「『老い』というイメージを覆す、落合恵子さんの好奇心」木内昇さんによる、落合恵子著『明るい覚悟』文庫解説公開!
かっこいい、という形容がすこぶるしっくりくる人である。
洗練された佇まいもさることながら、長きにわたりクレヨンハウスを運営し、作家として数々の作品を世に送り出し、論客としてもまっすぐに意見を発信し続けている――というその活動は、ここで改めて語るまでもないこと。机上のみで終結せず、常にアグレッシブに行動する姿を、メディアを通してではあるけれど、絶えず目にしてきた印象がある。
それだけに、「老い」という言葉を本書の中に見付けたとき、少々戸惑いを覚えた。もちろん誰しも年齢を重ねていくのだが、こと落合氏に至ってはその語句が内包する寂寥感や寄る辺なさからは、遠く隔たっているように感じていたからだった。が、読み進めて間もなく、「老い」とはそうした画一的なイメージばかりではないことに気付かされる。
「老いは、ほかのどの年代とも違う未知の光景として、なぜかとても興味がある」
彼女は、自身に起こった変化に対して、ジャーナリスティックな観察をはじめるのである。
「もの忘れはひどいし、探しものに一日のうちの計30分は費やすようになっても、そういった変化も含めて味わってやろうじゃないかと面白がるわたしがここにいる」
そうして、衰えにのみフォーカスして嘆いたり苛立ったりするのではなく、未知の自分を面白がってしまおうという積極的で朗らかな好奇心を発揮するのだ。
自分をも含めた景色を引いた目で柔軟に見詰め、公平に分析する客観的な視点が、本書の根幹を貫いている。
脱ぐ、刻む、泣く、放つ、抗う……。
動詞をタイトルにし、言葉から呼び覚まされたエピソードを綴ったこのエッセイ集は、日々新たな自分を更新していく彼女の、力強い足取りそのもののようだ。
柔軟な視線は、他者との関係にも投影される。
公園でひとり泣いている少年を見付けたときのエピソードは、ことに顕著だった。同じシチュエーションに出会ったら、たいがいの人は男の子に歩み寄り、声を掛け、事情を訊こうとするだろう。困った人に手を差し伸べるのが「親切」だという頭があれば、すなわちそれこそが「正解」になる。
だが彼女は、そうした固定観念に囚われていない。短絡的に状況を見ることも、決めつけで動くこともせず、相手の尊厳を守ることを第一に、自らの行いを定めるのだ。
「泣いているところを誰にも見せたくない、見られたくないと思うときが子どもにだってある」
ある程度年を重ねれば、経験値は上がる。経験値が上がれば、相応に価値観が凝り固まってくる。つまりたいていのことには対処できるし、自分の選ぶ対処法は大きくは間違っていないはずだと信じ込んでしまう。だんだんと、他者の意見に耳を貸すことができなくなるのは、もしかするとそうした思い込みが原因かもしれない。ましてや、年若い者や幼い者の意見を、自分のそれと同等に尊ぶことは難しくなるだろう。
彼女はけれど、相手が子どもであれ、容易に「わかった気」にはならない。他者の領域に無遠慮に踏み込み、一方的に自分の考えを押しつけたりもせず、まずは相手をおもんぱかり、その意思を尊重する。だから、男の子をそっと見守るという行為が自然に選択できるのだろう。
「姉妹」といえるほど親しく付き合っている友人に対しても、その距離感は一貫している。いらぬお節介はしないけれど、困っていればさりげなく手を差し伸べるのだ。心臓手術を経た年長の友人A子のサポートを担った彼女は、そのときの心境をこんなふうに描く。
「自分がやらなくては、せめて自分の、時間を差し出したいという思いが、エネルギーの補充に役立つのかもしれない」
この一文に接したとき、自己犠牲を伴うものだと思い込んでいた介護や看病の景色が一変した。そんなふうに考えられたら、介護する側の心持ちがどれほど和らぐだろうか。
彼女の客観性は、けっして冷ややかではなく、心地よい温かさを宿している。そうして軽やかに行動しているようでいながら、その意思はしかと重みを帯びている。
行動の人ゆえに、この国のゆくえに不安を覚えれば、デモや集会にも積極的に参加する。過去に学んだことを未来に生かすため、自分になにができるか、ということを丁寧に考えている。とはいえその言葉は、周囲を扇動するような険しい顔つきをしていない。ただ、私たちの暮らしと隣り合わせにある危機を憂慮し、淡々と著す。その筆致がかえって、この国の抱える危うさを身近に突きつけてくるのだ。
一方で、暮らしを楽しむことにも余念がない。庭のハーブを摘んでバスタブに浮かべ、ムスカリやヒヤシンスを育てる。自分の好みにぴったりフィットした服をデザインする。母や祖母と暮らした日々を今も大切に抱いている。仕事も環境もさまざまな、多くの友人に囲まれている。
それら揺るぎない現実と結びつけて、本書では絵本が紹介される。生活の延長として描かれるから、物語世界にすんなりと足を踏み入れられるのだ。
個人的なことながら、小学生の頃、「課題図書リスト」なるものがあった。1年の間にこの本を読みなさい、という学校が決めた一覧だ。ひねくれ者の私は、そこに教条的なものを感じてしまい、リストにはけっして上がってこない時代小説を読み続けた。課題図書は子ども向けの本のみで、きっと素晴らしい作品もあったろうに懐疑的な目で接してしまったことを、未だにもったいなかったな、と後悔している。もし、子ども時分に落合氏のように絵本と深く馴染んで、その魅力を説いてくれる人が身近にいたら、私の日々はどれほど豊かになったろうと本作を読んでしみじみと思った。同時に、長きにわたり、クレヨンハウスを大事に続けておられる理由が切実に伝わってくるような気がした。
きっと彼女が書き、読み、行動する先はいつでも、豊かな世界に繋がっているのだ。デモに参加することも、絵本を紹介することも、暮らしを慈しむことも、こうだったら素敵だろう、楽しいだろう、という、自らの生きる世界に対する純粋な信頼と希望が基になっている。だからこそ、ひとつひとつの言葉が、まがいものではない説得力をもって響いてくるのだ。
咲く、譲る、洗う、継ぐ、いる……。
ひとつひとつの動詞が導くのは、机上の空論ではない彼女の経てきた鮮やかな道程だ。道の途中には、辛い別れも、無念さも、理不尽を覚えることもあったろう。けれど、いずれの経験も引き受けてやろうという気概が、その歩みを支えている。明るい覚悟、という書名の通りに。
ここに挙げられた動詞のひとつひとつには、きっとそれを使う人の数だけ物語がある。本を閉じた後、自分はこれらの言葉とどんなふうに付き合ってきただろうかと、来た道をふと振り返った。