第10回 林芙美子文学賞 受賞作が決定! 佳作受賞作の冒頭を特別公開します。
受賞の言葉
「小説は軽い」。そう信じています。よく書けた小説は頁越しに世界を小さくし、私の全実存に安心をくれる、と。
かつて、故郷・福島からの一時避難中、私はいつも(バニヤンの主人公や地球座のヘラクレスよろしく)大きな青いバッグを背負っていました。その中には当時描いていた漫画の原稿用紙、アイデアを書き溜めた自由帳、聖書などが入っていて、つまり私の全てが詰め込まれていたわけですが、どうもあの重みが、今まで私に小説を書かせてきたように思うのです。
今回はその歩みに、一種の巡礼証明書を頂いたような気がします。今まで読んできた全ての本、それを与えてくれた両親、選考に携わって下さった全ての方々に心から感謝します。
受賞者プロフィール
鈴木結生(すずき・ゆうい)2001年生まれ。福岡県在住。
■佳作「人にはどれほどの本がいるか」(作品冒頭)
序
唐蔵餅之絵は、その七十八年に及ぶ生涯を、在野の文化理論家及び素人作家として通した。名刺上での肩書は、小倉の高級旅館「如雨露館」の経営者というもの。実際、彼の訃報に際し、地元新聞のお悔やみ欄は以下の如くごく簡潔にその人生を要約している。
「唐蔵餅之絵(からくら・もちのえ)氏が、八月七日、心不全のため死去、七十八歳。元如雨露館グループ会長。告別式は八月八日午前十一時から。如雨露館『垢手見舎』にて。喪主は長男耕詩氏。」
しかし、もし死んだ餅之絵がひょっこり如雨露館のロビーにでも現れてこの記事を読んだなら、まるで他人事と言わんばかりに、へぇこれまた随分と私と似た人がいたもんだ、名前も年齢も同じじゃないか、と思うに違いない。一度、「私の履歴書」から経済人として執筆の依頼があったときには、悩んだ末に丁重に断ったが、地元紙の「私にとって大切な本」という無記名アンケートには長文で応じたというほど、自分はあくまで物書きだという意識が強かった。彼の文章は度々学術誌や雑誌に掲載された。定期的に作品をまとめて出版もした。
しかし、隔週の私的な研究会「カラメル会」を除けば、彼は如何なる学閥とも文壇とも縁がなかった。アマチュアリズムに拘泥し、判官贔屓を窮め、多くの文藝の落伍者に寄り添った。ここで先の地方紙と比較する意味でも、カラメル会の会報に載せられた追悼文の方も引いておくとする。「当会の創立者、唐蔵餅之絵氏が亡くなった。氏は幼い頃、トルストイに出会ったことから世界文学の深奥なる森に分け入り、ダン、ブレイク、エリオットら英詩の巨星に導かれ、早くもその中心に至った。しかし、氏はエデンの園に於けるアダムらと同じ轍を踏むことはなかった。即ち中心の実に手を出すことはせず、ただ延々と森の中を周回するに留まった。その姿勢はさながら人工衛星のようでもあって、この周回軌道上に、幾つかの小ぶりで上等な小説作品と素晴らしい文化論が物された。私の好きな氏の小説は、何といっても『筆耕園』、『袖珍』の二作。まだ私たちが若く何をするも実験だった日々を懐かしむ縁として、未だに繰り返し手に取るものである。また、氏の生涯の学術的関心は、宗教と芸術の関係ということに集約する。例えば、当社から出した『フーゴーの記憶術』では、サン・ヴィクトルのフーゴーから出発した巡礼に、シェイクスピアは勿論、ノヴァーリス、レヴィ゠ストロース、ボルヘスまでが加わる。氏の真に学際的な人類知の網目に、鮮烈なまでの詩的直感が織り込まれた画期的論考である。氏のライフ・ワークと言える、浩瀚な『バイブル・バンヤン・ブレイク』では、英文学における信仰の問題が取り扱われた。若き日に正教会の集会に集い、それ以来、キリスト教への傾倒と挫折を繰り返し続けた氏は、やはりブレイクの信ずるところの神のことを信じていたと思う。氏はまた多くの芸術家見習い・元芸術家のパトロンでもあった。皆の書肆につけている借金を何度肩代わりしてくれたことか。『誰の心の中にも筆を折った詩人がいる』というのが私たちの座右の銘であった。氏は芸術家の聖性を全ての人々に認めた。それは彼の悲しみの出所ではあったが、文学にとっては一つの救いだった。(Mega)」
餅之絵は、その人生の最後の二年半を、自身の蔵書の処分に費やした。
一
餅之絵という名を初めて聞く人は大抵、冗談だろうかと目をパチパチさせて、「不思議な名ですねぇ」と苦し紛れに呟くか、あるいは彼の物書きとしての顔を知っている場合には、筆名なのだと早合点して、「ふむふむ、絵に描いた餅とは一見卑下するようだが、それがかえって何とも風流人らしい趣がある」とか何とか勝手に解釈してくれる。ところがこれが彼の本名なのである。経緯はこうだ。餅之絵の父・唐蔵耕三郎は、大戦末期に生まれた我が子の頬っぺを眺め摘みながら、喉から手が出るほど餅が(それも砂糖醤油をたっぷり塗って、狐色の焼き目をつけた餅が)食いたくなった。当時の唐蔵家は、さる政界の大物の肝煎りで、元々料亭だった「如雨露館」を改装し、旅館業に鞍替えしてからというもの、軍部や官公吏の出入りも多く、あの時代でいう貧乏というわけでは全然なかったにせよ、子供ら全員に餅をたらふく食わせてやれるような状況では当然なかった。耕三郎にとっては生まれたばかりの末っ子の頬の真白いこととその柔らかそうなこととはまさに「画餅」という語を想起させるに十分だったわけだ。それで、その意味を辞書にあたってみることもせず、何なら縁起がいい、とさえ思い込んで、我が子に付けてやった。この耕三郎という人は、あらゆる面で格式ばった男で、しかし教養はなく、だからこそ戦時中の軍将校からは好かれたのだろうが、その殆ど唯一の趣味に、名前を付ける、ということがあったらしい。特に我が子の名を付けるのを楽しみにし、そのために子供を産ませたと恐ろしい冗談を言うほど。自室には七人分全ての命名表を貼っていた。長男こそ、妻・史子と自身の名から一字ずつ取って耕史とし両家への配慮を見せたが、長女の八百子から始まって、次女・千図子、三女・万葉子(耕三郎本人は万葉集を読んだこともないのに、たまたま耕史の教科書でその名を見つけ気に入ったらしい)と続く。次男には自分の父の名そのままに耕次と付けた。それ自体はさほど変わったことではないかもしれないが、命名の理由がやはり捻っていて、まず「兄と似た響き(兄はこうしで弟はこうじ)にしておけば、呼ぶときに間違えても、どっちも来るから困らない」というのと、「いつか父を呼び捨てにしてやりたかった」というもの。実際、この次男は兄弟で一番怒られる回数が多かった。それが命名の理由によるのか、彼生来の気質によるのかは分からないが、彼自身は名前のせいだと思っていて、余計にそのつむじ曲がりを強めることになった、とは弟の談である。そして、極め付けの餅之絵であり、戦後に生まれた末の娘は聴子と落ち着くのだが、これにしたって、元々は柿食ケ子と付けようとしていたのを、史子に後生だからと止められて、聴子としたのだそうだ。そんな父だから無論、孫の命名も自分がするものと信じて疑わなかった。こういうわけで、餅之絵の一人息子は耕詩と名付けられている。餅之絵は、そもそも自分も言葉に拘る人間であったから、初めての(そして結果的には最後の)我が子の名というのも妻とかなり思案していた。しかし、当時相当病の進んでいた父が、部屋で漢字辞典を引いて、半紙に向かっている、その嬉しそうな姿を見せられたら、とてもじゃないが自分たちで名付ける、とは言い出せなかった。何より、実際に出来上がった「耕詩」という名に納得させられてしまった。「親父自身は再三俺に『詩を作るより田を作れ』と云うカンディード・タイプだったのに、孫には詩を耕せとはね」。餅之絵はそれを父からの、孫を介しての自分に対するメッセージと読んだ。しかし、どうして、あそこまで父が名付けることに執着したのか、結局餅之絵にはいまいち掴み切れないままだった。如雨露館のあらゆる施設(客間、温泉から便所まで)に名前を付け、従業員の子供にまで名前を付けてやっていた。そもそも、「如雨露館」という号自体、師匠から譲り受けた料亭には元々別の名があったのに、店が雨漏りしているのが如雨露のようだとわざわざ改めたものらしいから徹底している。兎も角、こういう耕三郎の命名偏狂の傑作が餅之絵という何とも不思議な名であり、彼はその名の持つ本来の意味の通り、夢見がちな人間に育っていったのである。
餅之絵が初めて夢中になった本は、島原の出で、熱心なクリスチャンだった母方の祖母が、眠る前にいつも読み聞かせしてくれた「靴屋のマルチン」。同じ話を何度聞いても泣いてしまい、学校に行っている途中でふと思い出しても泣いてしまうのだった。小学生になってから、『トルストイ民話集』という文庫本の中に例の話を見出したときにはそれはもう感動して、初めて自分の金で物を買った。この文庫本をいつも懐中に仕込んでは、暇があると取り出して読んでいた。祖母の語りと活字の間にある変化を見つけるのが楽しかった。世界は深く、広くなった。たまに思い余って表紙に接吻してしまうことさえあった。この一冊さえあれば、自分はどうにか生きていける、これこそ最上にして唯一のものであり、何といっても自分自身のものなのだから、と当時はそんな言い方こそできなかったけれど、そう感じていた。しかし、ある日、何故だか忘れてしまったが、兎も角この本を川に落としてしまった。すぐに拾い上げたので、祖母に乾かしてもらったら、読めるようにはなったが、黄金色に輝いて見えた頁が皺くちゃになり、子供心に世界そのものより確固として思えた文字が滲み、それはもはや彼にとって最上でも唯一でもなくなってしまった。彼の図書蒐集の歴史は、ここから始まる。
餅之絵は三男であるから、はなから家業を継ぐことを期待されてはいなかった。戦後の旅館経営は軌道に乗っており、父・耕三郎の学問コンプレックスも働いて、三男坊は思う存分学んでくるようむしろ奨励されていた。餅之絵の文学に対する情熱は、子供の時から一向に減ずることなく、その知識と蔵書の拡張に反映された。如雨露館の裏にある母屋の部屋は既に兄たちが占拠していたので、彼だけは離れに自室をあてがわれたが、それが彼にとってはこの上ない幸福の始まりとなった。ついに俺は一国一城の主人となった、と彼はその部屋に、トルストイの写真を貼り、芥川と荷風の間に、長兄から譲って貰った『完全なる結婚』と既に結構の分量に膨れていたスクラップ・ブックとを匿い、自分専用の書斎として整え始めた。友人らが草原で秘密基地を作っているのをよそに、毎日この部屋をいじくり、如雨露館の改装のたび、古い棚を貰ってきて本棚とした。その中で彼は幾つかの若書きを物した。大学に行く前には既に、数多の洋書や古書、彼自身の作品とで部屋は埋め尽くされていた。彼は東京に進学し、そこで後に妻となる榦と出会い、三年次には英国へ飛んだ。約二年、彼は直向きに学んだ。しかし、長男の耕史が自死し、次男の耕次が画家になると言って家を飛び出し、それきり消息を絶ってしまうと、父は遊学中の餅之絵を呼び戻した。こうして彼の将来に関する色々の計画や学問に賭けた野望は呆気なく消え失せた。
餅之絵は帰国後、如雨露館に就職し、文句一つ言わずに懸命に働いた。その働きぶりは、若き日の耕三郎の姿を彷彿とさせた。程なくして、餅之絵は榦を娶った。耕詩が生まれた。耕三郎が死んだ。餅之絵はますます健気に働いた。こうした中で若旦那が個人的にどんな趣味を併行していようが、そのために幾らか公私混同ともいえる活動をしようが(例えば、彼は如雨露館のロビーにブリタニカ百科事典を、全室に欽定訳聖書とシェイクスピア全集を備えさせた)、文句が出ようはずもなかった。経営者としての餅之絵は、信頼できる部下を見つけたら、彼らに何もかも一任し、責任を自分がとる、という基本を貫いた。如雨露館は見る見る大きくなった。耕三郎の目指していた九州各地へのグループ展開も現実のものとなった。
「カラメル会」を始めたのは、餅之絵が三十五の時である。大学時代からの友人で、福岡のさる私立大学の仏文科に助手としてやってきた妻鹿と、餅之絵がその才に惚れ込んでいた若き詩人、類木との読書会が、週に一度に定例化し、そこに三者それぞれが知人の研究者や大学関係者などを誘って来るにつれ、段々と規模も大きくなっていき、いつからか如雨露館の大ホール「象牙の間」を埋めるまでになった。会名の由来については、餅之絵はいつも「カルメル会のもじりである」だとか、「様々な学問分野を『絡める』というところから」だとか、はぐらかしていたのだけれど、実のところ、単に唐蔵、妻鹿、類木の頭文字からとったものに過ぎない。金はないが心ある研究者や文学者のため、四十二歳のときに出版社「カラメル社」まで立ち上げた。しかし、この経営はすぐに行き詰まり、カラメル会は元通りの勉強会に縮小し、それからも地道に継続した。
(作品の全文は「小説トリッパー2024年春号」に掲載されます)