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リアルな心理描写と驚愕のラストに震撼する『悪い女 藤堂玲花、仮面の日々』/大矢博子氏による解説を期間限定で特別掲載!

 美人でスタイルも良いセレブ妻の藤堂玲花。高級住宅地で家族と裕福に暮らす彼女だが、女子高生時代には男性教師との秘められた関係が……。2014年に発売した単行本『ダナスの幻影』に大幅に加筆修正を加え、改題のうえ文庫化した、吉川英梨さんによる本格暗黒ミステリー『悪い女 藤堂玲花、仮面の日々』(朝日文庫)が発売となりました。本作の刊行によせて、書評家の大矢博子氏による解説を掲載します。大矢さんが「吉川英梨は、警察小説だけじゃない! 読み始めたら止まらない、まさにジェットコースター・サスペンス」と大絶賛してくださった力作エンタテインメントです。

吉川英梨著『悪い女 藤堂玲花、仮面の日々』(朝日文庫)
吉川英梨著『悪い女 藤堂玲花、仮面の日々』(朝日文庫)

 本書は2014年に刊行された『ダナスの幻影』を大幅加筆修正のうえ改題・文庫化したものである。ノンシリーズとしてはデビュー作以来の2作目。近年の吉川英梨の活躍に慣れた読者からすると異色作と言ってもいいこの作品を、ようやく文庫でお届けできることを嬉しく思う。

 吉川英梨は2008年、第3回日本ラブストーリー大賞エンタテインメント特別賞を受賞した『私の結婚に関する予言38』(宝島社文庫)でデビュー。ブレイクのきっかけとなったのは2011年、デビュー2作目として出された『アゲハ 女性秘匿捜査官・原麻希』(宝島社文庫)だ。これで人気に火がついた。原麻希のシリーズは12冊を数える看板となり現在も続いている。

 その後、2016年に始まった「新東京水上警察シリーズ」(講談社文庫)、2017年に始まった公安ものの「十三階」シリーズ(双葉文庫)、同じく2017年スタートで警察学校の教官が主人公の「警視庁53教場」シリーズ(角川文庫)、2020年には新たに女性海上保安潜水士を描いた「海蝶」シリーズ(講談社)を始めるなど、今や警察小説シリーズの書き手として八面六臂の活躍を見せている。

 だから、吉川に「警察小説」のイメージがつくのは仕方ない。だが、警察小説だけではないのだぞ、と声を大にして言いたい。それが本書である。

 そもそも吉川は、デビュー作がラブロマンスだったことからもわかるように、最初から警察小説の専門家を目指してデビューしたわけではない。むろん、『アゲハ』でその方面の才能を見せつけ、その後大きく開花したのは言うまでもないが、インタビューによると原麻希シリーズは当初5冊で完結予定であり、「5作やっているうちにどこからかオファーが来たらいいなと思っていたんですが、来なかった」と語っている。そこでエージェントに相談し、持ち込み企画として書いた中のひとつが本書なのだそうだ。とんとん拍子に出版が決まったそうで、最初から完成度が高かったことを窺わせる。

 だが同時にそのとき、各社から「吉川さんなら警察小説を書いてほしい」と言われたという。原麻希シリーズの実績ゆえだ。それで前述のような警察小説シリーズが次々と始まったわけで、本書はちょうどその狭間に埋もれるような形になってしまった。やや不運なタイミングだったと言っていいだろう。

 だからこそ、この文庫化は満を持して、なのである。もう一度言おう。吉川英梨は警察小説だけではないのだぞ。

 警察小説でなければ何なのか。主婦が主人公のサスペンスである。

 主人公は藤堂玲花。目黒区の高級集合住宅地『サン・クレメンテ自由が丘』に、夫と2人の幼い娘と暮らしている。『サン・クレメンテ自由が丘』は周囲をレンガ造りの“城壁”で囲まれたゲーテッドタウンで、表門には警備員が常駐し、住民の招待がなければ外部の人間は入ることができないというセキュリティの固さを誇る。当然、そこに住んでいるのはセレブばかりだ。その中でも玲花は“ミセス・パーフェクト”と呼ばれる存在だった。

 ある日、そのタウンに最近越してきた大泉菜々子が、玲花と同じ聖蘭女学園出身だと告げた。しかし菜々子は、一学年違いで同じ時代に同じ学校にいたにもかかわらず、玲花のことは覚えていないという顔をする。そこに、玲花の高校時代の友人の訃報が入り――。

 というのが導入部だ。物語はここから玲花の現在と高校時代が交互に語られる。

 できれば前情報はあまり入れずにお読みいただきたいのだが、それでは解説が書けないのでこの続きを少しだけ明かしておこう。高校時代の玲花は友人の復讐のために英語教師の辻沢を誘惑する。しかしそれを逆手に取られ、いつしか玲花の方が辻沢に本気になっていく。そして現代。友人の葬儀に出た玲花はそこで辻沢と再会。再び関係を持つようになる。ところがその頃から玲花の周囲で妙な事件が起き始め、ついには殺人が……という展開だ。

 まず目を引くのは、先が気になって仕方ない吸引力の強さ、つまりは構成の巧さである。

 最初の現代パート〈Ⅰ〉でタウンの中のパワーバランスと玲花の過去に何か秘密があるらしいことがほのめかされる。もしかして玲花が名門・聖蘭出身というのは詐称だったのではないかと感じる読者もあるのでは。しかし過去パート〈i〉で、確かに玲花が聖蘭の生徒だったことは証明される。が、見たままの優等生だったというわけでもなさそうだ。そして現代パート〈Ⅱ〉ではタウン内の妻たちの間に発生した不穏な状況が描かれるのだが、過去パート〈i〉をすでに知っている読者はそこに別の災いの芽を感じる……。

 小出しにされる情報が、読者の想像力を刺戟する。こういうことかな、という予想は次々に裏切られる。このテクニックが実に上手い。予想はただ裏切られるだけではない。読者の予想にいったんは沿うように見せて、その一歩も二歩も先へとジャンプするのだ。序盤の展開だけで、セレブママたちのマウント合戦の話だとか、不倫の恋に溺れていく有閑マダムの話だろうとか決めつけると背負い投げを喰らう。前の章のあの言葉はこういうことだったのか、これがここにつながるのか、という驚きの連続だ。一章ごとに意外な展開やどんでん返しが待っているのだから、まったく息吐く暇もない。

 殺人事件の真犯人は、ミステリを読み慣れている読者にはすぐに見当がつくが、それがまったく瑕疵になっていない。それどころか、そう見当をつけて読んでいけばさまざまな出来事が違った意味を持って浮かび上がるし、犯人がわかったとしても何が起きたかはわからないのでミステリとしての興味はまったく削がれないのだ。もちろん、犯人がわからなければ(その方が楽しい)最後に大きなサプライズが待っているという次第。とにかく読み始めたら止まらない、まさにジェットコースター・サスペンスなのである。

 だが何より本書を吸引力の強いものにしているのは、玲花をはじめとした登場人物たちの弱さや狡さ、愚かさの描写だ。

 本書の単行本版が出るより少し前、2011年の後半から真梨幸子や沼田まほかる、湊かなえらを旗手とする、後に「イヤミス」と呼ばれるミステリが爆発的なブームになった。人のどろどろした悪意や闇の部分を抉った、「読んでイヤな気持ちになるミステリ」のことだ。現在はブームを超えてひとつのジャンルとして定着したが、本書もまた、当時のイヤミス全盛期の一翼を担うものだったと言える。なんせ、読者が好意を抱き、感情移入するような登場人物がまったくいないのだから。

 だがここで注目願いたいのは、ただ、「イヤな人」を描いただけの小説では決してない、という点だ。不倫がばれるのではという恐怖の中にありながらも抑えきれない会いたいという思い。自分を見下している相手と表面上は穏やかに接してみせるときの内心の屈辱と苛立ち。自分が不幸なら相手も同じ場所まで引き摺り下ろしてやりたいという衝動。

 共感はできない。だが理解はできる。想像はできる。それがイヤだ。絶対に共感はできないのに理解できてしまうのがイヤなのだ。だからこそ読者は、彼女たちの行動に、展開に、はまってしまう。やめろ、と思いながら読んでしまう。

 玲花はなぜ不倫に溺れてしまったのか。菜々子の行動の根底にあるものは何なのか。いい加減な男にしか見えない辻沢が隠していたものは何なのか。玲花の夫や、高校時代の同級生たちも然りだ。それぞれが抱える闇や秘密の存在が明らかになるにつれて、サスペンスの疾走感は増し、同時に切なさが読者を搦め捕る。

 終盤、ある不倫の動機を推察する、こんなセリフがある。

「愛してもらえないから、愛が続いたんでしょうな」

 これが発せられる文脈では「ずれた解釈」と切り捨てられるが、実は本書の通奏低音はこの言葉ではないか。ここに登場する誰もが、愛を欲していた。それは親の愛であったり、恋人の愛であったり、夫婦の愛であったりと様々だが、愛して欲しい人から愛してもらえないという渇望が彼女たちを、彼らを、ここまで追い詰めたのだ。

 最初は緊迫感とどんどん高まるサスペンスに一気読みしてしまうだろう。だがそのあとで、どうか思い出して欲しい。彼らひとりひとりの「動機」がどこに発していたのか。それに思い当たったとき、愛してもらえないという連鎖がどれほど大きな悲劇を巻き起こしたかがわかり、呆然とするに違いない。そして決して好きにはなれない登場人物ばかりのこの物語の最後に、大いなる救いが用意されていたことに気づくだろう。連鎖は、止められるのだと。ここで止められたのだと。

 細かい伏線やサスペンスフルな展開の妙、そして何より登場人物の心情を物語の中枢に据えてリアルに描くその手腕は、現在の警察小説のシリーズでも吉川英梨の大きな魅力だ。だが本書には、警察小説の「捜査」という視点を通してでは決して描けない叫びが詰まっている。吉川英梨を知る上で、欠くべからざる一作である。