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水野美紀 出産直後、我が子を見た第一声が「やだ!」だった理由
42歳で電撃結婚、翌年には高齢出産。女優・水野美紀さんが“母性”ホルモンに振り回され、育児に奮闘する日々を開けっぴろげにつづった子育て奮闘記『余力ゼロで生きてます。』(2019年11月、朝日新聞出版)からの記事。今回はいよいよ陣痛からの出産へ。「地獄」のような痛みと戦った末にもよおした便意がまさかの……。さらに子育て奮闘記第二弾『今日もまた余力ゼロで生きてます。』が9月20日発売決定! こちらもお楽しみに。

人間の脳は、辛い記憶を「忘れる」機能を持っている。
辛い記憶だけでなく、必要な記憶、必要でない記憶、それらを勝手に精査して、デリートする。
忘れられるから生きていける。
「忘れる」というのは人間にとってとても大事な能力の一つなのである、と昔何かで読んだ。
私のあの日の記憶も、いささかぼんやりとして、断片的である。
陣痛がなかなか強くならないので、「陣痛促進剤」を使用することになり、テキパキと準備が整えられた。
私は和室に敷かれた布団の上に横になっていた。
天井からは産み紐がぶら下がっている。
紐といっても、かなり幅広の長い布が輪になってぶら下がっているのだ。
点滴の準備が整い、促進剤が投入された。
「最初は、少ない量で様子見ますねー」
そう言われたと思う。
陣痛には三段階あるという。
1の(1)<潜伏期>
5~10分おきに、30~40秒の痛み
1の(2)<活動期>
3~5分おきに、60秒の痛み
上記(1)と(2)を合わせて【第1期】
1期は初産だと8~10時間
次に【第2期】
1~2分おきに60~90秒の痛み
これが1、2時間続く
ここで出産。
そして【第3期】
後期陣痛。15~30分
そう。産んだ後にもあるのだ!
促進剤を点滴で入れ始めて5分後。衝撃の痛みが襲って来た。痛みのあまり寒気で奥歯がガチガチと鳴り、同時に吐き気! 間違いなくこれまでの人生で最大級の痛み! これがほぼ1分おきに押し寄せてきた!
どうやら私は促進剤がものすごく効きやすい体質だったようで、1期をすっ飛ばして、2期の方のピークの痛みがやって来たのだ。
あまりのことに頭が真っ白。
休む間もなく次々押し寄せる痛みの大波を、歯を食いしばって耐え抜く。
食いしばっても食いしばっても、痛みは天井知らずに膨らみ続ける。どうやって耐えたら良いのかも分からない。
「あ、これ以上は無理」
と思ってから、さらに強力な波が来るのだ。
いきなり心が折れそうになった。
この状態が5時間続いた。
少しでも楽な体勢をと、死に物狂いで探って探って行き着いたのは、四つん這いの姿勢だった。
それで、産み紐の輪っか部分におデコを乗せてグイグイしたり、紐に腕をぐるぐるに絡めて、膝立ちになって思いっきり引っ張ったり。
産み紐の存在はありがたく、拠り所となった。
テニスボールを尻の穴にギューと押し付けるのもいくらか効き目があったと思う。
ラスト2時間は、痛みのピークに合わせて、
「らァーーーー!!!!」
と大声を出した。
その方が、無言で食いしばっているよりちょっとだけラクだと気付いた。
無痛にすればよかったマジで何で無痛にしなかったんだろうバカ! 無痛にすべきだった、ああバカ!
と何度も思いながら、叫んだ。
「グラぁーーーーーー!!!!」
痛みのピークで気絶する人もいるらしい。
「次のピークで痛さに目が覚めて、でまた直ぐに気絶して、を繰り返す人もいるんですよー」
と、看護師さんが事もなげに言う。
地獄!!!
「痛みで人が変わっちゃう方は多いですよー。旦那さんに暴言吐いて、蹴飛ばしたり」
地獄。
「義母さんの手を振り払っちゃったり」
地獄!!!
ああもう無理!
早く出てこいわが子よ!
何とか理性を保っているうちに!
そこで急に強い便意をもよおした私。看護師さんに、
「一旦トイレに行かせてください」
と最後の理性を振り絞って訴える。
「大丈夫ですよー」
「便意が来たのでトイレに……」
「便意じゃないですよ、赤ちゃんです」
「いや、これは便意だと思います」
「違いますよ、赤ちゃんです」
なぜだろう、このやり取りははっきり覚えている。
脳はデリートする必要なしと判断したらしい。
結局、看護師さんは正しかった。
赤ちゃんが押し出されて来た。
「頭が見えて来ましたよー」
看護師さんの言葉に、やっとゴールが見えてきた。
折れかけた心を立て直す。
ここからは「いきんでー」と言われたり、「いきまないで!」と言われたり、「リラックスして!」と言われたり、
「息を止めないで!」
「吸ってー」
「いきんで!」
「いきまないで!」
「ええい、私をどうしたいの!?」
もう言われるままに必死にやった。
頭が見えてから5分くらい経っただろうか。
「もう頭が出ますよ」
と言われたと思ったら、
スポーン
と一気に赤ちゃんが飛び出した。
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痛みから解放された体に快感が広がった。
四つん這いの姿勢からしばらく動けなかった。
やっとのことで振り向くと、大きな目をばちっと開いた赤ちゃんが、看護師さんに抱えられてこっちを向いていた。
私の最初の一言は、
「やだ!」
だった。
目を開けてるとは思わなかったのでびっくりした。
仰向けになると、看護師さんが赤ちゃんを抱かせてくれた。
この数時間、この瞬間をどれだけ待ちわびていたことか。
可愛い、とか嬉しい、と言う感情の前に、とにかく、
「わあーー、これが赤ちゃんか、わあーーーすごい、わあーー手がちっちゃい」
など、総合すると、
「わあーーー」
と言う思いでいっぱいだった。そして、とにかくホッとした。
その隙に年配の先生が来て、会陰部をチクチク縫ってくれた。
恐れていた会陰切開はなかったけれど、
「数カ所、傷になってるので少し縫いますねー」
とのことだった。
立ち会っていた夫は、赤ちゃんの頭がコーンヘッドみたいに長細く尖っているのをしきりに心配していた。
「水野さんは運動されていただけあっていきむのが上手でしたね。赤ちゃんの頭も真っ直ぐに伸びてますし」
と最後に看護師さんに褒められた。
いきむのにも、上手い下手があるらしい。
着替えて病室を移動した。
まだお腹はぜんぜん引っ込んでないし、点滴でむくんで体重も全然落ちてない。
会陰部はヒリヒリ痛いし、股関節が痛くてよちよちしか歩けない。
看護師さんに言わせると、産後の母体は、全治1カ月の大怪我を負ったようなものらしい。
後陣痛は大したことはなかった。強めの生理痛くらい。
ベッドに横たわってやっと静かに身体を休めていると、じわじわと嬉しさがこみ上げて来た。
出産って、本当に壮絶。
かかる時間やスタイルや痛みはそれぞれだけど、全てのお産が命懸けなのだと身をもって知った。
あの時、こんな痛い思いは二度と嫌だと思った。
不思議なもので、あれから一年経った今は、あのトラウマレベルの痛みの記憶も薄れ、
「若かったら、もう一人産みたかったなあ」
と思う。
水野美紀(みずの・みき)
1974年三重県生まれ。女優、作家・演出家。87年芸能界デビュー。2017年第一子を出産。映画「踊る大捜査線」シリーズ、ドラマ「探偵が早すぎる」シリーズ、テレビ番組「突然ですが占ってもいいですか?」、舞台「ベイジルタウンの女神」。舞台では脚本・演出を担当、自身で演劇ユニット「プロペラ犬」も主宰している。他にも多数の出演作があり、CMにも出演するなど、幅広いジャンルで活躍し続けている。また、何気ない日常をユーモラスにつづったエッセイ集『水野美紀の子育て奮闘記 余力ゼロで生きてます。』も好評を得ており、続編が9月20日に発売予定。その他の著書に、『ドロップ・ボックス』『私の中のおっさん』『プロペラ犬の育て方』がある。
■水野美紀さんの子育て奮闘記・第二弾 9/20発売!
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