
「オレが死んだらあいつが一生不幸になる」1984年2月12日にマッキンリーで消息を断った昭和の冒険家・植村直己が夫人に残していた言葉
世界的冒険家・植村直己が日本人として初めて、世界最高峰エベレストへの登頂を成功させたのは、1970年5月のこと。五大陸最高峰全登頂、犬ゾリでの北極圏単独走破と偉業を次々と成し遂げてきた冒険家の最期は、マッキンリーの雪山だった。植村の冒険への情熱、支え続けた夫人への思いを『あの時代へ ホップ、ステップ、ジャンプ! 戦後昭和クロニクル』(朝日新聞出版)から抜粋して紹介する。

「自分はひとりじゃない。 絶対に生きて帰らなければ」
昭和59(1984)年2月1日、最後の冒険行となったマッキンリー(米・アラスカ州)厳冬期単独初登頂を目指してベースキャンプを出発する直前の植村直己のことば(テレビ朝日インタビュー)である。2月12日午後に登頂成功。しかし、下山途中で消息を断つ。 そのほぼ10カ月後の12月20日、アラスカ州裁判所は、植村直己の死亡を公式に認定した。
昭和35年、明治大学農学部に入学した植村は山岳部に入る。このときはまだ冒険の“ボ”の字も考えていなかった。新人合宿で重いザックを背負って倒れた身長162センチの植村は合宿後、毎朝9キロのランニングを続けた。
彼が冒険を志した理由は劣等感だったと言われる。学業成績で就職希望の会社から断られた植村は「人なみの社会人にはなれそうもない」と日本脱出を決意する。 昭和39年春、横浜港から現金110ドルを手にロサンゼルスへ旅立った。
4年半後、帰国するまで植村は「山に登りたい一心から」ぶどう摘みやスキー場監視員などで金を稼ぎ、アルプス、 アフリカ、アンデス、アラスカの高峰を次々と単独登頂した。さらに、アマゾン河源流から河口までの6000キロを単独で筏で下ることにも成功する。もっとも、これには南米最高峰のアコンカグア登頂後、帰りの船賃30ドルを節約するという経済的な動機もあったらしい。このとき、羽田空港で植村が語った次の目標がマッキンリーだった。この山の最大の障害は「4人以下のパーティーの登山禁止」を記したマッキンリー国立公園の規則である。植村にはエベレスト登頂の経験から特別許可がおり、昭和45年夏、世界初の単独登頂に成功。これにより植村は、五大陸の最高峰すべてを登頂したことになる。
世界の屋根から極地へ。このころから植村の冒険行が垂直から水平へ変わっていく。犬ゾリによる北極圏1万2000キロ単独走破、北極点単独到達、グリーンランド縦走……と続く。夫人の公子さんと結婚したのは、北極圏走破に出発する半年前、昭和49年春のこと。植村は独身時代にこんなことを言っている。
「平凡な家庭がほしい。 電気製品がずらりと並んだ快適な文化生活。かわいい女性と恋をし、シットをし、不満をいい、グチをこぼす平凡な生活だ。だがいま、それを思ったらぼくの負けだ」(『報知新聞』 昭和47年3月15日)

植村のアパート近くのトンカツ屋でふたりは出会った。おかわりOKのごはんを何杯も食べていた彼に対する公子夫人の第一印象は「なんて汚い人」だった。それが「子供のように無邪気な人」であることが分かり結婚へ。植村は公子夫人を口説くとき、「結婚したら山はやめます」と言ったという。だからだろうか、植村の冒険の対象が極地へ向いたのは。
北極圏走破中には、何度も公子夫人に手紙を書き送っている。その彼の興味が再び厳冬期のマッキンリーに向かいはじめる。渡米前、リュックにピッケルを詰めるところを夫人に見つかり、あわてて取りだした植村には、やはりうしろめたさがあったにちがいない。その後、渡米先から「ちょっと山に登るから道具を送ってくれ」と連絡が入る。その山はもちろんマッキンリーである。
冒頭のテレビ朝日のインタビューで、植村はこうも言っていた。
「オレが死んだらあいつが一生不幸になる」
その植村はマッキンリーの雪山に消えた。捜索打ち切りが決まった日、“待つ女”に耐えてきた公子夫人は、マスコミに「植村はいつも、冒険とは生きて帰ることだと言っていたのに……(今回の遭難は)だらしないと思います」とつぶやくように話した。
北極点単独到達、グリーンランド縦走を終えた植村の帰国会見でのひとことに、こんなのがある。
「私にとって冒険に終わりはない。たとえ体が動かなくなっても、年老いても、そのとき自分で満足できる生き方を求めてまだまだ冒険を続けます」
(文:生活・文化編集部 宮本治雄)