【試し読み】生活困窮者支援で注目集める座間市の取り組みとは?/篠原匡『誰も断らない こちら神奈川県座間市生活援護課』
神奈川県中部に位置する座間市。人口13万人ほどの小さな自治体だが、今、生活困窮者支援の取り組みで全国から注目を集めている。同市生活援護課は生活保護や就労支援、子どもの学習支援など様々なサービスを提供し、その試みは新しい。職員自ら、既に困窮状態になっている住民だけでなく、その予備軍にも救いの手を差し伸べている。座間市生活援護課は「どんな人も見捨てない」がモットーなのだ。
なぜこのようなきめ細かな対応が可能なのか。その理由は、座間市が、ともすれば対立しがちなNPO法人などの民間団体(座間市にある「チーム座間」)とタッグを組んでいることにあり、それを実現している職員たちの日々の奮闘にもある。
ジャーナリストの篠原匡氏の新刊『誰も断らない こちら神奈川県座間市生活援護課』は、こうした「断らない窓口」の舞台裏にスポットを当て、困窮者サポートに奔走する座間市生活援護課の職員とチーム座間の姿を追ったルポルタージュだ。
公務員は何かとバッシングされがちだが、杓子定規なお役所仕事をしている自治体ばかりではない。社会からこぼれ落ちる人が急増する中、「型破り」な座間市の活動を通し、福祉や支援の新しい形を探る本書の一部を特別公開する。
プロローグ
高台から街を見下ろせば、似たような家が建ち並び、日暮れとともに灯が点る。最初はまばらに見えた灯りは、時を刻むごとにその数を増し、夜のとばりを美しく照らす。
遠くから見れば、その灯りはどこも穏やかで、温もりに満ちている。だが、実際に路地をさまよえば、雨戸が閉まったまま暗闇に沈んだ家もあり、また別の光景が広がっている。
見慣れたいつもの光景、変わらないいつもの日常──。だが、その内側までは見ることができない。
神奈川県座間市。神奈川県の中央部に位置する、人口13万人ほどの自治体である。相模川に削られた河岸段丘の東岸に開けた街で、市役所の屋上から眺めれば、静かに流れる相模川の水面が遠くに見える。
面積は約18平方キロメートルと神奈川県の中でも小さく、市の中心にある市役所からスクーターに乗れば、隣接する相模原市、海老名市、厚木市、大和市の市境に15分ほどで着いてしまう。
交通の便に恵まれており、市内や近隣を走る小田急線や相鉄本線に乗れば、東京都心や横浜などに出ることも容易だ。それゆえに、戦後の高度経済成長期になると、東京や横浜のベッドタウンとして発展した。
平日の朝、小田急線の相武台前駅に立てば、市民を乗せた神奈川中央交通のバスが次々とロータリーに入り、仕事に向かう会社員や学生が駅の構内に吸い込まれていく。人波を縫うように子どもを保育園に送る自転車も、東京や神奈川の郊外の私鉄沿線でよく見る光景だ。
陽が高く昇れば、街を行き交う人々の表情も変わる。
駅に直結している小田急マルシェ相武台では、シルバーカーを押した高齢の女性やジャケットを羽織った初老の男性が開店を待つ。駅の周辺に点在する金融機関の店舗を覗けば、近隣の店舗やどこかの会社の従業員と思しき女性がATMを操作している。
お昼時になれば、周辺の事務所で働くビジネスパーソンや住民がランチに繰り出し、午後は午後で、仕事の打ち合わせや主婦グループのお茶会、放課後の学生などで賑わいを見せる。
そして、日が暮れれば、ぽつりぽつりと灯りが点り、帰宅途中の人が家路を急ぐ。ひっきりなしに鳴る踏み切りの音と駅前を走る大通りの大渋滞──。これも、相武台前の日常である。
もっとも、そんな日常とは無縁の生活を送る人もいる。
■見えない困窮者
神村里江子(仮名)は、約15年間、暗闇の中で暮らしていた。薄暗い自室で電気もつけず、テレビの光をぼんやりと眺めていた。そこに、ラジオの音声が流れる。外の世界には触れなかった。だから、夏でも肌は白く透き通っていた。
なぜ外に出られなくなったのか。いくら振り返っても、これだという理由は思い出せない。
学生時代はテニス部に所属し、快活に動き回っていた。卒業後はスポーツクラブのインストラクター職に就き、仕事の延長で、あん摩マッサージ指圧師の資格も取得した。指名数で全国上位を取るために、馬車馬のように働いた。1日12時間勤務もザラだった。
「帰って寝るだけなので、一人暮らしの時は日の当たらない部屋を借りていました」
そう神村は振り返る。
何となく気が重く、出社が面倒に感じることはあった。だが、それでも出社してしまえば、いつものように働くことができた。
ところが、ある日、突然手が震え出した。手を押さえても、どうしても震えは止まらない。同僚に相談すると、「いつもと変わらないけど……」と困惑した表情で返された。最終的に、神村は医師のもとを訪ねた。
相対した医師は、不安げな神村を見つめてこう言った。
「うつ病の症状です」
その一言で、何かが弾けた。以来、神村は自宅から出られなくなった。いつの間にか実家に戻っていたが、いつ借りていた部屋を引き払ったのか、その記憶すら辿ることができない。
暗い自室の中で過ごすうちに、もう外の世界とはつながらない。そう思うようになっていた。
同じような体験をした男がいた。佐藤武晴(仮名)も、20代前半からの8年間、自宅で引きこもっていた。
工業高校を卒業すると、佐藤は溶接技術を生かして神奈川県内の中小企業に就職した。だが、就職した会社には社員が定着せず、人手不足の中、仕事に追われる日々を送っていた。
「朝8時から夜11時まで、切れ目なく働いていました」
そして、ある時、限界を超える。緊張を強いられたり、負荷がかかったりする状態になると、必ず頭痛に襲われるようになったのだ。仕事を続けられなくなった佐藤は会社を辞め、自宅に引きこもった。
自宅にいる時も、トラック運転手だった父親の荷下ろしなど、家のことは手伝っていた。だが、仕事につく気にはどうしてもなれなかった。朝から晩まで仕事に追われる中で、働くことが怖くなってしまったからだ。
「働かなければ」という葛藤はもちろんあった。今は元気な両親も、いずれリタイアする日が来る。自分が働かなければ、両親が年老いた時に、家族が困窮状態に置かれてしまうかもしれない。
だが、溶接工時代の苦い記憶が脳裏をよぎるたびに、働くことに対する不安や恐怖を感じてしまう。そんな焦りと不安の間で揺れ動いている間に、8年という年月が過ぎていった。
ふとしたきっかけで、働くことをやめた神村と佐藤──。彼らの存在に、社会が気づくことは容易ではない。そして、彼らのような「見えない困窮者」は社会の中で徐々に、確実に増えている。
こういった社会の中に溶け込んでいる困窮者を可視化し、必要な手を差し伸べることは想像以上に難しい。だが、そんな困難なミッションを遂行しようと奮闘している人々がいる。神奈川県座間市役所・生活援護課と「チーム座間」である。
■座間市生活援護課
生活援護課とは、座間市役所福祉部の課の一つで、生活保護利用者と、その前段階の生活困窮者までを幅広く支援する部隊だ。
市役所のエントランスをくぐり、吹き抜けの市民ホールを抜け、さらに小さな坪庭の脇を進んだ一番奥に、同課はある。課の入り口には、感染対策のビニールシートで覆われた窓口が並び、生活保護利用者や生活困窮者が手続きや相談のためにやってくる。
天井からぶら下がる「生活援護課」という看板と、キャビネットやパーティションで仕切られた雑然とした雰囲気は見慣れた役所の風景だ。
その中は、生活保護を担当する生活援護第1~3係、経理係、困窮者の自立支援に関わる自立サポート担当の3つに分かれている。自立サポートが「担当」であり「係」になっていないのは、担当者がまだ二人しかおらず、係の設置基準を満たしていないためだ。
生活援護課の主な仕事は、生活保護に関わる行政事務に加えて、困窮状態に陥っている人やその可能性がある人の把握と支援だ。特に、自立相談に関わる自立サポート担当は、佐藤や神村のような自立支援が必要な人、あるいは生活に困窮している人と緩やかにつながり、必要に応じて適切な支援を差し伸べている。
同課では、会計年度任用職員(従来の非常勤職員・臨時職員・パート職員に代わる職員。地方公務員法が適用される一般職の地方公務員)を含め、57人の職員が働いている。
その内訳は、生活保護を担当するケースワーカーや経理担当、自立相談支援員、就労支援員、子ども健全育成支援員、窓口担当などである(会計年度任用職員を含む)。この57人を、課長の林星一が率いている。
一方のチーム座間は、生活援護課が連携しているNPOや社会福祉法人、企業などの外部ネットワークである。それぞれの組織は、就労支援や就労準備支援、フードバンク、居住支援、家計改善支援、子どもの学習支援、アウトリーチ(訪問支援など本人に直接働きかける支援)などの事業を手がけている。
市役所と聞くとお堅い印象もあるが、生活援護課では、結婚式場の元カメラマンや信用金庫の元営業担当など様々なバックボーンを持つ人が働いている。林も、今でこそ役所の課長が板に付いているが、もともとは障がい者施設や民間の介護事業者などで実務を担ってきた現場の叩き上げだ。
生活保護が主要な業務だった生活援護課に、自立サポート担当が加わったのは2015年4月にさかのぼる。この年に施行された生活困窮者自立支援法に対応するため、座間市は従来の生活援護課に、自立相談支援や就労支援などの担当を新たに設置したのだ。
生活困窮者自立支援法とは、生活保護に至る前段階の困窮者に対して、自立相談支援事業の実施や住居確保給付金の支給など必要な支援を提供するために作られた法律で、生活保護に並ぶ「第2のセーフティネット」として制定されたものだ。以来、困窮者の自立を支援するため、内部の人員と外部ネットワークを増強し、今の陣容になった。
生活困窮者自立支援法が誕生した背景には、1990年代前半のバブル崩壊以降、じわじわと増える困窮者の存在がある。とりわけ困窮者の問題が深刻化したのは、2000年代後半のリーマンショックの時だ。世界規模の金融危機に伴う需要収縮に対応するため、自動車産業など製造業を中心に、派遣社員との契約を打ち切る雇い止めが相次ぎ、年を越せない人々が路上にあふれた。
そして今、新型コロナが新たな試練を与えている。
座間市を見ても、生活保護利用者は2353人(令和3年11月時点、速報値)と、保護率は全人口の17.88‰(パーミル、1000分の1)に達する(神奈川県の平均は16.62‰)。その多くは高齢者だが、飲食業などのサービス業に従事する人や自営業者など、新型コロナの影響を受けた人々も増えている。生活保護こそ受給していないものの、その前段階にある生活困窮者も数多い。
生活困窮者を総合的に捉えた統計は存在しない。ただ、福祉事務所に来訪した人の中で生活保護に至らない人は約30万人を数える。また、引きこもり状態にある人は約115万人、離職期間が1年以上の長期失業者は約53万人、ホームレスは約3000人、経済・生活問題を原因とする自殺者は約3000人、スクール・ソーシャル・ワーカーが支援している子どもも約10万人いる。
(出所:厚生労働省資料「生活困窮者自立支援制度における横断的な課題について1」https://www.mhlw.go.jp/content/12000000/000885362.pdf )
こういった困窮者とその予備軍を可視化し、必要な手を差し伸べるために、生活援護課とチーム座間は奮闘している。
座間市生活援護課は全国的に有名な存在ではない。中で働いている職員も、無名のごく普通の市役所職員だ。だが、様々な事情で困窮状態に陥った人を支え、自立に向けて伴走している。
「座間市ほど熱心に取り組む自治体も珍しい」と困窮者支援に関わる弁護士や司法書士が語るように、チーム座間の存在を含め、ここまで真剣に自立支援に向き合っている自治体はあまりない。
日本経済の成長が鈍化し日本全体の貧困化が進む中、社会からこぼれ落ちる生活困窮者は減ることはないだろう。その時に、社会としてどのように対応すればいいのか。彼らの取り組みの中に、その答えが見えるに違いない。
今から生活援護課とチーム座間、そして彼らに救いを求めた困窮者の物語を紡ぐ。
なお、個人が特定できないよう、細部を一部改変している。また、本書の内容、登場人物の肩書は2022年1月時点のものである。
第1章 断らない相談支援
■ホームレスになるはずだった男
所持金が尽きたらホームレスになり、そのまま野垂れ死にする──。そう思って故郷を飛び出したのに、今はこうして障がい者とともに働いている。何もかも嫌になり自暴自棄になったあの時の絶望は、不思議なことにきれいさっぱり消えた。この1年のことを振り返ると、悪い夢でも見ていたような気分にもなる。
志村恭介(仮名)は東北地方のある街で生まれ育った。山麓に開けた人口2万人前後の小さな街で、すれ違う人も、家族や知人と何かしらのつながりがあるようなところだった。
実家は商売を営んでおり、父母と姉、兄の5人で暮らしていた。特段、成績がいいわけではなかったが、何かに躓くこともなく高校を卒業し、地元の中小企業に就職した。そして、20代で結婚し、二人の子どもにも恵まれた。20年前にはマイホームも買っている。
このように、会社を辞めるまでの半生を書き起こせば、志村の人生はごく平凡なものに見える。現に、目の前に座っている50代前半の小柄な男は、口ぶりこそ訥々としているが、こちらの質問に真摯に答える、至って普通の人物である。
だが、志村には誰にも言えない秘密があった。借金である。
ギャンブルにお金をつぎ込んだわけでもなければ、女性に入れあげたわけでも、贅沢な生活をしていたわけでもない。どちらかといえば、慎ましい生活をしていた。ただ、自分の収入に鑑みると、マイホームの購入で少し無理をした。それが、月々の生活を圧迫した。
それでも、初めは土日にバイトを入れることで、月々の不足を補った。だが7~8年前、どうしても足りず、カードローンに手を出した。以来、カードローンの残高は積み上がり、借金の沼から抜け出せなくなった。
「金銭にルーズだったということに尽きますね」
志村は自嘲気味に語る。
家計が厳しいということを早めに妻に相談できれば、生活費を節約したり、パートに出たりするなどして対応してもらえたかもしれない。だが、プライドが邪魔をしたのか、志村は妻に言い出せなかった。妻は、夫が普通に働き、お金を稼いでいると思い込んでいた。
だが、自転車操業のような生活は終わりを迎える。借入金限度額の上限に達してしまったのだ。住宅ローンを含めた借金の総額は2000万円を超えていた。
そして、すべてを打ち明けると、妻は子どもを連れて家を出た。最終的に、慰謝料と養育費を払わない代わりに、親権は妻が持つという条件で離婚が成立した。
2020年8月、コロナ禍の中での出来事である。
一人残された志村は借金を返済するため、27年間勤めた会社を辞めた。借金の返済に充てる退職金が目的だった。だが、悪いことは重なるものだ。飲食店のバイトを始めたが、仕事や若者中心の職場に馴染めず、次第に店長からきつく当たられるようになった。
借金と離婚で精神的に参っていたところに、新しい職場の人間関係の不調である。何もかもが嫌になった志村は、すべてを放り出して故郷を後にした。そして11月下旬、カバン一つで軽バンに乗り込むと、東京に向かってアクセルを踏んだ。
「すべてから逃げ出したかったんです。夜逃げ同然? そうですね。まさに夜逃げでした」
志村はそう振り返る。
東京を目指したのは、最終的に東京でホームレスになろうと思っていたからだ。道の駅の駐車場で寝泊まりしながら東京を目指し、所持金が切れた段階で車を乗り捨てホームレスになる。最後は路上で野垂れ死ぬ──という計画である。
「自死」という選択肢が脳裏によぎらないこともなかったが、自分は自殺ができるような人間ではないと、すぐに思い至った。
道の駅を転々とする生活を始めた志村は、北関東に入った後、群馬、栃木、埼玉、茨城、千葉、埼玉と、道の駅を求めて南下した。長時間、道の駅に駐車していると怪しまれるため、昼間はコンビニで時間を潰し、夜遅くに道の駅に行った。
「車中泊の間、一番気をつけていたのは警察の職務質問です。一度、福島で呼び止められまして。この時はテールランプが切れていることを指摘されただけでしたが、根掘り葉掘り聞かれると面倒だな、と」
そうこうしているうちに12月になり、夜の寒さでまともに眠れない日が増えた。少しでも暖かいところに移ろうと、スマホで関東近郊の気温を調べると、神奈川県の気温が他よりも少しだけ高い。そこで、神奈川県に移動することにした。
死のうとしている人間が、寒さに震え、暖かい場所を目指すのも不思議な話だが、それも含めて人間のリアルだろう。
この時に神奈川県に移動したことで、志村の人生は動き始めるが、その時は知る由もない。
■使い捨ての日系ブラジル人
暗闇の中でもがく人間がもう一人いた。日系ブラジル人三世のペドロ・ミウラ(仮名)である。深夜のパン工場で働きながら、ペドロは自分の人生がどこまでも落ちていくような感覚に震えていた。
ブラジル・サンパウロ出身のペドロ。大学ではマーケティングを専攻したが、大学在学中の21歳の時にカメラマンとして働き始めた。家計が厳しく、少しでも家にお金を入れるためだった。
そして、大学を卒業すると、新聞などメディア向けのカメラマンとして本格的に活動し始めた。
腕が認められてF1チームの専属カメラマンに抜擢されるなど、仕事は順調だった。ところが、2016年に始めたレストラン経営で躓いてしまう。サンパウロ郊外で寿司レストランやホテルを開こうという友人の誘いに乗ったのだ。
富裕層を中心にブラジルでも寿司人気が広がっていたため、面白い話だと感じたペドロは経営に参画したが、出店などに想像以上の資金がかかり、店の経営がなかなか軌道に乗らなかった。
2年間続けたが、先の可能性がないと感じたペドロは、レストラン経営に見切りをつけ、経営から身を引く。そして、有り金を失ったペドロは金を稼ぐため、先に日本に出稼ぎに来ていた親戚を頼って来日した。2018年4月のことだ。
来日したペドロは、1年間の契約社員として、親戚が働いていた九州の自動車部品工場で働き始めた。自動車の座席シートで使う素材を裁断する工場である。だが、それからすぐに「これは無理かも」と感じた。十分な安全対策は施しているようだが、裁断工程を見て、いずれ怪我をすると感じたのだ。
親戚の紹介で働き始めた手前、すぐに辞めては申し訳ないと思ったが、半年ほど働いて工場を辞めた。ペドロの直感が正しかったのだろうか、彼が辞めた後、しばらくして手に怪我を負った親戚はブラジルに帰国している。
次の仕事は、大手事務機器メーカーの製品を梱包する物流センターの仕事だった。この仕事は職場の雰囲気もよく、ずっと続けたいと思ったが、1年後の2020年3月に契約期間が切れ、雇い止めに遭う。
時あたかも、新型コロナウイルスが広がりを見せ始めた時期である。先々の需要減を見越して、会社が人員削減に動いた可能性はもちろんある。ただ、人件費の上昇を抑えるため、外国人労働者とは契約を更新せず、1年で入れ替えるというのはそれほど珍しいことではない。
ペドロのような外国人労働者にとって、契約満了で仕事を失うということは、会社が借りたアパートを追い出されるということを意味する。感染拡大に世界中が警戒する中、ブラジルに帰ることもできず、スマホを手に、外国人でも働くことのできる仕事を必死に探した。
次の仕事は、大手コンビニとも取引のあるパン工場だった。仕事は夜10時から朝8時まで。アパートの家賃として5万5000円を抜かれるが、月給約20万円の仕事である。
ただ、夜勤ということもあり、ここの仕事は厳しかった。それ以上に、ペドロを苦しめたのは職場の人間関係だった。それも妻の人間関係である。
実は、ペドロは子どもをブラジルに残し、同じ日系人の妻とともに来日していた。これまでの職場でも、妻と会社が借りたアパートに入り、同じ職場で働いてきた。その妻が職場でいじめに遭い、体調を壊してしまったのだ。
「こんなところでは働けない」
そう思ったが、この職場を辞めてしまえば、住むところがなくなってしまう。緊急事態宣言で経済活動が縮小している今、すぐに次の仕事が見つかるかどうかも分からない。
そのため、我慢して働き続けたが、1年後の2021年3月、再び契約終了を通告された。しかも、1カ月後までにアパートを退去してほしいという。
このままでは夫婦揃って路頭に迷うことになる──。
意を決したペドロは生活援護課に電話をかけた。「武藤さん、助けてください」と。
■断らない相談支援
ペドロの電話を受けた武藤清哉はすぐに状況を察した。
「ああ、あの時の人か。雇い止めに遭ったんだな」
そして、手元のファイルを開き、過去のやり取りを記録した資料に視線を落とした。
「令和2年3月30日、妻とともに来庁。仕事の契約が切れるので寮を出なければならない。一時生活・就労・家計改善支援で住まいと仕事を支援」
ビザのコピーと一緒に綴じられた資料には、そう書かれている。座間市生活援護課の自立サポート担当を務める武藤清哉は、生活援護課を率いる課長、林星一の右腕として日々生活困窮者の相談に乗っている。
実は、来日後、二番目に働いた物流センターは座間にあり、ペドロ夫婦は市内のアパートで暮らしていた。その時に、雇い止めの相談で市役所を訪問していたのだ。
もっとも、この時はペドロが自分でパン工場の職を見つけたため、生活援護課として支援することはなく、それっきりになっていた。それから1年後、向こうからわざわざ電話をしてきたということは、恐らく厳しい状況に追い込まれているに違いない。
ペドロの電話を受けた武藤は、いつもののんびりした口調で応えた。
「ペドロさん、お久しぶりです。どうかしましたか?」
「パン工場の仕事が切られて。もうすぐアパートを出ないといけない」
「今はどちらにいるんですか?」
「埼玉のアパートです」
過去に座間市に居住していたとはいえ、今のペドロは別の自治体に住んでいる。原理原則で言えば、ペドロが暮らしている自治体につなぐべき案件だ。だが、生活援護課は困窮者を見捨てない。
担当の武藤には、ペドロに自立の意思と働く意思があること、そして、日本で生活の基盤を作り、ブラジルの家族を呼び寄せようとしていることが分かっていた。そんな人間のSOSを無下に断ることはできない。
「断らない相談支援」。これは生活援護課が掲げる理念だ。文字通り、外国人であろうが、市外の人間だろうが、座間とつながりができた人間の相談は断らずに聞く。
もちろん、相談を聞いた上でできることとできないことはある。また、あくまでも自立したいという本人の意思があってこそのサポートである。それでも、相談者の状況が好転するように、できる限り伴走する。
その立役者は、課長の林星一だ。生活保護利用者の相談業務に当たるケースワーカーとして座間市に採用された2006年以降、一貫して座間市の困窮者支援に関わっている。
林と自立支援との関わりは、生活困窮者自立支援法が施行された2015年4月にさかのぼる。この時に、生活援護課に新設された自立サポート担当(自立相談支援員)に就任すると、行政の枠を超えた今の座間市の困窮者支援体制をつくり上げた。
丸刈りで恰幅のいい、目元の優しい人物だが、「情熱的で熱い男」とケースワーカー時代の上司だった座間市役所子ども未来部部長の内田佳孝が表現するように、ひとたび福祉について語り出せば強い思いがほとばしる。
林が「断らない相談支援」という看板を掲げる理由、それは話を聞かなければ、生活困窮の実態が分からないということに尽きる。現に、生活困窮者の置かれている状況は一人ひとり異なる。
プロローグで紹介した神村や佐藤のような引きこもりの家族を抱える家庭もあれば、年金生活の高齢者、障がいのある人、ひとり親、派遣切りなどで仕事を失った人など置かれた状況は様々だ。
また、就労が可能な人であれば自立支援の一環として職探しのサポートに、生活保護の受給資格のある人であれば生活保護につなぐことができるが、就労経験がほとんどなくすぐに就労ができない人や就労を望まない人は存在する。借金があり、先に債務整理が必要な場合も少なくない。
それぞれの状況があまりに異なるために、じっくりと話を聞いて本人の状況を把握しなければ、適切な対応を取ることができない。それゆえに、入り口で断らず、まず相談を受け止める。ペドロとのやり取りが象徴しているように、外国人だろうが、市外の人間だろうが、誰であろうが門戸は閉ざさない。
現実を見れば、生活援護課に相談に来た段階で、どうにもならない状況に陥っている場合も多い。
例えば、病気になって働けなくなった人がいたとして、雇用保険に加入していれば、失業保険の期間中は問題なく生活できるかもしれない。ただ、収入がなければいずれ蓄えは底をつく。そうなれば、消費者金融やカードローンで金を借りることになるかもしれない。親類や知人からも金を借りれば、人間関係も崩壊していくだろう。
そして、家賃の滞納が始まり、住居を追い出され、ようやく役所に駆け込んで来る。
「ここまで来てしまうと、打つ手が限られてしまう。なるべく早い段階で相談してもらうには、困窮状態に陥っている人との接点を増やす必要がある。それで、『断らない相談支援』という看板を掲げました」
そう林は語る。
■緩やかにつながるの意味
日本には、生活保護というセーフティネットがある。ただ、生活保護には「世帯収入が定められた最低生活費に満たない」という明確な基準があり、生活困窮者の誰もが受給できるわけではない。
それに、生活保護の基準を上回る収入があっても、生活に困窮している人は大勢いる。
借金が膨れあがり、月々の返済に押しつぶされている人は枚挙に暇がない。月の収入が返済で消えてしまい手元に生活資金が残らない人、逆に収入がなく、今は預貯金を取り崩して生活しているが、早晩行き詰まることが見えている人もいる。また、生活保護自体が恥ずかしいと、生活保護の利用を避ける人も少なからず存在する。
生活困窮者自立支援法が定める生活困窮者とは、生活保護を受けていないものの、将来的に生活保護の受給に至る可能性がある人、あるいは経済的な問題だけでなく、日常生活や社会生活を送る上で問題を抱えた人である。
ペドロのような就労に関わる問題もあれば、神村や佐藤のような引きこもり、うつや精神疾患、軽度の知的障がい、家計や家族の問題など、その対象は幅広く、生活保護のように一定の基準では線引きできない。
生活援護課が自立相談支援や就労支援、家計支援、子どもの学習・生活支援など幅広いサポートを実施しているのも、住民との接点を増やし、困窮者を早期に見つけ出すことが狙いだ。
事実、自立サポート担当のところには1日平均3~4人の相談者が訪れる。定期的にコミュニケーションを取っている相談者は300~400人に達する。
自立相談支援の際に尊重するのはあくまでも本人の意思で、自立サポート担当が支援を押しつけることはない。だが、支援が必要になった時すぐに対応できるように、ゆるやかにつながっている。
ペドロも、武藤とゆるやかにつながっていた。だからこそ、最後の最後でSOSを発信してきたのだ。
ペドロの電話を受けた武藤は次のように提案した。
「シェルターが一室空いていますから、座間に来ませんか。座間で一度落ち着いて、住まいとペドロさんが楽しめる仕事を探しましょう」
「シェルター」とは、仕事を失った人が一時的に住めるように、座間市が確保しているアパートの一室だ。生活困窮者自立支援事業として、座間市がNPOワンエイドに委託している一時生活支援事業である。居住できる期間は3カ月だ(場合によってはさらに3カ月延長が可能)。
武藤の思いがけない提案に、ペドロは思わず言葉を失った。教師としてブラジルに渡った祖父に、日本の話はよく聞いていた。日本は街も清潔で、社会も安定している。日本人も勤勉で、礼儀正しく、忍耐強い。お前にも日本人の血が流れているのだから、日本人として恥じない人間になりなさい、と。
第二次大戦で灰燼に帰したあと、数十年で世界有数の経済大国になったのも、冷戦下の国際情勢の影響はもちろんあるが、日本人の国民性によるところも大きい。
ところが、実際に出稼ぎに来てみれば、日本は外国人である自分たちに無関心で、単なる労働力の一つとしかみなされていなかった。日本という国に幻滅しかけていただけに、武藤の申し出に耳を疑ったのだ。
感極まって次の言葉が出ないペドロに対して、武藤はもう一度、尋ねた。
「座間に来ませんか?」
そして、ペドロは答えた。
「是非お願いします」
その目には涙がたまっていた。
その後、シェルターに入ったペドロは生活援護課の就労相談員を務める内山朗彦と仕事探しを始めた。
内山は、高校時代から東京・山谷、大阪・釜ヶ崎に並ぶ「寄せ場」として名高い横浜・寿町の日雇い労働者支援に関わるなど、困窮者支援をライフワークにしている人物である。勤めていたソフトウェア会社を早期退職した後はホームレスや精神障がい者の支援員を務め、2020年4月に生活援護課に来た。
ペドロは内山が見つけてきた子ども向け写真スタジオや座間市内のベーカリーなどいくつかの仕事を体験したが、最終的に隣接する市にあるスポーツクラブで働き始めた。今のところ、受付事務や器具の消毒をし、器具の使い方を利用者に教える程度だが、いずれはインストラクターになりたいという。
住まいの方も既にシェルターを出て、座間市内にアパートを借りた。どん底を乗り越えて自立の道を歩み始めている。
「日本はひどい国だと思っていたけれど、武藤さんのような人もいる。僕もここで生活の基盤を作り、いずれは自分の会社を持ちたい」
■回り始めた歯車
一方、寒さに耐えられず神奈川に移動した志村は、相変わらず昼はコンビニ、夜は遅くに道の駅に行くという生活を繰り返していた。
だが、毎日コンビニでぼんやりしているうちに、志村の心境が少しずつ変わり始める。自分の目の前を行き交う学生や会社員を見ているうちに、「自分は何をしているのだろうか」という思いが湧き上がってきたのだ。
すると、無性に働きたくなった。そのためには、住む家が必要だ。自分のように、夜逃げ同然に故郷を捨てた人間でも借りられるアパートはないだろうか。そう思ってスマホで調べ始めると、YouTubeのあるコンテンツが目に止まった。座間市の不動産会社、プライムについて取り上げた動画である。
プライムは、ワンエイドの理事を務める石塚惠が2012年に設立した会社だ。民間の不動産会社だが、座間市の委託で一時生活支援事業や地域居住支援事業を手がけるワンエイドと連携し、高齢者や困窮者など、住居を借りることが難しい人々に住居を仲介している。
ここに行けば、アパートを借りられるかもしれない──。そう思った志村は、スマホのナビに従ってプライムに向かった。
プライムは、日産自動車の座間工場の跡につくられた「イオンモール座間」の目と鼻の先にあった。幹線道路沿いの連棟式の店舗に、プライムとワンエイドが仲良く並んでいる。
店舗に入ると、事務の女性に自分の状況を話し、アパートを借りたいと申し出た。ただ、代表の石塚はあいにく不在だった。
「しばらく多忙なので、1週間後にまた来ていただけないでしょうか」
事務の女性に、そう言われた志村は、神奈川県清川村にある道の駅で寝泊まりし、1週間後に再び訪れた。目の前には、プライムの石塚と、ワンエイドの代表を務める松本篝が座っていた。空を見上げると、分厚い雲が覆っていた。2020年12月22日のことだ。
故郷を出奔した時からこれまでのことを二人に説明すると、一度、生活援護課に相談すべきだと言った。そして、3人で生活援護課に行き、自立サポート担当の武藤に事情を話した。
相談を受けた武藤は、
「これは生活保護かな」
と感じたが、詳しく話を聞くと、本人には働く意思がある。ならば、自立に向けて何ができるかを一緒に考える方がいい。そこで、就労相談員の内山とともに、志村の仕事を探すことにした。
幸いなことに、東名高速道や圏央道などの高速道路が走っている座間市周辺は、物流関連施設があちこちに点在しており、仕事の中身を選ばなければ、比較的求人が多いエリアである。
仕事を選り好みするつもりのなかった志村は、すぐにアパート付きの仕事を見つけた。ある大手小売りのパンを店舗別に仕分ける仕事だ。夜7時から朝6時までの夜勤だが、派遣会社のアパートに入ることができる。
そこで、2021年1月から1カ月ほど働いた後、志村は別の現場に移り、6月までその現場で働いた。節約のため、仕事場までの片道45分は歩いて通った。働き始めたのは冬だったが、暖房器具も入れなかった。
「車中泊に比べれば、家の中は暖かいので……。全く気になりませんでした」
そして、20万円ほどを貯めると、相武台に賃料4万1000円のアパートを借りた。ようやく再出発できる──。引っ越しを終えた志村は、嬉しさを押し殺すようにこぶしを握りしめた。
■第二の人生
志村について言うと、就労以外にもう一つの問題があった。債務整理である。志村には、住宅ローンを含め2000万円を超える債務がそのままの状態で残っている。税金に加えて国民健康保険料の滞納もあり、健康保険証も使えない状況だ。
早急に債務を整理し、必要な支払いを済ませなければならない。そこで、武藤は職探しと並行して、家計改善支援を受けてはどうかと志村に提案した。
志村が典型だが、困窮状態に陥っている人には、そうなってしまった原因がある。
派遣切りのように収入が途絶えたことが原因であれば、家計改善はそれほど難しくはない。だが、借金がある、そもそも金銭管理が苦手だという人は少なからず存在する。そのような場合、日々のお金の使い方の改善を支援しなければ、再び同じことを繰り返す可能性が高い。
その点、家計改善支援を受ければ、ひと月に1回、家計相談員との面談があるため、相談者の家計状況をある程度把握することができる。特に、家計相談を手がける座間市社会福祉協議会の場合、相談の際に収入や借入金、基本生活費などを記入した「相談時家計表」を作成し、ひと月のお金の出入りを可視化するため、支出の中で優先すべきものが明確になる。
志村の場合、アパートを借りて自立するという本人の強い思いがあったため、座間市社協で家計相談員を務める中川惠都子と敷金・礼金などアパートを借りる際に必要な経費20万円を貯めるという目標を立てた。金銭にルーズな面のある志村が半年ほどで目標を達成することができたのは、中川が収入と支出を整理し、目標達成に向けて伴走したからだ。
アパートを借りた今の目標は、滞納している税金の支払いと歯医者に通うお金を貯めることだという。
そして、もう一つが故郷に残してきた自宅の処分である。志村が抱える債務を整理するには、自宅を売却し、その資金を返済に充てる必要がある。ただ、逃げるように故郷を出てきた志村は、知り合いの多い地元に戻ることを恐れていた。
そこで、中川は司法書士の古谷理博を志村に紹介し、自宅の任意売却を依頼してはどうかと提案した。古谷は横浜に本拠を置くJBA司法書士法人の代表社員で、家計相談をはじめ座間市社協の支援業務を専門家としてサポートしている。
志村の件でも、依頼を受けた古谷は志村の代わりに現地に飛び、自宅売却の算段をつけた。自宅の中に残された家財道具を処分するため、離婚した妻とのやり取りも代行している。
「現地まで行くのはレアケースですが、必要であれば、どこでも行きます。私は債務整理などのお手伝いはしますが、目標は債務整理ではなく生活再建です。それを担当している社協さんの方が、圧倒的に大変です」
古谷はそう語る。
最終的に、志村の自宅は同じ街に住む彼の姉が購入することになった。姉との関係は断絶していたが、弟の近況を聞いた姉が支援を申し出たのだ。
武藤や内山、中川、古谷などの支援で住居確保と債務整理にめどがついた志村は今、障がい者に就労の場を与える障がい者支援施設の正社員として働いている。
この仕事は、自分でハローワークに行き、自分で探し出した。座間市に来てからの自分は、生活援護課に頼りきりだった。でも、最後は自分でなんとかしたいと、ハローワークに出向いたのだ。そして、障がい者施設の雇用を見つけて面接に臨み、採用を勝ち取った。
正式に採用された旨を電話してきた志村に、武藤はこう声をかけた。
「今のご時世、正社員は難しいのに志村さんはすごいですよ。私も志村さんも人を支援する仕事。不思議な感じがしますね」
なぜ障がい者支援施設だったのか。その点を志村に尋ねると、彼はこう答えた。
「これまで全く無関係な自分のために、武藤さんや中川さん、古谷さんなど、たくさんの人が手助けしてくれました。その姿を見て、自分も他人のために何かしたくなったんです」
横にいた武藤は、その言葉を聞いて言った。
「なりたい自分があるのであれば、私たちは全力でお手伝いします」
志村に訪れたもう一つの変化、それは故郷に対する思いである。
様々なことが重なり、逃げ出すように故郷を出てきた志村。だが、生活が落ち着いてくると、故郷を懐かしむ思いが去来するようになった。嫌なこともたくさんあったが、生まれ育った街であり、自分が生きた舞台だ。両親の墓も残っている。
嬉しいことに、散々迷惑をかけた姉は、古谷を介して「怒らないから一度、帰ってこい」と言ってくれている。今も地元に帰ることに対する恐怖心は残っているが、迷惑をかけた姉にはしっかりと謝らなければならない。
そして、意を決した2021年の年末、志村は故郷に帰った。
「怒られると思いましたが、終わったことは仕方がないって。いい話ができました」
そう語る志村の顔には、精気が漲っていた。
第2章 チーム座間
生活援護課の朝は慌ただしい。
50人を超える課の職員が続々と出勤し始めるのは朝8時過ぎ。そのままロッカーにコートをしまいに行く者、座席で一息ついてコーヒーを飲む者、パソコンを開いて1日の予定を確認する者、鍵付きの部屋で管理している生活保護利用者のケースファイルを取り出す者など、8時30分の始業を前に、それぞれが思い思いの時間を過ごす。
始業前には朝礼がある。1月半ばのある日の朝礼では、課長の林から、前日の夜に亡くなった生活保護利用者の話があった。
「夜遅くに市役所に連絡があり、守衛さんから知らせを受けました。日々、生活保護の方々とやり取りしていると思いますが、改めてケースファイルを見返して、心配な人とは密に連絡を取っていきましょう」
生活保護利用者には高齢者が多く、定期的に連絡を取っていても、急に体調を崩すなどして亡くなる場合も少なくない。デイサービスなどの介護サービスを利用していればまだいいが、介護サービスを活用していない高齢者や家族との関係が切れている高齢者の場合は発見が遅れてしまう。そういう事態を防ぐために、ケースワーカーとしても注意していこう──という呼びかけである。
実は、林の机には小さなホワイトボードがあり、その裏側にはガムテープで小さなメモが貼られている。
「命の事以外は慌てる必要はない」
メモには、そう書かれている。生活援護課では日々、様々なことが起きる。その中には、課長として林が意思決定を求められる案件も多い。だが、その時も、一呼吸置いて熟慮する。その戒めのために貼っているという。
「何かあると慌てるタイプなんですよ」
そう言って林は恥ずかしそうに頭をかいているが、一方で利用者の命に関わることには即座に対応する。それが林と生活援護課の流儀である。
そして、市役所全体に始業のチャイムが鳴り響くと、慌ただしい1日が動き出す。
■生活援護課の一日
3人の係長を含め27人のケースワーカーが在籍する生活援護係では、始業のベルが鳴ると、それぞれのケースワーカーが生活保護利用者の情報が記録されているケースファイルを開き、相談内容をパソコンに打ち込んだり、窓口に来た生活保護利用者の相談に乗ったりと、それぞれの仕事を始める。
ケースワーカーの主な仕事は、生活保護費の支給業務と生活保護を希望する人との面談、生活保護利用者の現況確認である。
生活に困窮している人々が健康で文化的な最低限度の生活を送るために生活保護制度が存在しているということを考えれば、生活保護費の計算と支給はケースワーカーの仕事の一丁目一番地だ。希望者との面談も同じく重要で、電話での問い合わせであれば話を聞き、面談の段取りをつける。実際に面談に来た人に対しては、その人の状況を詳しく聞き、生活保護の受給条件に合致するかどうかを検討する。
現況確認も、利用者が必要な扶助を得られているかどうかをチェックするために不可欠なものだ。実際の生活状況を確認する必要があるため、利用者の自宅や居住している施設などを訪問し、本人や施設の担当者に利用者の日々の生活や仕事、健康状態などを聞き取ることもある。そこで、健康状態の悪化などが分かった場合は病院での受診を調整したり、介護サービスを入れたりと、関係機関と連携してその人に必要な支援を提供していく。
前述したように、座間市の生活保護利用者は2021年11月時点の速報値で2353人と全人口の17.88パーミルに上る。最近は単身高齢者が増えており、病院や介護施設との連携は以前にもまして重要になっている。座間市の場合、ケースワーカー一人が担当しているのは80世帯ほどで、この数が増えるようであれば、ケースワーカーを増やす。
普段から相談対応や家庭訪問と忙しく動き回るケースワーカーが、最も忙しくなるのは「締め日」の前だ。生活保護費は、その人の収入に応じて金額が異なる上に、不正受給がないかどうかのチェックも必要だ。法令規則に則って、生活保護受給費の計算や事務作業が発生するため、締め日の残業がどうしても増えてしまう。ケースワーカーが「計算ワーカー」と言われるゆえんでもある。
生活援護課を率いる林も、自立サポート担当になる前は生活保護のケースワーカーを9年間務めた。
その自立サポート担当も、負けず劣らずバタバタしている。彼らの場合、困窮状態に陥っている人とのアポで手帳がびっしり埋まる。相談の時は役所に来てもらうことが基本だが、引きこもり状態など出てこられない場合はアポを取り、自宅を訪問する。それゆえに、筆者が自立サポート担当の武藤や吉野文哉に電話しても、不在でなかなかつながらない。
実際に面談する場合も、その人の状況に応じて生活援護課の就労相談員や子ども健全育成支援員、あるいは座間市社会福祉協議会の家計改善相談員などとともに、自立のための最善の手を考えていく。
このように多忙を極める自立サポート担当だが、毎月の第二木曜日は輪をかけて忙しくなる。この日は、「チーム座間」のメンバーが集まる月1回の支援調整会議が開かれるからだ。
チーム座間とは、生活援護課とともに困窮者支援に当たっている組織や団体とのネットワークの総称だ。支援調整会議には、生活援護課の自立相談支援員(武藤や吉野)の他、以下の団体・組織の人間が参加している。
■座間市が取り組む自立支援事業
生活困窮者自立支援法では、生活困窮者に対する自立相談支援と住居確保給付金の支給を自治体の必須事業と位置づける一方、就労準備支援や一時生活支援、家計相談支援などは地域の実情に応じて実施する任意事業としている。座間市は以下の自立支援事業を整備してきた。順を追って説明しよう。
まず、自立支援法が施行された2015年4月から始めている「自立相談支援事業」だ。これは、相談支援や就労支援、住居確保給付金の給付などの支援業務のことで、自立サポート担当の武藤と吉野の他に、週4日の会計年度任用職員として、相談支援員が二人(大島一路、比嘉沙織)、就労相談員が二人(内山朗彦、井上邦比古)、子ども健全育成支援員が一人(山城玲子=仮名)、住居確保給付金担当が一人(金子典代)という布陣で自立支援の核である自立相談に乗っている。
次に、「無料職業紹介事業」だ。これは2015年11月に始めた、ハローワークとは別に生活援護課が手がける職業紹介である。生活援護課の就労相談員が仕事を探し、困窮者や生活保護利用者に直接紹介する。
また、2016年7月に始めた「家計改善支援事業」もある。
生活困窮者の中には、金銭管理が不得手という人が少なくない。第1章で触れた志村のように、借金を抱えて二進も三進もいかなくなっている人や精神疾患などの影響で支払いの優先順位がつけられない人、買い物などの欲求を抑えきれないという人もいる。そういう困窮者に対して、座間市社協の支援員が家計改善に乗りだしていく。
家計改善支援は座間市において大きな力を発揮している。コロナ禍で利用が急増した「生活福祉資金特例貸付」の継続申請(再貸付)の際に、自立相談と家計相談を組み合わせたことで、困窮者の状況をより詳しく把握できるようになったのだ。
低所得者や高齢者、障がい者を経済的に支える生活福祉資金の貸付制度は以前から存在した。ただ、コロナ禍で困窮者が激増したため、国は月15万円までの生活資金を3カ月分(単身者の場合。二人以上世帯は月20万円まで)10年間無利子で貸し付ける総合支援資金と、20万円までを2年間無利子で貸す緊急小口資金の二つの特例貸付を実施した。この中の総合支援資金は最大2回まで延長できたため、継続利用の際の条件である自立相談に家計相談を組み入れたわけだ。
コロナ前は年600件ほどだった生活福祉資金の貸付だが、特例貸付が大きく増加したため、令和2年度の件数は1万2900件に達した。実際、家計改善支援員として相談に乗る座間市社協の中川惠津子や武田麻衣子は武藤や吉野、大島、比嘉と連携し、800人を超える人と面談した。そこから別の支援につながったケースも少なくない。
2017年10月に始めた「就労準備支援事業」は、引きこもりが長く続いた人、うつ病などの精神疾患や障がいを抱えている人など、すぐに働くことのできない人向けの支援だ。
例えば、決まった時間に決められた場所に通う、掃除や洗濯、料理など家事を練習するといった生活訓練の他、スーパーや工場などでの1日数時間の職業訓練などである。
こういった就労準備支援や就労訓練は、生活クラブ生協、NPOワーカーズ・コレクティブ協会、さがみ生活クラブ生協による共同企業体(サービス名は「はたらっく・ざま」)、ユニバーサル就労支援事務局、認定NPOきづきなどが担っている。
さらに、生活困窮に陥る世帯が増える中、大きな課題として浮上している子どもたちのケア。その対応として、2018年7月以降、生活援護課は座間市社協とともに、子どもたちのための学習支援も進めている。地域の老人福祉施設などを活用し、市内の小中学生が放課後に勉強できる「教室」を開講しているのだ。
放課後教室「リラックスタディざま」は市内に在住する小・中・高校生であれば、誰もが利用することができる。新型コロナの影響で休講している教室もあるが、座間市内8カ所の教室で、46人の子どもたちが元教師や大学生などのボランティアと勉強に励んでいる。
そして、住居を持たない人やネットカフェを転々としているような住居の不安定な人に、シェルターなど一時的な住まいを提供する「一時生活支援事業」だ。こちらは、フードバンクや困窮者支援向けの居住支援を手がけるワンエイドに業務を委託することで、2020年4月にスタートさせた。
2020年8月には、従来の自立相談支援事業をもう一歩進め、相談に来られない困窮者のところに訪問し、より直接的に支援する「自立相談支援事業(アウトリーチ支援)」も始めた。アウトリーチとは、「手を伸ばす」という意味の英語で、福祉の分野では「訪問支援」という意味で用いられる。
このほかに、座間市独自の施策として、共同企業体に委託して行われるひきこもりサポート事業(居場所づくり)もある。
このように、生活援護課は自立支援法が定めている必須事業や任意事業を徐々に強化してきた。
■チーム座間を支える支援調整会議
支援調整会議では、ここで挙げた団体や組織の人間がそれぞれの状況について話し、それぞれが現場で直面している課題を共有していく。
例えば、2022年1月の支援調整会議では、林自身がメンバーとして参加する、生活困窮者自立支援法の見直しに向けた厚生労働省主催の検討会「生活困窮者自立支援のあり方等に関する論点整理のための検討会ワーキンググループ」での議論に加えて、障がい者支援の枠組みから抜け落ちている障がい者に、どのように支援の手を差し伸べるかということが議論になった。
支援調整会議は、もともとは市役所の中の会議体だったが、支援活動の中で頻繁に関わる外部の人々を加えていった結果、今のような形になった。
最初は市役所の中の打ち合わせスペースで、参加者も自立サポート担当だった林と大島、そして座間市社協の人間くらいだったが、チーム座間のメンバーが増えるにつれて、使用する会議室もどんどん大きくなっていった。
もちろん、ここで挙げている組織や団体の他にも、チーム座間として支援の輪に加わっている人は大勢いる。
チーム座間は「断らない相談支援」を実現する上で、不可欠なプラットフォームになっている。
繰り返し書いているように、困窮者の置かれている状況はそれぞれに異なる。そんな相談者の状況に合わせて、それぞれの組織が有機的につながり、解決策を模索していく。
例えば、第1章で述べた志村の場合、入り口はプライムだったが、自立サポート担当の武藤につながり、住まいの確保と就労支援が必要との判断の下、就労相談員の内山が寮付きの仕事探しを手伝うことになった。
また、志村には債務の問題があったため、座間市社協の中川と司法書士の古谷理博が家計改善と債務整理をサポートした。その後の住まい探しは、地域居住支援事業を手がけるワンエイド、実際の物件仲介はプライムの担当だ。
最後の職探しは志村自身だが、彼が自立する過程を紐解けば、チーム座間の連携が分かるのではないか。
ペドロの場合もそうだ。彼の場合は座間市内の物流センターの仕事を切られた時に生活援護課に相談に行ったことで、その後の支援の道が開けた。具体的に言えば、本人のSOSを受けた武藤がワンエイドに委託している一時生活支援事業を活用し、ペドロを無料のシェルターに入れて住まいを安定させると同時に、就労相談員の内山が仕事を探し、就労につなげた。
志村とペドロが生活再建に結びついたのは、二人に強い自立の意志があったからだ。ただ、自立サポート担当の武藤一人では、ここまでのことはできない。困窮者の課題は一つではなく、絡み合った複数を抱えている。そんな複雑な課題を単一の団体や組織が解決していくのは不可能に近い。
事実、チーム座間はコロナ禍において最大限に力を発揮した。
コロナが拡大した2020年4月以降、生活援護課への新規相談は急激に増えた。コロナ前、新規相談件数は多い月でも40件ほどだったが、1回目の緊急事態宣言が発令された2020年4月の213件をピークに、5月(187件)、6月(121件)、7月(89件)、8月(107件)、9月(89件)、10月(65件)、11月(68件)、12月(52件)、2021年1月(91件)、2月(101件)、3月(118件)と、コロナ前の3倍で推移した。2021年度の新規相談件数は、さすがに2020年度よりも減っているが、それでもコロナ前の2倍の水準だ。
「もともとギリギリの生活をしていた人がコロナをきっかけに困窮状態になった。飲食店など、今まで困窮とは無縁だった自営業者も苦境に陥っています」と林が語るように、幅広い層が打撃を受けた。
急増する新規相談に生活援護課はパンク寸前だったが、先に述べた住居確保給付金や生活福祉資金の特例貸付、衣食住を一時的に提供する一時生活支援、新型コロナウイルス感染症生活困窮者自立支援金など、制度をフル活用して困窮者の増加に対応した。それができたのも、チーム座間のネットワークがあったからだと林は言う。
「チーム座間がなければ、もっとしんどかったと思います」
■夜の店を卒業したスナックのママ
コロナ禍による自営業者の苦境は、大和市でスナックを経営していた君塚瞳(仮名)のケースに見て取れる。
父親の顔も名前も知らずに育ったという君塚は、10代の頃から水商売の世界で生きてきた。「人と話すのが好きで、この世界の水が合った」と語るように、気さくでチャーミングな君塚はどこの店でも人気だった。そして、30代半ばに独立。カウンター7席と小さいが、経営者など地元の常連が集まる賑やかなお店をつくり上げた。
ところが、新型コロナの感染拡大ですべてが暗転する。緊急事態宣言の影響で休業を余儀なくされたのだ。緊急事態宣言は5月25日に解除されたが、折からの自粛ムードでお店は閑古鳥が鳴いた。
コロナ禍はいずれ終息し、常連客は戻るかもしれない。でも、月々の家賃や水道光熱費を考えれば、いつ戻るともしれない客足に期待することはできない。このまま続けていてはいずれ破綻する──。そう思った君塚は、店舗の契約更新のタイミングだった2020年6月に店を閉めた。
もっとも、店を閉めたことで月々の支出は止まったものの、スナックの収入も同時に途絶えてしまった。当面は他のスナックで働けばどうにかなるが、別れた前夫との間に3人の子どもがおり、子どもの学費を工面しなければならない。そこで、座間市社協に生活福祉資金の総合支援資金を借りに出向いた。
先述したが、総合支援資金は生活再建のために月15万円(二人以上世帯は月20万円)を3カ月、計60万円を10年間、無利子で借りることができる特例貸付である。1回目は基準を満たせば借りられるが、延長し2回目、3回目を借りる場合は自立相談支援を受ける必要がある。この時に自立サポート担当の吉野とつながった君塚は、「スナックのママ」ではない次の人生を模索し始める。
実は、当初は物流関連や介護の仕事を考えていたが、就労相談員としてサポートした内山の思いもよらない提案で、彼女の新しい道が拓けた。
「君塚さん、ゴルフはしますか?」
「ゴルフですか? 以前はやっていましたが……」
「キャディに興味はありますか?」
「えっ?」
聞けば、横浜市内の名門ゴルフ場がキャディを募集しているという。一瞬「キャディ?」と思ったが、青々とした芝生が広がるゴルフ場は働く場所として気持ちいい。会員も経営者など客層が高く、これまでの接客の経験が生きるかもしれない。「やってみて損はない」と思った君塚は、内山の提案に応じてキャディの研修生として働き始めた。
実際に始めたところ、18ホール歩き回るので体力的につらく、距離計測が想像以上に難しいが、週3回、朝、ゴルフ場に通った。2022年3月には研修も終わり、一人前のキャディとして働いている。
「これまでずっと夜の店で働いてきましたが、今から思えば、甘えがあったかな、と。コロナで大変な思いをしていますが、44歳にして人生を変えるいいきっかけをもらったと思います。住宅ローンに総合支援資金と借金もあるけど、負けませんよ、私は」
■70歳間近で再起した元美容師
もう一人、生活援護課の支援で生活を建て直した女性がいる。座間市内で30年以上、美容院を営んできた竹内スミ子(仮名)である。
彼女の場合、2020年4月下旬に自分で生活援護課に相談に来た。「緊急事態宣言の発令でお客さんが誰も来ない。このまま続けられるか不安だ」という内容だった。対応した相談支援員の大島が詳しく話を聞くと、翌月の5月に借りている店舗兼自宅の契約更新があるという。美容師という仕事に見切りをつけようとしているということも分かった。
ただ、美容師を辞めて物件の契約更新を見送れば、自宅と仕事を同時に失う。しかも、借りた時に大家に預けた数十万円の保証金はあるものの、店舗を元通りに原状回復しなければ保証金は戻ってこず、竹内には手持ちのお金がほとんどないため、借りている物件の原状回復ができない状況だ。
だが、チーム座間は見捨てない。
この複雑なパズルを解くためにはどうすればいいだろうか──。目の前に座る小柄な老女の話を聞きながら、大島は様々な考えを巡らせた。大島は、林が自立サポート担当になった直後の2015年5月に任期付短時間勤務職員(現会計年度任用職員)として採用された、最古参の一人である。
コロナ禍による客足の減少がいつまで続くか分からない上に、60代後半という年齢と、本人が美容師に見切りをつけようとしていることを考えれば、新しい仕事を始めた方がいいかもしれない。その場合、店舗の契約更新が間近に迫っており、新しい仕事と住まいを早急に確保する必要があるが、本人にはお金がなく原状回復ができない。逆に言えば、原状回復さえできれば保証金が戻ってくるので、住み替えも可能になる。
そこで、大島は就労相談員の井上に仕事探しを依頼すると同時に、プライムの石塚に、後払いで原状回復をお願いできる工事業者を探してほしいと頼み込んだ。原状回復の費用を保証金で支払うということだ。もちろん、林は了承済だ。
「えっ、後払いですか」
一瞬、言葉に詰まった石塚だが、彼女もチーム座間の一員である。知り合いの業者に連絡を取り、事情を話して協力してくれる業者を探し出した。そして、原状回復して大家に引き渡し、戻ってきた保証金で業者に支払いを済ませた。
「石塚さんには、ほとんど半泣きでお願いしました」
そう大島は振り返る。
仕事の方は、生活援護課が手がける無料職業紹介事業に座間市役所の清掃業務があり、そちらを紹介した。竹内は70歳近いが、やはり仕事を持っているのといないのではアパートの借りやすさが違う。
実際の引っ越しは5月3日。竹内が相談に来てから10日ほどの早業だった。
「引っ越しは私と石塚さんもお手伝いしました。チーム座間の何が欠けても、うまくいかなかったと思います。引っ越しが終わった後は、本当にほっとしました」
■役所の限界
それでは、チーム座間はいかにして生まれたのだろうか。実は、林が掲げる「断らない相談支援」を推し進めた結果だ。
2015年4月に人事異動で自立サポート担当になった林は日々、訪れる困窮者の相談に乗り始めた。それまで、生活保護のケースワーカーを9年間務めていたとはいえ、生活保護と困窮者支援は別物である。まずは話を聞かなければ始まらないと、生活援護課のカウンターにダンボールで作った看板と、相談者が名前などを書き込む受付表を準備した。
だが、話を聞けば聞くほど自分には解決できない問題ばかりだった。
引きこもりの子どもを持つ親から就労の相談を受けても、話を聞くことはできるが、市役所が把握している求人情報は限られており、ハローワークを紹介するくらいのことしかできない。そもそも働く以前に、働くということに慣れてもらう必要がある。
また、家賃の滞納によって立ち退きに直面している高齢者に公営住宅を斡旋することは可能だが、空室には限りがある。より確実な支援を実現するには、高齢者の住まいに理解のある家主や不動産会社と連携した方がいい。
同様に食料支援についても、市役所の職員が手がけるよりも専門家に任せた方が効率的だ。困窮家庭に対する食料支援は強いニーズがあるが、市役所がやろうと思っても、余っている食料がどこにあるのかも分からなければ、どれだけ集めればいいのかも分からない。
自立支援法の精神は、一人ひとりの相談者の困りごとを無理だと言わずに受け止めること。だが、実際に受け止めてみると、自分一人で解決できることはほとんどない。「断らない相談支援」を実践するには、相談者の課題を解決できる外部の組織や事業者と連携する以外になかったのだ。
もっとも、林自身が持っているコネクションは限られる。そこで、林は市役所の外に目を向けた。そして、役所の外に出た林は、地域の力を痛感することになる。