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【田中慎弥著『死神』刊行記念エッセイ】生きるための小説/期間限定全文試し読み公開も決定!

 芥川賞作家の田中慎弥さんの最新刊『死神』(朝日新聞出版)が2024年11月7日(木)に刊行されます。うだつの上がらない「作家」である私の人生の折々に登場してくる、死神。中学二年生で初めて出会ったあいつのことだけは、これまで作品には書けなかったのだが……。この作品の刊行を記念して田中さんが「一冊の本」24年11月号にご寄稿くださった巻頭随筆を掲載します。

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本書の刊行を記念して、11月5日(火)11時から12日(火)朝10時までの間、全文をwebTRIPPER上で無料公開いたします
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生きるための小説

 他人から見ればたいしたことでもないのだろうが、まだ幼かった頃からいろいろいやな体験をして、十代になっても、一生人に言いたくないと思うような事態も含め本当に暗い日々を過したため、これまで何度も自分で命を終らせようとしてきた。五十代になったいまもまだ、その衝動から解放されてはいない。過去の体験ばかりでなく、作家になってからの仕事上の悩みも降り積もり、いわば自殺の焚きつけが常に更新されている。昔の火種だって完全に消火出来たわけではない。いつか最終的な日が来ると思いながら、どうにかやり過す。終極に向うことだけが生きること。命の否定こそが命の肯定。

 ややこしくもあり単純でもあり、また恐ろしくもあり滑稽でもあるこの状態は、果して自分の体験や意識の持ちようだけが原因だろうか。ここまで長く続くのは、自分の命を翻弄する超越的な存在がどこかにいるからではないのか。いなくても、いることにしてしまおう。そういう仕立ての小説にしよう。

 以上のような面倒な経緯を辿って、『死神』を書いた。現実の私とはやや違い、具体的な理由がないままに自殺願望に取り憑かれた少年が、自分の死を見届ける役目を負う死神と長い時間を過し、やがて作家になるまでの物語。主人公に、死の理由となるほどの強烈な体験をさせなかったのは、実体験を踏まえてしまうと逆に書きづらくなってしまいそうだったからだ。その書きづらいところを書くのが本物の作家なのかもしれないが、それなら私は偽物の作家で構わない。

 というのも、二〇〇五年に文芸誌の新人賞を貰ったデビュー作で、いじめられた末に自殺を試みる中学生を主人公としたからだ。実体験をそのまま書いたわけではないが、形を変えて組み込んだ。同じ手は使えない。また、これこれの理由があるから死を選ぶという展開だと、抜き差しならない事情があるのなら自殺も仕方ない、という答を、読者以上に自分自身に突きつけてしまいかねない。デビュー作の時にはどうにか乗り切れたが、いま同じやり方をすれば、くすぶっている実際の自殺願望に躊躇がなくなるかもしれない。死神という外側の存在を設定し、自己責任ではなく、自分では防ぎようのないものとして自殺を捉え、危険な願望をなんとか相対化してみたい。

 だが『死神』の中で、主人公の前に現れる死神は、決して人間の命を自らの力で奪うのではなく、飽くまでも自殺の顚末を見届けるためだけの存在。死を選ぶのはどこまでも人間自身、というわけだ。もっとも、作家として卑怯なことを言わせてもらうと、自殺を選ぶ人間の最期を見届けるのが役目、自分たちが人間を死へと唆すわけではない、と死神が言い張っているだけかもしれず、本当のところは分らない。人間が自分の意思で死を選んでいるのではなく、死神に取り憑かれるからこそ自殺するのだ、との裏設定があるのかもしれない。書いた本人が、あるのかもしれない、とごまかすのは読者に対して無礼極まりなく、何より自分自身の作品に対して不誠実な態度だ。いや、私としては自殺は主人公の勝手な選択によるものであり、死神は見届け役、と決めて書いた。従ってここに裏設定を持ち込むのは作家というより読者の自由だ、その自由を妨げるつもりはないというだけのこと……やっぱり無礼だろうか。作家は細部に至るまで何もかもを綿密に組み立て、読者は作家が仕組んだその企みを一つ残らず丁寧に解き明かし、最後は作品を挟んで双方が、誠実で礼儀にかなう固い握手を交わさなければならないのだろうか。

 確かにそうかもしれない。ものごとが全てクリアに解明されなければ気がすまない、何もかもにすとんと納得がゆかなければ許せない、という御時世に、なっていると感じる。世の中で起っていることは必ず可視化、映像化されなければならず、そうならないものは人に見せられない悪事と疑われるか、でなければ初めからないものとされる。目には見えないが大切なこと、なんかあるわけない、大切なことは絶対に人目に触れている筈だ、という雰囲気を感じているのは私だけだろうか。冒頭で、一生人に言いたくないと思うような事態、と書いたが、だったら言わなくてもいいですよ、よりは、どんなつらいことでも隠さず言葉にすることで世の中の悪事を暴くことが可能になる、パワハラ、セクハラの被害を勇気を持って言語化する誠実な人々と比べ、被害を隠そうとするのは悪事に加担する態度に他ならない、という見方こそが現代にあってはまともだと信じている人が、割と多いのではないか。その流れに沿って正直に言葉にしてみたところで、過去の出来事から一気に解放されるわけではない。実際に私は、デビュー作以降も、関係者に迷惑がかからないよう状況設定を変えて実体験を小説にしてきたが、勿論、いやな記憶が消えたわけではない。小説という虚構に頼っているようではまだ駄目で、本当の体験そのものを洗いざらいぶちまけなければならないのだろうか。そうすれば自殺願望も消えるのか。

 人を手にかけた、かけようとした人物が、誰でもいいから殺して死刑になりたかった、と語る。それに対し、死にたいのなら一人で勝手に死ねばいい、という反応がある。ちょっと待ってくれ、と言いたい。自殺を考えながら他人を殺していない人間はたくさんいる。私を含めたその人間たちは、将来死刑目当てに殺人を犯す可能性があるから早く死んでほしい、それこそが全てクリアに解明される現代の正しいあり方だというわけか。意識していなくても、心の底の方で知らず知らずにそういう感情を育ててしまっている人は、案外多いのではないかと思う。私だって、私自身にそういう目を絶対に向けていないと、言い切れるだろうか。殺人犯と自分は違う、と思うのはまともなことだが、自分の自殺願望が、死刑を欲していつか他人を攻撃するかもしれないと、まだ罪を犯してもいない自分を追い詰めてしまっていないか。さらに、どうせ死ぬんだから追い詰めたっていいじゃないか、と危険に割り切ってしまっていないだろうか。

 それでも、だからこそ、死ねない。死を回避しなくてはならないのだ、私自身も、『死神』の主人公も。というわけでこの小説の後半には、反則とも言えるある圧倒的な権力者が登場し、書き手の私と作品の主人公とがせっかく作り上げてきた世界を横取りし、幕引きへ向けて勝手に御膳立てしてしまう。私は血の一滴まで、骨の髄の髄まで男性至上主義者であるが、この終盤の、権力者による物語の掌握もまた、男性的な着地と言える。その中で、最後の大きな決断だけは、権力者ではなく主人公に委ねられる。彼が作家であることが鍵になる。そして最後の最後には、彼が、そして私が書いたこの『死神』という小説の存在そのものが重要な意味を持つ。大げさな、いや決して大げさでないごく当り前の言い方をすれば、私はいま、『死神』を書き終えたからこそ生きていられるのだ。生きるために小説を書く、という古臭くも切実な、作家としてのささやかな誇りが、私をこの世につなぎ留めた。

 だが、小説を一つ完成させたからといって、晴れて自殺願望から解放、というわけにはゆかない。火種は消えていない。やっかいだが、死を意識し続けることでしか、生きてゆけなくなっている。『死神』を書いていた間は、死に向って生きる自覚がはっきりとあった。だから生き続けるためには、『死神』以上に強烈な、死へ向うための小説を書かなくてはならない。そんな小説を書くのは怖い。その一番怖い、死へ接近するための、書いてはならない小説を書き続けることだけが、生きることなのだ。なのに私はいま次の小説を、作家になって初めてかもしれない暗闇の中、書けずにいる。