波乱の人生を糧に……実社会から学んだ山本一力だからこそ書けた傑作 『江戸人情短編傑作選 端午のとうふ』末國善己氏による文庫解説を公開!
現役の時代小説作家の中で、市井人情ものの第一人者は山本一力である。と断じても異論は出ないのではないだろうか。
現在の活躍を知る読者は、著者が順調な作家人生を歩んできたと考えているかもしれない。ただ著者は、49歳だった1997年に「蒼龍」で第77回オール讀物新人賞を受賞するも同作はなかなか単行本に収録されず(中編集『蒼龍』の刊行は2002年)、デビュー作『損料屋喜八郎始末控え』が刊行されたのは新人賞受賞から3年後の2000年だった。この間、著者は何度も担当編集者に書き直しを命じられ、大喧嘩をしたこともあったという。だが下積み期間が弾みとなり、2001年に刊行した『あかね空』で第126回直木賞を受賞、その後の活躍は改めて指摘するまでもあるまい。
作家人生の初期と同様に、著者の人生も波乱に満ちている。1948年に高知県で生まれた著者は、中学3年の時に上京し、新聞配達をしながら都立工業高校に通う。この時、都内最大の米軍の集合住宅だったワシントンハイツを担当し、アメリカ人との交流を通して英語力を身につけている。高校卒業後は、トランシーバー会社の品質管理、旅行会社の企画・添乗、広告制作会社の営業、コピーライター、デザイナー、制作会社経営、商事会社のマーチャンダイザーなど様々な職業を経験、小説家を目指したのは、事業の失敗で抱えた借金2億円を返済するためだった。
新聞配達と同じく早朝から働く牛乳販売店を舞台にした『ずんずん!』、青春時代を題材にした自伝的な小説『ワシントンハイツの旋風』、江戸時代のツアーコンダクターといえる御師に着目した『いすゞ鳴る』、土佐(後の高知県)の漁師で漂流中にアメリカ船に救われ英語と最新の知識を学んで帰国したジョン万次郎の人生を追った『ジョン・マン』などは、著者が学校ではなく実社会で人生を学んだからこそ生まれた傑作といえる。その意味で著者は、作家になるまでの経験をバネにした吉川英治、山本周五郎、池波正太郎の系譜に連なる時代小説作家なのである。
著者が作家生活を始めたのは、日本社会がバブル崩壊から始まる経済の長期低迷に苦しんだ時期である。不況を脱するため古いシステムからの脱却をはかった日本は、過度な競争社会になり、一度転落すると這い上がるのが難しくなっていった。ライバルに勝利するためなら多少の不正に手を染めても構わないという風潮が広がるなか、こうした時流に抗うかのように、著者は人が守るべき信義、家族や地域共同体の絆、人を思いやる人情を描き続けた。著者の作品が多くの読者を感動させたのは、時代が変わっても守らなくてはならない普遍的なテーマを追究したのはもちろん、義理人情は古い価値観と考える人も、心のどこかでそれらは捨てられないと思っているからのように思える。
本書『江戸人情短編傑作選 端午のとうふ』は、山本一力の数多い短編の中から傑作七編をセレクトした。収録作はおおむね発表順に並べたので、著者の作風の違いにも着目してほしい。
「騙り御前」
先代への恩義から札差・米屋の相談役になった損料屋(現代でいえばリース会社)の喜八郎が、あくどい手段で事業の拡大を進める札差の伊勢屋と頭脳戦を繰り広げる『損料屋喜八郎始末控え』の一編である。
幕府が旗本、御家人に支払う俸禄米を現金に替えるのが札差だが、江戸後期になると生活に困窮する武士が増え、次回の俸禄米を担保に高利で金を貸すようになり、巨万の富を蓄えていた。札差への借金で苦しむ武士を救うため、1789年、幕府は札差に債権放棄を命じる棄捐令を出した。これで一件落着かと思いきや、巨額の損失を強いられた札差は貸し渋りに走り、新たな借金ができず生活に行き詰まる武士が増え、札差が豪遊を控えたため町に出回る金が減り不況になってしまったのである。
棄捐令による混乱を乗り切った伊勢屋は、経営難に苦しむ同業者の乗っ取りを目論み弱小の米屋に狙いを定めるが、喜八郎の登場で煮え湯を飲まされた。「騙り御前」は、雪辱を果たすため米屋を陥れる謀略をめぐらす伊勢屋と、その裏をかくべく奇策をめぐらせる喜八郎が、互いに相手を騙すためスケールの大きな仕掛けを用意するので、名作映画『スティング』を思わせる面白さがある。
棄捐令による不況は、政府の失策によるバブル崩壊に、弱体化した札差を買い叩こうとする伊勢屋は、経営危機に陥った日本企業を買い漁ったいわゆるハゲタカ・ファンドに重ねられていた。著者の時代小説は、常に新しいアイディアを考え、従業員と顧客の利益を第一に考える真っ当な商売をして金を稼ぐ人は称賛するが、汚い手段を使ったり、不正をしたりして金を儲ける者や、金にものをいわせて傲慢に振る舞う者は徹底して批判している。この原点は間違いなく、弱肉強食の社会を否定し、正しく生きる人たちを救う喜八郎である。
また著者の作品には、人情ものとして進むがラストにどんでん返しがある『大川わたり』、江戸版『ミッション:インポッシブル』ともいうべき『深川黄表紙掛取り帖』、正統的な捕物帳『長兵衛天眼帳』など、ミステリーの趣向を導入した作品が少なくないが、その源流も『損料屋喜八郎始末控え』と考えて間違いあるまい。
「菱あられ」
駕籠舁きの新太郎と尚平が活躍する『深川駕籠』の一編。
江戸に出てきた商家の手代・清吉が、駕籠屋に鬼子母神に行ってほしいと頼んだところ、雑司が谷ではなく入谷の鬼子母神に連れていかれたことが発端となる「菱あられ」は、東京の湾岸部にある青海でライブをするアイドルが、同じ東京でも山間部の青梅に間違えて行ったトラブルを彷彿させる(青海と青梅は直線距離で約50キロ離れ、公共交通機関を使うと約2時間かかる)。こうした勘違いは誰もが一度くらいは経験しているはずなので(清吉の場合は自分のミスではないが)、その絶望が身近に感じられるように思える。
清吉に同情し駕籠を探していた町内鳶の頭・辰蔵と口論になった新太郎は、八ツ(午後2時)までに清吉を雑司が谷まで運べるか賭けをすることになり、このタイムリミットがサスペンスを盛り上げていく。
新太郎たちは、上野寛永寺から根津権現、千駄木(観光地として有名な谷根千)を通って、柳沢吉保が作った六義園がある駒込あたりから小石川村(東京メトロ丸ノ内線の茗荷谷駅の周辺)へ向かい、そこから護国寺へ行くなど坂道が多い江戸の地理と町並みがリアルに描かれており、江戸の切絵図を眺めながら読むとより楽しめる。
「端午のとうふ」
第54回日本推理作家協会賞の短編部門の候補作(この時は受賞作なし)になった「端午のとうふ」は、定斎屋(夏の間だけ薬を売る行商人)の蔵秀、男装の絵師・雅乃、戯作者を目指す文師で算盤も得意な辰次郎、飾り行灯師・宗佑が、持ち込まれるトラブルを知恵と度胸で解決する『深川黄表紙掛取り帖』の一編である。
雑穀問屋・丹後屋は、それまで過ちなく商売をしていた手代の藤七が、取り引き先の平田屋から大豆を50俵仕入れるところ、間違って500の注文を出したため、大量の在庫を抱えてしまった。丹後屋の依頼を受けた蔵秀ら4人は、不要の450俵分の大豆を処理する方法を考えることになる。
2012年、京都教育大学の大学生協が、プリンを20個注文するところ、パソコンへの入力ミスで4,000個を誤発注してしまった。大学生協が学生たちに購買を呼びかけると、それがSNSで拡散されて無事に完売し、SNSのパワーを見せつけた騒動は大きく報じられた。蔵秀たちは、丹後屋の誤発注を江戸時代のSNSともいえる口コミを使って解決しようとする。「端午のとうふ」は2000年に発表されており、著者の先駆性に驚かされるのではないか。
蔵秀たちのアイディアで大豆の誤発注事件は解決したかに思えたが、その先には大きな落とし穴が待ち受けていた。周到に張り巡らされた伏線を回収しながら二転三転する展開を作った終盤はミステリーとしても秀逸で、推協賞の候補になったのも納得だろう。ラストには心温まる幕切れが用意されており、謎解きと人情の融合も鮮やかである。
「そこに、すいかずら」
花をモチーフにした短編集『いっぽん桜』の一編。
物語は、常盤屋治左衛門が娘の秋菜のために京の名人形師に3000両で製作を依頼し、74の箱に分納され、飾り付けには10人で3日かかるという豪華な雛人形が船着き場に届く場面から始まり、この雛人形を軸に常盤屋の来歴と秋菜の人生が語られていく。
常盤屋は材木商だったが、父は火事で店が焼けたのを機に料亭に転業した。繁盛店になった料亭を継いだ治左衛門は、吉野と結婚し秋菜が生まれた。ある日、吉野の機転で豪商の紀伊国屋文左衛門と出会った治左衛門は、紀伊国屋が請負った巨大公共事業に投資し3万両を得た。その利益の一割を使い購入したのが、雛人形だったのである。
市井人情ものは清貧を重んじる作品も多いが、著者には本作のような豪商を取り上げた作品が少なくない。それは努力と商才で金を稼ぐことは悪ではないという、現実的な価値観から生まれたように思える。
バブル崩壊から始まる経済の長期低迷から抜け出せない日本では、企業はリストラや正社員を派遣社員に置き換えるなどで人件費を抑制し利益を出そうとした。その結果、貧富の格差が生まれ、少数の富豪と大勢の貧困層を生み出してしまった。金を稼いだからこそ謙虚になり、社会のために金を惜しみなく使い、夫婦で秋菜を厳しく教育し、秋菜は少女らしい反発を示しつつも親の想いに懸命に応えようとしている常盤屋一家に触れると、なぜ現代日本の富豪に尊敬されない人物がいるのかもよく分かる。
だが順調に見えた常盤屋も、終盤に思わぬ運命の変転に見舞われる。それでも新たな一歩を踏み出そうとする人間のドラマからは、勇気と希望がもらえるはずだ。
「猫もいる」「閻魔堂の虹」
著者の歴史エッセイ集『江戸は心意気』に収録された掌編小説である。二作とも猫が重要な役割を果たすので、猫好きには特にお勧めだ。
「猫もいる」は、雑穀問屋八木仁商店の夫婦の物語。四代目仁右衛門に嫁いだ友乃は猫好きだったが、夫は犬好き、義理の両親は猫が嫌いで、子宝にも恵まれなかったこともあり、猫が飼いたいと言い出せなかった。ところが、あることが切っかけで仁右衛門は母屋の床下に迷い込んできた3匹の子猫を飼うことになる。家庭も仕事も順調だった仁右衛門の人生が、子猫を飼うことでさらに円満になるところは、ペットを飼っている読者にはリアルに感じられるだろう。
「閻魔堂の虹」は、飼い猫のタマと貸本屋閻魔堂の店番をしている弥太郎を主人公にしている。ある日、弥太郎は、小間物屋桔梗屋の奥付き女中に、お譲さま用の本を貸した。返却された本は雨に濡れても大丈夫なように渋紙に包まれ、どの頁にもしわを伸ばすため鏝があてられていた。お譲さまらしい気遣いに好意を抱いた弥太郎だが、この淡い恋心は意外な形で破れてしまう。著者が悲劇の先に用意した意外な結末は、本当に大切なものは身近なところにあると気付かせてくれるのである。
「井戸の茶碗」
古典落語の人情噺をノベライズした『落語小説集 芝浜』の一編である。
屑屋の清兵衛は、美しい娘に呼び止められ、その父で浪人の千代田卜斉から仏像を200文で買い取り、高く売れたら利益を折半する約束をした。その仏像を300文で買った細川家の江戸勤番侍・高木作左衛門がぬるま湯で洗っていると、仏像の底に穴があき、中から50両が出てきた。だが清兵衛も、卜斉も、作左衛門も50両を受け取ろうとしない。易断で、卜斉と作左衛門が22両ずつ受け取り、残りを駄賃とすることになったが、卜斉が金をただではもらえないと言い出し、作左衛門は担保代わりに古いが価値はないという茶碗を預かることになった。だが、その茶碗がさらなる騒動を巻き起こすことになる。
著者は、登場人物の背景を詳しく描いたり、現代人に馴染みのない当時の風俗を丁寧に解説したりしているが、物語には大幅なアレンジは加えていない。登場人物全員が正直者で、正直ゆえに幸福になる本作は、著者の創作ではないかと思えるほど一力ワールドにフィットしている。その意味で本作は、著者が江戸の昔から連綿と続く人情ものの正統な継承者であると教えてくれるのである。
本書で著者に興味をもった方は、是非とも他の作品を読んでほしい。厳しい中にある優しさと、優しさの中の厳しさで重厚なテーマを描く傑作の数々は、人生をより豊かなものにしてくれるはずだ。