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【試し読み】「学校で友達を作る厄介さ」漫画家・コラムニストのカレー沢薫さん『女って何だ? コミュ障の私が考えてみた』<第1回>

 漫画『ひとりでしにたい』が話題の、漫画家でコラムニストのカレー沢薫さんによるコラム集『女って何だ? コミュ障の私が考えてみた』(朝日文庫)が刊行されました。「女だけど、女が苦手」と言うカレー沢さんが、持ち前の妄想力を発揮して、《菩薩女》《ウェイ系》など、さまざまな女の生態に迫ります。「コミュ力時代」を生き抜くための画期的コラム集です。今回は、「学校での人間関係」について掘り下げます。

カレー沢薫『女って何だ? コミュ障の私が考えてみた』(朝日文庫)

学校で友達を作る厄介さ
〈社会人より、明らかに学生時代の方がキツい〉

卒業までの契約で、お互い
友達役のサクラをやっているようなもの。

 当コラムでは何度も、「大人になると、友達がいなくて困ることが学生時代に比べて格段に減る」と主張してきた。これは逆に言うと、「学生時代は厳しかった」ということだ。

 よく、「社会人になれば学生時代がどれだけ楽だったかわかる」と言われるが、友人関係に限定すると、明らかに学生時代の方がキツい。

 社会人というぬるま湯に浸かりきった今の身体で、当時の教室に戻されたら、1600年の関ヶ原にタイムスリップするより迅速に死ぬだろう。

 しかし、学生時代と今で、私の対人スキルが変わったかと言うと、シーラカンス級に進化していない。むしろ退化した。エラ呼吸すら出来なくなっているレベルだ。

 それなのに何故、今より学生時代の方がキツかったと思うのだろうか。むしろ学生時代に感じていたキツさとは、一体何だったのか。

 その正体さえわかっていれば、明日学生時代に戻されたとしても、瞬時に「無理だ」と判断し、速やかに不登校になれるというものだ。

 まずコミュ障1万人に、「学生時代、友達がいなくて一番つらかったことは?」と聞いた時の、第1位の答えは「ハ、ハフっ!?」「……ンン!」等の「奇声」だ。

 何せ相手はコミュ障である。質問をして、即日本語が返ってくるなどと思うのは、甘えだ。

 これが9900票で圧倒的1位となるのだが、残り100人のレベルの低いコミュ障は、「授業中、突然『◯人組を作れ』と言われたこと」などと答えるだろう。

 学校生活での突発的なグループ作りがキツかったことに関しては私も異論がない。しかし、それのどの点がキツかったのだろうか。

 よく考えてみれば、グループ作りといっても「あぶれた者は射殺する」というルールではなかったはずだし、「こいつがどこかのグループに入るまで、出席番号順に射殺していく」という突然のクラス連帯責任が発動した、ということもないだろう。

 そういったことがあったとしたら、教師は人ならざる者であり、「担任がサタン」というただの不運なので、自分の責任ではない。

 あぶれたとしても、結局どこかのグループに情けで入れてもらうか、同じようにあぶれた誰かと無理やり組まされるなどして、授業は続行されたはずだ。

 だが、その間に何が起こったのか、という話なのだ。

 まず、教師が「こいつを入れてやれ」とどこかのグループに無理やりねじ込むか、もしくは、心優しい優等生がいるグループが「入れてあげる」と名乗り出るかだ。しかしそれでもあぶれる者には、最後の禁じ手「教師と組む」が待っている。

 この本人の意思不在で行われるネゴシエーションの間、当事者が棒立ちで何を考えているかと言うと、「射殺してくれ」もしくは「出席番号順に全員射殺したい」である。

 学生時代に友達がいないつらさというのは、教室に一人でいること自体ではなく、それによって起こる、屈辱、羞恥、劣等感がその正体である。

 一人でいるのが好きな奴というのは、子どもの時から一人でいるのが好きなのだ。だが狭い教室内、限られたメンバー内でソロ活動というのはあまりにも目立つ。

 特に女子は目立つ。

 グループ、バンド、テクノポップユニットのどれにも入っていない女子というのは、明らかに異端なのだ。

 何らかの才気を感じさせる女子なら、「あれは鬼束ちひろポジション」として、ギリギリ片付けられるかもしれないが、ただの垢抜けない女子がそれだと、要注意生徒扱いとなり、教師や優等生たちから、上記のようないらぬ世話を焼かれ、屈辱を味わう羽目になる。

 そして何より嫌なのが、そうされると「放っておいてくれ」と思うのに、いざ放っておかれると、「誰か俺の状況を察して便宜を図ってくれ」と思ってしまう、自分自身である。

 つまり、対人関係というよりは、そういう屈辱や己の弱さとの戦いなのである。一人が好きで精神力が鋼なら、授業中のグループ作りであぶれても、「僕に構わず続けてくれたまえ」と、おもむろに紅白帽をかぶり教壇の上に体育座りという、「高みの見物ポーズ」をとることが出来るはずだ。

 しかし、多くの者はそれが出来ず、屈辱にも耐えられないから、どれだけ一人が好きでも、とりあえず教室内で誰か一緒にいる相手を探してしまうのだ。これは「一人でいるのが嫌」なのではない。「他人から一人でいるように見えなければいい」のである。

 よって、そういうタイプの友達作りは、気が合うとかそういう問題ではなく、クラスメートで人型で制服を着ていればいい、ぐらいのものだ。

 最近はSNSで映えるようなイケてる写真を撮るために、友人役のサクラを雇う者がいると聞いたが、そんなもの、インスタグラマー如きがやりだす何十年も前から、こっちはやっている。むしろ元祖だと言い張りたい。

 卒業までの契約で、お互い友達役のサクラをやっているようなものなのだ。

イラスト:カレー沢薫

 コミュ障やイケてないグループにいた人に学生時代の話をさせると、スクールカーストの話が出てくると思われがちだが、私は正直、いかに自分が、屈辱や羞恥を感じずに過ごすかに必死だったため、上位陣を妬む、なんてレベルにすら到達していなかった。

 よって私が、「リア充爆発しろ」というような感情に目覚めたのは、少なくとも高校を卒業してからである。

 教室を脱出し、若干周りを見る余裕が出来てはじめて、他人の爆発を願えるのだ。

 世間は、学生という天国時代を謳歌せよと主張しがちだが、大人になることで楽になる人生もある。

 しかし、他人の爆発を毎日、邪神像に祈り続けている状態が、健全かと言うと、そうではないだろう。

 教室を抜けた先が、天国というわけではない。だからといって地獄でもない。そんな、ザ・ブルーハーツが歌っているような曖昧な場所に大人になれば行く、ぐらいに思っていた方がよい。

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