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日本から今、なぜ、人々が出ていくのか?/反響と共感の声やまない取材記録がついに本に

「まさか自分が海外に住むとは思ってもいなかった」。取材に応じてくれた何人かがそう口にした。これから紹介する話は、明日のあなたの話かもしれない。
 2024年5月13日に発売された、朝日新聞「わたしが日本を出た理由」取材班による『ルポ若者流出』(朝日新書)「はじめに」からの一節だ。日本から静かに流れて出て行く人々。彼らは何を思い、なぜ日本を出ていくのか?  そしてこの流れが、日本の将来像を変えていくほどの見過ごせない流れになっていることに、我々はまだ気づいていない――。特別に本書の「はじめに」と「目次」を公開します。

■はじめに 「まさか」が普通になる時代

「わたしが日本を出た理由」取材班/堀内京子

 2022年10月のある夜、ケンカしていた兄弟がやっと寝静まり、洗濯機が回る低音を聞きながら、わたしは流し台にもたれて足を投げ出して座った。そして蛍光灯の下でスマホを開き、東京都内の公立中に通う上の息子が、ふと口にしたことを思い出していた。
「僕たちのクラス、2学期の中間試験で理科のテストはないんだって。2学期から産休に入った先生の代わりがみつからなくて、授業ができてないから」
 学校の教員不足の問題は全国で長期化していた。コロナ禍でのオンライン授業の対応もわたしのまわりの私立校と公立校では差があった。子どもの公立小学校では前のめりな道徳教育も気になっていた。やっぱり来春小学校に入る下の子だけでも、まわりのように中学受験させたほうがいいのか。でも塾はお金がかかるし、受験勉強をサポートしてやる時間の余裕もない。いやそれ以前に、1年生になったとき、待機児童がいるという学童に入れるのだろうか。新聞記者で子ども2人との3人暮らし。仕事・育児・家事はすべてが不完全で、わたしは常に寝不足だった。賃貸の家賃は負担が重いし、時間と不安に追われるような生活をあと何年続けるのだろう――。いつもの思考回路をたどりながら、現実逃避でツイッター(現X)のタイムライン画面を見ていた。
 ふと、誰かが引用した、カナダに子連れで移住した看護師の書き込みが目に留まった。しかも自分と同じシングルマザー。へえ、こんな人がいるんだ、すごいな。
 それは、「キラキラ海外生活☆」とか、「時給3000円で稼げる!」と煽る感じではなく、カナダの病院では同じ看護師でも日本とは違う働き方だということが、淡々とつづられていた。検索を広げてみると、SNSでは、同じように海外で働いている人や、海外で働きたい人たちが様々に発信していた。しかも、看護師や保育士、教員など、日本では人手不足が叫ばれる職種の人たちまでが、「海外で働く」という話題に参加していた。一体どういうことだろう?
 数日後、朝日新聞編集局「労働チーム」の作業机で、キャップの石山英明記者と「海外で働くこと」について雑談した。すると石山キャップは「考える人が増えてますよね。取材先でときどき話題になります。企画をやりましょう」とすぐにチームの記者たちに声をかけてくれた。取材班の記者らが所属する「労働チーム」は、職場でのパワハラやセクハラ、長時間労働、医療や介護職、教職、流通、宿泊業などでの人手不足、賃上げや働き方改革、就職活動、外国人実習生制度や地方移住など、ありとあらゆる労働関係の記事を書いている部署だ。だからチームの記者たちは、「働いて、暮らす」という日々の営みが、とても大切なテーマだと知っている。長時間労働やハラスメントで追い詰められて職場を離れる人たちに取材することもある。さらに日本を「働く国の候補の一つ」として客観的に見ている外国人の働き手に取材すれば、働く場としての日本の魅力が薄れていることを感じていた。日本社会を飛び出し海外で働きたいと考えている人たちの存在と、これまで取材してきた働く現場のあれこれは、間違いなくどこかでつながっている。
 同チームの平井恵美記者はすでに海外移住関連の情報を書籍やネット上で集めはじめていた。1992年生まれの三浦惇平記者は、海外で働くことは「普通に選択肢の一つという感覚」だという。松浦新記者、企画を仕切る清井聡デスクも加わり、最終的に30歳から60歳まで各年代のメンバーで構成された。それぞれが、ゆとり教育か就職氷河期、あるいはバブル経済を経験していて、日本のイメージや「日本を出ること」への感覚の違いがあることは、このテーマを考える補助線の一つにもなった。
海外に働きに行く人は増えているのだろうか。だとしたら誰が、なぜか、を深めよう。
「これはきっと日本を、裏側から見る企画なんだね」と松浦記者が言った。 

 まず、海外で働いている人たちを手分けして探し、話を聞かせてもらうことにした。わたしは実名でやっていたツイッターから、あのカナダの看護師さんに「お話を聞かせていただけませんか」とメッセージを送った。何度かのやり取りの後、オンラインで彼女に会い、1回目のインタビューをしたのは11月。カナダ・オンタリオ州と時差14時間の東京は朝4時だった。
 働きやすい職場を求めて娘と海を渡ったこと、海外の病院研修を経験したことで、外国看護師をするという選択肢が浮かんだこと、カナダは看護師が「看護に集中できる」環境で、物価も高いが給料も高いので貯金ができること、子どもには手厚い子育てや教育支援があり、人種も生き方も家族のかたちも多様性があること。いいことばかりではないけれど、日本に帰ることはないだろうと思っていること――。取材班で共有するために2時間半の取材メモを整理しながら、彼女の経験に誰もが日々抱えているだろう葛藤を重ねずにはいられなかった。これなら、挑戦する人が増えるはずだ。

 けれどもわたしたち取材班はこのとき、まだ知らなかった。彼女は日本から静かに流れ出て行く水のほんの一滴だったことを。そしてすでに、人手不足とされる職場からだけでなく、働き盛りや子育て世代の人たちも、様々な理由で海外を目指し、日本の将来像を変えていくほどの見過ごせない流れになっていたことを。
 
 取材では、主にオンラインでカナダ、オーストラリア、ドイツ、シンガポールなど世界各地と結び、日本を出ることにした経緯や、様々な働き方や暮らし方を聞いた。コロナ禍で国内の取材もオンラインが日常的になっていたので、海外の話をオンラインで聞くのも以前より身近に感じられた。もちろん現地での取材も敢行している。企画の後半では平井、三浦の両記者がマレーシアやカナダに飛んだ。なぜこの2カ国だったのかは、2人の現地ルポを読んでいただければおわかりいただけるだろう。
「まさか自分が海外に住むとは思ってもいなかった」。取材に応じてくれた何人かがそう口にした。これから紹介する話は、明日のあなたの話かもしれない。

朝日新聞「わたしが日本を出た理由」取材班著『ルポ若者流出』(朝日新書)

■ルポ 若者流出 目次

はじめに 「まさか」が普通になる時代

第1章 「日本では未来がつぶれてしまう」
 ――働きづらい国からの脱出

娘と海を渡った看護師「日本に戻らない」カナダで増えたお金と余暇 <Mikiさん>
「指導力不足」と見捨てられた元教員 失敗許さない日本からカナダへ <友香さん>
「がんばる親の背中を見せたい」。夫を残し息子とマレーシアへ <津村ようこさん>

国外でこそ見出される日本人の強み
 日常生活の当たり前を仕事に <水谷けい子さん>
 アジア系専門美容師の強み <杉田裕紀さん>

【インタビュー】増える海外移住「人口減」を加速 <福井県立大学 佐々井司教授>

第2章 「短期で稼ぐのと移住は別」
 ――海外就労の光と影

警察官と自衛官から、保育士と寿司職人へ  <いけこさん・かずあきさん>
半地下で暮らす22歳が描く5年計画 <久米 塁さん>
家族4人で移住、カレッジで学び直し  <ヨシアキさん>
捨てた新卒切符、カナダで保育士に <まどかさん>
ラーメン屋から目指すカナダ永住権 <森井 廉さん>

【インタビュー】なぜカナダは移民を惹きつけるのか <北海道教育大学 古地順一郎准教授>

第3章 増える教育目的の移住
 ――日本型教育への疑問とマレーシアという選択

海外のインターナショナルスクールを選ぶ親たち
 日本の教育に失意の父、大手辞めて海外へ  <アキフミさん>
 母子で移住、多様性も学ばせたい
 小学生で単身留学「意見求められる環境で」
英国名門インターナショナルスクールの姉妹校へ日本人が続々
 充実の寮生活 インターで変わった自分 <小川諒子さん>
 自分の強みを伸ばせる環境 <新垣天啓さん>

【インタビュー】「中学受験」感覚になりゆく教育移住 日本の義務教育の「狭さ」とは  <東京大学大学院 額賀美紗子教授>
 
海外生活がバラ色とは限らない 教育移住、親の志に潜む「落とし穴」
 インターで文武両道を実現し、医師の道へ <高見洸世さん>
 日本にいたら子供は失敗していたかも <ユキコさん>
 親の志だけでは成功し得ない教育移住 <ACT教育研究所 坂本博文所長>
マレーシアが人気のわけ 多様な学び場と手の届きやすさ

第4章 「自分が自分として生きていていいんだ」
 ――ジェンダー後進国を出た理由

カナダで生きることを選んだゲイたち
 「日本が恋しい。でも今は無理」 <山村健司さん>
 「ストレートしかいない世界」 <修平さん>
女性医師の卵 海外でつかんだキャリアと時間 <吉田いずみさん>

第5章 国を超えて働ける時代へ
 ――低くなった海外移住のハードル

テレワークが溶かす国境 オンラインで場所を問わず働ける時代    
 海外から会社を経営するYouTuber <森尚樹さん>
 従業員の3割強が海外在住 <森勝宣さん>
減るテレワーク、手間がかかっても続ける会社の覚悟と工夫
わたしが日本を出た理由 反響編
 時給の高さでこっちに来ちゃうの? <山下久司さん>
 「海外の良さも取り入れて」カナダから帰国の医師 <川口敦さん>
 「海外コンプレックス」でも、「働き方」で決断 <中作祥太さん>
 レールを外れた鉄道職員 海外生活の夢実現へ <マサヒロさん>

おわりに

【コラム】
看護師の収入 30~34歳以降は平均以下
長い労働時間 進む教員離れ
過去最低を更新したジェンダーギャップ
総労働時間、日本人女性が最長
職場でうつ病「何もしない」が40%
カナダで永住権を取るには
保育士、重責と過酷な労働環境
女性医師の割合、最低という調査結果も
就労ビザや永住権を取るには
コロナ禍の反動、海外転出が本格化