見出し画像

ディストピア的現代で、どうやって「希望」や「私」、そして「言葉」を取り戻すのか/藤井義允による文芸評論『擬人化する人間 脱人間主義的文学プログラム』より「はじめに」公開

 1990年代生まれの著者、藤井義允さんによる初の単著『擬人化する人間 脱人間主義的文学プログラム』(朝日新聞出版)は、著者自身が長らく感じていた「現代社会のディストピア化」と「自身の存在の希薄さ」を手がかりに、朝井リョウ、村田沙耶香、平野啓一郎、古川日出男、羽田圭介、又吉直樹、加藤シゲアキ、米津玄師らの作品を「擬人化」「脱人間」をキーワードにして読み解く、文芸評論です。発売前から注目を集める本書の「はじめに――人間ではない「私」」を特別に公開します。

藤井義允著『擬人化する人間 脱人間主義的文学プログラム』(朝日新聞出版)
藤井義允著『擬人化する人間 脱人間主義的文学プログラム』(朝日新聞出版)

はじめに――人間ではない「私」

 自分の存在の希薄さを常に感じながら生きてきた。

 感情も、感覚も、何もかも。僕の中にあるものは、まるで全て作りもののようではないか。そんな違和感を持って過ごしていた。

 しかし厄介なことに、それでも悲しみや怒りや嬉しさというような人間的な感情は確然と存在しており、矛盾する二つの感覚を抱えていた。

 つまり「人間」らしさを持った「人間」ではないもの――「人擬き」の感覚が僕にはある。

 一般的にイメージされる「人間」とは離れた場所に存在しているような気がしていた。それがどこに起因するのか。長い間、僕は自分自身の個人的な性質からくるものだと思っていた。それゆえその感覚を自分の中に留めてきた。時に「現実」との折り合いがつかず、そのせいで辛い思いをした覚えもある。

 だから、そんな、人間ではないが人間らしさを持つ想像力の作品に気持ちを揺さぶられた。そうした作品を発表している作家が現在では多く出てきている。

 そんな作品を読み解きながら、僕自身は多分「自分とは何か」を考えていたのだと思う。どうしようもなく「人間」であるにもかかわらず、どうしようもなく「偽物」である感覚。この二つの往還の中で逡巡があった。人間を知るために人間が書いた言葉を求めていた。そこに「本物」があるのではないかと思って。

 そして様々な表現者たちの言葉に触れるにつれて、実はこれは僕だけの感覚ではないのかもしれないと次第に思うようになった。

 近年、あらゆる創作物において「人間ではない存在」というイメージは多くなっている。

 幽霊、機械、偽物――虚構。

 いずれにせよ「本物」ではないもの。現在、僕と同様の感覚を持った表現者たちが徐々に現れ始めているように感じるのだ。

 そのような感性が生まれる背景には、もしかしたら僕たちが生きている時代の空気のようなものが関係しているのかもしれない。ディストピア。今、そんな世界が作品の中で多く現れ始めている。今の日本に蔓延するのは「暗い」雰囲気だ。僕たちを押さえつけるような暗いもの。フィクションはそんな雰囲気を反映している。

「ディストピア」はSFで使われる言葉だが、今の社会はまるでそこで描かれるようなものになっている。情報技術を筆頭にテクノロジーが発展し、人間の変質が起きつつある。一般的に技術的発展の先にはシンギュラリティが起きるともてはやされているが、そんなポジティブなものではない。ゆっくりと技術に蝕まれていき、人間は進化するのではなく退廃していく。医療技術をはじめとした科学の発展によって、身体機能が衰えてもなお生きながらえることができるようになったが、ある意味でそれはだらだらと生をながらえているイメージでもある。

また人間よりもAIの方が効率的な生産を行うことができるようになり、人間にとって代わる未来も迫っている。さらに情報技術は我々の内面をかき乱し、感情を煽ってくる。そんな変質こそが僕が感じるような「人擬き」の「どうしようもない自己像」に繋がっている。主体の喪失。明るい未来像を抱くこともなく、腐っていくように生きていく。機械やゾンビなどに象徴されるような主体が現れてくる。現代の作家たちが描くのはそんな「新しい人間像」だ。

 またそれゆえに、紡がれる言葉もどこか躊躇いのあるものが多い。主体が喪失する中で、発話主体がいるはずの「言葉」も、この次に何を語ればいいのかという逡巡を覚えながら発せられるものになっていっている。失語的感覚。どこか作家も言葉を探しているように感じる。ただしその模索は非常に困難なもので、足がかりもないような感じを受ける。

 現代作家たちはそんな状況に対してレスポンスをするように作品を描く。朝井リョウ、村田沙耶香、平野啓一郎、古川日出男、羽田圭介など。彼ら/彼女らはそんな現代を分析するかのような眼をもって言葉を紡いでいる。どうやって「希望」や「私」、そして「言葉」を取り戻すのか、と問いかけながら。

 そんな作家たちの試みは美しい。言葉を使って現状を打破しようとしている姿に胸を打たれる。

 ディストピア的状況の中で主体や言葉を喪失した人間たち。そんな「人間」についてもう一度考えたい。

 そのヒントが現在のフィクションの状況には隠されていると考える。

 様々な表現者たちが自分たちとは違う領分の言葉を紡ぎ始めているのは注目すべき事象だ。お笑い芸人の又吉直樹、アイドルの加藤シゲアキなど。彼らはそれぞれの活動を軸にしながらも、小説の執筆などを行っている。そして「新しい自己」を考えるためのヒントとして、彼らが行うような「マルチな表現性」が一つ挙げられる。

 また同様に様々な表現をもって「新しい自己」を表出しているアーティストの一人に米津玄師がいる。彼は歌手としてだけではなく、イラストを描き、アニメーションを自作するなどといった多彩な活動を行っている。そして彼の歌詞には幽霊やアンドロイドといった表象が出てくる。存在感の希薄さ。自分はここにおらず、どこかさまよっているような感覚が彼の言葉の中にはある。「私」とは何者か。それを多様な表現で模索している気がする。彼のようなネット発のアーティストは、そのような自己を表現しているのではないか。

 表現を通して「人間性」を取り戻そうとする試み。それも今まで想定されたような「人間」ではなく、あくまで「新しい人間像」を。

 希薄な人間性を持ち「人間からかけ離れた存在」でありながら「自分は人間である」という矛盾を抱えたもの。脱人間化された存在。それが今の僕であり、僕たちではないか。その営みを、ナチュラルに現代の表現者たちは体現しつつある。

 だからここで僕が行うことも同じだ。自分を探るように言葉を紡いでみよう。

 決して作り話でも安易なメタファーでもない。極めて個人的な感覚。それを書き記すのだ。

 そのための補助線として他者の言葉を借りてみる。僕自身、自分の言葉の発しづらさを感じているため、他人の言葉を援用していくしかない。輪郭を掴むために、小説の、詩の、フィクションの言葉と向き合う。自分の言葉などないから、そうするしかないのだ。

 だからこれは僕自身を探る営みでもある。僕のものではない、借用した言葉を使って自分を模索してみる作業。だがそんなどうしようもない作業でも、他者の言葉を使うなら、どこかに繋がるものでもあると思う。