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1996年刊行の情報編集術のバイブル、松岡正剛著『知の編集工学 増補版』/アップデートにあたり執筆した「序文」を特別公開!

 松岡正剛さんの『知の編集工学 増補版』(朝日文庫)が刊行されました。「編集工学」とは、情報社会をもっとおもしろく生きるための技法。本書は、1996年に刊行された情報編集術のバイブル『知の編集工学』に、近年の発展著しいIT技術と編集工学について大幅加筆した充実の増補版です。今回、著者の原点とも言える本書をアップデートするにあたって執筆した序文を特別公開します。

松岡正剛著『知の編集工学 増補版』(朝日文庫)
松岡正剛著『知の編集工学 増補版』(朝日文庫)

あのころの構想と最近の編集工学 生成AI時代の反撃

この本の単行本初版は1996年7月に刊行された。「情報は、ひとりでいられない。」というサブタイトルで、帯には「自分も世界も編集できる――インターネット時代の〈考える技術〉初公開」とある。

 1996年という年は、のちに「失われた10年」と揶揄された時期の半ばにあたっている。世界が宙吊りになっていくだろうことがバレた時期だ。ベルリンの壁が崩壊し、第1次文明戦争ともいうべき湾岸戦争がおこり、日本はバブルがはじけてかなり空疎になっていた。IT情況としては、まだインターネットのブラウザーでモザイクやネットスケープががんばっていた季節で、ウェブ2・0もクラウド・コンピューティングも始まっていなかった。もちろんスマホなど登場していない。

 私は2000年6月にネットの片隅にイシス編集学校のプロトタイプを立ち上げるのだが、その構想ももっていなかった。それどころか、当時の日本の体たらくにがっかりしていて、私が携わってきた「編集という仕事」をメディア以外の何に向けたらよいのか考えこみ、その失望感をふりきってなんとか編集工学による新しい世界観の構築に奮戦したいと思いはじめたところだった。

 私にそんな決断をさせたのはMACだった。まだパソコンとしての自由度を発揮したばかりの湯気が立っていたが、その湯気の中には私がずうっと夢想していた「数々の情報をハイパーリンク状態にして、そのネットワークの中を編集の舟が進む」という展望が蜃気楼のように見え隠れしていた。

 そこへ朝日新聞社のニヒルな中島泰さんから声がかかり、「編集工学ってこういうものじゃというのを書いてくださいよ」と唆されたのである。はたして忌憚なく「こういうものじゃ」を書いて当時の読者に真意が伝わるだろうかとは思ったが、編集の思想を示すにはいい機会だとおもって一気に書き上げた。

 本気で書くのは遠慮した。大きく前半第Ⅰ部の「編集の入口」と後半第Ⅱ部の「編集の出口」を対比させ、1章ずつに編集技法の手口をあれこれ案内しながら、自分をハイパーリンク状態にしていく方法を披露することにした。わかりやすくしたかったのだ。やがてこの本は文庫になり、山口昌男さんが解説を引き受けてくれた。

 わかりやすくしたつもりだったけれど、いまふりかえってみると、かなり気負って書いていた。世界を認識するにも表現するにも編集的方法が必須だということを「こういうものじゃ」の眼目においたからだったようで、一見、技法入門のようでありながら、随所にチシキ(知識)とイシキ(意識)をつなげる「編集的相転移」の脈絡を挟んでいったのも、この眼目を鮮明にさせたかったからだった。そこで、この増補版では少しだけ気負いを取り除き、いくぶん使用概念(編集工学的用語)を端的に説明するように加筆訂正しておいた。〔追記〕としたのがその増補部分だ。

 というわけで、増補版の本書は初版時のIT技術環境とのギャップをいくつか埋めてあるのだが、主要な中身はまったく変わっていない。以下、私が訴えたかったことを、あらためて手短かに言っておく。

 第1に、本書は「世界」と「自己」をつなげるためのものだということだ。世の中と自分まわりの関係をどうするかということなら、哲学も社会学も精神医学も、絵画も歌謡もスポーツも芸能もずっとそのことを追求してきたけれど、それらを個々バラバラではなく、またいで使うにはどうしたらいいかということを、かなり重視した。

 第2に、世界と自己を関係づけるにあたっては、さまざまな編集技法を駆使してみることが有効だということを強調した。この編集技法はさかのぼれば古代ギリシアの「アナロギア(類推力)、ミメーシス(模倣力)、パロディア(諧謔力)」を淵源とするもので、イシス編集学校をつくってからは新たに「アナロジー、アフォーダンス、アブダクション」の3つのAがつく編集技法3Aを積極的に奨めるようになった。アフォーダンス(認知対象との関係適応力)はジェームズ・ギブソンからの、アブダクション(演繹や帰納に陥らない仮説作成力)はチャールズ・パースからの援用で、私なりに磨きをかけた。

 第3に、編集的世界観をもちつづけることを一貫して提案している。これは、世界や仕事や社会関係を、つねに編集可能なものと認識したり把握できたりしておくことを奨励するもので、わかりやすくいえば「ギブアップしない編集力」を世界観からとりこんで学んでおくことをいう。なぜそんなことをしたほうがいいかというと、世界はすべて編集されてきたのだし、そのための政治や経済や組織も、知識や学問やアートや芸能もすべて編集されてきたからだ。

 第4に、世の中の価値観には絶対的なものはなく、どんな場合も相対的に編みなおせるはずだということを謳った。とくに時代のトレンドから弾きとばされた考え方や見方、あるいはモードやニュアンスに注目した。これは編集工学が変化や変容を重んじたいからで、差別から遠のくこと、他者に学ぶこと、不足に屈しないこと、勝ち負けに拘泥しないことなども意味する。私は最近、LGBTQのQ(クィア)こそ編集力の突破口になるのではないかと確信している。クィアとは「風変わり」を意味する俗語で、かつては「ヘンタイ」と蔑まれていた言葉だ。

 第5に、本書では物語編集力の有効性を特筆している。ここでいう物語とは、広い意味の物語性(ナラティビティ)のことで、神話・小説・映画からスポーツやマンガやゲームがもつ物語まで含む。いや、科学や医療、政治やビジネスまで含む。ところが多くの物語がいつしか「勝ち組の物語」に偏ってきた。マネー資本主義やハリウッドのせいだけではない。物語が多様性を孕めなくなって、シンプルなストーリーに回収されていってしまったのだ。私は長らくこのことに抵抗したいと思ってきた。世界は複雑で多様なのである。ただ、そのことをあらわす複雑で多様な物語編集力が劣化してしまったのだ。

 以上の5つの視点が、本書の底辺に流れていることである。このことを私は「生命に学ぶ」「歴史を展く」「文化と遊ぶ」というモットーのもとに組み上げてきた。なかでも「生命に学ぶ」に時間をさいてきた。情報の編集は有機高分子の組み合わせに始まって、その組み合わせの複製と変異が生命の多様性をつくってきた。編集のルーツは生命の多様性の歴史の中に織りこまれたものなのだ。

 かくして編集工学は、生命情報(もしくは情報生命)の驚異的なヴァリエーションがどのように生まれたかということを先駆的モデルとし、そこから人間の知覚や思考が派生して、言葉や道具や計算のしくみを使いながら、どんなふうに知覚や思考を文明文化にあてがってきたかを副次モデルにして構成された。学問にしたいのではない。むしろ学問からスピンアウトした「方法の束」のようにしたかった。主題や主張からはできるかぎり自由でいたいのである。

 ところで最近は生成AIが話題になって、機械による自動編集力が身近になってきた。ビッグデータと深層学習と仮想現実の力に驚く向きも少なくない。

 しかし、これに似たことは古代神話やアレクサンドリアの時代にも、ライプニッツやデカルトやニュートンの数学の時代にも、蒸気機関の時代にも写真や録音や映画やタイプライターの時代にもおこっていたことで、その後も遺伝子操作やゲノム編集によってもおこされてきたことでもあって、とくに目新しいことではない。気になることがあるとしたら、これらと生成AIの現状を編集的につなげて見られなくなっているほうにある。

 本書は、30年ほど前のものとしては、世界と自己の関係をかなりラディカルに解読したものだ。さいわい、多くの読者に支えられて文庫増補に及んだけれど、その理解や活用についてはまだまだ途次にある。もしも、もう少し実用したいと思われるようなら、イシス編集学校を覗いたり、「遊刊エディスト」をネットで読んでみることをお勧めする。