「お金はいらない、偉くもなりたくない、だから勉強しない」と子どもに言われたら、あなたは何と答えますか?
勉強をしていて、「なんでこんなことをしなければいけないんだろう?」って思ったことはありませんか? ぼくは中学生のころ、特に興味がない教科や、先生と相性が合わないときに、よくそんなことを考えていました。いったいぼくたちは何のために学ぶのでしょうか?
あなたにやりたいことや夢があるなら、学ぶ理由は簡単です。よりよい人生を歩むためです。興味があることなら学ぶこと自体が楽しいですし、夢のためなら少々大変でも意味があります。自分のためではなく、世のため人のために実現したいことがある、と考えた人もいるかもしれませんが、心からそうしたいと思ったのなら、それはあなたのためでもあります。
自らよりよい人生を切り開いていくためには、自分で選択する必要があります。どこの学校に通うのか、何を学ぶのか、どんな友達とつき合うのか、どんな先生に師事するのか、どんな人に恋をするのか、という人生を大きく左右する選択から、今日何を食べるのか、どんな文房具を使うか、どんな本を読むか、どんな映画を見るかなど小さな(けれど積み重なっていけば確実に人生に影響がある)選択まで、ぼくたちは日々さまざまな選択をしながら人生をつくっています。そのときに、よりよい選択ができるようにするために学ぶんです。
では、やりたいことや夢がない場合や、やりたいことや夢とは直接関係がないように見える学校の勉強はどうでしょうか?
多くの大人や学生は口をそろえて「将来のため」と言います。具体的には「お金に困らないために、それなりの地位につく」という目標です。そのためには、「よい学校に入って、よい会社に就職をする」必要があると言うんですね。ぼくはたくさんの学生や保護者、先生たちに同じ質問をしてきましたが、ほとんどがこの答えです。
しかし、たまに「お金もいらないし、偉くもなりたくないから、勉強しなくていいですか?」というような子どもが現れると、みんな困ってしまいます。あなたならどう応えますか?
江戸時代、教養があるというのは、人の気持ちを分かることだという考え方がありました。つまり、学ぶ理由は「人の気持ちを分かるため」だというわけです。たくさんのことを学べば、より多くの人の気持ちが分かり、共感できる可能性が高まります。その結果、人々から信頼されるので、仕事を任され、リーダーシップを発揮することになる。そうすれば、結果として地位やお金はついてくるものだというんですね。
ぼくはこの考え方がとても好きです。お金や地位が目標の人が(本当の意味で)信頼されるとは思いませんし、お金や地位がいらない人はいても、人の気持ちを分かりたくない人は(本当は)いないと思うのです。それに、たくさんのことを学べば、やりたいことや夢が見つかる可能性だって高まります。
ちなみに、同じ江戸時代には遊び尽くしたお金持ちの商人も私塾にやってきました。同じことをしても、知識や教養があったほうが、より楽しめるからです。つまり楽しく生きるため、というのも学ぶ理由になるんですね。たとえいまが楽しくなくても、学んだらどんどん楽しくなってくるかもしれない。
「学は人たる所以を学ぶなり」
これは、江戸時代の教育者、吉田松陰が教えた松下村塾のコンセプトで、「学びとは人であるからにはどうあるべきかを探究することだ」ということです。つまり、人の気持ちが分かり、よりよい選択をして、よりよく生きるためには、人について理解する必要があるというわけです。
では、人であるとはどういうことでしょうか? そして、自分はどういう人間なのでしょうか?
それは、「いかに生きるかを自分で選択できること」であり、そのために「正しく考えられること」「人の気持ちが分かること」です。
その一番の基礎になるのが、リベラルアーツと呼ばれる学びなのです。
(構成:教育エディター・江口祐子/生活・文化編集部)