見出し画像

初来日したカンカンとランランのパンダ舎はトラ舎だった?【上野動物園ののんびりパンダライフ<第4回>】

 パンダライター二木繁美さんの連載「上野動物園ののんびりパンダライフ」4回目。今回は、上野動物園に初めてジャイアントパンダ(以下、パンダ)が来園した時代にまでさかのぼってみました。1972年に中国から日本へとやってきたカンカンとランランの最初の住まいは、トラ舎を改修したものでした。そこから、初代パンダ舎が完成し、パンダたちがより健やかに暮らせるように、改修や改築が重ねられていきます。その変遷は、まさに上野動物園のパンダ飼育の歴史といえるのではないでしょうか。その歴史について、引き続き副園長の冨田恭正さんにお話をうかがいました。

お父さんパンダ・リーリー。2024年9月にシンシンとともに中国へ帰国=2023年5月26日、筆者撮影

経済効果は600億円とも。カリスマ・シャンシャン

 連載3回目でも少しご紹介したとおり、シャンシャンは、ユウユウ以来29年ぶりに誕生した子どもでした。そして上野動物園で初となる、自然交配によって誕生した個体です。

ユウユウ=1989年1月23日、朝日新聞社

 シャンシャン人気はものすごいもので、約600億から650億円の経済効果をもたらしたという報道もあるほどです。「上野のカリスマ」と呼ばれていたことにも納得ですね。現在暮らしている中国の雅安基地でも「香香公主(シャンシャン姫)」と呼ばれる人気者。現地のファンはもちろん、たくさんの日本人ファンがシャンシャンに会いに中国を訪れているようです。

シャンシャン7歳のお誕生日の観覧列=2024年6月12日、筆者撮影

 上野動物園では、現在パンダのもりで暮らす、シャオシャオ、レイレイを含む7頭のこどもが誕生しています。うち2頭は幼くして亡くなってしまいましたが、資料がほとんどないなかで、繁殖が難しいといわれるパンダを、手探りの状態から5頭も育て上げたことは、パンダ飼育においてとても素晴らしい成果なんですよね。

カンカン・ランランは、なぜ上野にやってきたの?

 ここで改めて、上野動物園のジャイアントパンダ飼育の歴史を振り返ってみましょう。1972年9月29日に日中国交回復の共同声明が出され、それを記念して中国人民から日本国民への贈り物として、パンダのつがいが贈られることとなりました。

パンダ贈呈決定について報じる1972年10月26日付の朝日新聞紙面

 パンダの贈答が決まったとき、受け入れ場所はまだ決まっていませんでしたが、上野動物園が選ばれた理由に関して、冨田さんは「政府がなぜ上野動物園を選んだかについては、当時の記録がなく、推測できかねるためわかりません。ただ、1972年10月5日に園長と飼育課長が官邸に呼ばれ、『パンダを上野動物園で預かって欲しい』と官房長官から言われた事実はあるようです」と話します。

報道陣に公開されたカンカンとランラン=1972年10月28日、朝日新聞社

 来園予定日は、その年の10月28日。話を聞いてから、ひと月の余裕もありません。リーリーとシンシンのときも、2代目パンダ舎の改修が完了した7日後に2頭が来日したことをお伝えしましたが、いつもギリギリの状態にも関わらず、しっかりと準備をしてお迎えをしているのですね。担当者の苦労がうかがえます……。

 来園まで日がなかったため、仮住まいとなる零代パンダ舎は、トラ舎を改修して用意することとなりました。「トラ舎は1971年に作られたばかりで、同園の中でも新しくてよい獣舎でした。そして幸い、旧トラ舎もまだ残されていたため、チョウセントラ2頭を元の獣舎に返し、新しい獣舎をパンダのために空けて仮パンダ舎にしたようです」(冨田さん)。

一般公開初日のカンカンとランラン=1972年11月5日、朝日新聞社

 ただ、そのまますぐには使えません。パンダの観覧に耐えうるように、改修を行う事になりました。「記録によると、パンダ用のベッドを設置し、運動場に仕切りを作り、観客用に展示面をガラス張りにしました。さらに、錆びた部分のペンキ塗りをするなど、パンダ受け入れのための各所の改造を行ったようです」。

 かくして、カンカンとランランは、しばらくこの零代パンダ舎で仮住まい暮らしとなりました。そして1973年3月31日にやっと、現在のアジアゾウの放飼場の近くに建つタイ風東屋サーラータイのある場所に、初代パンダ舎が完成。2頭は引っ越しを終えて、同年の4月24日にお披露目となりました。

リアカーで新居へ引っ越すカンカンとランラン=1973年5月7日、朝日新聞社

アシカたちもビックリ! 夜の火災騒動

 この初代パンダ舎の隣には、桜木亭という売店がありました。正門近くにあった通称「パンダ焼き」でおなじみのお店の本店です。パンダ焼きを販売していた支店は、2016年6月末に、東京都公園整備事業のため、惜しまれつつ閉店しました。この桜木亭ですが、1980年7月23日の夜に自らの失火によって、ほぼ全焼してしまいました。

パンダ舎わき火事を伝える新聞記事=1980年7月23日、朝日新聞社

 同年の6月にカンカンが亡くなっていたため、このときパンダ舎にはホァンホァン1頭だけがいました。延焼を考えて避難を考えていたそうですが、夜だったこともあり、パンダ飼育の担当者はひとりも残っておらず。そうこうしているうちに消火され、大事には至らなかったようです。

ランランに先立たれてしまったカンカンの新しいお相手として、1980年1月29日に来日したホァンホァン。トントンとユウユウのお母さん=1980年1月29日、朝日新聞社

 何台もの消防車が駆けつけ、事務所近くのアシカの池には、消火のためのホースが何本も差し込まれていました。動物たちも何事かと思ったことでしょうね。この後、桜木亭の本店は西園弁天門の近くに移転し、跡地は動物園に編入されることとなり、パンダ舎の放飼場が拡張されたのです。

 そして、1983年3月8日にパンダ舎放飼場の拡張工事が完成。新たな放飼場には、自然石や、直径6メートルもある池に東屋、雲梯うんてい、丸太道具が設置された、日本庭園風の運動場などがありました。さらには、5メートルを超える大きな樹木も植えられ、この木には、同園生まれでおてんばだったトントンがよく上っていたそうです。

一番高い木に登ったものの、自力では下りられなくなってしまったトントン=1987年2月3日、朝日新聞社

 こうして使い勝手が良くなった初代パンダ舎ですが、トントンが生まれたことで手狭となり、さらに老朽化も進んでいたため、建て替えることとなりました。

「予測もつかない」パンダの飼育は常に手探り

 2代目パンダ舎の建設への経緯について、冨田さんによると「1985年に初めての子が誕生したものの43時間で死亡。これを受けて、次回の繁殖にむけての対策が協議されました。これによって、ホァンホァンが落ち着いて育児に専念できるような環境づくりを心がけることにしたようです」とのこと。具体的には、産室の場所を変更、さらに産室内をラワン材の板で囲う、床を木製のスノコにするなど改良を加えました。

1988年6月23日に2代目パンダ舎で生まれたユウユウ。写真は生後7カ月頃=1989年1月23日、朝日新聞社

 冨田さんは、1988年に上野動物園に配属され、その年6月生まれのユウユウの繁殖にも携わっています。「当時はとにかく情報量が少なくて、初めから予測をつけがたいことが多かったようです。飼育関連の資料にも、到着後に決定や変更されたことがほとんどだったとの記述があり、試行錯誤の連続だったことがうかがえます」。

シャオシャオと一緒に過ごすシンシン=2022年10月21日、筆者撮影

 カンカンとランランの来日から50年以上。パンダ舎も零代から3代目まで、時代とともに変わってきました。これまで獲得した知見をもとに、今いるパンダが健やかに過ごし、またかわいい赤ちゃんパンダの姿を見ることができればうれしいですね。

パンダのもりの放飼場でくつろぐリーリー=2024年3月17日、筆者撮影

 次はいよいよ最終回です。ジャイアントパンダの保護に向けた、普及啓発活動などについてお話をうかがいます。

<参考資料>

  • 公益財団法人東京動物園協会・恩賜上野動物園『つなぐ ジャイアントパンダ飼育の50年【抄本】』2023年

  • 中川志郎『カンカンとランランの日記』芸術生活社、1973年

  • 東京都恩賜上野動物園編『ジャイアントパンダの飼育-上野動物園における20年の記録-』東京動物園協会、1995年

■動物園を応援する会員・寄付制度のご案内

会費や寄付を通じて、(公財)東京動物園協会が運営する、都立動物園・水族館を応援する制度です。イベントや会誌の発行などを通じて、野生動物への関心を深めてもらうほか、野生生物保全活動の支援や教育普及活動にも取り組んでいます。

■筆者プロフィール

二木繁美(にき・しげみ)
パンダがいない愛媛県出身で日本パンダ保護協会会員。パンダライター。アドベンチャーワールドの明浜めいひん優浜ゆうひんの名付け親。一眼レフを片手に、多いときには1度に1700枚ほどのパンダの写真を撮影。著書に、神戸のお嬢様と呼ばれたパンダ・タンタンの日常を伝える『水曜日のお嬢様』、マニアックな写真と観点からパンダの魅力を紹介する『このパンダ、だぁ~れだ?』がある。