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14歳のチャンス大城が“いじめられっ子”から抜け出すために出演したダウンタウンの番組「4時ですよ~だ」での優勝と、松本人志からの「痛いツッコミ」

 お茶の間の記憶に残る男としてTV出演急増中の芸人・チャンス大城(本名:大城文章)さん。そんなチャンス大城さんが自らの半生を赤裸々に語り下ろした『僕の心臓は右にある』(2022年7月刊、朝日新聞出版)から、14歳のときにダウンタウンさんにはじめて会ったときのエピソードを、抜粋・再編して紹介します。(写真:朝日新聞出版 写真映像部・東川哲也)

大城文章著『僕の心臓は右にある』(朝日新聞出版)
大城文章著『僕の心臓は右にある』(朝日新聞出版)

 中2でTという不良が転校してきてからは、毎日いじめが続きました。僕は他の不良からもいじめを受けていたので、毎日が辛いことに変わりはありませんでした。

 このままじゃ、あかんなぁ。

 心の中ではこう思うのですが、なにしろ気が弱いので、いじめをはねのけることができないのです。僕はある日、中学に入ってから2年間、学校の中でほとんど笑ったことがないのに気がついて愕然としました。

 中学生って、人生の中で一番悪い部分が出る時期じゃないかと僕は思います。まわりじゅうがみんなイキり出して、僕は平和に生きたかったのに、毎日毎日、理不尽なことばかり。そして、まわりはアホばかり。しかも、当時の尼崎はアホの層が厚すぎました。

 学校に行けば必ずいじめられる。家にいれば親からサボるなと言われる。僕は学校に行くのがあまりにも嫌で、近所の畑の隅に建っているトラクターの倉庫の床に、朝から夕方までひとりで座っていたことがあります。それぐらい学校が嫌だったのです。

 この時は、学校をサボったのがおかんにバレて、太ももをつねられてとても悲しかったのですが、いじめられっ子の多くは、学校と家庭の板挟みになって苦しんでいるのではないかと思います。そして、そんな日々を送っていると、すっかり心が腐ってしまうのです。

 このままじゃ、ダメになるな。

 そう思い詰めた時、僕はなぜか、おかんに梅田花月に連れていってもらった時のことを思い出したのです。

絵:チャンス大城

 あの日、僕は間寛平さんを初めて生で見たのでした。

 実を言うと、僕はその日まで寛平さんのことをよく知りませんでした。ハザマじゃなくてカザマだと勘違いしていたぐらい、知らなかったのです。

 ところが、「かいーの」とか「なにがじゃ、どーしてじゃ」という爺さん役のギャグを生で聞いて、本当に体に電気が走ったのです。
 
「この世にこんなに面白い人がいるんや、かっこええなー」

 寛平さんのことを思い出したら、同時に小学5年生のクラス会のことも思い出しました。僕はそのクラス会で、初めて人前でF1のモノ真似をやって、どかーんとウケたのです。

「そうや、僕にはお笑いがあるんや。勉強もダメ、スポーツもダメな僕は、お笑いでのし上るしかないんや!」

 当時、僕と同じ尼崎出身のダウンタウンさんが、毎日放送で『4時ですよ~だ』という生番組をやっていました。女子高生に大人気の番組で、会場はいつも満員。関西の中高生でこの番組を知らなかったらモグリ、というぐらいの人気番組でした。

 火曜日の『4時ですよ~だ』に、「かかってきなさい!」という素人参加のコーナーがありました。素人が3組ぐらい出てきては、マジックとかショートコントを披露して、その日の優勝者を決めるコーナーです。僕はいじめから脱出するために、このコーナーのオーディションを受けることを決意したのです。

 決意したその日から、僕はネタ作りに熱中しました。

「かかってきなさい!」には3組ぐらいしか出演できないので、尺を埋めるにはショートコントを4、5本作る必要があります。まずは、近所に住んでいたオキタ君の口ぐせ、「オッヒョッヒョ」を使わせてもらうことにしました。

 一発ショートネタをかました後に、「オッヒョッヒョ」というブリッジを入れて次のネタに移っていくのです。これは、ショートネタを繋いでいくのに有効な手段でした。

 Tは、僕が起死回生を誓ってネタ作りをしていることなど知らずに、

「オオシロ、肩もめや」

 などと言っては、僕を舎弟のように扱っていました。

 ある時、チャーミングでスタイルもよくてしかも頭のいいスズキさんという女子が、

「T君、オオシロ君かわいそうやん、いじめるのやめたりやー」

 と言ってくれたこともありました。

 スズキさんは、

「オオシロ君、いつも大変やね。大丈夫?」

 なんて言ってくれて、まるで天使みたいな人だと思いはしましたが、すでに僕の頭の中はネタのことで一杯。Tのいじめなんてどうでもよくなっていました。

チャンス大城さん(撮影/朝日新聞出版 写真映像部・東川哲也)

 オーディション会場は、当時、大阪の道頓堀にある通称「ひっかけ橋(戎橋)」のまん前にあった「心斎橋筋二丁目劇場」でした。

 武庫之荘駅から阪急電車に乗って、梅田駅まで約1時間。地下鉄御堂筋線に乗り換えて難波駅で降り、地上に上がると、武庫之荘とは全然違う景色が広がっていました。

 高島屋デパートが目の前にどーんとそびえていて、クサイ言い方かもしれませんけれど、僕は、

「新しい自分に出会える」

 と本気で思ったんです。

「僕、やっぱり芸人になろう」

 そう固く胸に誓ったら、なんだかすごくワクワクしてきました。

「よっしゃ、一発かましたるでー」

 オーディション会場は、心斎橋筋二丁目劇場の4階にある会議室みたいな殺風景な部屋でした。なにしろ大変な人気番組だったので、100組近い素人がオーディションを受けに集まっていました。

 やがて、僕の番がやってきました。

 僕は3人の審査員の前で、得意のF1ネタ(唇の振動でF1の走行音をリアルに再現する)を一発目にかまし、オッヒョッヒョで繋ぎながら、ショートネタを立て続けに4本ぐらいやりました。すると、これがけっこうウケたのです。

 そして、まさかとは思っていましたが、3日後に『4時ですよ~だ』のディレクターさんから家に電話がかかってきたのです。

「オオシロ君、本番来てくれる?」

 正直言って、ビックリしました。

 僕は、尼崎にあるダウンタウンの松本人志さんの実家まで訪ねていって、表札に松本さんの名前があるのを見て泣きそうになったぐらい、ダウンタウンさんが好きでした。その、天才と崇めていたダウンタウンさんと同じステージに、一緒に立つことができるのです。

「はい、もちろん行きます!」

 それは、1989年の秋のことでした。

 午後3時からリハーサルが始まるというので、僕は学校を早退させてもらって阪急電車に飛び乗ると、まっしぐらに心斎橋筋二丁目劇場に向かいました。電話をもらってから本番までの5日間は、もうTのこともいじめのこともどうでもよくなって、ひたすらネタの練習を繰り返しました。

 ドキドキしながら壁じゅうにファンの落書きがしてある劇場の中に入り、リハーサルで段取りをつけてもらうと、ディレクターさんが言いました。

「よっしゃ、本番まで休憩や」

 その時です、なんと舞台袖から松本人志さんが現れたのです。

(ほっ、本物の松本人志や!)

 僕は心の中で叫びました。

 なにしろ夕方4時台の番組で20%近い視聴率を叩き出していたのですから、ダウンタウンさんの人気は本当にすごかったのです。その天才松本人志と、僕はいままさに同じ舞台に立っているのです!

 本番が始まりました。

絵:チャンス大城

 会場は女子高生の熱気でムンムンしています。そして、オープニングから25分後、ついに「かかってきなさい!」の時間がやってきました。右にある心臓がバコバコいっています。舞台袖から思い切って飛び出していくと、なんとダウンタウンさんが僕の両脇に立ってくれました。

 浜田さんが言いました。

「お名前は?」
「オッ、オオシロフミアキー、ジュウヨンサイー」

 声が完全に上ずっています。

「どっから来たの?」
「アマガサキシー」
「今日なにしてくれんの?」
「ヒトリコントー」

 緊張のあまり、長いセリフをしゃべることができません。

 僕は仕込んできた四本のネタを、夢中でやりました。

「浣腸ー。あっ、田中や、浣腸したろ。ズボッ。あっ、間違えた、吉田やった。オッヒョッヒョ」

 会場は意外にウケています。

「球打ちー。よっしゃ、ホームラン撃つぞ。おっ、球が来た。(股間を押さえて)コン! オッヒョッヒョ」

 どうにかこうにか4本のネタをやり終えると、浜田さんが僕にマイクを向けてくれました。

「どやった?」
「僕、将来、吉本興業に入りたいです」

 そう言った瞬間、松本さんが、

「入れるかー」

 と言いながら左手で僕の右目をどついたのです。

 マイクが「ドン」という鈍い音を拾いました。

 たぶん緊張し切っていたのだと思いますが、僕は松本さんに強烈な突っ込みを入れられて、うっすら泣きそうになってしまったのです。会場から女子高生たちの「かわいそう」コールが湧き起こりました。

 そのせいかどうかわかりませんが、3組の出し物が全部終わり、浜田さんが、

「さあ、3組の中から優勝を決めましょう」

 と言うと、松本さんが、

「フミアキー!」

 と言ったのです。

 信じられないことですが、なんと僕は『4時ですよ~だ』の「かかってきなさい!」で優勝してしまったのです!

 賞品を説明するナレーションが流れている間、浜田さんが「よかったな」と言いながら肩を叩いてくれました。そして僕は優勝賞品として、セガの「マスターシステム」とゲームカセットを3本貰って、意気揚々と帰ってきたのでした。

 武庫之荘駅に着いたのは、もう夕方の6時頃でした。駅の改札口を出ると、知らない子らが僕の方を見て、

「あっ、テレビ出てたやつや」

 と言っています。

「有名人が指をさされるのって、こんな気持ちやろか」

 僕は得意の絶頂にいました。

 その2日後には、エキセントリックな不良に優勝賞品を巻き上げられることなど知らなかったです。