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スタンフォード留学で知る「日本」 10年先を行っていた携帯事業で世界に負けた要因と未来に向けた取り組みとは

 なぜ、スタンフォードは常にイノベーションを生み出すことができ、それが起業や社会変革につながっているのか? 書籍『未来を創造するスタンフォードのマインドセット イノベーション&社会変革の新実装』では、スタンフォード大学で学び、現在さまざまな最前線で活躍する21人が未来を語っている。本書より、カーネギー国際平和財団シニアフェローの櫛田健児がスタンフォードで学んだことについて、一部抜粋・再編し前後編でお届けする。

※「前篇」よりつづく

『未来を創造するスタンフォードのマインドセット イノベーション&社会変革の新実装』(朝日新聞出版)
『未来を創造するスタンフォードのマインドセット イノベーション&社会変革の新実装』(朝日新聞出版)

 本書の大きなテーマである、「多様なバックグラウンドの人たちのなかに身を置くことで得られる刺激と思考の広がり」ということに触れたい。多様性というのは、「意図して含めないと阻害される人たち」を組織や社会のいろいろな場所で活躍できるようにする側面と同時に、「多様な人生経験をしてきた人々を集めて、さまざまな異なる思考フレームに触れることで新しいイノベーティブなことができる」という側面がある。

 経営の場合、多様性が高いほうが既存の思考フレームの枠にとらわれずに新しいことを試みたり、ディスラプションを避けられたりするという役割がある。多様性は目的だけではなく、多様性による結果が良い方向に向かうということである。

 スタンフォードの学部生にはいろいろな富裕層の人はもちろんいたが(郵便箱の仕組みや洗濯機の使い方を知らない富裕層の人も)、中流家庭や低収入の家庭出身で奨学金をもらって通う人も大勢いた。

 たとえばカリフォルニア州の内陸出身のクラスメイトは、5人兄弟が全員、1ベッドルームの狭いアパートで生活し、ダイニングテーブルを囲んで宿題をこなし、夜はダイニングテーブルの真横のリビングのスペースで「州」の字になって寝るという生活だった。布団に潜って懐中電灯を使って勉強していたクラスメイトは医者を目指し、結局地方医療の医者になった。

 同じ寮に住んでいたクラスメイトは南アフリカの卓球チャンピオンで、白人の母子家庭で育ち、治安が急激に悪化する故郷に置いてきた母親と妹をなんとしてでもアメリカに連れてきて良い生活をさせてあげるため、強い使命感をもって勉強していた。

 タイの王家が出している奨学金で来ている人や、シンガポールで兵役を済ませてから来たため、ちょっと年上のクラスメイトもいた。アメリカの軍からの奨学金で大学の学費と生活費を出してもらっていた生徒は、週末になると軍のトレーニングに参加するために大学を離れ、卒業後は数年間、軍への進路が決まっていた。

 ブータン王家のお姫様や、元オリンピック選手で医者を目指していた生徒もいた。お約束だが、天才級の頭脳の持ち主は、非常に切れ者の著者の友だちが1週間かけて解いた物理の問題を数分で解いてしまったが、親元を離れて寮生活になると驚くほど生活力がなかった。

キャンパスの象徴的な教会 Memorial Churchの周りは教室やオフィスで、雲を書き忘れた絵のような青空は「できるよ感」を漂わせる

 別のクラスメイトは、祖父がシリコンバレー創設メンバーの1人だったのに、反発した息子(私のクラスメイトの父親)がアイダホ州の山奥で彫刻家になって、山男のような環境で育ったが、結局祖父に影響されてスタンフォードに来た。私のルームメイトとなった彼は山でマウンテンバイクに乗ったりしていたアイダホの田舎の公立高校出身だったが、いざスタンフォードの工学部の授業を受けはじめたら、他の生徒が難しいと困りはてていた問題集を難なくこなし、週末はロッククライミングやキャンピングに出かけていった。アメリカの良いところは国立公園と大自然であり、都会や中流家庭の生活にまったく興味がないという優秀なタイプのアメリカ人だった。

 そしてもちろん、大学にはなぜいるのかがよくわからない人もいた。著者はそれまで自分が日米の文化圏の狭間で育ち、日本とアメリカを外からもなかからもわかるのでそれなりに視野が広いと自負していたが、本当に狭い世界で育っていたということを痛感した。

 こういうバックグラウンドの人たちに囲まれて行う議論は、まったく想像を超えた思考フレームの発見が幾度となくあり、なにが「当たり前」で、なにが「できない」ことなのか、それまでの思考の枠が一気に外れた。さらに、海外にいると、自分は日本を背負っているという自負がまったくなくても、日本出身であることがわかると、非常に優秀な人たちが日本について鋭い質問をしてくる。これは海外に出た日本人の多くが経験する現象だろう。しかも会話をはじめると、どんどん深いところまで追及してくる。

 たとえば、なぜ日本は中国の漢字を使っているのにまったく異なる言語なのか。なぜひらがなとカタカナという音だけの「アルファベット」が二つもあるのか。少し説明をはじめると、じゃあ「訓読み」というものは誰がつけたのか? 中国大陸のさまざまな文明の要素は韓国を経由して日本に伝わったと聞くが、なぜ韓国の伝統的な床下暖房、「オンドル」は歴史的に日本にはなかったのか。日本でもっとも人気が高いスポーツがなぜ野球なのか。そうなると、日本出身なのに日本のことを知らないというのはおもしろくない。国内のみにいては見えない日本の良いところも見えてくる。

 著者は学部生のころ、日本について歴史、文学、言語学、政治、経済など、いろいろな分野の授業を片っ端から受けた。そのころ、経済関連の授業で取り上げられたり、大学にゲストを招いて行われた講演で取り上げられたりする日本は、「なぜ失敗したか」とか「こういうことをやってはいけないという模範例」という論調がほとんどだった。これは残念であり、悔しかったので、日本経済の明るい話を探すようになった。

 また、学部3年目には日本語力を高めようと、「短期逆輸入留学」と自ら命名した取り組みで、スタンフォードが当時展開していた京都のスタンフォード・日本センターで一学期学んだ。故・今井賢一先生が日本のスタートアップなどについてプロジェクトを進めていたころであった。

 シリコンバレーではインターネットの到来で新しいスタートアップのエコシステムが急発展していて、日本では1990年代を通してなかなか変化できない大企業や旧来の大勢の特効薬として「ベンチャー」が取り上げられていた。なかなか日本ではうまくいかない理由がたくさん挙げられていて、後の自分のテーマにつながった。そして外資系金融機関の東京支店での夏のインターンシップで新しい雇用のロジック(突然クビになる、数年ごとに職場を変えないと「できない」人に見られてしまう、など)を目の当たりにした。学士号のための卒業論文(任意)を経済学の分野から、故・青木昌彦教授のもとで書いた。

■日本経済の明るい話を追い求めた携帯産業がシリコンバレーにディスラプト

 当時の日本の明るい経済ネタは携帯電話だった。1990年代半ばから終盤には日本の携帯電話やPHSがどんどん小型化し、高機能化し、iモードや他社の似たようなプラットフォーム・サービスによって劇的に進化していた。

 当たり前のように学生も若者もみんな日本では携帯電話をもっていた。しかし、私が1997年にスタンフォードに入学したときには誰ももっていなかった。しかもアメリカの携帯電話はドリフのコントのような靴サイズのものが普通だったのだ(ちょっと大げさだが、そのくらいの違いに感じた)。日本が世界を10年リードしているなら、絶対この分野では「世界を取れる」と思った。

教室から一歩外に出た風景。キャンパスの象徴的な教会の隣

 しかし、もちろん結果的にはまったくそうならず、その10年後にはシリコンバレー発のスマートフォンにディスラプト(駆逐)されてしまった(もちろん、コンポーネントメーカーとして世界的に活躍している日本勢はいるが、業界全体を取ったほうがリターンははるかに多い)。

 その後、私は研究者の道を歩むことを決め、スタンフォードの東アジア研究部からの奨学金を得て修士を取り、政治経済でもっとも研究のアプローチと日本研究が魅力的なUCバークレー(カリフォルニア大学バークレー校)で政治学の博士課程に進んだ。その後、政治経済の専門家としてスタンフォードのアジア太平洋研究所(APARC)のポスドク(博士研究員)という形でスタンフォードに戻ってきた。それからリサーチ・アソシエイト、リサーチ・スカラーという研究職の立場で10年ほどAPARCに在籍し、たまに授業でも教えた。

 日本の情報通信産業や政治経済の分析を英語の学術誌に投稿すると同時に、日本向けにはシリコンバレーについての発信を行うようになった。特にスマートフォンが登場してからシリコンバレーでは世界のいろいろな業界をディスラプトしていく巨大プラットフォームの企業が急成長し、シリコンバレーについてのエコシステムをきちんと分析しないと活用はできないというスタンスで複数のプロジェクトをはじめた。

 そこで、それまでずっと気になっていた、シリコンバレーを活用できない日本企業が多くいることに対して溜まったフラストレーションが強烈な危機感へと変わり、シリコンバレーと日本を直接結ぶプロジェクトを立ち上げた。APARCではじめた「Silicon Valley-New Japan Project」というもので、当時のジャパンプログラムのディレクターを務めていた星岳雄先生のサポートを受け、スタンフォードの米国・アジア技術経営研究センターのリチャード・ダッシャー所長の応援のもと、学術アウトプットを超えたさまざまな活動を行った。

 本書でも取り上げている社会科学研究の社会実装であり、産学連携のプロジェクトだった。日本企業はもっと効果的にシリコンバレーを活用することができ、シリコンバレーでの日本のプレゼンスを高めれば双方ともメリットが多いはずだという確信からだった。

 パンデミックになるまでこのプロジェクトは毎月の公開フォーラムや、イシンというスタートアップのメディアを扱う会社と組んで大規模なイベント、「Silicon Valley-New Japan Summit」などを行った。多くの協賛企業にサポートされた取り組みはどんどん拡大していき、「シリコンバレーの日本企業が陥るワーストプラクティス」集など、シリコンバレーのエコシステムを理解した上での提言や、シリコンバレー向けに日本企業の興味深い取り組みの紹介もできた。

※続きは書籍『未来を創造するスタンフォードのマインドセット イノベーション&社会変革の新実装』でお楽しみください

櫛田健児さん

櫛田健児
カーネギー国際平和財団シニアフェロー。シリコンバレーと日本を結ぶJapan-Silicon Valley Innovation Initiative@Carnegieプロジェクトリーダー。キヤノングローバル戦略研究所インターナショナルリサーチフェロー。東京財団政策研究所主席研究員。スタンフォード大学非常勤講師(2022年春学期、2023年冬学期)。1978年生まれ、日本育ち。スタンフォード大学で経済学、東アジア研究それぞれの学士号、東アジア研究の修士号修了。カリフォルニア大学バークレー校政治学博士号修了。スタンフォード大学アジア太平洋研究所でポスドク修了、リサーチアソシエイト、リサーチスカラーを務めた。2022年1月から現職。主な研究と活動のテーマは、(1)Global Japan, Innovative Japan、(2)シリコンバレーのエコシステムとイノベーション、(3)日本企業のシリコンバレー活用、グローバル活躍、DX、(4)日本の政治経済システムの変貌やスタートアップエコシスムの発展、(5)アメリカの政治社会的分断の日本への紹介など。学術論文、一般向け書籍やメディア記事、書籍を多数出版。