【祝・サッカー本大賞2024 大賞&読者賞W受賞!】5度の大ケガ、「それでも前を向いた」宮市亮選手 10年前のアーセナルでの苦闘と岡田武史氏の言葉を明かす
天才エジルとの強烈な出会い
2013-2014年、このシーズンのアーセナルも豪華メンバーだった。各国代表ばかりで、サッカー好きなら誰もが知るような世界的なスターがたくさんいた。
当時を振り返って思い出すのは、僕がフェイエノールトから戻ってきた2011年夏に15歳でアーセナルに加わったセルジュ・ニャブリの姿だ。2022年のワールドカップ・カタール大会でドイツ代表の10番を背負った選手で、現在はドイツの強豪バイエルン・ミュンヘンで活躍しているが、2013-2014年シーズンはまだアーセナルに所属していた。
彼は同郷の先輩たち、ルーカス・ポドルスキやメスト・エジル、ペア・メルテザッカーといった当時のドイツ代表に名を連ねる選手たちに囲まれても一切臆することなく、プレーで「俺は絶対に負けていない」という気持ちをいつも表現していた。
技術的な少しの差は、じつはメンタルが原因であることもある。それくらい、繊細なタッチが必要とされる世界だった。
ゴルフで精神状態が乱れて、入れて当然の短いパットが入らないことがあるというが、サッカーでも似たようなことがあるように思う。
少しでも怖いという思いがあると、技術に影響してくる。トラップで、しっかりボールを止められなくなる。そして、止まらなくなると、次にボールを受ける時に、また怖くなる。しかも、すぐ隣ではエジルが圧倒的な技術を披露している。
僕と同じポジション、FWには、エジルとともにドイツ代表でも活躍し、その後、Jリーグのヴィッセル神戸でもプレーしたポドルスキや、フランス代表で2018年のワールドカップ・ロシア大会を制し世界一にもなったオリビエ・ジルーがいた。
ポドルスキもジルーも100メートルを10秒台で走ることはできない。僕とはまったくタイプが違う。でも、こんな選手との競争を勝ち抜いて、本当にFWで試合に出られるのだろうかと自分を疑うようになった。
そこにエジルが加わり、その技術をうらやましいと思うようになった。
「もし、エジルみたいにうまかったら。あんなパスが出せたら、司令塔でも試合に出られる」
もう、完全にないものねだりだった。
ベンゲルからは、チャンスを与えてもらっていた。
アーセナルでのプレミアリーグへの初出場を果たしたのは、2013年9月22日のストーク・シティFC戦。当初はベンチ外だったが、体調不良の選手が出て、急きょベンチ入りすることになった。そして、後半28分にニャブリとの交代でピッチに立った。
ほかにも、10月29日のチェルシーとの大事な試合では、先発起用してもらった。この試合は、大きなチャンスだった。しかし僕は、与えられたチャンスをつかみきれなかった。
世界屈指のサイドバック、バカリ・サニャからもらった助言
この頃の僕は、完全に自分の武器を見失っていた。
それを痛感させられる出来事があった。
当時、練習では控えチームの左ウイングをすることが多かった。
試合形式の練習になると、レギュラー組の相手チームの右サイドバックとして、僕の目の前にいるのはいつもフランス代表のバカリ・サニャ。当時のプレミアリーグで最高の右サイドバックともいわれた、世界でも指折りの選手だ。
サニャは特徴的な髪形を揺らしながら、身をもって、僕に世界最高峰の戦いとは何かを教えてくれた。対戦すると、封じられることもあったが、スピードで何度も抜き去ることができ、手ごたえも感じていた。
堅実な守備がサニャの売りだったから、これで自信を持つべきだった。だが、当時の僕はそう思えなかった。
自信のなさの裏返しか、僕はいつも必要以上にニコニコしていた。ある意味、自分を消し去るように感情をオフにしていたといってもいい。
そんな姿を見て、サニャが僕にシンプルに伝えてきたのが、この言葉だ。
今も耳に残っている。
「Be Bad!」
直訳すれば「もっとやんちゃになれ!」だろうか。「もっと自分の意見を主張しろ」と理解した。
もっと主張しろ、自分を出せ、サニャはことあるごとに、そんなメッセージをくれた。
僕が抱える葛藤や苦しみにも、気づいてくれていたのがサニャだった。常に練習で対じしていたから、僕のよさをしっかり理解してくれていた。
何度も、こう言われた。
「リョウはもっともっとやれる」
「もっと、自分のよさを出していけ」
サニャは強く背中を押してくれていた。それでも僕は、自分を信じられずにいた。自分で壁を作ってしまい、閉じこもっていた。
ポジションをつかむために必要なメンタリティー
アーセナルのキャプテンになったミケル・アルテタや、チェコ代表のキャプテンのトーマス・ロシツキーも、親身になってアドバイスをくれた。
アルテタとロシツキーからは、技術的な部分を何度も教えてもらった。
特にアルテタは、練習でいいプレーがあると、練習後、わざわざ歩み寄ってきて、「リョウ、今日は、とてもいい動きをしていたよ」と具体的な例をあげて、学びを与えてくれた。
アルテタは現在、アーセナル監督としてチームをしっかり建て直しつつあるが、当時から、言動やプレーぶりで、ピッチ上の監督といった感じがあった。今の成功も「ああ、アルテタならそうだろう」と納得できるものがある。
今思えば、ここでも失敗したと思うことがある。
ロシツキーも同じように偉大な選手だが、僕にとってはポジションを争うチーム内のライバルだった。
それにもかかわらず、どこかで彼らにあこがれの目を持ってしまっていた。世界的スターたちの存在感に圧倒されてしまった。
アーセナルというチームを、選手たちを、リスペクトしていた。大事なことだが、その思いが強すぎてはいけなかった。
必要だったのは、ポジションを勝ち取っていくんだという強い気持ち、気構え。
きっとサニャはわかっていたんだと思う。僕が遠慮してプレーしていることを。だからこその「Be Bad!」だった。
このメンタリティーでは、もうレギュラーポジションをつかむことは無理だったと思う。
心技体でいうところの心が整っていなかった。アーセナルの選手たちをリスペクトしすぎて、自分を追い込んで、苦しんでいた。
次第に存在感をなくし、10月末を最後に公式戦の出番がなくなった。
すると、練習に行くのも嫌になってくる……。
その頃、もうひとつ、心を見透かされるような鋭い指摘をされた。
11月になるとトップチームではなく、リザーブリーグと呼ばれるカテゴリーで試合に出ることが多くなっていた。控え選手や若い選手が実戦経験を積むためのリーグだ。
そんなある日、日本から岡田武史さんがアーセナルを訪ねていらしたことがあった。二度にわたってサッカー日本代表監督を務められた、あの岡田監督だ。
もともと、ベンゲルとは知り合いらしく、アーセナルまでベンゲルに会いに来られたようだったが、たまたま僕のリザーブリーグの試合とタイミングが重なっていた。
そのことをチーム関係者が伝えたようで、わざわざロンドンから1時間以上かかるレディングという街まで足を伸ばして、見に来てくださった。試合後、初対面であいさつすると、こうおっしゃった。
「宮市、おまえ、楽しんでないよな!? もっとここ、アーセナルにいられる状況を楽しめよ」
初対面のひと言目がズバリだった。見透かされていた。すべてお見通しなのかと、とにかくビックリした。
ド直球で、まさに核心を突かれた感じがした。本当にその通りだった。当時は、返す言葉が見つからなかったし、当然、相談もできなかった。
岡田監督がそう感じられたのなら、おそらくベンゲルも同じように僕を見ていたはずだ。自信がなさげで、頼りない僕を。
アーセナルでの挑戦に終止符を打った大ケガ
岡田監督の言葉通り、この頃の僕はサッカーをまったく楽しめていなかった。楽しむ余裕がなかった。でも、プレーし続けるしかなかった。
サッカーしかなかった。サッカー以外の世界は知らないといってもよかった。サッカーから離れたらどうなるのか、まったくわからなかった。そんな不安から逃れるためにも、先が見えなくても、真っ暗でも、歩みを止めるわけにはいかなかった。
アーセナルで結果を出すしかない。ただただ、そう思っていた。
ところが、またしても、もがき苦しむ僕は、追い打ちをかけるような出来事に襲われた。年が明けた2014年3月、リザーブリーグの試合中だった。
左のウイングとして先発した僕は、その時、目の前にできた広いフリースペースに出たボールを追って、全力でスプリントしていた。
「バーン!!!」
大きな音とともに、そのまま前にバランスを崩して転んでしまった、起き上がれなかった。本当に自分の中で「バーン!!!」という音がしたのだ。
一瞬、「銃で撃たれたのか?」と思った。実際に撃たれたことはないが、撃たれたような衝撃とともにまたシーズン終了となる大ケガをした。
左太もも裏(ハムストリング)の肉離れ、筋断裂だった。筋肉が裂けていた。肉離れとしては最もひどい部類に入る。プツンと切れたわけではなく、かろうじて、ぎりぎり、ほんの少しだけがつながっていたが、大ケガだった。