孤高にして偏狭な江戸随一の戯作者を描いた、杉本苑子さんの歴史巨篇『滝沢馬琴』/文芸評論家・細谷正充さんによる文庫解説を公開
歴史小説には、主人公である実在人物の名前をタイトルにした作品が、少なからずある。吉川英治の『宮本武蔵』、山岡荘八の『徳川家康』、北方謙三の『楠木正成』、宮城谷昌光の『諸葛亮』などなど、過去から現在まで、物語の主人公である実在人物の名前を、ドンとタイトルにした作品が、連綿と書かれているのだ。
では、なぜ歴史小説に、このような人名タイトルがあるのだろうか。大きな理由は、読者の興味を強く惹けることだ。名前を見ただけで、どのような人物かある程度は分かる。その人物をどのように料理しているか知りたくなる。タイトルは作品の顔といわれるが、それがそのまま主人公の顔になり、読者への訴求力になるのだ。本書も作者が、滝沢馬琴という人物の力を信じているからこそ、このタイトルになったのであろう。なお、作中では曲亭馬琴と表記されているが、タイトルに敬意を表して、解説では滝沢馬琴を使用する。
滝沢馬琴は江戸後期の戯作者である。ヒット作は幾つもあるが、もっとも有名なのは『南総里見八犬伝』(以下『八犬伝』)だ。『八犬伝』は読んでいなくても、NHKの人形劇『新八犬伝』を夢中になって見た人もいることだろう。ストーリーを簡単に記すと、室町時代を舞台に、数奇な運命で結ばれた八犬士が活躍する、波瀾万丈の大伝奇ロマンである。ちなみに八犬士は、みんな体のどこかに牡丹の形の痣があり、「仁」「義」「礼」「智」「忠」「信」「孝」「悌」の、どれかの珠を所持している。馬琴本人は、非常に謹厳実直な人なのだが、なぜか戯作になると天衣無縫。とんでもなく面白い勧善懲悪ストーリーを創り上げるのである。
その一方で、馬琴を家長とした滝沢家には、不幸と苦労が絶えなかった。だからだろうか、江戸の戯作者を主人公にした歴史小説はいろいろあるが、その中で群を抜いて馬琴が取り上げられている。主人公となった作品には、ミステリーのテイストをいれた平岩弓枝の『へんこつ』、『八犬伝』を執筆する現実の馬琴と、その物語世界を交互に描きながらラストで融合させた山田風太郎の『八犬伝』、馬琴とその周囲の人々を丹念に調べた森田誠吾の『曲亭馬琴 遺稿』、少年時代から晩年までを描いた朝井まかての『秘密の花園』などが挙げられる。矢野隆の『とんちき 耕書堂青春譜』では、蔦屋重三郎の「耕書堂」で働いていた、若き日の馬琴が登場していた。
さらに馬琴の息子の嫁で、『八犬伝』の完成に深くかかわった滝沢路を主役にした作品なら、群ようこの『馬琴の嫁』、西條奈加の『曲亭の家』がある。梓澤要の『ゆすらうめ』は、お路と馬琴を通じて、滝沢家に出入りする人々の恋愛模様を描いた短篇集だ。また、馬琴が脇役として登場する歴史時代小説は数多い。
ところで来年(2025年)のNHK大河ドラマ『べらぼう~蔦重栄華乃夢噺~』には、どのような扱いかは分からぬが、間違いなく馬琴が登場するだろう。それにより新たに馬琴を知り、興味を覚える人もいるはずだ。そんな人に、どの本を薦めるのか。最初に手に取ってほしいのが本書である。なぜなら、当時の時代の動きを背景に、馬琴の人生とその周囲の人々の諸相を描いた、王道の歴史小説であるからだ。1977年7月、文藝春秋より上下巻で刊行された書き下ろし長篇であり、翌78年、第12回吉川英治文学賞を受賞した。半世紀近く前の作品である。しかし古びたところはどこにもない。時代と人間を捉える卓抜した視点と、それを表現する巧みな文章により、令和の読者も満足させる普遍的な名作となっているのである。
物語は、すでに老境の馬琴が、片目を失明する場面から始まる。同じ日、馬琴の息子・宗伯の嫁のお路が家出し、滝沢家はてんやわんや。そもそも、妻のお百は愚痴っぽくて気分の変化が激しい。跡継ぎである医者の宗伯は、病弱で癇癪持ち。お路は地味で頑なな性格。孫の太郎はワンパクだが体は丈夫ではない。このような家族を抱えて馬琴は、一家を支える金を稼ぐため、戯作を書き続けなければならないのだ。
そうした馬琴の日常から、彼の強烈なキャラクターが浮かび上がってくる。版元と『南総里見八犬伝』の校閲でやり合う場面を見れば分かるが、とにかく細かい。ちょうどタイミングよく朝日時代小説文庫で復刊された、杉本苑子と永井路子の歴史対談『ごめんあそばせ 独断日本史』の中で作者は、馬琴が鈴木牧之の『北越雪譜』の出版の労を取ろうとしなかったことに触れ、
「だから『馬琴は意地悪だ』と後世、言われることにもなるんだけど、意地悪というのは、ちょっと当らないのね。馬琴は凝り屋というか、とことん完璧主義者で、しかもプロ意識が猛烈に強いから、『馬琴校閲』と刷り込む以上は、暇にあかして書いた地方の物持ちの膨大な原稿を、自分が気に入るまで手を入れなければ納得できない。『そんな時間は忙しくて蹴出せない』というわけ。(笑)それでぐずぐずと延びちゃうの」
と語っている。“とことん完璧主義者で、しかも猛烈に強いプロ意識”が、一番発揮されるのは自分の作品に対してだろう。しかし、その意識で他人も見て、批判したり見下したりする。だから嫌われたり揉めたりするのである。しかも、プライドが異様なまでに高い。そのくせ、根は律儀で小心者。自分や滝沢家の名が汚れることを、極端に恐れている。人気戯作者だから付き合ってもらえるが、そうでなければほとんどの人からソッポを向かれる人間なのだ。
しかし一方で、その一貫した生き方に感心してしまう。家族の問題から逃げることなく、後に失明してもお路に口述筆記をしてもらい、最終的に28年の歳月をかけて『八犬伝』を完成させたことは、驚嘆すべきことである。
こうした馬琴の後半生を活写しながら作者は、たくさんの同時代人の動きも綴っていく。非常に巧みなのが、人物の出し入れと絡ませ方だ。たとえば家出したお路は、たまたま出会った姪の家にいく。そこで話をしていると、隣の住人の女性が醤油を借りにくる。この女性が、葛飾北斎の娘のお栄なのだ。本書は登場人物が膨大であり、いちいち書いてはいられないが、滝沢家の人々(親戚も含む)を微妙に絡ませ、当時の文人墨客の世界や、出版業界の状況(現代と似ている部分が多いことに驚く)を、分かりやすく表現する。また、天保の改革へと向かう時代の流れ、田原藩家老で尚歯会のメンバーだった崋山渡辺登の悲劇や、江戸南町奉行の矢部定謙の失脚、天保の改革などを、馬琴と周囲の人々を通じて描いている。たしかに物語は馬琴の日常が中心なのだが、読み味は重厚なのだ。
そんな本作の中で、特に注目したい女性がふたりいる。ひとりはお路だ。不器用だが黙々と家事育児を行い、夫の宗伯が亡くなった後も、面倒極まりない滝沢家に残ったお路。先にも触れたように馬琴が失明した後、お路が『八犬伝』の口述筆記をするようになる。だが馬琴の文章は佶屈としかいいようのないもの。それを説明する馬琴も大変だが、実際に書かねばならないお路の苦労は言語に絶する。まさに艱難辛苦の中で、お路の才能は開花したのだ。また、次々と家族を失い、視力も失った馬琴が、お路と二人三脚で、ただ純粋に物語と向き合う姿は感動的だ。
そしてもうひとりの注目すべき女性が堀内節子である。おそらく作者の創作であろう(もし彼女に該当する人物がいたとしても、かなり創作が入っているはずである)。かつて仙台の只野真葛から馬琴に送られた手紙を、何度か滝沢家に届けたことのある節子。なにかと滝沢家と絡んだり、矢部定謙と男女のドラマを演じたりする。ストーリーを潤滑にするキャラクターになっているが、作者が彼女に与えた役割は、それだけだと思えない。これは私の考えだが、作者は節子に真葛を投影したのではなかろうか。
只野真葛については本書の中で詳しく書かれているので、そちらを参照していただきたい。当時としては、時代の枠組みからはみ出した思想の持主である。しかしそれゆえに馬琴との関係も上手くいかず(馬琴の性格の問題も大きい)、手紙のやり取りは1年で途絶えた。この真葛は物語開幕の10年ほど前に、すでに亡くなっている。どうしたって物語の中で馬琴と絡むことはない。
そこで節子である。読んでいるうちに分かってくるが、やはり当時の女性の枠組みをはみ出した生き方をしている。作者には「滝沢みちと只野真葛」という歴史読物もあり、馬琴と関係のあったふたりの女性文人を並べて語りたいという意図があったのではないか。そのために堀内節子というキャラクターを生み出したと思えるのである。
話を馬琴に戻そう。長生きしたからでもあるが、馬琴は最愛の息子を皮切りに、次々と家族を失っていく。それでも老骨に鞭打って、金を稼がなければならない。果てのない不幸と苦労が続くうちに馬琴は自身のことを、「作者のほかの、何者でもなかったわけか?」と心の中で思う。
だが、そこに戯作者としての栄光があるのではないか。若き日に仕えていた松平家を出奔したときの馬琴の決別の句は、「木枯しに思ひ立ちたり神の供」というものであった。そして晩年の馬琴は、風ひとつない秋の静夜に、虚空をどよもして過ぎる木枯しの声を捉え、お路と決別の句の話をする。この木枯しとは何か。答えは、歴史エッセイ集『江戸を生きる』に収録されている「風狂の絵師 北斎」にある。この項で作者は、葛飾北斎が孫のために苦労したことに触れ、さらに馬琴・大田南畝・近松門左衛門も家族の苦労があったという。そして、
「芸術家の伴侶としては、幸福より、むしろ不幸が望ましい。“人間”と対決しつづける以上、貧苦、病苦、老い、死など“人間”の内奥に吹き猛ぶ木枯しを聴きつづけなければならないが、現世的な幸せは、その耳を鈍らせる。芸術家は作家であれ画家であれ音楽家であれ、外見がどれほど幸福そうに見えても、かならず心の底の底に、孤独な木枯しを秘めているはずであり、それのない者は、ときめいていてもニセ者である。(後略)」
というのだ。作者は馬琴の人生と正面から取り組み、創作者の行きつく境地をまで描破した。凄まじい作品だ。そして思う。長年にわたり優れた歴史時代小説を書き続けていた杉本苑子の秘めていた“孤独な木枯し”は、どのようなものだったのだろう。今はただ、滝沢馬琴の孤独な木枯しを描き切った物語の行間から吹き寄せる、作者の木枯しの声に耳を澄ませるのみである。