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「1時間遊びたい子ども」対「1時間勉強させたい親」 どちらの意見も切り捨てない解決法は?

 意見が対立したとき、どちらの意見を採用するか。その判断はとてもむずかしいものです。「探究型学習」の第一人者である矢萩邦彦さんは、著書『自分で考える力を鍛える 正解のない教室』(朝日新聞出版)の中で「弁証法」を紹介しています。それはどういったものなのでしょうか。本から抜粋して紹介します。

矢萩邦彦著『自分で考える力を鍛える 正解のない教室』(朝日新聞出版)
矢萩邦彦著『自分で考える力を鍛える 正解のない教室』(朝日新聞出版)

 議論をしたり、意見を言ったりするとき、論理的であることは重要ですが、論理だって万能ではありません。成り立っていると思っても前提や条件に見落としがあったり、考え方が飛躍していたりします。だいたい、ぼくたち自身、たくさんの矛む盾を抱えながら生きています。たとえ論理というものが完璧だったとしても、使っているぼくらが不完全なのですから、過信しないことも重要です。

 有名な思考実験に「アキレスと亀」というものがあります。俊足で有名だったギリシャ神話の英雄アキレスと亀が競争することになりました。ただし、亀はハンディとしてすこし先からスタートします。

 この勝負について哲学者ゼノンはこう主張しました。「アキレスは亀に追いつけないよ。なぜなら、アキレスが亀のスタート地点に到着したときには、亀はすこし進んでA地点にいる。アキレスがA地点に到着したときには、亀はまたすこし進んでB地点にいる。これが繰り返されるから、永遠にアキレスは追いつけないのだ」というわけです。

 さて、ゼノンの主張はどこがおかしいのでしょうか? ゼノンは、無限に境界線を引いて距離と時間を分割できると考えています。しかし、実際は距離も時間も有限です。しかも時間は流れていますから、無限に分割し続けることはできないんです。

 アキレスが亀に追いつくまではゼノンの言うとおりなのですが、必ず追いつくんですね。人間は明確に<分かる>ために境界線を引いて<分ける>のですが、やりすぎは逆効果、過ぎたるは猶及ばざるが如し、というわけです。

 ぼくたちはよく議論や討論をしますが、どちらが正しいかを判断する前に、ちゃんと同軸上での対比になっているのか、そもそも本当に対立しているのかを確認する必要があります。そして、もしそれが正当な議論なのであれば、意見が割れている時点で、どちらの意見にもそれぞれにとっての道理や利益があるはずです。ならば片方の意見だけを採用することが「正解」であるはずはありません。

 西洋哲学では、対立する二つの意見をより高い次元で統合し調和させる方法が模索されてきました。反対意見や否定された意見を切り捨てずにいったん置いておいて、それらを活かすための新たな視点や秩序を考えていくんですね。

 この方法は「弁証法」といって、ソクラテスの問答法から発展した伝統的リベラルアーツの一つです。

 たとえば、1時間遊びたいという子どもと、1時間勉強しなさいという親の意見が対立していたとします。どちらの意見も切り捨てないためにはどうしたらいいでしょうか? 30分ずつにするというものや、もう1時間捻出してどちらもかなえるというのは弁証法的な解決とはいえません。

 勉強になる遊びを1時間する、というのが弁証法的なアイデアです。孔子もアリストテレスも<中庸>を大事にしました。議論や討論に限らず、すべてにおいて極端にかたよるのはよくないというんですね。

<中庸>を目指したりバランスを取ったり、矛盾を乗り越えるためには、両極を認識する必要があります。先の例なら、勉強と遊びの両方についてよく知る必要があるわけです。

矢萩邦彦(やはぎ・くにひこ)
「知窓学舎」塾長、実践教育ジャーナリスト、多摩大学大学院客員教授。大手予備校などで中学受験の講師として20年勤めた後、2014年「探究×受験」を実践する統合型学習塾「知窓学舎」を創設。実際に中学・高校や大学院で行っている「リベラルアーツ」の授業をベースにした『自分で考える力を鍛える 正解のない教室』(朝日新聞出版)を3月20日に発売

(構成:教育エディター 江口祐子/生活・文化編集部)