【菜の花忌シンポジウム】作家・司馬遼太郎さんを偲び今年も開催/『街道をゆく』をテーマに、大紀行が未来に伝えるメッセージを語り合う
司会・古屋和雄:まず『街道をゆく』が皆さんにとってどういう作品か、教えてください。
今村翔吾:僕が『街道をゆく』を全部続けて読んだのはたぶん中学2、3年生頃。司馬さんの小説を全部読み切って、読むものがなくなって……といったら失礼ですけど。読んでみて、小説にフィードバックされているところが随所に感じられて、「二度楽しめる」感じだったのを覚えていますね。
■憧れだったモンゴルへ
岸本葉子:なんといっても足での探索と、頭での探索。実際に司馬さんと一緒に歩いて、移動をしている感じも楽しめる。または、あまり移動はしていないけれども、思索があちらこちらに飛んでいく。それを自由に行ったり来たりするところが魅力だと思います。
磯田道史:司馬さんは、取材して持っていたイメージが足元から崩れるのが快感だ、と言っています。その差分を大事にしながら歩いていったのがいい。
古屋:たくさんある『街道』のなかで、何がお好きですか。
岸本:一つ挙げるならば、「モンゴル紀行」(第5巻)です。司馬さんは少年のころからモンゴルに憧れを抱いて、大学でもモンゴル語を学びました。そして、1973年に初めてモンゴルを訪ねます。憧れの地にようやく行ける心の弾みが文章から伝わってきます。片言でモンゴル人同士のけんかの仲裁を買ったり、ほかではみられない司馬さんの様子に接することができます。
モンゴルに限らず、司馬さんの訪ねた所は、「南蛮のみち」(第22・23巻)にしろ「愛蘭土紀行」(第30・31巻)にしろ、少し“周辺”なのが印象的です。
磯田:僕は『街道をゆく』を四つに分けて考えているんです。まず海外。二つめが国内の畿内など日本の古い核の地域。それと列島の境目地域。その境目地域は2種類。北海道のオホーツク海沿いのモヨロ貝塚とか沖縄・糸満の漁民など特徴的な文化を持つ境目と、もう一つ、境目だからこそ日本を動かした変革主体になる境目。つまり薩摩、長州、肥前、土佐。司馬さんの旅は“周辺”がポイントです。
岸本:周辺は、「周縁」とも言い換えられます。ほかの国、ほかの民族との接点、最前線でもあるわけですね。
今村:いまは(滋賀県の)大津に住んでいるので、やっぱり、『街道をゆく』が始まった「湖西のみち」(第1巻)ですね。あの道は、僕もダンスの先生をしていたときに毎週通っていたんですけど、特徴的なのは、そこらへんのおばちゃんとかが出てくるわけ。そういう人に積極的に司馬さんは声をかけて、「ここ、こうだったらしいよ」みたいな話にも、ちゃんと触れていく。足を運んで、風を感じ、文章のなかに封印することで、やっと仏像に目が入るかのようになるというのを感じます。
■書く前いったん忘れる
磯田:現場で自分だけしか得られない情報を得たときの司馬さんの口癖があります。「愉快である」。司馬さんの文章でこれが出たら、非常に思うところがあったんだな、と感じます。
たとえば、近江商人のもぐさ屋の屋号が全部「亀屋」だ、と書く。歴史学者はきっとそこには注目しないでしょう。そして屋号がみな同じ点から近江の商人を協調的とみます。日本の“交差点”で、無用の争いを避け協調して生きていた、と考察する。新しい日本の「風土記」「人国記」としての『街道をゆく』の真骨頂が出ている場面です。
岸本:司馬さんにとって歴史は書物に書かれたり博物館に展示してある物だけでなく、いま生きている人のなかにも書かれている。山川草木、風、その場で接するすべてから歴史を読み取ろうとしているなと感じます。
磯田:司馬さんは先入観で「こんなもんだ」と決めつけず、現場を五感でとらえながら旅していく。そのうちに、司馬さんのなかに本質をとらえた言葉の塊が生じる。しずくのように読者に落ちてきて感動を与えます。
今村:僕も取材しますし、資料は読むんですけれども、書く前にいったん忘れるんですよ。それでもなお残るものが、小説の核になっていくと思っています。自分でいうと、たとえば『童の神』という作品を書いたときの景色、色合い、風の匂い、温度、すべて明確に覚えているんです。「残るものは残る」ということですかね。
古屋:25年も続いた『街道をゆく』ですが、実は存続の危機もあったんですね。司馬さんが「そろそろやめようかな」という話を編集者にしたことがあって、編集者があわてて、「(スペインの)バスクに行きませんか」と提案したそうです。それが「南蛮のみち」に結実した。
■はにかむポルトガル人
今村:「バスク人」と呼ばれる人たちは当時、人口が減っていた。司馬さんは、同じ「しゅうえん」でも、「終焉」というか、最盛期よりも規模が小さくなったものに対する興味も深いという印象は受けます。
古屋:ポルトガルのサグレス岬が、「南蛮のみち」の終着地ですよね。
岸本: ポルトガルの人って、はにかみとか恥じらいとか、おとなしさがあるんです。それになんていうか、非生産的なんですね。出窓に花を飾ってかわいくしているので、「ここにお金をかけるより、雨どいを先に修理したら?」と思ったりしました。「どうしてこういう人たちが世界の海へ出ていこうと思ったんだろう」と、そのイメージのギャップに、旅をするなかで私は困惑していました。でも端っこの岬に立って海面をずっと見ていると、潮にはまるで意志があるように一方向にひた走って流れていくんです。当時のヨーロッパ人は、海は端っこで滝のように落ちていると考えていた。でも、「滝の落ちるだけのところに、こんなに潮流が意志を持って進んで行くわけがない。違うんじゃないか」と感覚的に思っても不思議はない。
今村:読んで思うのは、司馬さんはこちら側から見ているその地域と、その地域から見ている世界というのを、両側書かれているなと。司馬さんが、たとえばバスクに見ている憧憬というのは、逆に「バスク人」が日本に憧憬を持っているとして描かれているはずですね。
古屋:司馬さんはこのバスク人のことをきっかけに、文明と文化について考えを深めていかれた。
磯田:よく、学生に言います。「お城の上に鯱を載っけるのが文化。消火器をおくのが文明。鯱は水を呼ぶ。天守を焼かぬため置いてある。だけど、鯱で火事が消えるだろうか?」と。で、鯱じゃなくて消火器を置いておくのが文明。でも天守の上に2個の消火器が置かれていて、観光客が来るかといえば、こない。現在、人類は人工知能という文明の利器に手をだそうとしています。しかし人間は文化なしでは心の安定が保てない。『街道をゆく』が津々浦々から拾おうとしたのは、そこの人だけが育む意味の連関、象徴や文化です。よそと違うものを愉快に拾っていった。だからでしょう。司馬さんは「私のもので最後まで残るのは『街道をゆく』だろう」と言っています。僕も賛成です。
■価値を生むものは何か
岸本:『街道をゆく』が始まったタイミングを思います。1971年、昭和でいうと46年。各地に独自の文化があったのが、急速に失われようとしていた。モノによってはもう失われていたかもしれない。最後のチャンスだったのかなと思います。私は俳句が趣味でよく歳時記を調べます。季語の説明を読み、習わしについて調べていくと、昭和30年代くらいを境に途絶えていくものって多いんですね。
今村:人工知能、AIのタチが悪いのは、文明なのに文化の顔してやってくるところですよね。極端な話、司馬先生の文章をぜんぶ読み込ませたらそれっぽいことはできるんですよ、今の時代。けど、その違いを見つけられるかどうかは、受け取る側の僕らにもかかっていて、AIが発達したんじゃなくて、僕らが劣化している可能性もありうる。
古屋:この時代に、今村さんは各地で本屋さんを始められた。
今村:歴史のなかで無くなっていく職業なんて、山ほどあるわけです。もしかしたら書店、出版という文化もなくなっていくのかもしれない。でも単純に僕の感情論で、それは嫌なんです。
磯田:全自動の宿って、もう現れてきてますけど、全部の人件費を削ったら、1泊500円の宿が生まれるかもしれません。けど、20万とか30万とか、あるいはお城の天守だったら100万円でも払う人がいます。じゃあその違いはなにかというと文化の価値なわけです。
岸本:そこにしかない意味の連関があって、それの体験価値ですよね。ある時代に無価値だと思われていたものが次の時代には違ってくる。以前、人工知能に詳しい人の本を読んでて爆笑したんですけれども、その人が「次の時代に価値を生むものは何だと思うか」って聞かれて答えに詰まり、「思いやり」と答えていた。
今村:今村に茶の湯の知識をぶち込もうという企画が始まって、お茶の席に出たんです。関西人なんでやっぱり「これ(抹茶碗)、いくらぐらいですか?」ってなるじゃないですか。飲みかけに、「2千万」っていわれて、体が固まっていったん(器を)置きました。積み重ねてきた歴史が文化に変わっていって、値段がつかないような価値になる。僕もわかるようになりたいんですけど。
磯田:よく聞かれるんですよ。「価値を生むにはどうやって生きていけばいいですか」って。でも、今村先生のお答えのなかに、もうあるような気がします。「本屋さんが好きだからやる」。これ、大事なんですよ。僕もじつは子どものころ周囲に求められることは何もしませんでしたが、市立図書館に行って全国の電話帳を1ページずつ眺めながら、「この町にはどんな名字があるのか」を覚えようとした。そして、その町ごとにどんな神社があって、というのがおもしろい。私がいま聞かれてることは、そのときに仕入れた知識ばかりです。
■行ってほしかった場所
古屋:司馬さんに「電車と夢想」というエッセイがあります。人はたいてい電車に乗るべく待っている。子どもが就職したら「軌道に乗りましたね」という、あの電車。最近は、その軌道に乗らない人が増えていて、そういう人によって新展開をみせるかもしれないというのが私の夢想だとお書きになっている。
磯田:その軌道の発想は近代社会の産物。前近代は身分、近代は就職で個人は居場所を得た。でも、もう近代じゃない。就職は固定の居場所じゃなく、むしろ不安定の開始となる時代です。
岸本:軌道は、経済性、効率性を考えるなら最短距離で引くのが、いちばん理にかなっている。だけどその経済性、効率性というのも、そのときのものでしかないということですね。
古屋:「濃尾参州記」(第43巻)が未完のままで司馬さんは旅立たれたわけですが、司馬さんに「ここに行ってほしかった」というところはありますか。
今村:僕、京都府の木津川市というところの出身なんですけど、微妙にかすっている。「うちの地域にきてほしかった」という方って多いと思うんですよね。
磯田:私の故郷ですが、岡山に楯築墳丘墓があります。「芸備の道」(第21巻)で、ちょっと、かするんですけど。卑弥呼の塚の可能性が高いとされる箸墓古墳(奈良県)の葬り方が、この楯築墳丘墓の影響を強く受けていると判明してきました。最新の発掘成果から、もう一度、古い日本の核を書いてくれたらなあと。
■自分自身の「街道」を
古屋:『街道をゆく』を将来の人にどんなふうに読んでもらいたいかを、改めてうかがいます。
今村:僕たちは、見失ってるものがあると思うんですよね。耳を傾けるよりも発信しやすくなり過ぎたことによって、国民全員、街道を歩いてるんですよ、いま。本物を知る前にまず短い街道を歩いて、まだ練れていない言葉で発信している人たちがあちこちにいる。ここらで一回、本物に触れるという意味で読んでほしい。「この本は小学生には早い」とかいうのは僕はよくないと思っていて、極端な話、幼稚園児でも読める子は読める。大人は、子どもをなめずに紹介してもらえたらなと思います。
岸本:まず読んでほしい。そして、読んだうえで歩いてほしい。そのときにはスマホを持たないでほしい。私も取材に行って、なにも残ってなかったりするんですね。遺跡も神社もお寺も。でも、地形って必ず残ってるので、ここは山があって、海がこういう角度にある。海が近いと風の匂いが違う。起伏と距離感と風の匂いを感じると得られるものがあります。でも、スマホで写真を撮って、そこに「こんな社がありました」と一文をつけると、もうわかったような気になってしまう。読んだうえで、その知識をいっぺん自分のなかに伏せて、感じてほしい。
磯田:先日、国土交通事務次官だった人と、防災に関して道路の話をしたんです。じつは日本列島は、こんなに小さな島なのに、アメリカやロシアに匹敵する道路延長があって、人類がもっとも歩けるようにした地面だというんですよ。「万巻の書を読み、万里の道を行く」という言葉が僕は大好きで、やっぱりこの島に生を受けた以上、行かない手はない。「本を読みながら、答え合わせとしてのあなた自身の『街道をゆく』を、リアルな旅でつくってください」と言いたいですね。
※本文内の巻数は、すべて朝日文庫版の巻数です
(構成/フリーライター・浅井聡)
登壇者プロフィール
協力:司馬遼太郎記念財団