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中学生だったチャンス大城が千原兄弟の家で驚愕させられた本と、せいじにかけられた言葉

 お茶の間の記憶に残る男としてTV出演急増中の芸人・チャンス大城(本名:大城文章)さん。そんなチャンス大城さんが自らの半生を赤裸々に語り下ろした『僕の心臓は右にある』(2022年7月刊、朝日新聞出版)から、中学生のとき、千原せいじさんにかけられた言葉についてのエピソードを、本文から抜粋、編集して紹介します。(写真:朝日新聞出版 写真映像部・東川哲也)

大城文章著『僕の心臓は右にある』(朝日新聞出版)
大城文章著『僕の心臓は右にある』(朝日新聞出版)

 僕は、14歳の時に大阪NSC(吉本総合芸能学院)に入学しました。僕が入った8期には千原兄弟さんやFUJIWARAさん、なだぎ武さん、バッファロー吾郎さんたちがいました。

 NSCの授業は、基本、自分が考えてきたネタを講師の前で披露することです。ネタをやりたい人は、教室の黒板に順番に名前を書いていくのですが、最初の方に名前を書くのは、面白い面白くないにかかわらず、真面目な人、熱心な人と相場が決まっていました。

 8期の同期生の中で鮮明に記憶に残っているのは、なんといっても千原兄弟さんです。せいじさんは最初、別な人とコンビを組んでいたのですが、入学して2、3カ月たった頃に解散をして、「弟、連れてくるわ」と言って、たしか6月頃だったと思いますが、ジュニアさんを連れてきたのです。

 当時の千原兄弟さんは、いつも黒のパンク・ファッションで固めていて、むちゃくちゃ迫力がありました。黒のバンダナに銀色のチェーン、ふたりとも背がめっちゃ高いのにラバーソウルを履いていました。

 僕は、正直に言うと、「千原兄弟みたいなスカした人らは、きっとネタとかせーへんのやろな。まあ、最後の方にタラタラ出てくるだけやろ」なんて思っていたのです。

絵:チャンス大城

 ところがジュニアさんが現れてから、教室の黒板にはいつも、「1番 千原兄弟」と書いてあるのです。

 初めて見た千原兄弟さんのネタを、はっきりと覚えています。それは、犬の目玉をお父さんの目玉と取り換えるというシュールな内容でしたが、これが、バンバンうけて、むちゃくちゃかっこよかったんです。

 あの頃から千原兄弟さんは、僕の3000歩も4000歩も先を歩いていました。

 あれから何十年もたってから、僕は千原兄弟さんにむちゃくちゃお世話になるのですが、実は大阪NSC8期生の時も、せいじさんにお世話になったことがありました。

 僕は14歳で入学しましたが、当時、せいじさんは19歳。ジュニアさんは15歳だったと思います。せいじさんはアメリカ村の喫茶店でバイトをしながらNSCに通っていて、ふたりは大阪市内のワンルーム・マンションで暮らしていました。

 ある日、僕は千原兄弟さんのマンションに泊めてもらうことになったのです。おかんに電話をすると、「泊まってええよ」という返事です。大阪の、しかも年上の人のマンションにお泊まりするなんて、中学生としてはドキドキする体験です。

 その日、ジュニアさんは用があったので、せいじさんがマンションに連れていってくれました。想像していたよりも、ずいぶん狭いワンルームでした。

 せいじさんは疲れていたのか、部屋に入るとすぐにベッドで寝てしまいました。僕は取り残されて所在なかったかというと、まったく、そんなことはありませんでした。

チャンス大城さん(撮影/写真映像部・東川哲也)

 部屋にエロ本があったからです。当時、エロ本は貴重品でした。

 僕は一度、お年玉をためて本屋にエロ本を買いに行ったことがあったのですが、店員さんに断られてしまった経験がありました。友だちが、「河原にエロ本が捨ててあるで」というので急行してみたら、たしかにあるにはあったのですが、雨で濡れていてページをめくれないという悔しい思い出もありました。

 だから、せいじさんが寝てしまったのをいいことに、僕は部屋にあったエロ本を徹底的に読みふけったのです。

 最初のページから、驚愕の連続でした。頭から最後まで読んで、もう一回、もう一回と、下手をしたら10往復ぐらいしたかもしれません。

 そして11往復目ぐらいに、僕は後頭部に強い視線を感じたのでした。

 振り返ると、せいじさんがベッドからむっくり体を起こして、眠そうな、けれども意志を持った目で僕のことをジーっと見つめて言いました。

「おまえ、その執念、忘れるなよ!」

 その後の人生、酒に溺れてしくじった時、自分の子供に会えなくなった時、自分の情けなさに泣けてきた時……、いつも路上でもがいているような僕の人生、この言葉に救われてきました。

 今はこの言葉を座右の銘にしています。