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人生の底にいた私に、「来年こそいい年にしましょう」とタクシー運転手は言った

「もうかれこれ20年以上前になるが、新卒で就職した会社を1年半で辞めてからというもの、一貫して金がない」
 ノンフィクションライター・山田清機氏による『東京タクシードライバー』(朝日文庫・第13回新潮ドキュメント賞候補作)の「長いあとがき」は、こんな一文から始まる。山田氏がタクシードライバーに惹かれ、彼らを取材し描き出した人生模様は、決してハッピーエンドとは限らない。にもかかわらず、読むと少し勇気をもらえる、そんな作品となった。『東京タクシードライバー』の「長いあとがき」から、一部を抜粋・再構成して紹介する。

山田清機著『東京タクシードライバー』(朝日文庫)
山田清機著『東京タクシードライバー』(朝日文庫)

 もうかれこれ20年以上前になるが、新卒で就職した会社を1年半で辞めてからというもの、一貫して金がない。

 なぜ、長い受験勉強のゴールであったはずの大企業をやめてしまったのか、理由は自分でもよくわからない。当時は「管理社会」という言葉が流行っていて、管理されることへの反発のようなものがあった気もする。親に敷かれたレールから一度降りてみないことには、自分の人生にならないような気もしていた。本当の理由はいまだによくわからないのだが、ただ、何かが無性に耐え難かったことだけは間違いない。

■コインシャワー

 金がないと、人間はいろいろなことを考えるものである。

 会社を辞めて最初に移り住んだのは、杉並区の阿佐ヶ谷という町だった。なぜその町を選んだかといえば、アサガヤという音の響きが美しかったからという単純な理由でしかない。駅前の不動産屋に入って、「この町で一番安い部屋を紹介してくれ」と頼んで紹介されたのが風呂なし四畳半の和室に、共同便所、共同炊事場という物件だった。平成元年当時で家賃1万8000円、共益費4000円、合計22000円である。おそらく、本当に阿佐ヶ谷で最も安い部屋のひとつだったのではないかと思う。

 木造二階建てのアパートの二階を借りたが、共同便所のドアに嵌っていたすりガラスに、鉛筆で「造反有理」と大書されていたことをいまでも思い出す。部屋は微妙に傾いていて、机の上に置いた鉛筆が勝手に転がった。隣の部屋には映画の助監督が住んでおり、そのまた隣の部屋には自称商社マンが住んでいた。映画の助監督はまだしも、商社マンともあろうものが築何十年という木造のおんぼろアパートを借りるはずがない。共同炊事場で顔を合わせたとき、

「いやぁ、遠いところに一戸建てを買っちゃったんで、自分だけここから会社に通っているんです」

 などと馴れ馴れしく話しかけてきたが、どことなく胡散臭い人物であった。

共同炊事場で、商社マン氏が誤って私のラーメンの丼を割ってしまったことがあった。申し訳ないからこれを使ってくれと言いながら彼が差し出したのは、私の割れた丼よりもはるかに貧相な瀬戸物だった。本物の商社マンだったらもうちょっとましなものを寄越しそうなものだと思ったが、いま思えば、商社にもピンからキリまであるのだろう。

 映画の助監督については、隣にそういう職業の人が住んでいると大家から聞いただけで、顔を合わせたことは一度もなかった。しかし、ひょんなことで関わりができた。

 そのアパートには、当時としてももはや珍しかった呼び出し電話があった。ほとんど誰も使っていなかったが、一度だけ、休みの日の朝に呼び鈴が鳴ったのである。階段を駆け下りてピンク色の電話機の受話器を取ってみると、

「◯◯映画の者ですが、✕✕さんを呼んでください」

と声の主が言う。本当に映画の助監督だったんだと半ば感心しながら、階段を駆け上がって隣の部屋のドアをノックすると、薄っぺらい木のドアがギイと音を立てて開いてしまった。

 部屋はやはり四畳半で、半分をベッドが塞いでいた。ベッドの上に部屋の住人の姿はなく、残り半分にはカップラーメンの殻や、スナック菓子の袋、雑誌、マンガ、コンビニのおかずのプラスチックケースなどが、大げさでなく30センチ近くも堆積していた。それでも意外に匂わなかったのは、すべてのものがカラカラに乾き切っていたからである。おそらく助監督氏は、私が入居する何か月も前から部屋に帰っていなかったのだろう。

呼び出し電話に戻って、

「✕✕さん、いませんけど」

 と言うと、

「まったく、参るよなぁ」

 と言って電話は切れた。結局、そのアパートを出るまで助監督氏の顔を見ることは一度もなかった。

 もうひとりの住人は、斎藤さんという名前の警察官だった。なんでも、そのアパートの部屋を警察が寮として借り上げているという話だった。なぜそんな事情がわかったかというと、ある日の晩、へべれけに酔っぱらった斎藤さんが、間違って私の部屋に乱入してきたからである。

「本官は、青森県の出身でして、えーっと、◯◯警察所に勤務しております」

 斎藤さんは荒い呼吸で律儀に自己紹介をしてから、自分の部屋に戻っていった。

 それから数日たったある日、アパート近くの商店街を歩いていると、向こうからやってきた巡回中のパトカーが突然、目の前で止まった。助手席から警官が飛び出して、こちらに駆け寄ってくる。

「山田さん!」

 なぜ私の名前を知っているのかと思ったら、斎藤さんだった。

 公道の真ん中にパトカーを止めたまま、斎藤さんは先日の非礼をお詫びしたいと言って頭を下げるのだが、周りの人がじろじろ見るので気まずかった。

 その、家賃22000円のアパートに住んでいた時代、一番の悩みのタネは風呂代だった。当時の東京の銭湯代は、たしか300円ぐらい。その後、毎年のようにじわじわと値上がりを続けて、いまや450円もするのだが、当時としても決して安いとは言えない金額だった。仮に毎日銭湯に入ったとすると、月に1万円近い出費になる。あと1万とちょい足せば、風呂付きのアパートに入れる金額になってしまう。せっかく風呂なしアパートで頑張っているのに、銭湯にこんな大金(でもないが)を注ぎ込むのはナンセンスというものである。

 そこで私は、銭湯代を節約する方法を考えたのである。

 いまでも時々見かけるが、コインランドリーの横にコインシャワーというものが付随していることがある。私のアパートの近くにも、たまたまこうしたつくりの施設があった。そこで私は、銭湯に行く回数を大幅に減らして、コインシャワーを多用することにしたのである。なぜなら、銭湯よりも格段に安かったからである。

 当時のコインシャワーは、水栓の横にある料金箱に100円玉を入れると5分間お湯が出た。5分あれば、なんとか全身を洗い流すことができる。しかし問題は、お湯を止めている間もタイマーが作動し続けることだった。お湯が出ている正味の時間が5分間なのではなく、100円玉を入れてから5分間はシャワーを使えるという仕組みなのだ。出しっぱなしでも5分、止めっぱなしでも5分、出したり止めたりしても5分である。

 仮に、最初の1分間で髪の毛を濡らし、シャワーを止めて優雅にシャンプーなどしていると、シャンプーを洗い流そうと思った時にはすでに5分が経過しているということになりかねない。万一、100円玉を1枚しか持っていなければ、泡だらけの頭でアパートまで帰るはめになる。

 かといって、コインシャワーごときに200円を投入するのも癪だ。あと100円足せば、銭湯の広々とした湯船に入れるのだ。しかも、ほとんどの銭湯が12時過ぎまで営業していたから、時間制限などないに等しい。5分どころか、1時間入っても2時間入っても300円である。

 そこで考えついたのが、水を持ち込む作戦であった。

 併設のコインランドリーにある水道で、持参の洗面器にあらかじめ水を汲んでからコインシャワーに入るのである。その水で、まずは髪の毛を濡らしてシャンプーをし、次にタオルを濡らして石鹸を泡立て、そのタオルで全身に石鹸の泡を塗りたくってしまう。そうやって完璧な下ごしらえをした上で、やおら100円玉を投入するのである。

 こうすればまるまる5分間、熱いシャワーを全身に浴び続けることができる。シャンプーと石鹸を洗い流すだけなら、5分で充分だ。冬場は水道の水が冷たいのが難点だったが、この方法なら一時停止をして貴重な時間を無駄にすることが一切ない。

私はこの方法を編み出して以降、確実に100円玉1枚でシャワーを済ませることができるようになったのである。

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■ケーキ責め

 金がないと、食べ物についてもいろいろと考える。

 もちろん金にさほど困っていない人でも、安くて、ボリュームがあって、しかもおいしい物を食べたいと願うわけだが、世の中、そんなに調子のいい食べものはそうそう存在しない。コストパフォーマンスだけを考えれば、おそらく安い米を買ってきて炊いて食べるのが一番である。しかし米を炊くのは、少々面倒くさい。

 一時期、餅ばかり食べていたことがあった。

野菜のごった煮のようなものを作っておけば、その中に餅をポンと入れて軽く煮るだけで主食とおかずをいっぺんに食べられる。丼をひとつ汚すだけだから、後片付けも簡単である。

 しかし、安い餅にはそれなりに裏があることが徐々にわかってきた。1キロで200円台の餅を買ってきて野菜のごった煮の中に放り込むと、ちょっと煮ただけで餅が跡形もなく溶けてしまうのである。スープの中にほぼ完全に拡散してしまって、野菜のごった煮がどろどろしたあんかけ風に変わるだけで、実に味気ない。砂を噛む思いである。

 ある日、この手の水中で拡散してしまう餅の袋を子細に点検していて、私は大発見をしてしまった。袋にはこう書いてあったのだ。

「国産もち米粉100%使用」

 おそらくこの表示を読んだ人は、ああ、この餅は国産のもち米を100%使っているのだなと思うだろう。しかし、ポイントは「国産」と「100%」にはないのだ。この表示で重要なのは「粉」の一文字なのである。

 つまり、この手の餅は、もち米ではなく“もち米の粉”で作られているのだ。しかも、この手の餅は、私の睨んだところ、まったく搗いていない。杵搗きだとか機械搗きだとか、そういうレベルの問題ではない。そもそも搗いていないのである。

 ではどうやって餅にしているのかといえば、おそらく水で練っているのである。練って、固めて、乾かしているのである。逆に考えれば、もち米が粉末状になっているからこそ、水で練ることができるのだ。

 粉々になってしまった安いもち米を練って餅に加工しているのか、搗くよりも練る方が安上がりだからわざわざ粉にしているのか、あるいは和菓子屋に卸すもち米粉の残ったやつを練って餅にしているのか、正解は知る由もないが、この「国産もち米粉100%使用」の餅は、煮ても焼いても大変にまずかった。表面がプラスチックのようにツルツルしているのも、不気味であった。

 こうして、日々食べるものについていろいろ悩んでいた時、アパートの前をよく通るおばさんから声を掛けられたことがあった。まだ20代後半の、若い盛りの頃である。

「あなた、ケーキ食べる?」
「はい、食べますよ」
「あらそう。それじゃあ、夜に持ってきてあげるわね」

 世話好きそうな顔つきのおばさんは、その夜、本当にホールのケーキを持ってきてくれた。たしか、あまり好みではないママレードの乗った薄っぺらなケーキだったが、もち米粉の餅ばかり食べている身にとっては、夢のような出来事である。なんでも娘さんがケーキ屋でアルバイトを始めたのだが、帰る時に余ったケーキを毎日持たされて困っているのだという。

「あなた、ケーキ好きなの」
「もちろん好きです」

 その日から、夕食は毎日ケーキになった。しかも、直径25センチぐらいのホールのケーキである。チーズケーキが一番多かったと思うが、時にはアップルパイなども混じった。娘さんがアルバイトをしている店は、結構、名の通ったケーキ屋であるらしく、どれもこれもなかなかの味だった。しかし、人間とは贅沢にできているもので、1週間もホールのケーキを食べ続けると、まったくありがた味がなくなってしまう。夜に食べ残したケーキを、翌日、朝食の代わりに食べたりすると、もう、うんざりである。

 こうした極端な偏食を続けているうちに、体重は増えるどころか、どんどん減っていった。会社を辞めたときには80キロ近くあったのに、あっけなく70キロを切り、ついには65キロを割ってしまった。これは、高校生の頃の体重である。肋骨が浮いてきて、なんだか体に力が入らない。もともと色が浅黒いこともあって、写真に写った顔を見たら、インドのガンジー首相にそっくりであった。

 少々不安になって、無料で受けられる区の健康診断というのに出かけていったら、案の定、血液検査でひっかかってしまった。ホールのケーキを食べ続けたせいで、きっとコレステロールの値が高くなってしまったに違いない。そう思い込んでいたら、医師の診断はまるで違った。

「コレステロールの値が低すぎますね。コレステロールがあんまり低いと血管破けちゃいますよ」
「はあ。要するに何の病気ですか」
「君、お肉とかお魚とか食べてますか」
「あんまり食べてません」
「いま時珍しいけど、栄養失調ですね。少し栄養のあるものを食べた方がいいですよ」

 その頃は、近所のおばさんがケーキをくれたり、銭湯で惣菜を貰ったりするのを面白がっていた面もあるのだが、ケーキは思ったよりも栄養が乏しかったらしい。

食べ物は見かけによらないのである。

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■天井が落ちてくる

 当時の自分がいったい何に憤っていたのかよくわからないが、漠然と、山手線の内側で働いている人間は信用できないと思っていた。

 新卒で入った会社を辞め、アルバイトで食いつなぎ、その後に契約社員で入った出版社で編集の仕事を少しだけ齧った。

その会社にはワンマンのオーナー社長がいて、社長派と反社長派が年がら年じゅう権力抗争を繰り広げていた。反社長派の旗色がよくなると、突然、社長が巻き返しのために粛清人事を発表する。その発表の仕方が奮っていた。巻紙に社長直筆の筆書きというスタイルで、左遷される人の名前と部署が張り出されるのである。

その巻紙が張り出される度に、白昼から会社の近くにあるいくつかの喫茶店で密談が行われた。抱き込み工作が始まったり、寝返る奴が出たりで、まるで漫画かドラマでも見ているようであった。

その会社が山手線の内側にあったので、山手線の内側の人間は信用できないと思うようになったのかもしれない。その会社の内部が異常な状態だったことも間違いないが、当時の自分が被害妄想的であったこともまた、間違いのないことである。

 人事抗争に明け暮れしている出版社にいつまでいても未来はないと、後先考えずに3年半で辞めて、フリーライターを名乗った。しかし、いくら名乗ってみたところで、はいどうぞ仕事をくれる人はいない。実績も、コネも、何もないのだ。しかも、山手線の内側の人とは仕事をしたくないとなると、営業をかける相手はごくごく限られてしまう。

 独立後しばらくして、出版社時代の発注先だった編集プロダクションから、単行本のゴースト(代筆)の仕事を貰えることになった。その会社は渋谷区の桜丘町にあったから、ギリギリ山手線の外側であった。しかし、ギャラは想像していたよりもはるかに安かった。しかも本などというものは、いくらゴーストだからといって、そう立て続けに書けるものではない。資料を読む時間も含めて、2カ月で一冊書ければいい方だ。独立したら、たやすく印税生活に入れると思っていたのだが、その見込がまったく甘かったことを思い知らされた。

狭いアパートの一室に籠って、ろくな物を食べずに闇雲にタバコばかり吸いながら、日がな一日キーボードを叩き続ける。ゴーストの仕事は体に悪いだけでなく、精神にも悪影響が大きかった。何冊書いたところで、自分の名前は世の中に出ないのだ。私は、ひどく世の中を恨む人間になっていった。

 そんな、どん底のような生活を10年近くも続けて、忘れもしない、30代の半ばの頃に、それは起こった。

 桜丘の編集プロダクションから、初めてムックの仕事を請け負った。ムックとはブックとマガジンの間の子のような書物のことである。毎度毎度、締切は厳しかったのだが、その時は、極端に締切が早かった。注文の電話を貰った日から締切まで、たったの2週間しかない。内容は経済状況に関するインタビュー集で、5人の著名なエコノミストが登場するという体裁のものだったが、ひとり当たり原稿用紙53枚ジャストで書いてくれという注文である。ひとり分を3日で書いても、15日かかってしまう。仕事も金も欲しかったのだが、請け負う前から締切に間に合わないことは見えていた。

「ちょっと無理だと思います」
「君にしかできないんだ」
「いくらなんでも締切が早すぎます」
「山ちゃんしかいないんだよ」

 たぶん、後者が本音なのだろう。他のライターは、条件を聞いてみんな逃げてしまったに違いない。結局私は、その仕事を引き受けてしまった。

 私が敬愛する開高健という作家は、月産60枚という遅筆だったそうである。一方、やはり私の敬愛する松本清張という推理作家は、月産3000枚だったという。1日当たり、100枚の計算だ。これはいくら何でも早すぎるというので、常にゴーストライターの存在を疑われていたそうだが、清張の死後もそうした存在が明らかになったとは聞いていない。

 清張には1日100枚書けたかもしれないが、私にとって、53枚の首尾一貫した原稿を3日で書くのは、しんどい作業だった。しかも、1日でも息抜きの日を入れてしまったら、絶対に間に合わない。灰皿をタバコの吸い殻で山盛りにし、ストレス解消のために好物のピーナツチョコレートを一気食いしたりしながら、私どうにかこうにか2週間でこの仕事をやり遂げた。納品した日は、文字通り、泥のように眠った。

そして翌朝、目を覚ますと、天井が落ちてきたのである。

いったい何が起きたのか、まったく理解できない。ただ、じわじわじわじわとアパートの天井板が落ちてくる。そして、両側の壁も横たわっている私の方に向かってじわじわじわじわと倒れ掛かってくる。横隔膜が肺に張り付いてしまったような感じで、深く息を吸うことができず、やたらと冷や汗が出る。

「このままでは死んでしまう。とにかく部屋を出なければ」

 なぜか、そういう考えに取り付かれて、あわてて着替えて外に飛び出すと、強烈な不安感が腹の底の方から肺を突き上げてきた。

「誰かに会って、この状況を話さないと死んでしまう」

 そのまま駅まで走って、電車に飛び乗った。電車で40分ほどのところにある実家に行こうと思ったのである。

 ところが、電車のドアが閉まったとたん、両脇から大量の冷や汗が流れ落ちるのがわかった。息ができない。たまらず次の駅でホームに飛び下りて、浅い呼吸を何度も繰り返した。

「早くしないと、死んでしまう」

 後続の電車がホームに滑り込んでくる。意を決して乗り込む。冷や汗。呼吸困難。再び下車……。

 ひと駅乗っては降り、ひと駅乗っては降りという、いま思えば滑稽な行為を繰り返して、普通なら40分で着くところを1時間以上もかけてようやく実家のある駅にたどり着いた。駅から歩いたのか走ったのかよく覚えていないが、夢中で実家のドアのベルを鳴らすと、すでに年金暮らしに入っていた両親がいた。

「なんだかわからないけど、このままだと死んでしまう」
「どうしたの、どこか痛いの」

 驚いた母親が叫んだ。

「痛いんじゃなくて、息ができなくて、恐ろしくて、このまま死んでしまいそうだ」

 他に説明のしようがなかった。「このまま死んでしまいそうだ」というのが、一番、適切な表現だったのである。

「落ち着け、病状を言え」

 父親が言った。

「どこも痛くないし、怪我もしてないけど、本当に死にそうなんだ」
「そうか、そういう時はな……そういうときは、酒を飲め」

 父親は台所へ立って行って、一升瓶とガラスのコップを持ってきた。父親がガラスのコップになみなみと注いでくれた日本酒を一気に飲み干すと、一瞬、瘧のようにぶるぶると震えが来た後、緊張が一気に解けていくのがわかった。相変わらず呼吸は苦しく、不安感は消えなかったが、激しい興奮状態は収まった。

 私の父親は酒飲みで、サラリーマンとしてはいまひとつうだつの上がらない人間だったが、この時だけは、父親の助言が役に立った。本当に、酒が効いたのである。

工事中

■放火犯

 この日以降、発作のような状態は起こらなかったものの、私は常時、得体の知れない不安感につきまとわれることになった。通常の不安感は、原因が取り除かれれば消えてなくなる。しかし今回は、そもそも不安の原因がわからないのだから取り除きようがない。常時、腹の底の方からピリピリした不安感が胸のあたりまでせり上がってくる。

たとえて言えば、底なし沼の下の方に向かって駆け下りるジェットコースターに、ずっと乗り続けているような気分である。本物のジェットコースターならばどこかの時点で必ず坂を駆け上がるものだが、私が乗ったジェットコースターには上りがなく、高速で落下し続けるような感覚が1日中続くのである。

 不安感は強くなったり弱くなったりを繰り返したが、強まると天井や床が迫ってきて呼吸が苦しくなる。外へ出るといくらか楽になるが、部屋に戻ってくるとまた苦しくなる。飛び出す。苦しくなる。飛び出す……。

こんな、傍から見ればおそらく馬鹿みたいなことを繰り返しながら原稿を書くのは、苦しい作業だった。なにしろ、30分以上机に座っていることができないのだ。

 ある日、健康雑誌の編集長とたまたま話す機会があったので自分の状況を話してみると、

「それ、パニック障害っていう病気だよ。いま、すごく増えてるらしいよ」

 とあっさり言われてしまった。

 そこで、パニック障害を解説する冊子に載っていた心療内科を受診してみると、本当にパニック障害という診断であった。気味の悪い病名だと思った。不気味に小さなセロトニン再吸収阻害剤という錠剤と、漢方薬を処方された。飲んだらすぐに効くような薬ではないと前もって医者から言われたが、たしかに飲んでもほとんど効果を感じることはできず、心療内科に通院を始めてから丸2年の間、来る日も来る日もひどい不安感にさいなまれ続けた。

 相変わらず金はない。病気は治らない。

 本気で自殺をしたいと思ったことはないし、両親が健在だったから、心のどこかにいざとなったら助けてもらえるという甘い気持ちもあった。だが、先の見えない毎日に、精神は荒み切っていた。些細なことでひどく腹が立った。ファックスを送信しょうと思ったら3枚重なったまま送られてしまったといっては、家電メーカーの相談窓口に怒鳴り込んでみたり、向いのアパートのエアコンの室外機の音がうるさいといっては、その室外機に大きな張り紙をしてみたり、アパートの前を定期的に通るボトルカーの排気ガスが臭いといっては、警察に通報してみたり。いま思い出しても、完全に病んだ人間だった。

ある晩、いつものように呼吸が苦しくなって、外へ飛び出した。

当時、苦しい気分になると、アパートから歩いて15分ほどの距離にあった善福寺川という川沿いの遊歩道をよく歩いた。ゆっくり歩いていると不安感が少し薄れるので、この遊歩道を歩きながら資料を読んだり、本を読んだりしたこともあった。

 その晩は不安感に、ひどくいらいらした気分が加わっていた。埒のあかない人生に、ひどく不当なものを感じていた。心療内科の医師に向かって、「神はいない」と言ってみたことがあった。クリスチャンである医師は、「神は存在を問うものではなく、存在を信じるものだ」と言い返してきた。その医師が、教会はいつでも開いていてあなたを受け入れるというので、真夜中の礼拝堂に出かけて行ったこともある。本当に礼拝堂のドアは開いていたが、私には信じ切るということが、どうしてもできなかった。

 もう、11時を過ぎていただろうか。遊歩道の途中にある公園に、放し飼いの犬が何匹もいるのに出くわした。7、8匹もいるだろうか、中には子供の背丈ぐらいある、白くまのような大型犬もいる。おそらくその公園は、犬の飼い主たちの溜まり場なのだろう。人気の少なくなった夜中なら苦情も出ないだろうと踏んで、みんな揃って放し飼いにしているに違いなかった。赤信号みんなで渡れば怖くないというわけだ。

 私は、確認したわけでもないのに、そういう考え方をしているであろう飼い主たちに無性に腹が立った。ひとりで放し飼いにしているならまだ許せるが、集団にならないと放し飼いひとつできないというのは、いかにも日本人的な感じがして、情けない。横並び。長い物には巻かれろ。寄らば大樹の蔭……。そうだ、そういう言葉が嫌いだから、そういう人間たちが嫌いだから、そういう国家が嫌いだから、そういう生き方をしたくないから、自分は大企業を辞めたのだ。

こいつら、許せねえ。

「ちょっと、あんたたち、この公園は放し飼い禁止ですよ」

 私は、集まって歓談をしている飼い主たちに向かって言った。話声がぴたりと止んで、薄暗がりの中、飼い主たちがこちらに向かって近寄ってきた。するとあろうことか、放し飼いにされている犬たちも、ただならぬ気配を察知したのか、それぞれの飼い主の足元にぴたりと寄り添って、私の方に向かってくるのである。総勢、7人と7匹、8匹。あの、白くまのような大きな犬もこちらに向かってくる。太ったブルドッグもいた。ブルドッグは、顔は剽軽なくせに性格は獰猛らしく、闘牛の牛のように前足で土を掻きながら、明らかに私を威嚇する唸り声を上げているのである。

「子供が噛まれたら、どうするんだ。早く鎖に繋げよ」
「子供なんて、どこにもいないじゃありませんか」

 リーダー格らしい中年女性が、一歩私の方に踏み出して言った。

「この子たちは絶対に人を噛みませんけれど、万が一ということを考えて、こうしてわざわざ深夜を選んで放し飼いにしているんですよ」

 まるで、自分たちが配慮をしてやっていると言わんばかりである。私の血圧は、一気に上がった。

「あのさ、この公園は何時だろうと犬の放し飼いは禁止なんだよ。都の条例で決まってるんだよ。さっさと繋げよ」
「こんな時間に公園を散歩してる人なんていませんよ。だから私たちは……」
「俺がいるだろ。それに、世の中には犬が嫌いな人間、犬が怖い人間もたくさんいるんだ」
「この子たちは、日中、自由に駆け回ることもできないで、鎖に繋がれていなければならないんですよ。人間の勝手で、この子たちが走り回れる場所がどんどん少なくなってしまったの。せめて夜中の公園ぐらい、この子たちが自由に駆け回れるようにすべきよ」
「そんなに可哀想なら、都会で犬を飼うのをやめればいいじゃないか」

 中年女性は、言葉に詰まった。私はたたみかけた。

「放し飼いがそんなに正しいというなら、いまから一緒に警察行きましょうよ」
「あなたねえ……」

 私は財布の中に入れていた名刺を取り出して、女性の目の前に突き付けた。

「僕は間違っていないから、こうして堂々と名乗ることができるんだ。あんたも名前を言えよ」

 中年女性はいかにも悔しそうに顔をゆがめたが、とうとう名前は名乗らなかった。ブルドッグは、よだれを垂らしながらうーうー唸り続けている。

「ほら、後ろめたいことをやってるから名乗れないんだろう」
「あなた、あなたみたいな人はねえ……この、人間至上主義者!」

 中年女性がこう絶叫すると、飼い主たちは私から遠ざかっていった。遠ざかりながら、「ああいうのいるよね」とか「危ないやつ」などと言葉を交わし合っているのが、切れ切れに聞こえてきた。

 私はたぶん議論には勝ったのだと思うが、溜飲を下げたというよりも、なぜかひどく悲しい気持ちだった。それは必ずしも、危ないやつ呼ばわりをされたからではなかった。

 ちょうどその頃、隣の高円寺という町で連続放火事件があった。わずかな日数のうちに、ボヤが40件以上も起きたのである。出火場所はいずれもJR高円寺駅周辺のエリアだったから、地元の人間の犯行に違いないとニュースでは言っていた。

 そのニュースが流れた直後、私は新聞配達のバイクに乗った若者と遭遇した。なぜ、その若者を特に覚えているかといえば、もの凄くイライラしながら配達をしていたからである。それは、思わず立ち止まって見とれてしまうほどのイライラぶりで、猛烈な勢いで走ってきて急ブレーキをかけたかと思うと、バイクのスタンドを蹴飛ばすように立て、新聞をまるでポストに叩きこむようにして配っていくのである。その後も何度か見かけたが、何度見ても、最初に見た時と同じようにもの凄くイライラしていた。

 しばらく経って、高円寺の放火犯人が捕まったというニュースが流れた。犯人は、若い新聞配達人であった。私は、直観的に「あいつに違いない」と思った。あれだけイライラしている奴は、この世にそうはいない。絶対に、奴だ。

 ニュースによると、捕まった放火犯は、地方から上京してきて新聞の専売所に住み込みをしていた青年だった。40もの放火をした理由は、

「寮の部屋にエアコンがなくて暑かったから」

であった。

アナウンサーは、意味不明の動機だと言っていたが、私にはその青年の気持ちがわかる気がした。

いま思い返しても、あまりにも荒んだ生活だった。

そんな生活に終止符を打ってくれたのは、あの、人事抗争ばかりしていた出版社時代のデスクだった。ぼんやりと駅の階段を上っている時、突然、声をかけられた。

「おい山田、俺だよ、Tだよ」

Tさんは、例の出版社の中では珍しく中立的な立場を貫いた人だった。そのせいで、私が辞める2年前にクビになってしまったのだが、辞める時に「次はお前だぜ」と不吉な言葉を言い残した切りで、私の前から完全に姿を消してしまった。

私は会社側からクビを宣告されたわけではなかったが、Tさんの予言は半ば当たったようなものだった。

「お前、いま何やってんだよ」

 飄々とした物言いを聞いて、懐かしさがこみ上げてきた。

「単行本のゴーストです」
「ゴーストなんてつまらないことやってんじゃねえよ」
「だって、メシ食わなきゃなんないし」
「俺が雑誌に署名で書けるようにしてやるよ」

 Tさんもやはり、フリーのライターになっていたのだ。

 半信半疑だったが、数日後、Tさんは本当に一流雑誌の編集者を紹介してくれ、共同執筆という変則技で、私に生まれて初めて署名記事を書かせてくれた。その記事の評判が良かったこともあって、徐々にいろいろな雑誌から仕事が舞い込んでくるようになった。雑誌の仕事は、単行本のゴーストに比べれば原稿用紙1枚当たりの単価がはるかに高かったから、あれよあれよという間に私の収入は2倍になってしまった。

私は新卒で会社を辞めて以来、本当に久しぶりに、ほっとひと息つくことができたのである。

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■尾行

 それから、Tさんとよく飲むようになった。すべて、Tさんのおごりである。いくら雑誌の仕事は単価が高いといっても、決して金持ちになったわけではなかった。元が悲惨過ぎたのである。渋谷の安い居酒屋で待ち合わせては、チューハイとホッピーと味噌キャベツだけで何時間も粘った。

 Tさんには妙な癖があった。癖と言うより、習性と言うべきだろうか。

「お前さん、ゆっくり振り向きながら、斜め後ろにいる奴を見てみな」

 言われた通りゆっくり振り向いてみると、耳にイヤホンを突っ込んでラジオを聞いている中年男がいる。

「ありゃ公安だ。つけてやがる」
「普通の客ですよ」
「馬鹿野郎、普通の客が居酒屋でラジオを聞くか。あれは無線だ」

 Tさんは学生運動をやった人だった。週刊誌の記者時代には、中海なかうみの干拓阻止の論陣を張ったこともあったという。泊まり込みで中海に取材に行き、夜、地元のスナックで飲んでいると、店に入ってきたふたりの中年男にいきなり両脇を抱えられて、

「お兄ちゃん、いい加減にしなよ」

 と凄まれたそうである。そのふたりも、Tさんに言わせれば公安である。

 家族5人で鎌倉に遊びに行ったときも、公安に尾行された。

「電車で公安を巻くにはよ、発車のベルが鳴り終わってドアが閉まる瞬間、ホームに飛び降りるんだ」

 Tさんは4人の家族にこの方法を教え込み、鎌倉駅の手前の駅で、5人揃っていっせいのせいでホームに飛び下りたそうだ。

それでなんとか公安を巻けたとTさんは言うのだが、ホームに降りた長女から、

「公安の人って、お父さんを尾行してなんのメリットがあるの」

 と質問されたそうである。

 私も長女と同意見で、Tさんの公安話はほとんどが被害妄想の産物だと思っている。さすがに中海の一件は本当だと思うが、もはやTさんは公安に尾行されるほどの危険人物でもなければ、危険な原稿も書いていない。いや、はっきり言ってしまえば、Tさんはその頃からほとんど原稿を書いていなかったのである。

 私はTさんと頻繁に飲むようになるまで、彼の過去を詳しく聞いたことがなかった。例の出版社ではお互いに中立的な立場だったとはいえ、感情的な対立がなかったとも言えなかった。人心の荒廃した職場では、無用の諍いが起こる。ふたり切りで飲んだことなど、ほとんどなかったのだ。

 ある時、例によってTさんのおごりで飲んでいて、どういうはずみだったか忘れたが、学生運動の話になった。Tさんは決して、その時代のことを得意気に話す人ではない。

「ある日よ、校舎の屋上から学生が突き落とされて殺されたんだ。それを知った瞬間に俺は、セクト争いは絶対に間違ってると思った。どんなに正しいことを主張してるつもりでも、人を殺しちゃいけない。敵も味方も、みんなを生かさなくちゃいけない。いいか、味方だけじゃなくて、敵も生かさなくちゃいけないんだ。だから俺は、多神教徒なんだよ」

 私は学生運動のことなど何も知らない。セクトの区別も、ヘルメットの色の区別も知らない。だから当時Tさんが何に憤り、それをどのような言葉で、どのような行動で表現しようとしていたのかもわからない。

 Tさんはその殺人事件の後、大学の自治会民主化のために立ち上がり、民主的な手続きによる自治会長選挙の実施に漕ぎつけて、自ら自治会長に当選したそうである。

「ところがよう、学部長に当選しましたって報告に行ったら、何て言ったと思う」
「おめでとうじゃなさそうですね」
「T君、世の中そんなに甘くないんだよってぬかしやがった」

 民主的な選挙によってTさんが自治会長に選ばれたにもかかわらず、学部長はあるセクトの学生を自治会長として公認したのである。そのセクトが自治会を牛耳って治安の維持を図る。その見返りとして、学部から自治会費を受け取るという密約があったらしい。

 私には、青年だったTさんが受けた心の傷がどれほど深いものだったのか、想像もつかない。Tさんはこの出来事の後、大学を中退してしまったという。

東京タクシードライバー1

■来年はいい年にしましょうよ

私は、Tさんのおかげで栄養失調になるような生活から、なんとか脱出することができた。しかしその後も、いろいろなことがあった。とても短い紙幅の中では書き切れないが、もしも人生というタイトルのメニューの中に、幸福のリストと不幸のリストが載っているとしたら、私はそのふたつのリストのうちの、相当な数を味わったのではないかと思う。もちろん不幸のリストだけでなく、幸福のリストもだ。

 Tさんは、日本のマスメディアの節操のなさに絶望して、活字に対する最大の侮辱は活字をグラムで売ることだという独自の発想から、一時期ちり紙交換屋をやっていたことがあったという。

私にはそんな大層な意図はなかったものの、食い詰めた時に、靴屋、植木屋、椅子の据え付け工事といろいろな仕事をやった。工事現場で人足呼ばわりされたときには、これが人生の底辺かと思ったこともあったし、靴屋の社長から娘をもらってくれと暗に迫られたこともあった。もしもあの時「はい」と返事をしていたら、私はいま頃、小さな靴メーカーの跡取りになっていたかもしれない。

こういう人生を波乱の多い人生だとか、浮沈の激しい人生だとか呼ぶのかもしれないが、もしそういう人生を送ってこなかったら、私はタクシードライバーの話に興味を持つ人間にはならなかったかもしれない。

 あれはたしか、離婚をして、親権を取られて、子供だけでなくわずかばかりあった財産まですべて失ってしまった後の、師走のことだった。

 子供と別離するストレスは想像していたよりもはるかに激しいもので、私は毎晩のように悪夢を見た。暗闇の向こうの方から、子供がこちらに向かって走ってきて両手で私を突き飛ばす。そうかと思うと、まだ幼いはずの子供が見る見るうちに成長して中学生ぐらいになって、「てめえのせいで、こんな人生になっちまった」と私に向かって悪態をつく。自分の叫び声で目を覚ますと、いつも枕が濡れるほど汗をかいていた。

 そんな日々が、半年以上も続いた。日中眠くて仕方ないので睡眠導入剤を飲んでみたが、一向に熟睡できない。私はやがて、深酒をするようになった。もともとあまり量を飲める方ではなかったが、吐かない程度にだましだまし飲み続け、ある閾値を超えると、すべてがどうでもよくなる酩酊状態を維持できることを知った。一時的な現象ではあったけれど、それは私にとって救いだった。

 その日も、東京のどこだったか、おそらく渋谷か赤坂界隈でそんな飲み方をして終電を逃してしまい、タクシーに乗り込んだのだった。ドライバーは私よりかなり年嵩らしい、恰幅のいい人物だった。車に揺られていい気分になって、よもやま話を始める。最初は天気の話。野球もサッカーも好きではないから、景気の話。国道246号線から世田谷通りに入り、もう少しで多摩川を渡るというあたりで、ドライバーが身の上話を始めた。

「実は私、以前は会社の社長をやっていましてね」
「へえ、何の会社ですか」
「まあ、輸入関係なんですが、バブルがはじけてましてね」
「バブルでやられましたか」
「やられました。取引先が飛んでしまったんです」
「飛びましたか」
「飛びました」

 元社長はその後しばらく、黙ってハンドルを握っていた。私には経営のことなど、わかりはしない。「飛ぶ」という言葉が「倒産」を意味するのか「逃亡」を意味するのかも、はっきりとはわからなかった。

 多摩川を渡り切ったあたりで、元社長が再び口を開いた。

「私の会社自体は悪くなかった。まったく悪くなかった。順調に行っていたんです。私は経営者としてはね、よくやっていたんです。相手が飛んじゃっただけで、私の会社はまったく順調だったんですよ」
「ああ、そこの床屋の先で止めてください」

 料金を払う時、元社長はルームライトをつけてくれた。礼を言って降りようとすると、元社長が大きな声を出した。
「旦那、ちょっと待ってくれよ、これを見てくれよ」

 取り出したのは、分厚い大学ノートだった。

「いいですか、一番左が日付。次が乗せた時刻と場所。その次が降ろした場所。次が運賃、そしてお客さんがどういう職業の人だったか。私はこれをね、毎回、全部記録しているんです。そして分析しているんです。分析して、いいお客さんを乗せるためには、いつどこに行けばいいかを毎日毎日考えて走ってる。だから、営業所でトップなんです。いつもトップの成績なんですよ。わかりますか、旦那」

 元社長は、しきりに何かを訴えていた。やり場のない思いを、私に向かってぶつけていた。

 Tさんは、「日本国のぺてんぶりを暴く、爆裂面白小説を書いてやる」とここ10年ばかり言い続けているが、一向に書く気配がない。いまはロクに仕事もせず、酒を飲むのもやめてしまって、1日中図書館に籠って怪し気な本ばかり読んでいる。

Tさんが一度、こんなことを呟いたことがあった。

「蓮の花の蕾ってのは、みんな水面で咲こうと思って、上を目指して茎を伸ばしていくんだろう。でもよ、水面で花を咲かせられる奴なんて、ほんの一握りなんだよ。みんな途中で、窒息しちまうんだ」

 うだつの上がらない吞ん兵衛サラリーマンだった父親は、80を過ぎてからがんを患って、いま病院のベッドの上にいる。好きな酒の代わりに、点滴の針を体に入れている。

 人生には思い通りにならないことがたくさんある。家族と別れたり、挫折したり、人から蔑まれたり、騙されたり、金が払えなかったり、仕事をクビになったり、ノイローゼになったり、病気に罹ったり。どんなに辛くても人は生きなければならいなどと私は思わないし、生きていさえすればいいことがあるとも思わない。最初から最後まで、辛いことばかりの人生も、たぶんある。

 そして、人生で一番思い通りにならないのが、死だろう。どんなに死にたくなくても、いつか必ず人は死ぬ。死ぬのがどれほど怖くても、死は確実に近づいてくる。なぜ、人間は死なねばならないのか。いずれ確実に死ぬのに、なぜ、生まれなくてはならないのか。

 私は、何の答えも持っていない。何の答えも持っていないが、にもかかわらず私は、Tさんに爆裂面白小説を書いてほしいと思うし、父親に、もう一度だけうまい日本酒を飲ませてやりたいと思わずにはおれない。

 元社長は、分厚いノートをダッシュボードにしまい込むとこう言った。

「旦那、来年はいい年にしましょうよ。がんばってさ、来年こそいい年にしようよ」
「はい。いい年にしましょう」

 私は、赤いテールランプが闇の中に消えていくのを見送った。