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「自分とは何者か」「他者とはどう違うか」をあぶりだす3つの質問“真善美”

 人は意外と自分自身のことをわかっていないものです。「探究型学習」の第一人者である矢萩邦彦さんは、著書『自分で考える力を鍛える 正解のない教室』(朝日新聞出版)の中で自分自身を知る方法を紹介しています。それはどういったものでしょうか。(タイトル画像:francescoch / iStock / Getty Images Plus)

矢萩邦彦著『自分で考える力を鍛える 正解のない教室』(朝日新聞出版)
矢萩邦彦著『自分で考える力を鍛える 正解のない教室』(朝日新聞出版)

 自分はどんな人間なのか? それは自分自身にしかわかりません。かつて、ギリシャのアポロン神殿の入り口には「汝自身を知れ」という言葉が刻まれていたといいます。いったいどういう意味だと思いますか?

 古代ギリシャの哲学者たちは人間の精神や性質を完全に理解することはできないと考えていました。だとすると、自分自身のことも完全に理解することはできないことになります。そこには、神の前で謙虚になれというメッセージや、不可能と分かっていても立ち向かう態度の重要さなど、さまざまな解釈が考えられます。

 自分が何者なのかを考える一つの指針に「真善美」があります。

<真>は、自分は何を信じるのか、
<善>は、何がよいことだと思うのか、
<美>は、何を美しいと感じるのか、

 ということです。あなたの「真善美」は何でしょうか? それぞれ3つずつ挙げてみてください。

 授業でこの「真善美」を扱った際によく挙がる回答を紹介しましょう。

<真>は家族や友人、自分、神、お金、好きなアーティスト、知識や技術なんて答えもあります。あたりまえのことですが、十人十色、みんな違いますから教科書に「真とはこういうものです」というふうに書けるものではありません。

<美>は形あるものと形のないものに答えが分かれます。形あるものではさらに自然か人工か、形のないものでは心や記憶などの精神的なものと、視点や関係などの方法的なものに分かれます。

 三つのなかで特に悩む人が多いのが<善>です。学校で習う「道徳」とは違うのですが、そういう意見が多くなりがちです。道徳は何がよいことで何が悪いことかを社会の価値観で決めていますが、ぼくたちは必ずしもみんなと同じ感覚・意見ではないはずです。

 たとえば野生動物を保護することを善とする人もいますし、野生のまま見守ることを善とする人もいます。「法律ではよいことになっているけれど、自分はやめたほうがよいと思う」なんてことはたくさんあると思います。法律だって国や時代によってまったく違います。

 よく「自分がされたら嫌なことを、人にしてはいけない」といいますが、これについてはどう思いますか? この意見は一見もっともらしいのですが、よく考えてみると、自分と他者の感覚が同じであるという隠れた前提があります。では、自分が嫌じゃなければ問題ないのでしょうか? それこそ食べものの好き嫌いがみな違うように、行為の好き嫌いや、その度合いもみな違います。自分がされて嫌かどうかではなくて、自分はよくても相手が嫌がったらダメなんです。

 ぼくらは性格も経験も価値観も違います。お互いに完全に分かり合うことは不可能です。でも、だから諦めてしまうのではなくて、すこしでも分かろう、想像しようという姿勢こそが大事なはずです。

 あらゆるコミュニケーションは、お互いが向き合うことから始まります。そのためにも、まず自分がどういう価値観を持っているのかを認識することで、他者とは違うんだということ、また誰もが違うんだということを実感することが大事なのだと思います。

矢萩邦彦(やはぎ・くにひこ)
「知窓学舎」塾長、実践教育ジャーナリスト、多摩大学大学院客員教授。大手予備校などで中学受験の講師として20年勤めた後、2014年「探究×受験」を実践する統合型学習塾「知窓学舎」を創設。実際に中学・高校や大学院で行っている「リベラルアーツ」の授業をベースにした『自分で考える力を鍛える 正解のない教室』(朝日新聞出版)を3月20日に発売

(構成:教育エディター・江口祐子/生活・文化編集部)