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北欧で成功した「精子提供ビジネス」の実態と“子供の知る権利”をめぐる衝撃的な事実

 1980年代、エイズの蔓延によって確立した精子の凍結・解凍技術や厳正なセレクションによって信頼度と知名度を上げた海外の「精子バンク」は不妊に悩む多くのカップルを救ってきた。北欧で成功した「精子提供ビジネス」。匿名提供をやめた国はスウェーデン、オーストラリア、ニュージーランドなど12カ国ある。匿名提供と非匿名提供の難しさはどこにあるのか。10年以上にわたり取材を続けるジャーナリスト大野和基氏の新刊『私の半分はどこから来たのか――AIDで生まれた子の苦悩』(朝日新聞出版)から一部抜粋して紹介する。
タイトル画像:frankix / iStock / Getty Images Plus(※写真はイメージです。本文とは関係ありません)

大野和基著『私の半分はどこから来たのか――AIDで生まれた子の苦悩』(朝日新聞出版)

■ビジネススクールに通う27歳の大学院生が見た「何百という凍結精子」が泳ぐ夢

 デンマークのオーフスにある世界最大の精子バンク「クリオス・インターナショナル」(以下、クリオス)を訪れたのは2018年9月末のことだ。デンマークで2番目に大きな都市であるオーフスは人口約28万人。オーフス空港から44キロほど海岸沿いを北西に行った中心部にクリオスはある。創設者のオーレ・スコウ(68)は1987年にこの会社を設立した。2017年12月1日付で引退し、後継者にはピーター・リースリヴがCEOの座に就いた。スコウはスイスのルツェルン湖沿いに位置するヘルギスヴィールで優雅な引退生活を送っている。

 2019年7月、私は彼の自宅を訪ねた。なぜ精子バンクというビジネスを始めたのだろうか。

 1981年、当時27歳だったスコウは、ビジネススクールの大学院生だった。「私はある日、非常に奇妙な夢を見ました。今でも脳裏に焼き付いているほど強烈な夢で、氷が混じった海の中で何百という凍結精子が波にとらえられるシーンが出てきたのです」。その夢が忘れられず、スコウは後に大学の図書館に向かい、精子と生殖能力についての文献を渉猟した。するとますますのめり込んでいってしまったのだ。

 毎晩自らの精子を香水や薬などを入れるときに使う小さなバイアル瓶に入れ、冷凍庫で凍結させ、「実験」を始めた。彼の友人がアパートに来てそのことを知ると驚いたという。「私が学生のときに見た夢が、もう一つの夢を与えてくれました」。スコウは精子バンクを作る運命にあったのかもしれない。その夢をもとにして描かれた絵がデンマークのクリオス本社に一歩入ってすぐの所に大きく飾られている。

 1986年2月にターニングポイントがやってきた。当時スコウは、特に定職に就いていたわけではなかったが、精子バンクを設立すべく、奔走していた。「400ページものビジネスプランを立て、ある日ビーチを歩いているとき、プランを実現するためにすぐ行動しようと決意しました」。ビジネスプランの前半は精子凍結の技術や生命倫理に関するもので、後半がビジネスに関するものだったという。当時デンマークに、「マーメイド・クリニック」という不妊治療を行う初の民間病院ができたが、民間という理由で公的機関から精子提供を受けるプログラムに加わることができなかった。29ある公立病院には精子提供されていたが、民間病院では提供されなかったのだ。

■1週間後に最初の妊娠、2週間後には5人の妊娠が成功した

 当時のスコウにはドナー・プログラムを立ち上げる資金がなかったため、精子を凍結保存することだけに特化したビジネスを始めようと思った。放射線治療や化学療法を施されると精子形成ができなくなることが多いと考えられていて、その治療を受ける前に精子は凍結保存されることが多かった。スコウ自身も自分の精子で凍結保存する実験をしたものの、「精子の質があまりよくなかった」という。ここで言う質の良さとは、運動性、運動率が第一に挙げられる。方向性をもって生き生きと動いているのが良い精子だという。そのあとに選別されるのが、1ミリリットル当たりの精子の数だ。

 スコウは、マーメイド・クリニックが公的な精子提供プログラムに参加することができないと知り、すぐにこのクリニックを訪れ、精子の凍結保存ビジネスを自分が始めたことを伝えると、幸運にもその場で10万ユーロ(2019年当時のレートで約1200万円)の資金を得ることができた。公的な精子提供プログラムに参加できなかったマーメイド・クリニックは、すぐにでも提供精子を必要としていたので、スコウの精子提供ビジネスに飛びついたのである。

 その資金を元手に9平方メートルの広さしかない部屋を借り、1メートルの長さのテーブルを置いて精子凍結の施設にした。自分の手で町中にポスターを貼って宣伝して回った。交通手段は自分の自転車だった。宣伝を見て集まった提供者の凍結精子を自転車でマーメイド・クリニックに持っていくと、1週間後に最初の妊娠に成功した知らせが来た。2週間後には5人の妊娠が成功し、そこからは口コミで、大学教授や医師、そしてあちこちの病院にいたるまでこのニュースが広まった。公立病院からも凍結精子を使いたいという問い合わせが連日あり、供給が追いつかないほどにまでなった。

「自分から宣伝する必要がなくなりました。ドナーの選択、精子の数や状態などからみても最高の精子を提供したからです。妊娠率もすぐに4倍になりました。これは私が長年独学で精子について勉強していた成果です」。成功には運とタイミングがつきものだが、スコウの場合、医学部で習うレベルかそれ以上の専門レベルに達するほど精子について勉強した。経済学者のスコウが精子について強い関心を持っていた80年代、彼はビジネススクールに通っていた。帰宅後、ビジネスの勉強をしたあと朝4時まで精子について調べていた。

「精子の形態学、DNAの構造、運動性、先体反応だけではなく、体外受精、子宮など精子に関連するありとあらゆる専門書や論文、記事を読み、長年独学で勉強しました」。精子頭部先端には、ゴルジ装置から派生して、卵子を囲む細胞外基質や透明帯を消化するのに必要な酵素を含む先体が存在するが、受精能獲得精子が透明帯と結合すると先体は胞状化し、先体内の酵素を放出する。この現象が先体反応と呼ばれるもので、スコウはこれについても「頭が混乱するほど勉強した」という。「最終的に達した結論は、精子が子宮を移動するときに十分な濃度があれば、卵子に到達し、結合できるということです。卵子に結合できるのは最初に到達した精子ではなく、100番目と150番目の精子かもしれませんが、結合するには濃度と運動性が重要なのです」

デンマークにある世界最大の精子バンク「クリオス・インターナショナル」創業者、オーレ・スコウ氏(写真:大野和基氏提供)

■7~10%は男性不妊が原因

 この大胆なビジネスが軌道に乗り始めたとき、人々はすんなり受け入れたのだろうか。議論は起きなかったのかスコウに訊ねた。「もちろん多くの抵抗がありました。特に精子に問題がある夫側からの抵抗です。それでも私には明確なビジョンがあったので突き進みました。カップルの15~20%が不妊だった場合、その原因の半分は男性側に問題があると考えられます。つまり全体からみると7~10%は男性不妊が原因です」。最近は「マイクロ・テセ」という、精子が一匹でも見つかれば、それを卵子と顕微授精(ICSI:Intra Cytoplasmic Sperm Injection)といって精子を卵子に直接注入する方法で結合させる方法もあるが、マイクロ・テセの手術ができる医師はそれほど多くなく、AIDを勧めることが多い。

 不妊の原因がどうしても見つからない場合、あるいは原因が見つかっても治療法がない場合は選択肢が三つある。一つはそのまま子供を持たない人生を送ること。二つ目は養子縁組で養子をとること。そして三つ目はドナーを使うことである。カップルのどちらに原因があるかによって精子提供か卵子提供となる。精子凍結・解凍技術の開発はアメリカで最初の精子バンクを作ったジェローム・シャーマン医師だと言われている。

「精子の凍結・解凍技術がなければ、フレッシュな(生の)精子を使わないといけません。そうするとドナーとカップルがほぼ同時に病院に行かないといけないので、互いに出くわすリスクがあります。でも、精子凍結・解凍の技術があれば、そういうリスクもなく、さらに精子を選択する範囲が広がります」。不妊治療において大きなブレークスルーが起こったのは1980年代の半ば、スコウがビジネスの夢を実行に移そうとしたときだ。そのころはエイズが広がり始めたときで、多くの国でフレッシュな精子の使用が違法とされた。

「まず精子を凍結して半年後に解凍して検査します。すると潜伏期間が過ぎているのでその精子がHIV(エイズウイルス)に感染しているかどうかわかります。エイズのまん延によって精子凍結を余儀なくされたのです」。クリオスが現在、1千人以上のドナーを有する世界最大の精子バンクとなり、100カ国以上に精子を輸送することができるようになったのもこの凍結技術のおかげだ。

 次のターニングポイントは1992年にあった。初めてデンマーク国外からの注文が入った。ノルウェーからだった。92年にノルウェーの病院に凍結精子を送り始めると、すぐに現場で使用され、立て続けに子供が生まれたのです。それが契機となって他の国の病院にも知られるようになりました」

 スコウはビジネススクールで学んだ顧客開拓の方法や経営戦略と、精子凍結技術の医学的知識を組み合わせて、液体窒素を使う凍結精子の海外発送も成功させた。「凍結される生物学的物質はマイナス140度以下で保存されなければなりません。その温度がすべての生物学的活動が止まる温度です。液体窒素は(沸点が)マイナス196度なので保存と輸送に向いています。空輸システムも非常に重要ですが、いまや世界のいかなる場所へも数日以内に輸送できるようになりました。追跡システムも完備しているので需要がますます増えました」

 生殖補助医療に関する法律は国によって異なるため、凍結精子を送る相手国の法律に合わせなければならない。特に厳格な国はイスラム教圏の国である。これらの国で不妊治療など生殖補助医療の行為はハラーム(禁止)とされるが、医師は命がけで法律を犯してまで患者を助けているという。

「人工中絶と似ています。それが禁止されたところでは人は法律を犯してまで中絶手術を行うし、子供がほしい人は、どんな手段を使っても子供を持とうとするものです。イタリアでは2004年に生殖補助医療法が初めて制定されましたが、カトリック派が中心になって作られた法案が採用され最も厳しいものとなりました。配偶子提供も禁止、凍結保存も禁止となり基本的に生殖補助医療を受けることができなくなりました。しかし、2014年にこの法律は違憲であるという判決が出て合法になりました。イタリアはEU加盟国なので、自由に凍結精子を送ることができる。凍結精子を自宅に送ってそこで人工授精ができます」

 クリオスのミッションは不妊カップルや子供を持ちたい女性同士のカップルやシングルの人を助けることであるとスコウは言う。「法律で禁じられていても抜け道を見つけます。その人の人生における最大の夢を実現するのを助けるためです。国によって法律は異なりますが、常にその国の議員たちと交渉や議論をしています。精子バンクを違法にしてしまうと、どうしても子供がほしい人は、いわゆるグレーマーケットに頼らざるを得ません。そうなると、何の検査もしない、何の保証もない出自不明の精子を使うので、感染症や遺伝病のリスクが大きく、非常に危険です」

 最近はSNSで精子提供をしている人が増えているが、それも一種のグレーマーケットである。クリオスの場合、遺伝病や感染病の厳格な検査を合格した精子しか使わない。「ネットで精子提供と検索すると何千もの男性が見つかりますが、中にはセックス目的で精子提供をする人もいます。男性が原因でカップルに子供ができない場合、夫がそれを受け入れるのは非常に辛い」

 オーストラリアのヴィクトリア州の法律では匿名で精子提供した人も追跡可能となり、提供精子で生まれた子が提供者に連絡してくる可能性も出てきた。これについてスコウはこう言う。「この法律の最大の問題は、すべての場合に適用したことです。もしあなたが医者に匿名を約束されて、精子提供したはずなのに、その精子から生まれた子から連絡があったらどう思いますか? あまねく法律を適用することは間違いです。提供者の匿名問題の解決法について、私は30年以上研究し、各地で講演もしてきました。クリオスがあるデンマークでは1953年にこの問題が提起され、継続的に議論されてきました。そして私は一つの結論に達したのです。この問題を解決する方法は一つしかありません。それは、『匿名提供』と『非匿名提供』の2種類のドナーを持つことです。クリオスもそうしています」

「非匿名提供、つまり自分が提供者であることを明かす場合、自分のID(自己確認書)を開示することで、その精子から生まれた子はドナーが生物学的にどのような人物であるかの情報を得られます。これは子供にとって重要です。匿名提供をやめた国はオーストラリア、ニュージーランドのように12カ国ありますが、最初にやめたのはスウェーデンで1985年です。長いプロセスを経て匿名提供をやめました。しかし、問題は匿名提供ができなくなるとドナーは減ります。私は市場経済学者でもあるので、その点から見ると、需要が大きいときに供給を減らすと何が起きるか断言できます。先ほど述べたように、人々は治療を求めて国外に行くか、怪しげなグレーマーケットに頼るかそのどちらかしか選択肢はないのです」

■デンマークでは子供の5~8%が父親だと思っている人と血がつながっていない

 子供の視点からみると、出生の事実を教えられたほうがいいと考えているのだろうか。そう問うと間髪を入れずにこう答えた。「もちろんそうです。できるだけ早く告知するのがベストです。それは専門家の間でもコンセンサスができています。3、4歳までに子供が『自分がどこから来たのか』と親に聞くことがあります。そのとき事実をきちんと伝え、そのあとも継続的に教え続けることです。そうすると子供は何の抵抗もなく受け入れます。問題は起きません」

 しかし、もう一つの問題があるとも言う。「デンマークでは子供の5~8%は自分が父親と思っている人とは血がつながっていません。コペンハーゲンにあるジョン・F・ケネディー・インスティテュートのマーガレッタ・ミケルセン教授は私にこう言いました。『毎年腎疾患の子供が100人くらい来るが、まず腎臓提供者として親を第一候補として考えます。そこで血液型検査をすると、5~8%が父親と生物学上つながっていないことがわかりました。もちろんそのことは子供には言いません。ただ移植には合わないというだけです』。これは妻が浮気をして子供を作り、そのことを夫は知らないということを意味します。ですから、子供が生物学上の父親が誰であるかを知ることはすべての人にとっての権利ではないということです」

 この衝撃的な事実と出自をめぐる権利についての著者の提言については、本書『私の半分はどこから来たのか』に詳しく書かれている。