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1年360日、日本3大ドヤ街のひとつ「寿町」を見守る 日本人の“最後の砦”帳場さんとは?

横浜の一等地に存在する「日本3大ドヤ街」のひとつ「寿町」をご存じだろうか。6年にわたる取材により、「寿町」の全貌を明らかにしたノンフィクション『寿町のひとびと』。著者は『東京タクシードライバー』(新潮ドキュメント賞候補作)を描いた山田清機氏だ。さまざまな人生が渦巻く寿町。そんなドヤで、なくてはならない存在である「ドヤの管理人」について、本書「第六話 帳場さん二題」から一部を抜粋・再構成して紹介する。

 寿地区の入り口には、結界に相応しい人物が睨みを利かせている。扇荘新館の帳場さん、岡本相大である。

 扇荘新館は松影町2丁目交差点の北西の角にあり、石川町駅から寿町を目指して歩いてきた人間が最初に目にするドヤである。ドヤと言っても外観はビジネスホテル並みに美しく、エレベーター完備のバリアフリー構造になっている。

 玄関の右手に小窓が開いていて、その小窓の奥に岡本がいる。寿町を目指してやってきたはいいがどうしたらいいかわからない人の多くが、とりあえずこの小窓の奥にいる岡本に声をかけることになる。

 岡本の見た目は、少々おっかない。小窓から見える上体はがっちりしている。短く刈ったごま塩頭に銀縁のメガネをかけていて、声を掛けても笑わない。返事もツレない。

 私は岡本から寿町に関する情報をいろいろと貰っており、いつか岡本本人を取材せねばと思っていたのだが、対面すると臆してしまっていた。だが、虎穴に入らずんば虎子を得ずだ。思い切って小窓に向かい、

「岡本さんご自身を取材させてください」

 と申し込んだ。

210402_帳場さん

■盗癖

 取材当日、小窓から岡本に声を掛けると、小窓の横の鉄の扉をガチャリと開けてくれた。午前10時である。

 ドヤの管理人は一般的に「帳場さん」と呼ばれている。ドヤは法律的には宿泊施設だから、帳場さんはホテルで言えばフロントマンに当たる。しかし、ドヤにはいろいろな人がいるから、管理人室には厳重に鍵が掛けられており、窓も小さく作ってあるのだ。外から手は突っ込めても、体を潜り込ませることはできない。

 管理人室は細長い形をしていて、ドヤの入り口から建物の奥の方に向かって伸びている。一番奥にはベッドがある。岡本が陣取っているのは、小窓のある一番手前(入り口側)である。

 岡本の左手にはドヤの各階の様子を映し出している大きなモニターがあり、右手には入り口周辺の様子を映しているモニターがある。このふたつのモニターさえ見ていれば、離席することなく扇荘新館の内外を監視できる仕掛けだ。

 ちなみに扇荘新館は199室あり、約190人が泊まっている。住人の大半は高齢の単身男性で、若い住人のほとんどは“精神の人”だという。要するに、精神疾患を抱えている人という意味である。

 岡本が小さなテーブルと椅子を用意してくれたので、いざインタビューを始めようとすると、小窓に五十絡みの男性が現れた。吃音が強く言葉を聞き取りにくい。

「か、か、乾燥剤を……。帳場さん、あ、あ、雨だから布団干せないすね」
「だから、まずは布団を畳んで、あいたところを掃除だよね。あと臭いは?」
「に、臭いはないです」
「芳香剤は?」
「芳香剤はちゃんと、や、やって、やって、大丈夫です」
「芳香剤はまだあるの?」
「あー、まだ、だめ、あー、あのー」
「あーあーじゃなくてさ、芳香剤はあるんですか、ないんですか? こうして(斜めにして)見れば液体があるかないかわかるでしょう。見てないの?」
「はい。あー、あの、ちょっ、ある、ちょっと」
「あるんですか、ないんですか?」「いや。あー、ありました、ありました」

 やがて話題は、男性が使ったオムツと昨日食べた弁当の空箱の処理のことになり、岡本がゆっくりとした口調で懇切丁寧に汚物と弁当箱の捨て方を指導すると、男性は納得した様子で部屋に戻っていった。

 この男性はオムツも弁当箱もゴミ箱に捨てずに部屋の中に放置してしまうため、部屋が臭いと何度も言いにくるそうだ。岡本はその都度片付け方を教えるのだが、何度教えても忘れてしまう。

 乾燥剤の男性が立ち去ると、今度は少し若い男性が小窓に顔を出した。まだ40代だという。

「帳場さん、さなぎ(食堂の名前)行ってくるから。トンカツがいいですか」
「ああ、何だっていいですよ」
「トンカツ450円なんで、自分が50円出しますよ」
「いいよ。あなたの分も出すよ」
「自分、トンカツ食えないんで」

 男性が玄関から出ていくと、岡本がこちらを向いた。

「別にトンカツが好きなわけじゃないんだけどね、こういうコミュニケーションをしないと、同じ世界に住んでるっていう一体感が生まれないでしょう」

 岡本によればふたりはともに精神の人であり、岡本が扇荘新館にやってきた当初は、自分の意思を他者に伝えることがほとんどできない人たちだった。しかし、岡本自身がゆっくりと話し、根気強く彼らの言葉に耳を傾けるようにした結果、徐々にコミュニケーションが成立するようになってきたという。

「精神の人ははけ口があれば落ち着くし、爆発しないんですよ。常に同じ土俵にいますよっていうメッセージを伝えていれば、向こうから声かけてくれるようになるし、こっちも相談に乗れる。そうすればトラブルにならない。そういう関係ができていないと、テメエ勝手に部屋に入りやがってなんて、包丁持ってくる人もいるからね」

 そこまで話したところで、今度はふたりの女性ヘルパーが小窓に顔を出した。

「◯◯◯号室の××さん、瞬きはするんだけど、目が半開きです」
「反応は?」
「ないです。声は出せないみたい」
「救急車呼ぶレベルまで意識が低下してるかな」
 岡本が慣れた様子で119番に電話をかけた。ヘルパーが言う。
「私たちはどうすれば……」
「救急隊は一緒に乗ってって言うと思うけど、次の現場があるからって断ればいいよ。(一緒に行くと)大変だよ」

 救急車が来るわずかな間にも、小窓にはさまざまな人が顔を出す。小窓の前で「あーん」をする男性もいる。岡本がペットボトルの水をコップに注いで、錠剤を渡す。自分では服薬の管理ができないから、毎日、飲ませてやるのだという。救急車のサイレンが近づいてきた。岡本が状況説明をすると、救急隊員が部屋へ上がっていった。

 岡本は役所の承諾を得て、ギャンブル依存症やアルコール依存症、あるいは認知症の人の金銭管理もしている。彼らに直接現金を渡してしまうと、生活保護費をわずか数日で使い果たしてしまうケースが多いからだ。

 だが、現金を預かると、渡した渡さないでトラブルになるリスクがある。だから岡本は各自の名前を書いた封筒に保護費を入れて保管し、出納の際には、本人の目の前でその様子をビデオに録画している。

「封筒と相手の顔を撮っておいて、トラブルになったらビデオを見せるんだけどさ、ビデオを見せても『これは俺じゃない』って言い張る人がいるんだよなぁ」

 特に、アルコール依存症の人には現金を渡さない配慮をしている。たとえば銭湯に行きたいと言ってきたら、常備してある入浴券を一枚だけ渡す。アルコール依存症の人の多くは、一滴でも飲めばブラックアウト(意識消失)するまで飲み続けてしまうから、わずかな現金でも直接手渡さないように注意しているのだ。

「だって、100円でお酒が買えちゃうんだからね」

 こうした岡本の濃やかな配慮によって、精神の人が治癒した例があるという。仮にUさんとしておくが、Uさんは昨年末にやってきたばかりの新参者で、盗癖があった。

「掲示板のポスターを剥がしたり、タバコの自販機にぶら下げてたタスポなんて四枚もとっちゃった。全部、防犯カメラに写ってたから、部屋に行って返してくれって言ったら、持ってない。盗んだんじゃないって言うんだよ」

 それからしばらくの間、岡本はUさんを徹底的に観察することにした。すると意外な事実がわかって、文字通り、目からウロコが落ちる経験をしたという。

「よくよく見てたらさ、ポスターもタスポも欲しいわけじゃないんだよ。汚れてると、取って捨てちゃうんだね。要するにUさんは、極端なきれい好きだったんですよ。それがわかってから、ジュースをご馳走したり、病院に一緒に行ったりするようにしたら、盗み癖が治ったんですよ」

 岡本の声がはずんできた。

「精神の人は、我慢して、我慢して観察することだよね。そうすれば、最終的には心が通じるようになる。家族に見放された人たちだから、根本はみんな寂しいんですよ」

 私は岡本のことを、寿町の閻魔様のような存在だと勝手に思い込んでいた。岡本に「NO」と言われたら、最後の砦と呼ばれる寿町にすら入ることを許されない気がしていたのだ。まさか岡本が、精神の人の治癒をここまで喜ぶ人物だとは思ってもみなかった。

「でもね、部屋で焚火をするのが好きな人がいて、この人だけは退去してもらいましたけどね」

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■1年360日

 岡本は昭和26年生まれの65歳、川崎の桜本で生まれた在日韓国人二世である。

 実を言えば、寿町のドヤのオーナーの九割以上が在日韓国・朝鮮人によって占められており、寿町のドヤが玄関で靴を脱いでから部屋へ上がる和風旅館方式ではなく、靴のまま部屋まで行けるスタイルなのは、オーナーの多くが朝鮮人だからだという説がある。

 岡本の両親は在日韓国人の一世で、いつか韓国に戻る夢を持っていた。だから岡本を朝鮮学校に入学させた。

「韓国に帰ったとき、朝鮮語がわからないと惨めだからと言ってね……。昔のこの辺りは臭い、汚い、危険だったから、日本人は(ドヤの経営を)やらなかったよね。韓国人は学歴がないし、手に職をつけるのも難しいから、体を張って日本人のやらないことをやったんですよ。それが簡宿(ドヤ)の始まりです。簡宿は、ポンとここにあるわけじゃないんですよ」

 岡本にも学歴がなかった。なぜなら朝鮮学校は各種学校扱いだから、高級部(高等学校に相当)を卒業しても高卒の資格がない。岡本は高級部を卒業しているが、日本の法律では無学歴なのである。当然のごとく就職の口は乏しく、親戚が経営している土木会社の世話になるしかなかった。

 一般に在日韓国人は結束力が強いといわれるが、その根には学歴の問題があると岡本は言う。学歴がないから親戚や知人を頼って仕事を探さざるを得ないケースが多く、結果、在日韓国人同士の繋がりは、好むと好まざるとにかかわらず強固なものになるのだ。

 親戚の土木会社には跡取り息子がいたから、岡本は35歳のとき、その会社を去ることを自ら決断した。

「甘えるのは嫌いだったし、世代交代の問題で揉めるのも嫌だったからね」

 その後は、長距離トラックの運転手をやり、レンタルビデオ店の管理職をやり、ほとんど自宅に帰ることなく働き詰めに働いた。ふたりの子供は朝鮮学校ではなく、都内の私立に通わせた。莫大な教育費をかけた甲斐あって、男の子は早稲田大学に、女の子は東京学芸大学に進学した。

「財産なんてないんだから、親として子供にできるのは教育だけですよ。もう、教育費がかかってかかってね。子供が小さいときは、ファミレスに行ったことさえなかった」

 管理人室の棚には住人のあらゆる要望に対応できるように、殺虫剤、工具、電気部品、粘着テープなどなどさまざまなものが整然と収納されている。各部屋とはナースコールと同じシステムで結ばれており、相互通話が常時可能。館内には16台の防犯カメラが設置され、その映像を岡本が随時チェックしているから住人間の盗難トラブルもない。

 自ら築き上げた要塞のような管理人室に鎮座する岡本は、さながら最前線の指揮官といった趣だ。鉄の扉の内側には愛くるしい孫の写真が貼ってある。

「喜び? 年に1回、孫と子供と一緒に4泊5日の家族旅行をすることかな。私、年に5日しか休まないから」

 一瞬、岡本の言っている意味がわからなかった。

「私ね、1年360日、この部屋にいるんですよ。だって、人間は機械じゃないから一年じゅう止まらないでしょう。元日だって、午前中家で過ごしたら午後はここに来ますよ」

 土日もドヤの住人を連れて衣類や食料の買い出しに伊勢佐木町まで出向いたり、病院に付き添ったりで、本当に年5日しか休まないのだという。

「こないだ自宅をリフォームしたんだけど、まだ泊まったことがないんだよ。旅行って自宅に泊まらないじゃん」

 こんな話をしている間にも、

「帳場さーん、いま何時?」

 などと小窓に顔を出す人が引きも切らない。

「そこに時計あるのにね。正直言うと、この町は毎日毎日変化があるから楽しいんですよ」

 日本人の“最後の砦”は、かかる人物に守護されているのである。

(写真:筆者提供/地図:本書より)