三浦しをんさん「首がもげるほどうなずき、本を持つ手が震える」 佐野洋子著『あれも嫌いこれも好き』文庫解説を特別公開!
時代をこえて、「ですよねー!」と佐野さんと握手できたような気分だ。
小説よりもエッセイのほうが、鮮度が落ちるのが速い気がする。日常で感じたことや考えたことを、「ノンフィクション」で書くのがエッセイの基本的な姿勢だからだろうか。
たとえば戦前に書かれた小説であれば、「まあ当時の男女観はこういう感じだったんだろうな」と受け流したり、興味深く読んだりできることが多い。「あくまでもフィクションだから」と、それなりの距離感と譲歩を伴って読めるということかもしれない(程度問題だが)。だがエッセイとなると、作者の生身の声と経験が記されているはずという前提があるためか、「これはNGな言いまわしなのでは……」とか「感性が古いのではないか」などと、読者はついつい「いま」の感覚に引きつけてジャッジしてしまう。
だからエッセイを書くのはむずかしいし、書いた端から作者の旧弊さを露呈する危険性をはらんでいる。私は自分が二十年まえに書いたエッセイを読みなおす勇気がない。絶対に、「おおぅ、自身の無知だったり傲慢だったりが原因の、無神経な発言をしてしまっている……。恥!」と腹かっさばきたくなるにちがいないからだ。
しかし佐野洋子さんのエッセイは、古びることがまったくない。もちろん、「私はそうは思わないな」という点もある。私は親を有料老人ホームに預けたとしても、「親を捨てた」とは思わないだろう。だがこれは、あくまでも個人的な見解の相違、あるいは世代的な感覚の微細な差に過ぎない気がする。当該のエッセイ「自分らしく死ぬ自由」で書かれている大筋に関しては、私も全面的に同意する。私もできれば、「あのばあさん、得体が知れないし頑固だよね」と近隣住民の鼻つまみものになりながら、便所の床板を踏み抜いて死にたい。好き勝手にさせてくれやと思う。だけど実際には、「若い衆にきらわれたくない」と土壇場で翻意し、へいこらとなけなしの愛想を振りまき、見苦しく生にしがみついてしまうんだろうなという予感もする。
このように読者の思考を刺激しつつ、佐野さんは軽快かつ自由自在に過去や身辺について語っていく。「このごろの若い女の子は美しい。足の長さからして違う」と佐野さんが感銘を受けているくだりでは、声を出して笑ってしまった。ここで佐野さんが評している「若い女の子」は、二十年以上まえに若かった女性たちのことである。そして私も現在、若い女性を見て、「みんなきれいで足が長いなあ」と感じている。
これはいったいどういうことだ? 日本に居住する若い女性は足がのびつづけていて、そのうち全員が、「顔面は楊貴妃で首から下はアシダカグモ」みたいになってしまうのだろうか。それとも、ひとは一定の年齢に達すると、若さのきらめきに目くらましされるようにできており、若年者のだれもかれもがうつくしくて足が長いように見えてしまうだけということなのだろうか。どちらにしても味わい深い現象で、歳月を経ても古びないエッセイとして、この「若者はうつくしく足が長い」論を記録してくれた佐野さんに感謝を捧げたい。時代を超えて、「ですよねー!」と佐野さんと握手できたような気分だ。
小説とエッセイのちがいは、「共感」の有無にもあるのではないかと私は思っている。小説の登場人物やストーリー展開に共感できなかったとしても、その小説のおもしろさや斬新さに胸打たれることはしばしばある。絶対にお目にかかりたくないような極悪人が主人公でも、現実にはありえないような事態が勃発しても、悠々と成立するのが小説だ。
だがエッセイの場合、作者の感性や考えにちっとも共感できなかったら、読み進めるのがちょっとむずかしいのではないかと思う(だからこそ、時代の変化によって、エッセイは小説よりも早く鮮度が落ちる傾向にあるのだとも言えるだろう)。
佐野さんのエッセイは、知性と周囲に対するフラットな視線に裏打ちされているため、読んでいて「あるある~!」とか、「私がぼんやりと感じていたことの正体は、こういう気持ちだったのか!」とか、心地よい共感の嵐が襲いかかってくる。共感ポイントは無数にあるが、私は特に、佐野さんが食べ物について記しはじめると、あまりの迫真性、異様なまでに詳細な描写力にうっとりし、よだれを垂らしながらまえのめりになって一文一文を嚙みしめてしまう。文章だけで、もうおいしい。しかも、「(雑誌に載っているすしの)写真のほうが、実物よりずい分アップになるので、迫力がある」という虚をつかれる指摘が繰りだされるので「あっ」となり、「そうか、私が『dancyu』を買って寿司の写真を飽かず眺めながら、残りものをおかずにチンご飯を食べているのは、そういうわけだったか」と膝を打つのである。私は残り物をおかずにしていたのではなく、現実には存在しない超巨大でうまそうな寿司、寿司のイデアとでもいうようなものを、おかずにしていたのだなと。贅沢貧乏(ちがう)。
つまり佐野さんのエッセイは、毒(批判精神)はあるけど、嫌味がないのである。できれば秘匿しておきたい心の動き(寿司への憧れと執着など)やひとの振る舞い(写真や文章を眺めるだけでよだれを垂らしていることなど)をつまびらかにしつつも、決して糾弾したり否定したりはしない。「だって人間、そういうもんだよね」といった感じで、どこかあっけらかんとしている。読者の共感を得るために書いている気配もまったくなく、ただひたすらご自身の心に正直に、周囲のひとや出来事と相対し、そのときの思考と感情を率直に我々に伝えてくれているのだと感じられる。むしろだからこそ、(たぶん佐野さんは意図していなかったと思うが)うなずきすぎて首がもげそうになるエッセイが爆誕したのだろう。
この気高さ、確固とした客観性から湧きいずるユーモアは、佐野さんがお好きな森茉莉のエッセイと通じるものがあると思う(佐野さんの森茉莉論がまた秀逸で、私はとうとう首がもげた)。エッセイは自虐か自慢のどちらかにしかなりようがない、と私は常日頃思っており(佐野さんは自虐派だとお見受けする)、しかし森茉莉のエッセイは自慢が類例を見ない屹立のしかたをしているので、「これは一般的な意味での自慢に分類していいものなのだろうか」とやや困惑していたのだが、佐野さんの森茉莉論を読んで、「自虐はもとより自慢にもコンプレックスがひそんでおり、つまりすべてのエッセイは作者のコンプレックスの披瀝という側面があるのだな」と蒙を啓かされた。佐野さんと森茉莉の作品について語りあってみたかった。
コンプレックスと自尊心は密接な関係にあるが、自虐派のエッセイだからといって、自尊心(自己肯定感)が低いと考えるのは早計だ。天真爛漫に自慢すると品性に欠けてしまうかもしれないから、うっすらと自虐でコーティングしているまでであって、佐野さんご自身は非常に誇り高く、それゆえに他者を愛することを知っているひとなのではないかと、エッセイから推測される。「『友情がね、私にとって一番大切なものだった』と最後に言って死のう」という宣言に触れたとき、お父さんが食べているうなぎへの思いが、いまこの瞬間に起きた出来事のように語られるとき、一週間ごとにハガキを送ってくれた洋ちゃんの人生が鮮やかに描きだされるとき、私は佐野さんと佐野さんの周囲のひとたちの誇り高さと、どうしようもなく深い愛、人間の真の善性といったものに打たれ、本を持つ手が震えてくる。フィクションとノンフィクションの境を超えた、圧倒的な美が現出していると感じる。
佐野さんは文庫版あとがきで、「噓は書かない」とおっしゃっているが、そもそもエッセイとは本当に「ノンフィクション」なのだろうか? たとえば「冬の桔梗」に登場する前歯が一本しかないおじさんなんて(「そりゃタカコも逃げるよな」と爆笑を禁じえない)、あやしすぎてもはや幻想小説の世界にさまよいこんだような気持ちになる。これまた文庫版あとがきにあるように、「人間ほとんどのものを勘ちがいして記憶している」のであり、前歯一本おじさんの勘違いが「タカコ」として結晶しており、佐野さんの勘違いがフィクションとノンフィクションの境界を揺るがすような美として結晶しているのだと思うと、やはり佐野さんは(佐野さんが活写した前歯一本おじさんも)天才だとつくづく感じ入るのである。
私は佐野さんとお会いしたことがない。でも、本書(および、本書以外の著作)を通して、これからもいつでも会えるのだと思うと心強い。二十年後、いや、五十年後、百年後の読者も、佐野さんに何度も何度も会うだろう。そのたびに本書で描かれたひとや猫や花は鮮やかに息を吹き返す。佐野さんの誇り高い愛とユーモアが、ほぼ永遠と言っていい命をかれらに宿らせたのだ。