見出し画像

「老いを身軽に生きる知恵」は西行法師に学べ 釈迦から受け継がれた“人生観”とは

 超高齢社会を迎えた日本。そんな今こそ、ブッダの人生、さらにブッダの教えを引き継いだ西行の生き方から、老いを身軽に生きるヒントを学ぶときだと教えてくれるのは、宗教学者の山折哲雄氏。国際日本文化研究センターの所長なども歴任してきた山折氏の著書『ブッダに学ぶ 老いと死』(朝日新書)から一部を抜粋、再編集して解説する。
(タイトル画像:TakIwayoshi / iStock / Getty Images Plus)

■釈迦は「出家」したのではなく「家出」した

 今から約2500年前、釈迦が生きていたころのインドで説かれていた代表的な人生観が「四住期」です。これは人生を四段階のライフステージに分ける考え方です。

 さて、釈尊の人生に四住期を当てはめてみましょう。ご承知のように釈迦は王族の生まれです。

 釈迦族の小国の王子として生まれる。

 結婚したのは16歳。妻と産まれたばかりの1人息子を捨てて家を出たのが29歳です。家を出た後、35歳の時に悟りを開き、80歳で入滅します。

 この釈迦の人生を四住期に当てはめると次のようになります。

16歳で結婚するまでが「学生期」
16歳で結婚して、29歳で家を出るまでが「家住期」
家を出た29歳から悟りを開く35歳までが「林住期」
35歳から入滅した80歳までが「遊行期」

 仏教界では、釈迦が29歳で家を出て35歳で悟りを開くまでは釈迦の修行の時代とされています。修行ですから、まさに「出家生活」に入ったという捉え方です。釈迦が29歳で家を出たのは「出家」だ、釈迦は29歳で「僧」になったんだと。そして僧になってからも苦しみながらいろいろな修行をして、ついに35歳で悟りを開いたと。釈迦は出家して6年間の苦行を経て悟りを開いた。これが仏教界の常識的な考え方です。

 しかし、バラモン教の四住期の人生観、先ほど説明したインド古来の四段階のライフステージから見ると、それは第三段階の林住期に入ったということです。つまり、29歳の釈迦の行動は出家ではなく、林住期ならではの「家出」と捉えなければいけない。これが私の解釈です。

 そうすると、釈迦も一時的に家を出ただけで、やがて家に帰ってくることを前提にしていたのではないかと考えられます。家出をして自由に旅をする。いろいろな人と出会いながら瞑想をしたり、楽しみにふけったりする。場合によっては遊女と戯れるということも、悪魔と積極的に対話をすることもあっただろう。そういう自由気ままな旅暮らしの中、35歳で悟りの時を得るわけです。

 先ほど述べたように、ほとんどの家出をした人間は老病死の不安にさいなまれて家に帰ります。ごくわずかな人間だけが林住期の次の段階、最終第四段階の遊行期、現世放棄者、遁世者、聖者の生活に入っていけます。

 要するに35歳の釈迦は悟りを開いたからこそ、その一人になれたのです。これが私の釈迦の人生の捉え方です。

 それは何も釈迦が初めてではありません。それまでのバラモン教の社会においては仙人のように世俗には戻らない行者たち、賢者たちがいたわけです。

 このように釈迦の人生を釈迦以前のバラモン教の人生観、インド古来の人生観である四住期という四段階のライフステージで読み替える、あるいはそれをベースにして解釈すると、その人生のみならず、その教え、その言葉をも含めた釈迦の全体像の見え方、ひいては仏教の人生観の捉え方ががらりと変わります。

■半僧半俗として林住期を自由に生きた西行

 釈迦の80年の人生をどう理解したらいいか。林住期という観点を取り入れることで、私の考え方、見方は大転換しました。そして、林住期的な人生観はインド固有のものなのか、世界のどこにでもある人生観なのかと考え始め、いろいろと調べているうちに、興味あるかたちで継承されているのは日本だと気がつきました。

 林住期的生き方は、ヨーロッパにはほとんどありません。中国には若干あって、たとえば「仙人」や「不老不死」という考え方は林住期的生き方に近い。つまり、聖的な領域と俗的な領域が入り混じっているところが仙人思想の中にはあります。

 先ほど述べたように、林住期という人生観の特徴は、世俗的な生き方と聖的な生き方が入り混じっているところがあることです。欲望の世俗的世界に徹底するわけでもなく、禁欲の聖的世界に徹底するわけでもない。中途半端に俗と聖を出たり入ったり行ったり、来たりする。その意味では、自由気ままで遊戯的な生き方です。

 この点、日本には古来、「半僧半俗」「非僧非俗」という仏教者たちの生き方があります。それは平安時代末期の歌謡集『梁塵秘抄』に「遊びをせんとや生まれけむ」とあるような人生観です。

 これが日本に継承されている林住期的生き方です。

 林住期的生き方を代表する日本人を1人挙げておきましょう。西行(1118~1190年)です。『新古今和歌集』の第一等の歌人としてよく知られる僧侶です。武士を辞め、妻子と別れて出家生活を送ったと言われていますが、単なる「家出」であるというのが私の認識です。

 西行の人生の中心は旅でした。つまり一所不住、あるいは遍歴、まさに林住期的生き方をした人間です。

 ただ西行は旅暮らしの中で、家族のところにしばしば帰っています。また旅の目的も東大寺の勧進、寄付金募集のために奥州まで行ったり源頼朝に会って兵法を教えてみたりと、世俗的な仕事、つき合いが少なくない。武士時代につき合った貴族たちと一緒の旅というのもあります。

 しかし、一度も歌を捨てたことはありません。歌人の仕事は世間とのつながりがなければ続けられない。だから積極的に世俗的世界とかかわったんですね。

 僧侶としての修行は主に高野山で重ねましたが、比叡山に登ったり伊勢神宮に行ってお社の前で拝んだりもしています。

 つまり西行は、単に一流の歌人で収まるような生き方をした人間ではないわけです。

 西行はいったい何を求めてそういう生き方をしたのか。それは「自由の境涯」だったと思います。西行が日本的自由、フリーダムを生きた人間だからこそ、西行的生き方は後世の多くの人々に恋い慕われるようになったのでしょう。もちろん、私も西行の生き方に憧れを持つ一人です。

 西行は同時代の歌人たち、たとえば、公卿・九条兼実の歌の師範になった藤原俊成のような生活もできたはずです。しかし、彼らと同じような生き方をしようとはしなかった。聖でもあり俗でもある、あるいは聖でもない俗でもない。いわば半僧半俗というかたちで、旅暮らしの中で歌を詠み続ける。そんな林住期的生き方を貫きました。

 西行の生き方は『万葉集』『古今和歌集』の歌人たちとも基本的に違います。しかし、彼らをも凌ぐ才能豊かな歌人だったわけです。西行は俊成の子・藤原定家が憧れを隠さなかったほど、非常に魅力的な人間なんですね。

願はくは花の下にて春死なん その如月の望月のころ

 辞世の歌とも言われ、その願い通り、旧暦2月16日、新暦だと3月23日、まさに桜の季節に亡くなったと言われています。釈迦の命日、旧暦の2月15日の翌日です。

 聖でもなく、俗でもなく、自由にさまざまな世間とつき合い、歌と戯れたい。そして自分の死にたいかたち、きれいな月を見ながら桜の花の下で死んでいきたい。西行はその通りに生き、そしてこの世を去っているわけです。
 
こんなにも自由に、死ぬまで遊び続けることのできた人生は、誰にとっても理想ではないでしょうか。西行は林住期的生き方の日本モデル、いや、世界モデルにもなり得る人間だと思います。