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「恐るべき子ども」と批判された美空ひばりが“昭和の歌姫”と認められた日
“昭和の歌姫”美空ひばりは昭和20(1945)年、8歳のときに横浜の杉田劇場で初舞台を踏んだ。芸能界に本格デビューしたのは昭和23年で、芸名の“美空ひばり”を名乗ったのがこの前年だった。しかし、児童福祉法公布のタイミングともあいまって、デビュー当時は世間からキワモノ扱いされたという。そんな彼女がスターダムを駆け上がれたのは、ひとえにその類まれなる才能、実力だった。『あの時代へ ホップ、ステップ、ジャンプ! 戦後昭和クロニクル』(朝日新聞出版)から一部を抜粋して紹介する。
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横浜の杉田劇場で初舞台を踏んだ翌年、昭和21年の暮れ。9歳の美空ひばりは、NHKのど自慢素人音楽会に出場し、「りんごの唄」を歌った。子どもとは思えない、素人の大人以上の細やかな表現力に、観客は拍手喝采した。ところが、鐘は一つも鳴らなかった。「10歳にもみたない少女が、大人の歌を達者に歌うだけでなく、30女の色気まで持つとは恐るべき不健全」という理由で、落とされたのである。
1年後、児童福祉法が公布されたあたりから、年少者の労働に当局の監視の目が光り、美空ひばりは暗に批判されるようになる。良識と常識を規範に、マスコミは、「恐るべき子ども」「大人のマネをするコマシャクレタ子ども」「奇形的な大人」「変態的な女の子」と、幼い少女をここぞとばかり攻撃した。
人気の質にしても「敗戦国民の抑圧された変態趣味の現れ」や「見世物を思い出させるゲテモノ的魅力」と非難。マスコミだけではない。大人たちもまた公然と批判するかわりに、黙殺することで、美空ひばりの存在を否定した。
こうした批判に、美空ひばりは「嫌いな人は、偉い人と新聞や雑誌の記者」と、マスコミとの間に距離をおくことで対抗した。代わって、マネジャーや“一卵性母娘”と揶揄された母親が取材に対応、ひばり自身は楽屋の鏡に映る取材者たちの顔をチラチラとのぞくだけになる。
しかし、美空ひばりは打たれ強かった。というよりも、実力がまさっていた。よく知られた話だが、ひばりは譜面が読めない。しかし、新しい歌でも2 、3度聴いただけで完全にマスターするので、一時期、作曲家の米山正夫は「初見がきく」と錯覚したくらいだ。それほど、並はずれて音感がすぐれていた。踊りも、毎日1時間3日ほど稽古をつけただけで、大劇場のステージを難なくこなしたこともあった。
そうした生来の実力で、デビューから数年つづいたキワモノ的“美空ひばりブーム”を克服する。その決定打が、昭和27年7月発売の「リンゴ追分」のヒットだった。
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この歌は、開局したての放送局、ラジオ東京(現・TBS)が記念番組として放送した連続ラジオドラマ「リンゴ園の少女」の挿入歌としてつくられたものである。ちなみに、放送の1週間後、NHKは同じ時間帯に新番組「君の名は」をぶつけてきたが、美空ひばり主演のこの「リンゴ園の少女」は健闘した。
このときの「リンゴ追分」は、当時としては破格の70万枚を売り、戦後最大のヒット曲へと成長する。が、実はこの歌、レコード化された当初は「リンゴ園の少女」のB面曲だった。作曲した米山正夫によれば「短時間のうちに、お手軽につくった曲だったので、駄目だと思った」(上前淳一郎著『イカロスの翼・美空ひばり物語』文藝春秋)からだそうだ。
しかし、大衆は、「リンゴ追分」が漂わせる哀愁感にホロリと参った。それまで、食わず嫌いだった、彼女を黙殺してきた大人たちも、美空ひばりの歌に初めて酔い痴れた。そして、あの有名な「お岩木山のてっぺんを綿みてえな白い雲がポッカリポッカリ流れてゆき……」という台詞に、郷愁をかきたてられた。もっとも、この台詞も、最初からあったわけではない。長すぎる間奏を気にした美空ひばりが、レッスンの場にいた作詞家の小沢不二夫に頼み、その場でさらさらっと書き加えたものだった。
美空ひばりがこの歌を、ファンの前で初めて歌ったのは、歌舞伎座公演でだった。戦後、日本が独立を回復した講和条約発効の日、昭和27年4月28日のことである。当時「流行歌手」が立てる場ではなかった格違いの歌舞伎座で、美空ひばりは生涯の代表曲を歌った。
美空ひばりは、マネジャーをはじめ、作曲家や作詞家らすぐれたスタッフに恵まれたスターだった。しかし、そうしたスターはいくらでもいる。彼女が非凡だったのは、彼らスタッフが要求した数倍の才能を発揮することで、芸能界の頂点へとのぼりつめたことだった。まさに実力でつかんだ女王の座。彼女はこの後、マスコミの攻撃に対して難攻不落のひばり王国を芸能界に築いていったのだった。
(文:生活・文化編集部 宮本治雄)