で懸命に治療する。それがすべてです。実際、研究が進んだ現在では、エイズは克服可能な病気であり、世界の年間死亡者もゼロに近づいています。
内田:そうなんですか。その事実は、希望を与えてくれますね。
■ハードボイルドという寛容さ
岩田:何をもって克服とするかには議論の余地がありますが、少なくともエイズで死ぬ人は今後ほぼいなくなるでしょう。エイズが「死の病」だった30年前を考えると隔世の感があります。最初は感染経路も不明だったので、診療する側も「自分に伝染るんじゃないか」とビクビクしていましたし、薬を飲んでも副作用が出るし、患者には「ちっとも治らない」と罵倒されるしで、さんざんでしたから。薬と副作用を巡る壮絶な闘いは、映画『ダラス・バイヤーズクラブ』(2013年)などでも描かれましたが、言い尽くせない蓄積の果てに今があるわけです。
僕ら医者は皆、往生際が悪いんだと思いますよ。諦めない。「もう、や~めた!」とならずにジリジリ続けて薬や治療法を見つけていく。コロナもまだ着地点には至りません。しかもどんな着地をするのか予見もできませんが、必ずそれは訪れます。
内田:「往生際が悪い」という言い方はいいなあ。
岩田:昔からコロナのような感染症が起こるたびに、人間は何とかして克服してきたわけで、「神が決めたんだから仕方ない」とか言って諦めちゃったら、人類史が終わってしまう。「感染症はランダムなもの」という乾いた観念を持っているので、諦めないでいられるのかもしれません。
内田:ハードボイルドですね(笑)。
岩田:そうです、ハードボイルドです(笑)。コロナ禍のようなことが突然起こる不条理な世界で生きていくには、粘り強さというか、殴られてもめげずに立ち上がる根性のような、ある種のハードボイルドな生き方が必要だと思うんです。患者さんに対しても、何かの因果でその人が罹患したとは思いません。健康な人が急に病人になっても、それも少しも不思議じゃない。常にそう思っています。それもハードボイルド感覚なんですね。
よくあの種の小説にありますよね、ヒーローやヒロインが突然バーンと撃たれちゃうとか。それでもストーリーは淡々と進んでいく。「世の中ってそういうもの」と受け入れて進むあのひんやりとした感覚が僕は割と好きなんですが、感染症のプロにはそういう人がけっこう多いんじゃないかな。
内田:「不条理論」ですね。コロナを巡る言説は大きく分けると「条理論」と「不条理論」になりますが、岩田先生は「不条理の人」なんですね。
岩田:そうですね、不条理側の人間です。
内田:原理原則なんてものを求めない。ウイルスに内的論理などないのだから。でも、それこそが不条理な世界に対する適切な対応だと僕は思います。世界が不条理であることを受け入れて、しかしそれでも限定的にではあれできることがあると考えて対処する。
岩田:実際、感染症のエピデミックとかパンデミックは人類史上何度も起きているわけです。神の懲罰だとか、宇宙の摂理ではありません。「日本がコロナ感染を抑えられているのは、何らかの『ファクターX』があるからだ」という議論も何度かありましたが、結局何も証明されていない。言うなれば、「世界には法則がある」として解き明かすのも科学性ですが、「世界はランダムで予測できない」というのも科学的な見地なんです。
量子力学では、ミクロにおける原子や電子の場所は確率でしか示せず、「絶対にそこに在る」とは断定できない、と考えるそうです。同様に、(アナロジーとしては不適切かもしれませんが)コロナのような感染症も不確かな現象であること。それを共通認識にすれば、私たち日本人もより寛容的な方向へ変わるのではないかと思います。