大谷翔平の初ホームランボールをめぐる 「おじさん建築員」と「9歳少年」の知られざる物語
大谷が記念すべきメジャー初本塁打を放ったのは、2018年4月3日、本拠地での初打席だった。打者・大谷の「ホームランショー」の幕開けだったとも言える。
そのホームランボールを最初に手にしたのが、外野席最前列で観戦していたクリス・インコーバイアさん。彼はその歴史的なボールを拾い、ちゅうちょなく隣に立っていたエンゼルスファンの男の子に譲った。3年ぶりに記念球に関わった二人に連絡をとり、ホームランの瞬間や大谷との面会を改めて振り返ってもらった。
オハイオ州クリーブランド出身のインコーバイアさん(36)は、物心ついた時から地元インディアンズの熱狂的ファンだった。今はフロリダ州タンパで高層ビルの建築技術者として働いている。
大谷が初ホームランを打ったエンゼルス対インディアンズの試合は、ちょうどロサンゼルス出張と重なっていたため、「これは行くしかない」と奮発して右中間スタンド最前列の席をとった。試合の直前まで、大谷については「ほぼ何も知らなかった」と言う。
一緒に観戦した同郷かつ同僚であるアダム・ジーアックさん(37)に、「二刀流のすごい選手がいる」と説明を受けた。「ベーブ・ルースのような、もしくはそれ以上の存在になり得る。現代野球で彼ほどの可能性をみせた選手はいない」と。
1回裏、走者二、三塁という場面で、大谷はホームランを放った。オープン戦での不振を忘れさせるような強烈な当たりだった。
「ボールが上がって、こっちに飛んできましたが、捕れるほど近くはないだろうと思いました」とインコーバイアさん。「アダムが右隣で『とりに行け!』と言っているのが聞こえました。でも人を押しのけたり、飛び越えたりして捕るなんて絶対に嫌でした」
ボールは人だかりができていたインコーバイアさんの左側の通路階段に落下した。インコーバイアさんは足元に転がってきたボールを拾った。顔を上げると、後ろの席に座っていてさっきまで雑談していたという当時9歳のマシュー・グティエレズくんと目が合った。
すかさずボールをマシューくんのグラブに入れて、優しく背中をたたいた。
「大谷のボールだということは分かっていましたが、ボールをあげることが正しいことだと心の中で分かっていました」とインコーバイアさん。「男の子もボールを大谷に返してしまいましたが、それでも僕よりずっと喜んでいたはずです」
インコーバイアさんがボールを拾うのを見たジーアックさんは、当然のことながら興奮していた。
「『これはすごいことだぞ! ボールはどこ?』と聞くと、『あげちゃったよ』と言うんですよ」とジーアックさん。
「信じられなくて、ポケットに入れたんだろうと思いました。でも『本当にあげちゃったんだよ』と言うので、『お前、自分が何やったか分かってるのか』と言いました。正直、しばらくの間は、クリスがボールをあげてしまったことに腹を立てていました。あれは球史に残るボールだからです。でも試合の中盤くらいに、球場が静かになった時に、マシューくんが、お父さんに『人生で最高の日だね』みたいなことを言ったのが聞こえたんです。それを聞いて気持ちが楽になりました。自分が9歳の時にインディアンズの試合で、あんな思いをしたら最高だったはずですから」
エンゼルスの地元オレンジ郡で生まれ育ち、物心ついた時からチームのファンだというマシューくんは、年間10試合以上は球場で観戦している。その日は、父親と二人で来ていた。当時はリトルリーグでピッチャー、ショート、レフト、ファーストをこなしていた。
「(大谷が)良い選手だとは知っていました。エンゼルスは良い選手を手に入れたと。投手と打者の両方をこなすと聞いていたからです」
ホームランの瞬間、近くに来るのが分かり、グラブをはめた手を伸ばした。ボールは捕れなかったが、インコーバイアさんがすぐに手渡してくれた。
「めちゃくちゃ興奮したのを覚えています」とマシューくん。「グローブにボールを入れて何度もお父さんに見せました。ゲットできたなんて信じられませんでした」
10分もしないうちにエンゼルスの職員がやって来た。「大谷に記念球を譲ってくれないか」とお願いされたマシューくんは快諾した。
「大谷にとって大事な初ホームランなので、譲るのが正しいことだと思いました。メジャーリーグでも活躍できることを見せた第一歩でもあるので」
その時、エンゼルスの地元紙オレンジ・カウンティ・レジスターの記者として球場の記者席に座っていた私は、ボールを捕った観客に話を聞こうとライトスタンドに向かった。
すでに10人くらいの記者が、マシューくんに群がっていた。他の記者が去った後に話しかけると、開口一番、「前に座っている優しい男の人がくれた」と言う。前を見ると、後ろの取材騒ぎを尻目に、インコーバイアさんが試合に見入っていた。
ボールを最初に拾ったのは本当かと尋ねると、「そうです」と何事もなかったかのように答えた。
「(マシューくんは)エンゼルスのファンで、僕はインディアンズのファン。彼のほうが、ずっとありがたみがわかるはず」とインコーバイアさんが言った時の、後悔をみじんも感じさせない穏やかな表情を、私は今でも忘れられない。
試合後、大谷にボールを贈呈するため、マシューくんは球場のクラブハウスへ招かれた。
一緒に呼ばれなかったインコーバイアさんとジーアックさんは、「大谷には会えそうにない」と思い落ち込んだと言う。しかし、試合が終わりに近づき、球場を出ようと歩いていたら、インコーバイアさんの携帯に突然、電話がかかってきた。エンゼルスの職員から大谷にボールを贈呈するのに立ち会ってほしいとお願いされたのだ。
立ち聞きしていたジーアックさんが、機転をきかせた。
「ふと目をやると、すぐ側にグッズショップがありました。大谷に会えるというのに、何も持っていかないなんてあり得ません。グッズショップに駆け込んで、大谷の白いユニホームを買いました」
マシューくんとインコーバイアさんとジーアックさんは、カメラに囲まれる中、数分程度だったが大谷と面会を果たした。とにかく大谷の体の大きさに驚いた、と3人とも口をそろえる。
「言われている通り、とても大きくて存在感があります」とインコーバイアさん。「普通のメジャーリーガーに会うのとは全く違うとすぐに感じました」
マシューくんはボールを手渡し、握手をしてもらい、サイン入りのバットとボールをもらった。インコーバイアさんとジーアックさんも買ったばかりのユニホームにサインをもらった。
「とにかく驚きと興奮でいっぱいでした。大谷に会えたり、テレビに出演したり、ドキドキの連続でした」とマシューくんは振り返る。
インコーバイアさんは、記念球を譲ったことに、本当に後悔はなかったのだろうか?
「あの年齢の子にとって、あんな名誉なことはありません。スポットライトを奪おうなんて気はみじんもありませんでした。与えていれば、いつか報われます。大谷に会って、サインをしてもらって、一緒に写真を撮れただけで十分です」
4年がたった今も、インコーバイアさんとマシューくんの中で、思い出は色あせていない。大谷がホームランを重ねるたびに、むしろ輝きは増していくのだろう。
(在米ジャーナリスト・志村朋哉)