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合計1250人逮捕した横浜のドヤ街「寿町」の名物刑事の“悔いなき人生”

横浜の一等地に存在する「日本3大ドヤ街」のひとつ「寿町」をご存じだろうか。6年にわたる取材により、「寿町」の全貌を明らかにしたノンフィクション『寿町のひとびと』。著者は『東京タクシードライバー』(新潮ドキュメント賞候補作)を描いた山田清機氏だ。さまざまな人生が渦巻く寿町。そんな寿町を拠点に、1250人逮捕した「名物刑事」について、本書「第八話 刑事」から一部を抜粋・再構成して紹介する。

 昭和46年、宮崎県からひとりの若者が上京して、横浜の本郷台にある神奈川県警警察学校に入校した。

 若者の名前は西村博文。宮崎県の県立高校を卒業した西村が警察官を目指したのは、『七人の刑事』(TBS)というテレビドラマの影響もあって、小学生の頃から将来は刑事になると堅く心に決めていたからである。

 警察学校で一年間学んだ西村は、昭和47年4月、伊勢佐木警察署の地域課に配属されることになった。およそ元辣腕刑事とは思えない温顔で、西村が言う。

「伊勢佐木町と言えば有名な繁華街ですから楽しみにしていたんですけれど、配属されたのはなんと、寿町の交番だったのです。当時はともかく臭いがひどくて、ドヤ街なんて言葉も知りませんでしたから、横浜にこんな街があるのかってびっくりしましたね」

 現在の寿町の名誉のために言っておくが、西村が語っているのはあくまでも昭和40年代半ばの寿町のことである。

 寿福祉プラザ相談室発行の資料によれば、昭和45年当時、寿町には86軒のドヤがあり、総室数は5426室。しかし、西村の記憶では、当時の寿町の総人口は約1万4000人だったという。では、残りの約1万人はいったいどこで寝泊まりしていたのかといえば……。

「飲み屋で夜明かししたり、路上で寝たりしていたんですよ。朝の4時から5時ぐらいに手配師が来るんですが、その時間帯はもう寿町の道という道に人が溢れて通勤ラッシュの駅の構内みたいになる。夕方は夕方で仕事から帰ってきた人でごった返して、また通勤ラッシュのような騒ぎです。当時は2部通し(交替番の仕事を連続でやる)で働けば、一日で4万ぐらい貰えました。それを全部酒と賭け事で使っちゃうんだから、そりゃあ賑やかなもんでしたよ」

 西村によれば、当時の寿町には4つの顔があった。

 第1の顔はワゴン車と手配師が現れ、職安がシャッターを開ける朝の顔。第2の顔は仕事にアブレた人たちが酒を飲み、路上でサイコロ賭博に興じる昼の顔。第3の顔は、仕事から帰った人たちがメシを食い酒を飲んで大騒ぎをする夜の顔。では、第4の顔とは、いったいどんな顔なのか。

「日雇いの人たちが寝静まるのが午前1時ごろ。泥棒やシャブの売人みたいな悪い連中は、その後の2時か3時ごろになってようやく姿を現すんです」

 さしずめ、寿町の裏の顔といったところだろうか。

■暴動

 寿町の交番勤務についてから最初の3カ月間、西村は町の臭気に慣れることができず、ろくに食事も喉を通らない日々を送った。だが、3月を過ぎた頃から、徐々にこの町に魅力を感じるようになっていったという。

「実は、食べ物がおいしかったんですよ。焼き肉屋とかホルモン屋もありましたが、当時は和食の定食屋がたくさんあって、どの店もものすごくおいしいんです」

 多くの店がカウンターに大皿を置いて客が自由におかずを取れるスタイルだったが、そこは労働者の町である、塩分控えめやカロリー控えめの正反対で、しっかりと味のついた煮つけや揚げ物が主流だった。

「よく交番に出前をしてもらいましたけれど、寿町の外の店とは比べものにならないぐらいうまかったですね」

 もうひとつ、西村を惹きつけたものがある。まさに本書のタイトルそのものの、寿町のひとびとである。

「たとえば、福富町(伊勢佐木町に近い歓楽街)あたりで飲んでるサラリーマンと寿町で酔っぱらってる労働者と、どっちが扱いやすいと思います? 一般のサラリーマンは権利意識ばっかり強くて、喧嘩を止めに入っても『なんだこの野郎』って態度の人が多いんです。でも、寿町の人は『ダンナ、どうもすみません』ってね、根がいい人が多いんですよ。寿町の方がずっと人情味があるんです」

 交番勤務についた翌年、西村はある出来事に遭遇して、寿町が人情とは言わないまでも理屈や権利意識とは、まったく異なる原理で動いていることを実感することになる。

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 寿炊き出しの会が発行している『第24次 報告集』の「寿地区の歴史」を見ると、1965年(昭和40年)の欄に「日雇い労働者への警察官の対応で寿派出所を取り囲む騒ぎ」とあるが、この文言とほぼ同じ事態を、西村は8年後の昭和48年に経験している。

 当時の寿町交番は現在の「木楽な家」(高齢者施設)のあたりにあり、常時7、8人の警官が配備されていたが、昭和48年のある晩、約500人の暴徒によって包囲されてしまったのである。

 暴徒の憤りの理由は、まさに報告集の記述と同じ「日雇い労働者への警察官の対応への不満」だった。しかしそれは、決して弾圧への不満ではなかったと西村は言う。

「当時の寿町は、西部の町と呼ばれていたんです。西部劇の西部ですよ。なにしろ駅のラッシュみたいな騒ぎが朝から晩までずっと続いているわけだから、もう切った張ったの世界でね、盗みだの喧嘩だのが毎日20件以上もある。だから、他の交番だったら事件化するようなことでも、寿町では事件化している暇がないんです。そうすると、警察は俺たちを守ってくれないのかってことになるわけです」

 暴動と聞くと、背後に左翼系活動家の存在を想像してしまうが、西村の言葉を借りれば、寿町のひとびとは「賢明にも」活動家の扇動には乗らなかったという。

 ともあれ、寿町交番は500人もの暴徒に取り囲まれて、絶体絶命の危機に陥った。いくら屈強な警察官でも、わずか7、8人で500人を相手にはできない。伊勢佐木警察署に応援要請をする以外、打つ手はなかった。

 暴徒はジリジリジリジリ包囲の輪を狭めてきた。命の危険を感じた西村の体の中で、何かが弾けた。

「私ね、スジの違うことをやられると、自分自身が見えなくなってしまうんですよ。私、残りの警官を全員交番の中に入れましてね、ひとりで交番前の段差に腰を下ろしたんです。開き直ったんですよ。そうしたら早速石が飛んできて、右の頬に当たりました……」

 西村が少しでも動けば、暴徒に踏み殺されるかもしれなかった。一触即発の睨み合いが続いた。西村はもはや、俎板の上の鯉の心境だった。

 すると、ある人物が暴徒をかき分けて西村の前に進み出てきた。それは、寿町界隈をシマにしているヤクザの親分だった。親分といっても、30を少し超えたぐらいの年齢だ。背後に若い衆をふたり従えていた。

 暴徒がしんと静まり返ると、親分が口を開いた。

「ダンナ、どうしたんです」

 どうしたもこうしたも、見ての通り、一触即発の状態だ。

 すると親分は、暴徒の方にくるりと向き直って、例の仁義を切る格好を取った。

「頼むから、帰ってくれ」

 こうひとことだけ言うと、暴徒に頭を下げた。

「そうしたら、ものの10秒で500人からの暴徒がサーッと居なくなってしまったんです。まるで、東映のヤクザ映画を見ているような気分でした。私ね、この親分とは疚しい関係は一切ないし、ヤクザを美化するつもりもないんだけど、このときに命を助けられたのは事実なんです」

 暴徒が散ると、親分は再び西村の方に向き直って、

「ダンナ、どっちが出世するか……お互い頑張りましょう」

 と言い残して静かにその場を離れていった。親分の方も、たったひとりで500人の暴徒と対峙していた西村に、何か感じるものがあったのかもしれなかった。

 命拾いをした西村が交番の中に戻った直後、遅ればせながら、伊勢佐木警察署の内勤の警官たちが駆けつけてきた。すでに暴徒の姿は跡形もない。応援部隊の第一声は、

「なんだ、なんでもないじゃないか」

 であった。

 命を張って寿町交番を守った西村は、いまでもこのひと言が忘れられない。だから現役時代、若い警察官たちをこう言って諭してきたという。

「現場に行ってみて、たとえなんでもなくても、110番を受けた以上は、『どうしましたか』って聞くんだぞ。そして、『困ったら、またいつでも電話してください』ってつけ加えるんだ。それが警察官の仕事だ」

 寿町のひとびとの純朴さとヤクザの親分の侠気に西村が魅了されたのには、西村なりの背景があった。

 宮崎の西村の実家は、貧しい農家だった。両親は一所懸命に働いていたが、農閑期になると父親は出稼ぎに出ざるを得なかった。九州からの出稼ぎ先は大阪か名古屋だ。大阪には釜ヶ崎があり、名古屋には笹島の寄場がある。

「親父も現場仕事をしていたから、寿町の人たちが親父とダブって見えたのかもしれません。どっかで歯車が狂っちゃって、故郷に帰りたくても帰れない寂しい人たちなんだから、大切に扱わなくちゃいけないと思っていたんです」

 しかし、西村が寿町に魅了されたのは、寿町が人情味溢れる町だったという理由ばかりではなかった。

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■効率のいい釣り堀

 西村の元に刑事課への異動の話が舞い込んだのは、寿町交番に勤務してちょうど2年が過ぎた頃だった。いくつかの偶然と幸運が重なって、西村は警察官を拝命してから2年と9カ月で、子供の頃からの憧れだった刑事になることができたのである。

 最初の配属先は、伊勢佐木警察署の刑事課一係である。ちなみに当時の刑事課の内部は、扱う事案によって以下のように区分されていた。

・一係 殺人、強盗、傷害、暴行などの強行犯
・二係 選挙違反、贈収賄、詐欺などの知能犯
・三係 窃盗犯
・四係 暴力団
(注・現在の一般的な呼称は「捜査○課」。また、四係は一般的に「組織犯罪対策課」と改称されている)

 寿町のひとびとの9割9分は善良な人たちだったと前置きした上で、西村は当時の心境をこう語る。

「刑事課に配属されてみると、寿町は別な意味でとても魅力的な町だったのです。魚の少ない川に竿を出すより、魚がたくさんいる釣り堀で竿を出した方が効率がいいでしょう。当時の寿町は、たった300メートル四方の中で一係から四係まで、すべての仕事ができたんですよ」

 わずか0.6ヘクタールの中に5000室を超える部屋があり、しかも部屋数の3倍もの人間が蝟集していた当時の寿町は、犯罪者が身を隠すのに格好の場所であり、同時に、刑事にとっては〝効率のいい釣り堀〞に他ならなかったのだ。

 晴れて刑事になった西村は、まず、寿町の中に協力者を確保することから仕事をスタートさせた。

 寿町には警察が苦手な人も少なくなく、路上で人が刺されるような事件が起きても、「さぁ、見てませんね」という反応が多かった。そんな環境で協力者を作るために、西村は一計を案じた。休日返上で、早朝から深夜まで寿町に張りついたのである。

一日中、覆面パトカーの中から寿町を観察していると、怪しい動きをする人物が浮かび上がってくる。ある日、その人物に近づいてこう耳打ちする。

「この前の夜、×××××に会っていただろう」
「ダンナ、何でそんなこと知ってるんですか」
「俺は細かいことは言わないけれど、何かあったら頼むよ」

 まさに、刑事ドラマのワンシーンである。

 後に西村は県警本部の機動捜査隊(初動捜査専門の刑事集団)に異動になるのだが、ここでは反対に、刑事ドラマには決して出てこない、地味な作業を毎日欠かさず行った。

「当時の寿町には指名手配犯がたくさん逃げ込んでいたので、毎朝、共助課に行って、全国の指名手配犯の写真を何百枚って見るんです。『見当たり捜査』っていうんですが、指名手配写真を頭に叩き込んでから寿町に出かけていくと、写真とよく似た奴がその辺を歩いているわけです。そこでもう一度写真を確認してから、これは間違いないと思ったら声をかける。ほとんど百発百中でしたね」

 どの部署からでも仕事を依頼できる機動捜査隊こそ西村のベストポジションだという幹部の判断もあって、西村は通算29年という長きにわたって機動捜査隊に勤務した。そして地道な努力の甲斐あって、県警の幹部に「寿町は西村しかいない」と言わしめる存在になったのである。

途中2年間だけ加賀町警察の盗犯係に配属されたが、機動捜査隊に復帰すると、ある幹部から「西さん、最後まで(退職するまで)寿町を頼む」と言われたそうである。

「たくさんの刑事がいる中で、この町はお前しかいないって言われるなんて、最高でしょう。刑事冥利に尽きますよ」

 警察は実績主義である。学歴が無くても実績があれば昇進できる。そして、西村の実績はすさまじかった。

「私ね、合計1250人ぐらい逮捕したんです。多いときには、一年間で120人捕まえたこともあります。はっきりとは言えませんが、おそらく捕まえた人数としては、日本の刑事の中で一番じゃないかと思います」

 それもこれも、見当たり捜査で百発百中の逮捕ができた、寿町という“釣り堀”のお蔭だと言えなくもない。

■交番勤務

 ところが、刑事としてこれほどの実績を誇りながら、退職の数年前になって西村はいきなり機動捜査隊を外されてしまったのである。異動先はなんと、寿町交番であった。しかもその後、さらに小さなひとり勤務の交番に飛ばされている。一度、私服で仕事をした人間(刑事の経験者)が再び制服を着ることは珍しい。完全な左遷であった。

「原因は上の人間と反りが合わなかったからなんですが、刑事が一番偉いんだと思い上がっていた私に、神様がもう一度勉強をさせてくれたのかもしれません」

 西村がすっかり意気消沈していると、意外な人物が交番を訪ねてきた。暴動を収めてくれた、あのヤクザの親分である。

 どういう事情があったのかわからないが、親分はヤクザ稼業からすっかり足を洗って堅気になっていた。そして、ふたりともすっかり年をとっていた。

「ダンナが交番に居るって噂を聞いたんで、どうしたのかと思ってね」
「いや、上と合わないとこうなっちまうんだよ」
「組織ってのは、ヤクザの世界も同じことでね、喧嘩だなんだのときは使われるけど、アイツは要らないとなったら、いいようにされちまうんですよ」

 それだけ言うと、元親分はやはりあの時と同じように、静かに交番を離れていった。

 西村が言う。

「元親分には子供がいるらしいんで、もしも彼に万一のことがあったら、私、こう伝えたいと思っているんです。あんたのお父さんはね、ヤクザはヤクザだったけれど、ただのヤクザじゃなかった。窮地にいる人間に手を差し伸べる心を持ったヤクザだったって……」

 その後西村は、ある幹部の計らいで県警本部の分析課に異動になり、退職までの3年間、若い警察官たちに犯罪捜査のノウハウを引き継ぐ仕事に従事した。現在は、寿町にある某施設で警備の責任者を務めている。

 刑事人生に、悔いはないという。

(写真:筆者提供/地図:本書より)