見出し画像

【試し読み】田中慎弥が「生きるためにどうしても書かなければならなかった小説」『死神』の冒頭を公開!

※期間限定の全文公開は終了いたしました。お読み下さったみなさま、ありがとうございました。冒頭部分は引き続きお読みいただけます!

 芥川賞作家の田中慎弥さんの最新刊『死神』(24年11月7日発売)の冒頭を公開いたします。田中さんが「生きるためにどうしても書かなければならなかった小説」とおっしゃる作品の凄みを、ぜひ体感してください。
※全文公開は終了しました

▼刊行記念エッセイはこちら

田中慎弥『死神』(朝日新聞出版)
田中慎弥『死神』(朝日新聞出版)

死神

 中学二年の時、初めて本当に死のうとした。つまり、初めてあいつに会った。そのことをあとであいつに言うと、
「お前が死にたがるのは俺のせいなんかじゃない。お前の意思だよ。」
 だが、どう考えても、死とあいつとは一体だ。何しろ、死神なのだから。
 なぜ死のうとしたのか、正直分らない。しかし、十年以上も生きていて、一度も死にたいと思ったことがないなんて、あり得るだろうか? 普通、人は、あいつと会わずにすむのだろうか? 私は作家になり、十代の頃のことを小説やエッセイに書いた。だがあいつのことだけは、書けていない。私はいまでも時々、死の衝動に駆られる。
 ついいましがたも次の小説のことで、出版社の担当編集者と電話で、これまでにない口論をした。その理由は、実は仕事のことばかりでもないのだが――そのあと酒を呷った。いっそこいつに殺虫剤でも入れるか。今度こそ、本当にやってしまおう。そう気持よく言い聞かせた瞬間、出てきたあいつが、
「そうだそうだ、今度こそだよ。どうせあの女はお前じゃ無理だって。それに、もともと作家と編集者は難しいんだろ。な、作家として焼きが回った、男としても終った。綺麗さっぱりこっちの世界に身柄を引き取ってやるよ。」
 死の願望とあいつ、いったいどちらが先だろう。死のうとするからあいつが現れるのか、あいつと出会ったから死にたくなるのか……
 しかし、あいつと関係ないところに、動機や理由はあったのかもしれない。

 中二よりずっと前、小学二年くらいだったか。昼休みの鬼ごっこか、かくれんぼ。寒かった。風ではなく空気そのものが冷たかった。小学校は丘越えの大きな坂道に接していた。体育館の裏手、掃除道具が納められた物置と、坂道の土台である石垣との隙間に、私は一人で隠れていた。排水溝。枯葉。何か、燃やすにおい。遊んでいる生徒たちの声が遠くに聞える。
 誰も来なかった。宇宙の中に自分一人のような冬だった。物置と石垣の間に見える細い空に雲が、だんだんと形を変えてゆくのが分る、そのくらい長いこと隠れていた。むしろ見つかるのを待っていた。誰も来ないまま、休み時間終了のチャイムが鳴った。その時、胸の中を、周りの空気より冷たい、暗く恐ろしい影のようなものが、確かに行き過ぎたのだ。やがてその何かが、自分を捕まえにくるに違いない。

 掃除の時間、木造教室の床板の合せ目に詰った砂粒が、どうしても掃き出せなかった。給食に出たスープがあまりにもおいしくなくてお椀を前に途方に暮れていた。なのに世界は終らず、太陽は昇って沈んでをくり返すのだった。
 両親は一人息子に優しかったが、仕事と家事に忙しかった。優しい合間に、父は母と私に手を上げた。優しいのではなく、優しいだけだったのだ。愛情はよそ見をせず、濁流のように注がれた。玩具と母の手料理で溢れた家の中、私はいつまでも生きてゆかなければならないのだった。それを破ろうとしたのだろう、突然玩具を投げたり引っ張ったりもしたが、恐竜やロボットやスポーツカーは頑丈で、やっと壊れた途端、私は泣いた。夏休みの課題の絵日記を、うまく描けたうまく描けたと思いながら、色鉛筆の両親を破り捨てた。教師には、下手くそな絵だったので我慢出来ずにこうしてしまいましたと言い、下手でもいいのにと頭を撫でられ、気持が悪くなってその場で吐いた。教師は素早くよけた。私はあとで掃除をさせられた。
 蒸し暑い夜、怖い夢で大声を上げながら目を覚ますと、母がすかさず麦茶を持ってきてくれた。なんの夢かは思い出せなかった。
 夏でも冬でも算数の問題は解けなかった。放課後の居残りを命じた教師は、いくら教えてもうまく筆算出来ないために根負けして、もういいから、と促した。帰りかけて何か忘れたような気がし、振り向くと、自分の席にはまだ自分が座って問題を解こうとしているのだった。私は私を捨てて逃げ出した。分らない問題は友だちに訊けよ、と教師の声が追いかけてきた。教師自身は追ってこようとしなかった。

 五年生、六年生と進んでゆくにつれ、体調に関係なく、時々学校を休むようになった。父は何も言わず、母も、少しもいやな顔をせず学校に電話してくれた。夜、お前が甘やかすのが悪い、と言って父が母の頬を叩くのが聞えた。それでも母は変らなかった。
 私は家でも学校でも、本を読む時間が増えていた。頁に没頭している間はよかったが、ふと目を上げると、世界は消えておらず、全部もとのままだった。両親もあい変らず、私に対しては綿菓子みたいに甘かった。それのどこがいけないのか、親が優しいのはいいことじゃないか、父親が母親を打つのは別に珍しくもない、と人は思うだろうか。もっと小さかった頃に祭の夜店で買ってもらった綿菓子は、ちょっとの間に萎んでしまったものだった。私の家は、いつまで経っても消えずに甘い綿菓子だった。
 勿論、当時の私が両親をはっきりと永遠の綿菓子に見立てていたわけではない。世界が消えないからといって消えろ消えろと念じたり、地球の機関部に爆薬をしかけようとしたのでもない。
「そんなところにそんなものをしかけるとしたら、お前じゃなく俺の仕事だろうな。」
 あとであいつがそう言った。いつの間にか溶けてなくなる両親とか、髑髏印のダイナマイトで吹っ飛ばされる地球なんか、期待したってどうしようもないのだ。
 時間がのろのろと、確実に過ぎていった。体が大きくなった。精通があった。街にいくつかある小さな本屋を、時間に負けない鈍い足取りで巡回するくらいしか、やることはなかった。

 つまらない世界を背負って中学生になり、理由なく休もうとはしなくなった。
 何度も死を考えた。
 原因? たぶん、十代だったからだ。他には、他には、そうだ、小学生の頃、物置と石垣の間から見上げた雲が、遠い原因かもしれない。でなければ、教室で椅子を引く時のぎいぎいの音が、私の心と体に悪く影響したのかもしれない。これはかなり有力な説と言えそうだ。スチール製の椅子の灰色の脚が、ところどころタイルの剥がれた床にこすれるぎいぎいというありふれた叫びを毎日毎日聞いているうちに、頭がどうにかなってしまったのかもしれない。黒板にチョークで書かれる、おそらくは世界を構築するための部品であろう文字や数式、英単語や、何々の合戦の年号も、世界がばらばらになる日を夢見ている自分にとっては、椅子と床が立てる声と変らない代物だった。
 中一のある日、弁当に梅干が入っていなかった。母が必ず入れはするものの別に好物ではないし、ないならないで、ただそれだけのことだ。そこに何かの意味が見出せるわけでもない。
 ただ、詰められた飯の真ん中あたりには、蓋を開けるなり誰かに素早く食べられてしまったかのように、円形で薄紅色のへこみが残っていたのだ。母が間違いなくそこに一度梅干を乗せた。そのあとで、やっぱりいらない、と今日に限って判断したとは思えない。乗せたあとで梅干の表面に異常を発見したために取り出し、時間に追われる朝の台所で、代りを入れ忘れたまま蓋をしてしまったのだろうか。だからどうだというのでもない。梅干には防腐剤の役目もあるというが、弁当がいやなにおいになっているのでもない。だが、そこにある筈の、一度は置かれたであろうそのちっぽけな紅い食べ物が、何か私に、よくない感覚として響いてきたのだ。母のわずかな失敗。弁当の不完全。好きでもないのに、紅い跡だけ残してそれが姿を消していると分った瞬間、とんでもなく情ない気分になった。そして、母が恋しいのか自分自身が悲しいのか、それともこれまで辿ってきた、どこにも目標や将来の夢や行く当ての見つからない人生が一丁前に虚しく感じられたためか、紅い空白を見つめている視界がぼやけ、泣き出してしまったのだ。自分でも信じられなかった。
 弁当箱を開けるなり涙を流すというぞっとしない芸を披露した同級生に対するクラス中の驚きやからかい、本気の心配、といった対応が私をさらによくない方向へ押し出してしまったのだろう、その日、教室の掃除の最中にベランダで、この三階から飛び降りたらどうなるのか、と想像した。死に方は、黒板には書かれない。誰も教えてはくれない。死んだ人間の体験談はどこにも出ていない。
 ベランダの手すりを撫でる。結局は、何もかも梅干のせいらしい。そんなばかなことがあるか、と言い聞かせてみても、他に原因は見つからない。やっと世界がなくなってくれたのかと思ったら、消えたのは、たった一粒だったということ。つまり、原因はやっぱり不明だということ。

 だいたい月に一回くらい。
 遮断機の下りた踏切。赤信号の横断歩道。三階より上の、音楽室や図書室。紐、コード。無防備な刃物。この儀式は、原因不明をいいことにすっかり習慣となった。
 要は、誰もがたいてい十代で経験する、自分は周りのやつらとは全然違う特別な人間なのだ、というあの考え方に、私も取り憑かれていたのだろう。平然と、ウジャウジャと生きているこいつらとは違う。何がどう違うか? なんでわざわざそんなことを考えなきゃならない。ゲームと漫画の話しかしないこいつらとは違う。野球選手のフォームをどれだけ正確に再現出来るかを小学生のように競い合っているやつらも、そういう男子をせせら笑ってやっぱり自分は周りとひと味違うと信じていて大人になること以外能のなさそうな女子たちも、それぞれの体臭を発散し始めた成長途上の人間の群を見下ろして満足している教師たちも、絶対にこの自分を上回れはしない。一つには、ゲームや漫画ではなく本が好きだということもある。同じクラスのいわゆる番長連中が、本を読む私の頭を小突いても、反撃なんかしない。怖いからじゃない、怖いからじゃない、怖いからじゃない。頭の悪いやつらを相手にしたって仕方ないからだ、仕方ないからだ、仕方ないからだ。小突かせてやっているのだ。堂々と本を読んでいる自分を、こいつらも、誰しもが、羨ましがっているのだ。
 だが、誰も自分に追いつけない根本的な理由は他にある。
 それは、自分が、自殺するからだよ。
 私は確かに、つまらない世界を勝ち抜く秘策として、この自殺という文字通りの必殺技を自覚した時、するからだよ、と心の中だけでなく実際に口に出していたらしい。
「何こいつ、気持わるー。」
「何々、田中がなんつったの。」
「もういっぺん言ってみろよ。おら、どうした、人が頼んでんだからやれよ、もういっぺんだよ、おら。」
「……自殺、するから、だよ。」
 それから暫くの間、ほとんど一生分に感じられるほどの暫くの間、するからだよ、するからだよ、だよ、だよ、とクラスの中ではやった。時に単発、時に合唱となる声音に、私は脅かされているのには違いないのに、どうしたわけでか、だよ、だよ、とくり返す同級生に唱和する恰好で、目を合せながら、
「だよ。」と呟いてみたりする。すると相手は、何、見てんだ、おら、と机を蹴る。そいつの目が明らかに怯えている。怯えが増すにつれて蹴り方が強くなる。私はもう一度、だよ、とやっておいてから、今度はそこに笑顔をつけ足す。向うはかわいそうなほど動揺し、獣が、毒を持つ爬虫類を慎重に避けて通るように、後退してゆく。自分が言った、だよ、に気分がよくなる。気持悪いやつだと見られて嬉しくなる。
 間もなく、孤立した。

※最後までお読みいただきましてありがとうございました。続きはぜひ、田中慎弥さんの最新刊『死神』(朝日新聞出版)でお楽しみください。