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なぜ今『歎異抄』なのか?高橋源一郎さんが読み解いた「信じること」「愛すること」の原点

 作家・高橋源一郎さんの『一億三千万人のための「歎異抄」』(朝日新書/2023年11月刊がロングセラーとなっている。戦乱と飢餓と天災の中世に生まれ、何百年も人びとを魅了しつづけてきた名著ではあるが、なぜ今、『歎異抄』が求められるのか? 高橋さんが大切にした「僕だけが知っている『親鸞』」、そしてその親鸞を「シンラン」を記した理由とは? 改めて、高橋さんに本書を現代語に翻訳することになった経緯と思いを執筆いただいた。(写真撮影/朝日新聞出版写真映像部・上田泰世)

高橋源一郎『一億三千万人のための「歎異抄」』(朝日新書)
高橋源一郎『一億三千万人のための「歎異抄」』(朝日新書)

■降り立つことば

 ちょっとしたきっかけで『歎異抄』を現代語に訳し、『一億三千万人のための「歎異抄」』というタイトルにして出版することになった。いくら有名な本だとはいえ、700年も前の宗教書だ。売れるとは思わなかったが、予想以上に大きな反響があった。とてもうれしい。もちろん、ぼくの力ではなく『歎異抄』の力なのだが。

「翻訳」するにあたって、いくつか決めたことがある。一つは「親鸞」を、あえて「シンラン」と呼んだこと。もちろん同一人物なのだが、誰もが知っている、有名な「親鸞」ではなく、ぼくだけが知っている「親鸞」という意味で、あえて「シンラン」というカタカナ表記にしたのである。いや、それ以外のことばの多くも、もう一度、一からその意味を知りたいと思って、カタカナにしてみたのだ。

 ところで、この「ぼくだけが知っている」という考え方は、『歎異抄』という特別な本にとって、とても大切だと、ぼくは思っている。一度でも『歎異抄』に触れた方はご存じのように、この本の著者は「シンラン」ではなく弟子の「唯円ユイエン」だ。そして、この本は弟子が師のことばを書き留めたもの、後世に師のことばを伝え、残したいと熱望してできあがったものだったのである。

 短いだけに有名な箇所は多いが、もっとも重要なのは第二条の以下の部分だろう。

「念仏は、まことに浄土にうまるるたねにてやはんべらん、また地獄におつべきごうにてやはんべるらん、総じてもつて存知せざるなり。たとひ法然聖人にすかされまゐらせて、念仏して地獄におちたりとも、さらに後悔すべからずそうろふ」

 これは、ぼくはこんなふうに訳してみた。

「正直にいいます。ネンブツをとなえて、ほんとうにゴクラクジョウドに行けるのか、それともジゴクに落ちてしまうのか、わたしにはわかりません。ほんとうにわからないのです。/けれどそれでもいいのです。そんなことはどうだっていいのです。結果としてホウネンさまにまんまとだまされ、ネンブツをとなえながらジゴクに落ちたってかまわないのです」

「シンラン」たちの宗派は「ネンブツ」を唱えることがなにより大切だとした。そのことによって、死後「ジョウド」に「オウジョウ」できると訴えた。なのに、そのもっとも根本的な理念を、心の底からは信じていない、と「シンラン」はいうのである。そんな理念よりも遥かに大切なものがあるのだ。それは、「シンラン」の師である「ホウネン」を信じることだったのだ、と。

 それはいったいどういうことなのだろう。「ホウネン」がかつて「シンラン」の師であったように、そのとき、「シンラン」は著者である「ユイエン」の師であった。だから、「ユイエン」は、心の底からその秘密を知りたいと思って、このことばを書き記したのだ。ほんとうに「ジゴク」なんてものがあるのか。あるいは「ジョウド」なんてものが。宗教にとって、これ以上、深刻な問いはないはずである。

高橋源一郎さん(撮影/朝日新聞出版写真映像部・上田泰世)

 およそあらゆる宗教というものにつきまとうもの。「信仰」とか「来世」とか「救済」とか「神」といったもの。それがなければ、そもそも「宗教」など存在することができないなにか。しかし、それらはほんとうに「信じる」ことができるのだろうか。「死後の生」なんて、ほんとうにあるのだろうか。あらゆる宗教が「ある」と宣言しているもの。それを疑えば、どんな信仰も崩れ去ってしまうようななにか。その宗教を信じている人たちすべての人の心の奥底に、ほんとうは存在している、小さな、でもほんとうは大きな疑問。それを押し隠したところで、あらゆる宗教は成立している。いや、宗教だけではない。家族も、社会も、もしかしたら、人間が作り出したものはすべて、どこか疑わしいところがあるのかもしれない。でも、疑えば、すべてが終わってしまうから、ぼくたちは黙りこむのだ。黙りこむことによって、かろうじて、すべては成立しているのだ。

 だが「シンラン」はちがった。みんなが口にしなかったことを口にしたのだ。「ジゴク」とか「ゴクラクジョウド」とか、そんなものがほんとうにあるのかと。

「シンラン」は、弟子である「ユイエン」にいうのである。

 わたしは信じている。ほんとうに心の底から信じている。信じることができる。師である「ホウネン」さまのおっしゃることだけは。それだけで十分なのだ。なにもいらないのだ。誰かを心の底から信じることができる、ということ。その能力が自分にはあるのだ、ということ。それ以上のものは、世界には存在しないのだから。

 親は子どもを愛する。理由などなくても。愛したいから愛するのである。人は、他の誰かを好きになる。愛する。たとえ、その愛が実ることはなくとも。たとえ、その人に愛されることはなくとも。愛したいから愛するのである。

 世界はそのようなものであるべきだ。見返りがあるから、意味があるから、みんなに認められるから、そのことをするのではない。なにもなくとも、見返りなどなくとも、意味などなくとも、誰にも認められなくとも、わたしは、たったひとりで、誰かを信じるのだ。たったひとりのわたししか、その人を信じることがなくとも。

 わたしは、わたしの師を信じるのだ。師の「ことば」を信じるのだ。「ことば」には実体などなく、もろく、か弱い。だが、それをこそ信じなければならないのだ。それが「信仰」なのだ。それ以外の「信仰」は無意味なのだ。そして、そんな「信仰」がなければ、この世界が存在する意味などないのだ。

「シンラン」が「ユイエン」に告げたのは、そのことだった。だから、ほんとうは『歎異抄』は宗教書ではない。もっとそれ以上のものなのだ。おそらく、もっとも深い、「愛」に関する書物なのである。だからこそ、あらゆる人と人の「間」に、「シンラン」のことばは降り立つのである。

*  *  *
高橋源一郎さんが『一億三千万人のための「歎異抄」』を書く際に到達したシンランの「愛」は、想像以上の衝撃をもって心に迫ってくる。災害による被災や性格苦、孤独や人生における苦痛のすべてから救われることはとても難しい。でもこれが本当の「信仰」なのだとしたら、これ以上に深く、生きることの実感に近い「愛」はない。

高橋源一郎さんが「AERA 2023年11月27日号」で語った、シンランの「愛」についてのインタビューも併せて読んでほしい。