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【試し読み】『銀座「四宝堂」文房具店』著者による、涙あふれる最新作『中野「薬師湯」雑記帳』の序章と第一話「春」を全文公開!

大学入学を機に状況した蓮は、朝夕食事付きで部屋代不要との誘惑に、中野の銭湯に住み込むことになった。そこに暮らすのは、声優・アーティスト・美容師を目指す同世代の3人の若者たちだった。まっすぐに夢に向かう彼らは、蓮の目には眩しく映り……。

 銭湯「薬師湯」に集う人々の日常を優しく綴る『中野「薬師湯」雑記帳』(上田健次著/朝日文庫)序章と第一話「春」を一挙公開!

上田健次『中野「薬師湯」雑記帳』(朝日文庫)
上田健次『中野「薬師湯」雑記帳』(朝日文庫)

 東京行きの中央線快速は高架の上を走っている。そのお陰で窓の外には遥か彼方まで建物で埋め尽くされた景色が広がり、地理で習った関東平野を実感させる。

 窓に額を押し付けて見呆けている僕は、どこから見ても田舎者丸出しだろう。でも、そんなことが気にならないぐらいに車窓からの眺めは素晴らしい。

 本当は呑気に景色を楽しんでいる場合ではない。もう少し焦らなければならないはずだ。けれども、僕は「なんとかなる」と心の底で思い込んでいた。後々になって分かることだけれど、この直感は当たっていた。

 二浪の末に希望の大学に合格した僕は部屋を探しに上京した。昨日は世田谷方面を、そして今日は朝から荻窪と高円寺の不動産業者を回ったが、どうもピンとこなかった。ネットで目星をつけていた部屋は全て契約されており、「こんな物件はいかがですか?」と紹介された所は、どれもちょっと違う気がした。

《次は“なかの”です。ザ ネクスト ステイション イズ ナカノ。JC06》

 車内アナウンスをぼんやり聞いていると、前方に大きなサンドイッチのような建物が見えてきた。確かあれは中野サンプラザだ。

「うわぁ」

 思わず零れた声に、我ながら少しばかり恥ずかしかった。時計を見れば午後一時を過ぎている。朝食を口にしてから随分と経っていて、お腹も減った。そうだ、中野で降りてみよう。駅の周りにはきっと不動産屋もあるだろう。それに確か有名なラーメン店がいくつかあったはず。

 電車のドアが開くと、思っていたよりも大勢が下車し、改札へ向かう人、乗り換えホームへと急ぐ人と二方向に大きな流れができた。けれど、東京に慣れていない僕は、その流れに乗りそびれ、ホームの端へと押し出されてしまった。

 濁流のような人の流れが目の前を通り過ぎるのを呆然として待っていると、ホームに設置されたベンチに目が留まった。その三人掛けのベンチは、線路と垂直になるようにして置いてあった。しかも前後に二台ならべて。僕の地元では、ベンチは線路の方を向いて横並びに置いてある。こんな置き方が東京では一般的なのだろうか?

 その変な置き方のベンチの左端に、一人の男の人が座っていた。いや、『座っている』などと言うよりも、『へたり込んでいる』と表現する方が正しいだろう。腰はかろうじて座面に乗っかっているが、上半身は真ん中の席にうつぶせに倒れ込み、さらにバンザイするように伸びた両腕は右端の背もたれに引っかかっている。長い髪で顔が隠れているが、何かを呟いているように口は小さく動いている。眉間に皺がよっていて苦しそうだ。

「あっ、あの……、だ、大丈夫ですか?」

 恐る恐る声をかけてみた。周りの人たちは目に入らないのか、みんな黙って通り過ぎて行く。話に聞いてはいたが、東京の人が周囲に無関心なのは本当のようだ。僕の地元だったら、とっくに人だかりができていて、場合によったら救急車ぐらい呼んでしまっているかもしれない。

「……うん?」

 小さく返事をしてくれたが、それっきりだ。

「気分でも悪いんですか? 駅員さんを呼んできましょうか?」

 あらためて声をかけてみたけれど、ちょうど鳴り始めた発車メロディにかき消されてしまった。思わず溜め息が漏れる。

 不意に男の人は姿勢を正し、すっくと立ち上がった。ベンチにしなだれていたので気づかなかったが、すらっと背が高い。

 数歩進んだかと思うと、すぐに後ずさりして元の席にストンと腰を下ろした。

「あの、大丈夫ですか?」

 男の人は背もたれに体を預け、手足を伸ばすと首だけを左右に小さく振った。

「ダメだね……」

「え? すっ、すぐ駅員さんを呼んできます。そのまま、そのままですよ」

 慌てる僕に大きく首を振ると、顔をしかめた。

「なぁ、ただでさえ頭がガンガンするんだ。あんまり首を振らせないでくれよ」

「すみません。けど……、大丈夫なんですか?」

 男の人は口の端に笑みを浮かべて小さく頷いた。

「ダメはダメだけど、大丈夫と言えば大丈夫。なんせ、ただの二日酔いだから」

 ヘロヘロな口調ながらも、その人は僕の目から見ても美形で、いかにも『東京の人!』といった格好よさがあった。モノトーンのスーツとシャツにちょっと凝ったデザインのコートを羽織り、足下のブーツも洒落ている。

「すまんが青年、これを使って、そこの自販機でスポーツドリンクを買ってくれないか。ああ、礼と言ってはなんだが、君も何か好きな物を買っていいよ」

 スマホを取り出すと、画面をタップして決済アプリを表示し僕に差し出した。

「はぁ……」

 言われるがままにペットボトルをひとつ買い、スマホと一緒に渡す。

「なんだ、君の分はいいのかい?」

「ええ、水筒を持ってます。ホテルを出る時にお茶を詰めてくれました」

 そう、東京にも親切な人はいた。宿泊しているビジネスホテルには、一階に小さな軽食コーナーがあり、モーニングセットが宿泊料に含まれていた。ぼんやりと外の様子を眺めながら食べていると、給仕係のおばさんが「水筒をお持ちなら、お茶を詰めますけど、いかがですか?」と声をかけてくれた。

「ホテル? なんだ青年は旅行中か。すまんね、旅の途中に」

 男の人は、そう口にしながらペットボトルのキャップを捻った。どうやら指先に力を込めると頭が痛むようで、眉間に皺をよせて小さく唸る。ようやくキャップを開けると、半分ほどの量を喉を鳴らして飲んだ。

 僕は隣の席に腰を下ろし、リュックから取り出した水筒のお茶を口にした。すっかり温くなっているけれど、ほうじ茶のやさしい味にほっとした。

「旅行ってほどでもないんですけど……。来月から東京で一人暮らしをするので、部屋探しです。……でも、どうにも、ここだって所に出会えなくて」

 溜め息と一緒に僕は愚痴を零してしまった。出会ったばかりの人なのに、なぜだか僕の口は何時もより軽かった。

 男の人は「ピュー」と短く口笛を吹くと、大きく笑みを浮かべた。

「青年! 君は実に運が良い!」

「……はぁ」

 芝居がかった口調で言われたけれど、まったく意味が分からない。呆けた顔をしている僕を眺めながらスポーツドリンクの残りを飲み干すと、男の人は姿勢を正した。

「ありがとう、俺みたいな酔っぱらいを心配してくれて。週に一回はこうやってどこかのベンチでぶっ倒れているけど、君みたいに駅員や警官でもないのに声をかけてくれた人は初めてだよ。ああ、そう言えば中野駅のベンチで寝たのは初めてかも。普段は新宿か大久保あたりで行き倒れてるから」

「心配になったんで。でも良かったです、大丈夫そうで」

 僕は水筒をリュックに仕舞うとベンチから立った。「じゃあ」と声をかけようとした時だった。

「おっと、ちょっと待った。ついでと言っちゃあなんだけど、これから、もう少しだけ俺に付き合ってくれよ。損はさせないからさ」

 そう言うなり男の人は、すっくと立ち上がった。今度はふらつくこともなく、ゆっくりとした足取りで自販機の隣に置かれた回収ボックスにペットボトルを放り込むと、僕の方に向き直った。

「さあ、少しばかり寄り道をしようぜ」

 さっきもそうだったけれど、この人のセリフや身のこなしは芝居がかっている。けれど、それが不思議と格好良い。思わず「はい」と返事をし、催眠術でもかけられたように僕はあとをついて行った。

「ひとり暮らしはさておき、蓮は東京に来るのも初めて?」

 男の人は改札を出るなり「俺、蛙石倫次。どういう訳だか、昔から周りのみんなからはケロって呼ばれてる。だから君もケロでいいからね」と教えてくれた。

 その流れで僕も名乗ると「手塚蓮かぁ……。初対面でなんだけど、いかにも蓮って雰囲気だよね。じゃあ、蓮って下の名前で呼ばせてもらうね」と一方的に宣言した。この距離感の縮め方は何だろう? とてもではないが僕には真似ができない。かと言って嫌な感じはまったくしない。

「東京には遊びでなら、何度か来たことはあります。アキバとか池袋なんかに」

「ふーん、じゃあ、中野は初めて?」

「はい」

 僕の返事に頷きながら「このアーケードはサンモールって言うんだ。で、ここから先が中野ブロードウェイ」と教えてくれた。本当はブロードウェイにある有名なサブカルショップに立ち寄ってみたかったけど、とりあえず黙っておいた。

 ブロードウェイの一階はごく普通のアーケード街といった感じだけれど、二階を行き来する人が時々見えたり、三階に直通する長いエスカレーターがあったり、ちょっと不思議な雰囲気だった。

 ブロードウェイをでると、バスが往来する通りにぶつかり、右に折れた。

「これは、早稲田通りだよ」

「へぇ……。じゃあ、これをずっと真っ直ぐ行くと早稲田大学があるんですか?」

 ケロは小さく肩をすくめると「うーん、どうだろう。試したことはないけど。とりあえず早稲田の方には行くんだろうね」と笑いながら適当な返事をしてくれた。

 最初の信号で早稲田通りを渡ると『薬師あいロード』という看板を掲げたゲートがあり、その先は、いくつもの店が立ち並ぶ商店街だった。

 家具店に焼き鳥や揚げ物などの惣菜店、履物店、それに美容室、干物店、呉服店、肉や魚、酒といった食材を扱う店に和菓子店……。どれも軒先まで商品を並べ、店員とお客さんは顔見知りばかりのようで楽し気に話をしている。ところどころに新しい顔ぶれと思しきカフェや居酒屋などの飲食店もちらほら。ぶらぶらと歩いたら楽しそうだ。

「商店街を抜けると、その先に新井薬師ってお寺さんがあるんだ。正しくは梅照院って名前なんだけど、みんな新井薬師とか薬師様って呼んでる」

「だから商店街も『薬師あいロード』なんですね」

 商店街の真ん中あたりで一本の路地に入り、少しばかり進むとケロが足を止めた。

「ほら、ここ」

 そこには昭和の雰囲気を残す銭湯があった。

「あぁ……」

 その立派な佇まいに思わず溜め息が零れた。

「唐破風と千鳥破風の二段構えの正面なんて、今どきあんまりないと思うよ。ましてや二十三区内にさ。しかも見ての通り、どでかい煙突を構えて、いまだに湯船に張るお湯は薪で沸かしてるんだ、ここ薬師湯はね」

「薬師湯……ですか」

 ケロは「うん」と答えると、「さ、こっち」と手招きをした。正面は戸が閉ざされ、暖簾もかかっていなかった。左右には木塀があり、それぞれ腰ぐらいの高さの潜り戸があった。ケロは左の潜り戸を開けると腰を屈めて入って行った。どうしたものかと躊躇していると、顔を出し「何やってんの? さ、こっちこっち」と手招きした。

 慌てて木戸をくぐると、そこには本格的な庭が設えてあった。

「そこ、閉めてくんない?」

 言われるままに後ろ手で戸を閉めると、ケロの背中は少し先の飛び石の上にあった。慌てて追いかけながら右手に見えるガラス戸の中を覗き込んだ。どうやら僕らは銭湯の庭を横切っているようだ。

 建物の中に目を凝らすと、コーヒー牛乳やフルーツ牛乳の納められたガラス張りの冷蔵庫、古めかしいデザインのマッサージチェアなどが見える。

 庭の先には建物に沿って細い通路があり、そこを抜けると裏手にでた。そこには作業小屋があり、人がひとり立っていた。

「こら! ケロ、また朝帰りか」

「ああ、シゲさん。おはよう」

 シゲさんと呼ばれた人は灰色の作業着に紺色の前掛けをしていた。軍手をはめた手に鉈を持ち、周囲には木片が散らばっている。何歳ぐらいだろう? 老人と呼ぶには少し早いが、中年では足りない。それにしても、僕の地元でさえ、鉈を手にしている人なんて滅多に見ることはない。ましてや東京のど真ん中では珍しいだろう。

「なにが、おはようだ。とっくの昔に昼は過ぎたぞ、まったく」

「シゲさんこそ何を言ってんの。ほら、仁ちゃんの代わりを見つけてきたんだってば」

 ケロは生贄でも差し出すように僕の背中を押した。

「そうなのか?」

 シゲさんの問い掛けに、僕は慌てて首をふった。

「えっと、あっと。……あの、僕、よく事情が飲み込めてなくて」

「何を大騒ぎしてるんです?」

 不意に作業小屋の隣にある建物の引き戸が開いた。

「あっ、オカミさん。おはようございます」

 ケロが慌てて頭を下げた。つられて僕も頭を下げる。

「もう、ケロちゃんったら。帰りが遅くなるんだったらLINEでも何でもいいから連絡をちょうだいって何回言わせれば気が済むの? 心配するじゃない」

 中から出てきた女性は、僕の母よりひと回り上といった年格好だけど、とてもきれいな人だった。眉根をよせていたが、僕に気が付いたようで表情が少し変わった。

「あら、お客さん? ケロちゃんのお友達かしら」

「オカミさん、ちょうど良かった。ほら、仁ちゃんが使ってた部屋、まだ次の人、決まってなかったでしょ? 彼、大学に通うために部屋を探してるんだって」

「部屋?」

 僕は思わず聞き返してしまった。

「なんだ、ケロ、ちゃんと説明もしないで連れてきたのか?」

「うーん、だってさぁ、説明するより実際に見てもらった方が早いじゃん? それに、オカミさんにも会わせないと、俺が勝手に決める訳にもいかないし」

 開き直ったケロに呆れたシゲさんが「ったく」と零す。その声に重なるようにして僕のお腹が鳴った。

「あらあら、もしかしてお昼ご飯まだなの? だったら、上がって、何か用意するわ。ケロちゃんはどうするの? でも、まあ、どう見たって二日酔いみたいだから食べないんだろうけど」

「食べないんじゃなくて、食べられないです。正しく言えば」

 変な調子で胸を張るケロにオカミさんが笑った。

「まあ、それだけ減らず口が叩けるなら、大したことはないわね。それにしても、まだ朝晩は寒いんだから、変なところで寝ちゃったら風邪を引くわよ」

 オカミさんはそう零すと「さあ、上がんなさい」と付け加えて顔を引っ込めた。ケロは「すみませんねぇ」と頭を搔きながら建物の中へと入って行った。

「さっ、君も上がりな、オカミさんが何か食わしてくれる。食べながら説明を聞いて、よく考えることだ。どうせケロに無理矢理引っ張られてきたんだろうから。まあ、悪い話ではないと思うけどね」

 僕は慌てて頭を下げた。

「ありがとうございます」

「なに、俺に礼を言うことはないよ。ああ、俺は本田滋。みんなからはシゲさんって呼ばれてる。よろしくな」

「手塚蓮です。よろしくお願いします」

 シゲさんはニコニコしながら頷くと「さあ、はやく入りな」と促した。

 玄関口で靴を脱いで上がると、そこは左右に延びる廊下のちょうど真ん中あたりだった。左右それぞれの廊下の先には、少し急な階段があるようだ。廊下に面した部屋には型板ガラスの入った障子がならんでいて、それは大きく開け放たれていた。

 部屋には十人ぐらいがゆったりと掛けられそうな大きなテーブルが真ん中に置かれ、右奥には六畳ほどの小上がりがあった。左奥は大きな暖簾で仕切られていて、中を見通すことはできないが、どうやら台所のようで美味しそうな匂いがした。

「ねぇ、そこのテーブルの好きなところに座って。大急ぎで用意するから」

 暖簾の間から顔を出したオカミさんがそう言ってくれた。どこに行ったのかケロの姿は見えない。仕方がないのでリュックを降ろし、一番手前の椅子に腰かけた。

 あらためて部屋を見渡してみる。かなり古い建物のようだけど、よく掃除がされていて古民家のような風情がある。大きな食器棚が一つに本棚が二つ。小上がりには背の低い整理箪笥があり、その上にはたくさんのフォトフレームが飾られていた。近寄ってみると、銭湯の入口をバックにした集合写真や、どこか旅行に出かけた際に撮影したと思しき記念写真、それに花見だろうか、桜の木を背景にした写真などがならべられていた。

 本棚の上半分には文庫本や漫画などが雑多に詰め込んであったが、下半分にはB5サイズの大学ノートがびっしりとならべてあった。どの背表紙にも丁寧な字で『薬師湯雑記帳』と書いてあり、合わせて通し番号と書き始めた日付と思しき数字が記されていた。

 その一冊に手を伸ばしかけたところだった。不意に声がかけられた。

「はい、お待たせ」

 振り向くと、オカミさんが大きなお盆を抱えて台所から出てくるところだった。

「はい、作り置きを温め直したものばかりで悪いんだけど……。ご飯とお味噌汁はお代わりがあるから、たくさん食べてね」

 オカミさんは僕の前に真っ白な皿を置いた。その皿には、美味そうなソースを纏ったハンバーグが真ん中に鎮座し、付け合わせのジャガイモやニンジン、インゲンは丁寧に形が揃えてあって、まるでレストランみたいだ。

 さらに、ひじきの煮物にホウレン草のお浸し、割り干し大根の漬物と小鉢が三つもあった。そして大振りの茶碗にたっぷりとよそわれたご飯に味噌汁。具はわかめと豆腐だった。

「いただきます」

 僕は頭を下げると、箸を手にとった。けれど、よく考えたら、僕はオカミさんに名乗ってもいないことに気が付いた。慌てて箸を戻すと、席を立ち頭を下げた。

「すみません、自己紹介もしてませんでした。手塚蓮と言います。お邪魔します」

 オカミさんは驚いた様子で口を小さく開けると、噴き出すようにして笑った。

「なんて礼儀正しい子かしら。今どき珍しいかも。しかも、そんな子をケロちゃんが見つけて来たって言うんだから、びっくりだわ。へぇ、本当に驚いた。ああ、ごめんなさい。私も挨拶してなかったわね。鈴原京子です。ここ薬師湯の主人です、よろしくね。えーっと、蓮君? で、いいわよね。さあ座って、食事が冷めちゃうわ」

 オカミさんは僕を座らせると、向い側に腰を下ろした。

「……あの、ケロはどこへ行ったんでしょう?」

 やっぱり気になったので聞いてみた。

「うん? ああ、自分の部屋よ。多分、夕方まで起きてこないわ。ほら、召し上がれ」

「じゃあ、いただきます」

 僕が頭を下げると柔らかな声で「はい、どうぞ」と返してくれた。

 まず、味噌汁に口を付けた。出汁がよく利いて、どこかほっとする味だった。思わず「美味しい」と呟いた。

「良かった。商店街にお味噌の専門店があるのよ、もう何十年もそこのを使ってるの。毎日いただくものでしょ? お味噌汁って。だから、蓮君の口に合わなかったらどうしようって思っちゃった」

「毎日? ですか」

「もう、ケロちゃんは何にも説明してないのね……。まったく困った子ね」

 そう零しつつも、オカミさんの表情はにこやかだった。きっと、ケロのことが可愛くて仕方がないのだろう。

「あのね、うちは見ての通り銭湯を営んでるんだけど、細々とした仕事がたくさんあるのよ。シゲさんが水回りの面倒事は一手に引き受けてくれてるけど、洗い場や脱衣所の掃除やら、営業時間中の接客やらって、結構人手が必要なの。それに薪の準備とか釜の番やら。そんな訳で薬師湯を手伝ってくれるのを条件に、若い人たちに部屋を無料で貸してるのよ。もちろん水道光熱費も一切不要だし、朝と晩は御飯を用意する」

「へぇ……」

 返事をしながら味噌汁のお椀を置くと茶碗を手にし、箸でハンバーグを切り分けて口に運んだ。それは、しっかりと肉の味がする逸品で、行儀が悪いと分かっているのにご飯をかき込まずにはいられなかった。

「自分で作っておいてあれだけど、美味しいでしょ?」

 口一杯に頬張ってて声が出せず、首を縦に振るしかなかった。

「私の腕前を自慢してる訳じゃないのよ、美味しいハンバーグを作るコツはね、挽きたてのお肉を仕入れてくることなの。近所になんでも頼める精肉店があると便利よ。あとは、そうねぇ、玉ねぎを根気よく飴色になるまで炒める手間を省かないことかな。そうすれば誰だって美味しく作れるわ」

 何か気の利いた返事をするところだろうけど、僕は箸を止めることができず、二切れ目を口に放り込むと、またしてもご飯をかき込んだ。気が付けば二切れのハンバーグで大盛りのご飯一膳が消えてしまった。

「やっぱり、若い子がものすごい勢いでご飯を食べるのを見るのは気持ちがいいわ。お代わりもさっきと同じぐらいよそっても大丈夫でしょ? さぁ、お茶碗を貸してちょうだい」

 オカミさんは僕から茶碗を受け取ると、笑いながら暖簾の向こうへ行った。待っている間にひじきの煮物とホウレン草のお浸しを摘まんでみた。どちらも控え目の味付けで、素材そのものの味を楽しむことができた。

「はい、お待たせ。三杯でも四杯でも大丈夫だからね」

 両手で受け取ると、すぐにガツガツと食べ進む。

「そのまま聞いてね。ケロちゃんがさっき言ってたけど、先月まで仁君っていう大学生がケロちゃんの隣の部屋にいたのよ。でも、四月から大阪の会社に就職することが決まって、ここから出てしまったの。ああ、別に社会人になってもうちは居てくれて構わないんだけど、さすがにここから大阪に通勤する訳にはいかないから」

 質問しようとして思わず喉を詰まらせた。胸をトントンやりながらやっとの思いで声を出した。

「あの、手伝いって、どれぐらいのことをすればいいんですか?」

「うーん、あんまりちゃんと計ったことはないんだけど……。そうねぇ、四時間ぐらいかしら、一日あたり。フロントで入浴料をいただいたり、物販をしてもらったりするのが、一時間から二時間ぐらい。あと、営業前の準備と、終わってからの掃除かな。洗い場と脱衣所を毎日隅々まで掃除するから。それが二時間ぐらい。あと、シゲさんの手伝いを昼間に一時間ってとこかしら。日によって波があるけど、まあ、どんなに長くても五時間ぐらいかしら、全部あわせて」

 中野駅から近くて、一日四時間ほど働くだけで部屋代不要。しかも、こんなに美味しい食事付きなら、かなり良い条件かもしれない。

「あの、お休みって、どうなってるんですか?」

「うん? ああ、第一と第三の月曜日は休業だから、仕事はないわ。もちろん、体調が悪かったり、何か用事があったら無理は言わない。常連のお客さんに声をかければ手伝ってくれるから、何とかなるし。もちろん手伝ってくれた人には無料入浴券を渡すんだけどね」

 話を聞きながら箸を動かし続けていると、いつの間にか食事はきれいになくなってしまった。

「ごちそうさまでした。とても美味しかったです」

 僕は箸を置くと頭を下げた。オカミさんは笑いながら「お粗末様でした。けど、食べっぷりを見る限り、うちの料理で大丈夫そうね。何と言っても食事は大切だから。かといって口に合わないものを食べ続けるなんて無理だろうしね」と返してくれた。

「こんなに美味しいのに口に合わない人なんているんですか?」

「まぁ、上手。ホストのケロちゃんより、よっぽど蓮君の方が愛想がいいわ」

「ホストなんですか? ケロって」

 オカミさんは急須に茶葉を入れると魔法瓶からお湯を注いだ。

「あら、知らなかった? まあ、それはお金を稼ぐためのアルバイトなんだけどね……。あの子はアーティスト志望で、絵を描いてみたり、音楽活動をやってみたり。最近は動画作品をアップしたりって、あれこれ試してるんだけど、どうにも今ひとつ芽がでなくて……。あっ、そもそも、二人はどんな関係なの?」

 僕は中野駅で知り合ったばかりであることを簡単に話した。

「へぇー、そう。なんか、すごいわね。けど、きっと何かを感じたのねケロちゃんは。ふーん、そっかぁ。けど、そんなのもいいわね。若いうちでないと、そんな出会いなんてできないでしょう?」

 お茶を注いだ大きな湯呑みを僕の前に差し出しながら、オカミさんはしみじみとした顔で頷いた。僕は、ふと気が付いたことを尋ねてみた。

「あの、ケロだけですか? ここにお世話になっているのって……」

 何となくだけど、ケロとはうまくやれそうな気がしていた。それにオカミさんやシゲさんとも。

 けれど、他にどんな人がいるのかは、やっぱり少し心配だった。だって、本当の僕は人見知りなのだ。よくも見ず知らずのケロに声をかけ、誘われるままに薬師湯にたどり着き、図々しくも上がり込んでお昼ご飯までごちそうになったものだと我ながら驚いている。

「ああ、ごめんなさい。男の人はシゲさんとケロちゃんだけよ。で、来てくれるんなら蓮君と合わせて三人。さしずめ、薬師湯三人衆ってとこかしら。あとは女の子が二人いるわ。ひとりはブロードウェイのサブカルショップだったっけ? 古い漫画とかアニメのフィギュアとかを扱ってるお店で昼間は働いてる声優の卵で、マレーシアから来た子。えーっと李雨桐って名前なんだけど……。何時まで経っても、私はぜんぜん正しく発音できないんだけどね。普段はみんなユーちゃんって呼んでる。それと美容師の見習で佐山葵ちゃんって子がいるわ、こちらは普通に葵ちゃん。で、私を合わせて、薬師湯三人娘って呼ばれてるのよ」

「……へぇ」

「もう、オカミさんも娘のひとりに数えるんですか? ってつっ込むところなのよ。って、無理か」

 朗らかに笑いながらオカミさんは話を続けた。

「心配しなくて大丈夫よ、二人ともとってもいい子だから。それに部屋は男性が二階、女性は三階って分けてあるし。そもそも二階には玄関右側の階段から、三階には反対の左側からしか上がれないようになってるのよ」

 オカミさんはふと気付いたように時計を見た。

「あら、やだ。ついつい話し込んじゃって。さ、部屋を見に行きましょう。食べ終わった食器だけど、今日はそのまま置いといて。正式に加わってもらったら片付け方を教えるから」

 そう言い置くとオカミさんは先に立って二階にあがる階段へと足を向けた。

 かなり急な階段は踏むたびにミシミシと軋んだ。二階の廊下は窓から差し込む日の光で薄らと照らされ、突き当たりまですっと延び、窓が三つあった。真ん中の窓際には蛇口が三つもついた大きなステンレスの流しが設置されていた。

「手前の三号室がケロちゃんの部屋、で反対側の一号室がシゲさん、真ん中の二号室が空き部屋なの」

 部屋の入口は引き戸で、一階の障子にはめられていたものとデザインの異なる型板ガラスが上半分に使われていた。

「作り付けのベッドと机があるから狭く見えるけど六畳あるわ。それとクローゼットはここ。これぐらいの大きさがあれば、ひとり分の洋服と荷物は楽に収まると思うわ」

 板張りの床は長年丁寧に掃除がされてきたのだろう、鈍い輝きを放っていた。

「トイレは階段の脇にあるわ。洗面台は廊下のを使ってちょうだい。お風呂は混んでない時間帯を選んでくれれば、好きな時に入り放題よ。まあ、でも、営業が終わって洗い場と脱衣所の掃除をしたら夏なんかは汗だくになるから、またシャワーを浴びないとダメなんだけどね。この建物の一階にシャワー室があるから」

 部屋の窓を開けると瓦やトタンの屋根がつづき、その先に大通りの並木が見えた。少しばかり風が出てきたようで、ゆっくりと木々の枝が揺れている。その穏やかな景色を見ていたら、なぜだかここで暮らしてみたくなった。

「ここ、ここにします。こちらにお世話になります」

 窓からふり返ると、僕はそう口にした。オカミさんはやさし気な笑みを浮かべて深く頷いた。

 外にでると、日は傾きつつあった。三月とはいえ、まだ日は短い。

「じゃあ、引っ越しの日にちが決まったら連絡をちょうだい」

 見送りに来てくれたオカミさんがポケットからマッチ箱を取り出すと渡してくれた。

「住所と電話番号はそこに書いてあるから。もちろん、さっき渡した書類にも書いてあるけど、紙なんて、どっかに紛れて探すのが大変だったりするでしょ? マッチはそんな心配が少ないわ」

 渡されたマッチは切り絵だろうか、二重の破風と瓦屋根から突き出た煙突が描かれ、たなびく煙に『薬師湯』と書かれていた。裏面には住所と電話番号、それにホームページのURLがちょっと懐かしいフォントで記されている。

「マッチ、ですか。小学校の理科でアルコールランプに火を点けて以来、使ったことがないです」

「無理もないわ。煙草でも吸わない限り、マッチやライターなんて必要ないでしょうからね。それに、今は電子タバコだっけ? あんなのもあるから煙草を吸う人でもいらないかも。うちはシゲさんのこだわりで釜の火入れに必ずマッチを使うの。それに多くの常連さんの家にはお仏壇があるから、蝋燭を灯すのに使うの。だから、あげると喜んでくれるのよ」

 今どき、喫茶店でもマッチなんて配っているところは珍しいと思う。けど、その洒落たマッチをもらえて、僕はなんだか嬉しかった。

「帰るのか?」

 作業小屋からシゲさんが顔を出した。シゲさんの後には薪がくべられた釜があるようで、ちらちらとオレンジ色の光が瞬いていた。

「はい、準備ができたら引っ越してきます。その時はよろしくお願いします」

「ああ、こちらこそ、よろしく」

 シゲさんからは煙の匂いがした。それはなんだか、ほっとする匂いだった。釜からはパチパチと薪が爆ぜる音がして、ゆったりと温かな空気が漂ってきた。

 建屋の脇を通り抜け、飛び石を渡り、潜り戸を抜けて薬師湯の入口に戻ってきた。

「中野駅に着く時間を教えてくれたら改札まで迎えに行くわ」

「いえ、こんなに分かりやすい道もありませんから大丈夫です。ひとりで来れると思います。もし道に迷っても地図アプリがありますし」

 僕はスマホを取り出した。

「うーん、まあ、そうねぇ。なんだか味気ないけど……、まあ、いいや。もし迷子になったら周りをよく見渡して。きっとうちの煙突が見えるはずだから。その煙突を目指して歩けば、たどり着くわ」

 オカミさんは薬師湯をふり返った。視線の先に煙を勢いよく吐き出す煙突があった。

*  *  *

三月十日(火)  天気:曇りのち晴れ 記入:鈴原京子

 朝帰り(実際は御昼を過ぎてたから昼帰りが正しいんだろうけど)のケロちゃんが、この春大学生になる男の子を連れてきてくれた。名前は手塚蓮君。割と美男子で礼儀正しく、ご飯の食べっぷりも気持ち良い。

 仁君が卒業してしまって、なかなか後が決まらなかったけれど、これで一安心。一週間から十日ほどで準備を整えて引っ越してくる予定。

 夜、帰ってきた葵ちゃんとユーちゃんに蓮君の話をする。二人とも第一声は「イケメン?」。私が「まあ、そうね。今どきの子って感じで、シュッとしてた」と答えると、二人そろって訝し気な顔。「オカミさんは、誰を見ても男前って言うからな」とユーちゃん。

「そうだなぁ……。前にうちの担当だった宅配便のセールスドライバーさんを、めっちゃカッコいい! って大騒ぎするから、どんな人かと思ったら、普通のおじさんだったしね」と葵ちゃん。なら、聞くなよ! と思う。

 とりあえず仁君が抜けて、少し寂しかった薬師湯に活気が戻りそうで、ちょっとほっとした一日でした。

「じゃあ、開けましょうかね」

 オカミさんの朗らかな声に柱時計を見やると、もうすぐ午後四時だった。『田毎』という柄の型板ガラスに金文字で「薬師湯」と書かれた引き戸を開け、竹竿に掛けた大きな暖簾を表に出す。

 暖簾は四季ごとに意匠が異なるものを用意しているそうで、もうじき桜が開花するであろう今の季節は、山吹から黄、そして淡い桜色へと左下から右上へとグラデーションを描きながら移りゆく地の上に、数本の筆跡で春風を表したものになっている。

 入口の近くには、すでに何人かの常連さんたちが待っていて、僕が暖簾をかけ終える様子をのんびりと眺めていた。

「入っていいかい?」

 真っ白な髪を短く刈ったお客さんが、暖簾を掲げる僕の手元を見守っていたオカミさんに声をかけた。

「はい、どうぞ。お待たせしました。今日も丸さんが一番乗りね」

 愛想の良いオカミさんの返事に深く頷くと、丸さんこと丸川さんは下駄をカラコロと鳴らしながら下足場へと進んでいった。その後に六人ほどの人がつづく。やはり毎日のように開店直後を狙って来る人たちばかりだ。

 僕はお客さんたちの邪魔にならないように脇の方から中へ上がると、カウンターの内側に入った。釣銭などを用意してレジの準備はちゃんとできているけれど、まだキャッシュレス決済の操作などに不安があり、実際にお客さんを前にすると緊張する。

 そんな心中を知ってか知らずか、丸さんはにこやかな顔で声をかけてくれた。

「昨日よりちっとはマシになったな」

 回数券を差し出しながら僕の出で立ちをしげしげと眺めた。営業時間中の薬師湯では、オカミさんはもちろん僕たち従業員も、藍色の印半纏を羽織ることになっている。背中には亀甲に「湯」が真っ白く染め抜かれ、襟元には同じく白の筆文字で「薬師湯」とある。お店に出る前日に、真っ新な一枚をオカミさんがくれたものだ。

「どうも。でも、まだまだ肩で羽織るっていう感覚はつかめませんけどね」

 回数券を受け取りながら返事をした。

「そりゃあそうだ、粋な着こなしが一日やそこらで身に付いたら世話ねぇや」

 丸さんは鼻で笑うと男湯の暖簾をくぐって行った。

「あら、私はその初々しい感じが好きだわ。そんなに早々と馴染んでしまったら新しい子に入ってもらう意味がないじゃない? ちょっとずつでいいのよ、慌てる必要なんてまったくないわ」

 こちらも常連の翠さんが回数券を差し出しながら微笑む。後ろに続く人にカウンターの正面を譲りながら、僕の隣に立つオカミさんに「ねえ、そうでしょう?」と声をかけた。オカミさんは小さく笑うと「まあ、そうね。ぎこちないぐらいに緊張しているのは最初の数週間ぐらいでしょうから。今の若い子は頭がいいから仕事の飲み込みも早くて。楽だけど、ちょっと寂しいかな。もっと世話を焼かせてもらいたい! って思うことも多いもの」と笑った。

 二人がそんなやりとりをしている間にも、小銭はもちろんクレジットカードやQRコード決済、交通系ICカードなど、さまざまな支払方法で次々と人が入って行く。どんな決済方法にも対応するだなんて、コンビニやファストフード店では当たり前かもしれないけれど、個人営業の銭湯では珍しいと思う。

 翠さんとオカミさんが立ち話をしている間に、開店直後の人の波は過ぎ去った。受け取った回数券や現金を整理してレジに仕舞い、ぼんやりと風に揺れる暖簾を眺めた。

 ここ数日、急に気温があがり、春本番を迎えた感じがする。ゆらゆらと穏やかに流れる風に合わせて踊る暖簾を眺めていると、ふと眠気に襲われそうになった。慌てて頬を手の平で叩いていると、オカミさんが笑った。

「眠いの?」

 僕は恥ずかしくなって俯いた。

「ちゃんと寝てるんですけど……、すみません」

「若いうちだけよ、いくらでも寝られるのなんて。私なんか五時間も横になったら目が覚めちゃうもの。そうだ。しばらく忙しくないから、先にお風呂に入っちゃったら? 熱いお湯に浸かったら眠気が覚めるかも」

「え? いいんですか」

「だって、二人してフロントに立っていても仕方がないでしょう? 五時半ぐらいから夕方の混雑が始まるから、それまではのんびりしてていいわよ」

「じゃあ、お言葉に甘えて」

「はい、ごゆっくり」

 僕は半纏を脱ぐと丁寧に畳み、レジの下にある棚にそっと仕舞った。

 表に出て上を見上げると、雲ひとつない空に薬師湯の煙突から真っ白な煙がたなびいていた。男湯に面した庭の飛び石を渡って路地を抜け、部屋に戻る前に釜場を覗いた。ちょうどシゲさんが焚口に追加の薪をくべているところだった。

「手伝いましょうか?」

 僕の声にちらっと顔をあげると「いや、大丈夫だ」と軽く応えた。火掻き棒で炉の中を調整すると、焚口戸を閉ざした。

「表の方はいいのかい?」

「ええ、しばらく暇だから、先にお湯を使いなさいってオカミさんに勧められました」

「そうか。なら、ゆっくりと浸かってくればいい。湯加減を体で覚えるのも仕事のうちだしな」

 シゲさんは釜場に置いてあった椅子に腰かけると、焚口戸の隙間からちらちらと漏れる火の様子を目の端でとらえながら話を続けた。

「湯加減は、銭湯一軒一軒でそれぞれ違うものなんだ。そもそも使ってる水からして普通に水道水を使っている店もあれば、うちみたいに地下から井戸水を汲み上げてるところもある。都内でも場所によったら温泉が湧いてて、それを水で薄めたり逆に沸かし直したりして使ってるところもある。それぞれ違うんだよ、水やら温め方が。それに、湯船の造りだったり、洗い場や脱衣所からの空気の流れ方なんかで、熱く感じたり冷たく感じたり。季節やその日の気温や湿度によっても随分と変わる。その辺も含めて手をちょっと湯に浸しただけで、加減の良し悪しが分かるようになったら一人前だな」

「……随分と難しそうですね。そんなことができるようになるのに、何年ぐらいかかるんですか?」

「そうだな、人にもよるけれど、うちみたいに薪で焚く釜の店なら早くて五年、俺みたいに不器用な奴なら十年はかかるかな」

「そっ、そんなにかかるんですか?」

 シゲさんは僕の顔を愉快そうに眺めた。

「まあ、そう心配すんな。別にお前さんにそんなことができるようになって欲しいだなんて誰も思ってないさ。精々、薪を運んだりタイルをブラシで擦ったりっていう力仕事をちゃんとしてくれれば十分」

「はぁ……」

「オカミさんだって薪で湯を沸かすだなんて面倒なことは、俺が死んだらお仕舞にするはずさ。最新式のガスで沸かす機械は、水質や天気なんかをちゃんと勘取りして自動で心地よい温度の湯に調整してくれるそうだ。だから、無理して俺がやってるような面倒なことを覚える必要はないよ。ほら、さっさと行きな」

 シゲさんが焚口戸を開いて手前の薪を奥へと押しやると、パチパチと爆ぜながら火の粉が舞った。その様子をじっと見つめるシゲさんに会釈をすると僕は踵を返した。

 タオルや着替えを抱えてフロントのオカミさんに会釈をしながら男湯の暖簾をくぐる。脱衣所には誰もおらず、洗い場の方から少しばかり人の気配がするだけだった。一番端にあるロッカーに脱いだ物を放り込み、中で使うタオルだけをもって洗い場に足を踏み入れた。

 薬師湯の洗い場は、男湯も女湯も真っ白なタイルが床一面に張られている。目地もタイルも真っ白で、カランや排水溝などの金属部分や鏡などは毎日の掃除でピカピカに磨いてあり清潔感にあふれている。浴室の天井はかなり高く、湯船やシャワーの湯気は上へ上へと立ち昇る。天井近くには磨りガラスをはめた大きな窓がならんでおり、季節に合わせて開け閉めするが、中秋などには大きく開け放ち、湯船から月見を楽しんでもらうそうだ。

 洗い場の先に湯船があり、その壁には男湯と女湯を跨ぐようにして富士山が描かれている。引っ越してきた初日にケロから教えてもらったけれど、富士山の絵が描かれているのは関東の銭湯だけで、西日本ではあまり見られないそうだ。

「ほんの数軒、大阪とか兵庫の銭湯に行ったことがあるけど、どこもタイル絵ばかりで、薬師湯みたいに壁一面を使って絵を描いてるところなんてなかったよ。そもそも、湯船の位置も関東みたいに奥にあるとは限らなくて、真ん中らへんにあったりした。四方八方から湯船に出入りできて便利なんだけど、ゆっくりと浸かっていられなくて、なんだか落ち着かなかったな」

 営業後の床をデッキブラシで擦りながら、ケロは色んなことを話してくれた。アーティスト志望なだけあって、美術に関係することについては本当にくわしい。

「ちなみに銭湯に富士山の絵が初めて描かれたのは大正元年で、今はもう廃業してしまった神田猿楽町のキカイ湯ってところなんだ」

「きかいゆ?」

「うん、ちょっと変わった名前だろ? きかいはカタカナでキカイって書くんだ。なんでも湯を沸かすのに汽船のボイラーを使っていたことにちなんでるんだって。大正元年は一九一二年だから、銭湯に富士山の絵が描かれるようになって、まだ百年くらいなんだよね」

「そうなんだ」

 知らないことばかりで、感心してしまった。

「さて、問題です! 銭湯に描かれている富士山の絵で、もっとも多いのは、どこからの眺めをモチーフにしたものでしょうか?」

 デッキブラシの手を休めてケロが出題した。

「うーん、全く分かりません。この、薬師湯の富士山はどこからの眺めなんですか?」

「諦めが早いな。でも、まあ、知らなかったら答えようがないか。うちのは西伊豆から眺めた富士山だよ。ところどころ松が植わった岩場があって、その先には遥か彼方まで広がる海がある。そして水平線と山裾が重なり合うほどに雄大な富士山。見事だよね。ちなみに、うちと似たような構図が一番人気。で、二番目が三保の松原からの眺めで、大きく湾曲した砂浜に松林があって、その向こうに富士山があるってやつ。で三番目は河口湖とか山中湖なんかから見た富士山だね。手前に湖を持って来て、逆さ富士を描いたものとかね。だいたい、この三つのどれからしいよ」

 僕も手を休めて絵を眺めた。改めてじっくりと見てみると、やっぱり銭湯の壁には雄大な富士山があって欲しいと思った。

「いいですよね、いかにも銭湯って感じがして」

「まあね。でも、銭湯絵を描く人は、日本に数名しか残ってないんだ。そもそも銭湯自体が減ってるから仕方がないんだけど……。それに『空三年、松十年、富士山一生』って言葉が銭湯絵師の世界にはあるぐらいで、一人前になるのも大変なんだ。そりゃあそうだよね、銭湯が休みの日に短時間で仕上げなきゃあならないし、これだけの大きさだから、緻密な下書きも難しい。そもそも、一軒一軒描く位置や洗い場からの見え方なんかも違うから、毎回現場でアドリブを利かせなければならない。途方もなく難しいと思うよ」

  そんなことをケロに教えてもらってから、僕は洗い場に足を踏み入れるたびに、正面の富士山に一礼をするようにしている。なぜだか分からないけれど、富士山の雄大な姿には、頭を下げずにはいられない何かがある。

 湯船は真ん中に大きな物がひとつ、その両脇に小さめの物がひとつずつある。向かって左から『ぬるめ』『ふつう』『あつめ』と、それぞれの湯船には白いタイルに藍色の染付で湯加減が記されている。

 真ん中の『ふつう』の湯船には丸さんの他に二人ほどがゆったりと浸かっており、三人ともぼんやりと天井を眺めていた。僕は入口近くに積み上げておいた椅子とタライを手に取り、端っこのカランの前に落ち着いた。

 薬師湯ではボディシャンプーは橙色、シャンプーは緑色の大きなボトルに入れてあり、誰でも自由に使えるようにしている。頭をざぶざぶと洗い、ボディシャンプーを塗りつけた垢すりタオルで体を擦る。軽く股間などに湯をかける程度で湯船に浸かる人もいるけれど、せっかく綺麗な湯が張ってあるのに汚すのはもったいない。ごしごしと体を擦ると、それはそれでやっぱり気持ちがいい。

 シャワーで泡を洗い流すと、タオルをよく絞って湯船へと進んだ。五十歳ぐらいのよく日に焼けた人と入れ違いで湯船に入った。温度計を見れば、湯の温度は四十度でちょうど良い湯加減だ。肩まで浸かると、思わず「あーーっ」と声が漏れた。

「気持ちがいいだろう?」

 湯船の奥にどーんと腰を据えていた丸さんが声をかけてくれた。

「ええ、たまりません。でも、丸さんはどれぐらい浸かってるんですか? 暖簾をくぐられてから随分経つような気がしますけど」

「うん? そうだな時計を見てる訳じゃないから分からんけど。でも、まあ、まだまだ夜は冷えるから、しっかり体の芯まで温まらないと。うちにも風呂はあるんだけど、どうにもな。ちっこい湯船に丸まって入っても温まった気がしねぇ。そもそも、うちの女どもは三十八度とか、そんぐらいのぬるい湯に長々と浸かってらぁ。その方がじんわりと温まっていいんだと」

 丸さんはマズい物でも食べたかのように顔をしかめた。すると、少し離れた所で湯に浸かっていた別なお客さんが口を挟んだ。

「三十七度から三十九度を微温浴と呼び、四十二度以上は高温浴といいます。その間の四十度から四十一度が温浴です。微温浴は副交感神経の働きにより気分が安らぐ効果があります。対して高温浴は交感神経が刺激され血流が良くなりますから、筋肉などの疲労を癒す効果があります。いずれにしても、微温浴、高温浴ともに長短がそれぞれありますから、体調と相談して使い分けることが大切ですね」

「確かに。俺も、疲れが溜まってどうにもしんどいなって時は、隣のぬるい湯に浸かってぼんやりするようにしてる。すると、イライラしてたはずなのに気分が楽になって、その晩はよく寝られるような気がする。逆に、力仕事が立て込んで肩が凝ったなってな時は、熱い湯にガーンと浸かるとマッサージを受けたみたいに体が楽になる」

 そこへ、先ほど洗い場へと一旦出た男性が戻ってきた。首から上や肘から先は真っ黒に焼けているが、それ以外のところは真っ白だった。

「確かに、ここの『あつめ』に三分ぐらい我慢して浸かってると、筋肉が解れて体が楽になるのが分かります。だもんで、大きな仕事の後は、体の汚れをざっと落としたら、『あつめ』で思いっ切り体をイジメるようにして温めて、それからもう一度丁寧に体を洗う。で、その後、『ふつう』でのんびりして、最後に『ぬるめ』で呼吸を整えると本当に気分が良くなって、次の日も頑張れそうな気がしますね」

「なるほどな。まあ、人それぞれ好みの入り方があるだろうからな。他の客や店に迷惑をかけなければ、どんな入り方もお好み次第で構わないと俺は思うけどね。ああ、そうだ、蓮は二人に自己紹介を済ませたのかい?」

 丸さんが促してくれたお陰で僕は二人に名乗ることができた。

「田端です」

 お湯の温度について解説をしてくれた老人が名乗った。

「バタやんは大学の先生なんだよ」

 丸さんが口を挟むと「元です。名誉教授って肩書きをくれましたけど、あれの意味するところは『もう大学の運営に口を挟まないでください』ってことで、要するに若い連中からの三行半みたいなものなんです」と田端さんは唇を尖らせた。

「まあ、元でもなんでも俺たちからしたら考えられないぐらい頭のいい先生だってことに違いねぇからな。専門は経済学だったっけか? 東大を卒業してイエーイ大学とかってアメリカの大学で博士号をもらったりなんかして。政府の財政なんとか諮問会議の座長を長らくやったり。とにかく偉い人なんだよ」

 丸さんがしたり顔で教えてくれた。

「イエーイ大って……。正しくはイェール大です。母校の名前ですから訂正させてください。あとはどれもかなり誇張されてますから話半分に聞いておいてください。ああ、私のことはバタやんでお願いします。丸さんがつけてくれた綽名なんですけど、薬師湯で会う人はみんなそう呼んでくれます」

「最初さ、先生って呼んだら『やめてください。学校じゃないんですから』って怒る訳よ。でな、博士に変えたら『それもやめてください。バカ丸出しじゃないですか、博士って呼ばれて返事なんかしたら。鉄腕アトムのお茶の水博士じゃあるまいし』って。仕方がねぇからバタやんって綽名をこしらえてやったんだよ」

 そのやりとりを楽しそうに眺めていたもう一人が口を開いた。

「美しいに三本線の川で美川です、よろしく。地元で造園業を営んでて、祖父の代から薬師湯には世話になってるもんで、常連のみんなからは下の名前の義男って呼び捨てか、よっちゃんって呼ばれてる。君もよっちゃんで頼むよ。そう言えば、口の悪い丸さんに、俺は変な綽名をつけられなくてよかったよ」

「いやいや、あべこべパンダって綽名をつけかけたら『それは勘弁してください』って言ったじゃないか。忘れたのかい?」

「えっ! あれ、本当につけるつもりだったんですか? あぶねぇ、あぶねぇ」

 よっちゃんが大袈裟に驚いて見せた。思わずみんなの顔が綻ぶ。

「だってよ、首から上と肘から先だけ真っ黒で、他は真っ白なんだぜ」

 よっちゃんは大きな溜め息をついて首を振った。

「庭師ですからね、四六時中屋外で作業をしてますから、どうしたって焼けてしまいます。これでも顔なんかは日焼け止めを塗ってるんですよ。本当は夏場だったらTシャツに短パンで作業したいぐらい暑いんですけど、虫刺されや怪我を防止するために厚手の作業着をきっちりと着ておいた方が良いんです」

 よっちゃんの話に深く頷きながらバタやんが話を引き継いだ。

「昨今では、なかなか庭師さんに入ってもらうような個人宅は少ないでしょうからね。大半は神社仏閣の持ち庭ってことで、そうなると結界内での作業ですから肌を晒すのは御法度で、ちゃんとした服装で作業にあたらないとダメですから。ああ、薬師湯の庭は、よっちゃんが面倒を見てるんですよ」

 二人の話を楽しそうに見つめながら丸さんが僕に向き直った。

「いずれにしても、銭湯ってぇのは裸の付き合いをする所だ。見栄を張った身なりで格好をつけたとしても、ここではそんなハッタリは通用しねぇ。体は正直だ、ひと目見れば、どんな奴かはたちどころに分かる。だからよ、薬師湯に出入りしている奴をよーく観察しておけば、自然と人を見る目が養えるってもんだ。まあ、仕事をしながら客の一人ひとりをじっくり眺めるこった」

「はい」

 僕の返事に三人のお客さんは揃って頷いた。このまま、もっと話を聞いていたいけど、さっきからポツポツと洗い場のお客さんが増えてきた。そろそろ戻らないとオカミさんに迷惑をかけてしまう。僕は礼を言って湯船を出ると、固く絞ったタオルで水を拭い去り、脱衣所へと急いだ。

 体をしっかりと拭き、ドライヤーで髪を乾かすと汚れ物や使ったタオルをビニール袋に詰めてフロントに戻った。ふと柱時計を見やると、一時間が過ぎていた。

「すみません、長風呂になってしまって」

「ううん、大丈夫よ。お客さんと仲良くなるのも仕事のうちだから。早速、丸さんに可愛がってもらってるみたいじゃない? 人懐っこくて面倒見の良い人だけど、気に入らない人とは口を利かないから。とりあえず蓮君は合格ってことね」

 僕が半纏を羽織るのとは反対に、オカミさんはそれを脱ぎながら笑った。

「じゃあ、私は夕飯の支度をしてくる。何か困ったことがあったら電話を頂戴。予定では六時半ごろにはユーちゃんが帰ってくるし、葵ちゃんも七時には戻るって言ってたわ。どちらかが夕飯を済ませたら交代してもらうから、悪いけどそれまで頑張ってね」

「はい、分かりました」

 僕の返事を確認すると、オカミさんはフロントから出て行った。

 六時を過ぎると急に客が増えてきた。なかには子どもを連れたお母さんやお父さんといった人たちが何組か暖簾をくぐり薬師湯は一気に賑やかになった。僕がフロントに立って少しすると、丸さんとバタやん、それによっちゃんが出てきた。

「ビールもらうよ」

 丸さんは小銭をフロントに置くと、冷蔵ショーケースから缶ビールを取り出した。するとバタやんも「じゃあ、私もいただこうかな」と小銭を差し出した。「ちょっと羨ましいけど、俺はコーヒー牛乳で我慢しておこう」とよっちゃんは瓶を手に取った。

「なんだ、よっちゃんは仕事が残ってるのかい?」

「いや、まあ、仕事ってほどでもないんですけど……。知り合いから坪庭を直して欲しいって頼まれてまして。作った当初から日当たりが期待できないのは分かってたんで丈夫な品種を選んで植えてたみたいなんですけど、最近になって近所にマンションができた影響なのか風通しまで悪くなったみたいで、長年元気だった植栽がダメになってしまったらしいんです。で、ゼロからやり直すつもりで提案してくれって。で、まあ、デザインというか設計をやろうと思いまして。なので酒はお預けです」

「なるほど、植物は育ちますからね。その経年変化を頭に置いてデザインするとなると、難しいでしょう。お酒を飲みながらする仕事ではありませんね」

 バタやんの言葉に丸さんが深々と頷いた。

「まあ、俺ら隠居組が現役バリバリに気兼ねしても仕方がない。せいぜい、よっちゃんの分まで飲んでおくよ」

 丸さんとバタやんが軽く缶を掲げて乾杯した。よっちゃんは小さく笑いながら腰に手を当ててコーヒー牛乳を一気に飲み干した。

「負け惜しみ抜きで、やっぱり風呂上りのコーヒー牛乳は美味いです」

 空き瓶を回収箱にそっと置くと「お先に」と声をかけて出て行った。その後ろ姿を見送りながら丸さんがバタやんに声をかけた。

「一局やるかい?」

 指先は何かを摘まむような仕草だった。

「いいですね、やりましょう」

 バタやんは「借りますよ」と、フロント横の棚に置いてあった将棋盤と駒の入った箱を手に取った。すでに丸さんは奥の方の椅子とテーブルに陣取っている。すぐに将棋盤を広げ駒をならべはじめた。どれぐらいの時間を要するのか分からないけれど、湯上りの体を休めるのにちょうど良いのだろう。

 ケロから教えてもらったけれど、薬師湯は三年ほど前に大幅な改築を行なった。以前は番台を設えた昔ながらの造りだったが時代に合わないとオカミさんが判断し、フロント形式に改めた。その際に男湯・女湯それぞれの脱衣所を三分の一ほど削り、庭に面する部分は男女共用の休憩スペースとしてみんながくつろげる場所に作り変えた。

 男湯・女湯それぞれに置いてあった椅子や縁台などは全て休憩スペースに移され、飲み物やアイスクリームなどの冷蔵冷凍庫などもフロント脇に移動させた。お陰で改築以前は夫婦やカップルで湯を使いにきても、先に上がった方は外で待っていなければならなかったが、今は休憩スペースがあるので湯冷めなどの心配もない。

 さらに湯上りにゆっくりしてもらうべく、オカミさんは雑誌や新聞を用意し、またお客さん同士が仲良くなる切っ掛けになればと将棋やボードゲームなども置いてある。

 また、中野に縁のある噺家の卵を応援するべく、毎月十八日に「薬師湯寄席」を開いている。二つ目以下の若手を中心に五人程度がやって来て、それぞれ二つぐらいの演目をかけるそうで、休憩を挟んで二時間ぐらいは楽しめる。入浴料を払ったお客さんなら、誰でも無料で楽しむことができる。

 そんな工夫もあってか、薬師湯は昔ながらの常連客に加えて、中野駅周辺や新井薬師に訪れる観光客なども立ち寄る人気スポットになりつつあるそうだ。

 ケロ曰く「外国からのお客さんも多いから。日本語が分からない人も多いけど、慌てないでゆっくりでいいから、丁寧に応対してあげるんだよ」とのことだった。

「僕、英語、苦手なんですけど……」

 実際、大学入試でも英語で相当に苦しんだ。

「あのね、日本語ができる外国人なんて滅多にいないよ。だいたい公用語が英語じゃあない国の方が多いんだから、相手だって片言の英語だったりするんだ。発音なんかカタカナ英語で何の問題もないよ。気にせずドンドン知ってる単語をならべて、後は身振り手振りで何とかなる」

 ケロほどのコミュ力ならそうだろうけど……と思っていると、表情に出てしまったのか僕の顔を指さしてケロは笑い出した。

「なんか、その顔は『弱ったなぁ……』ってのを絵に描いたような表情で面白いよね。スタンプにしてLINEで使いたいぐらい。まあ、とりあえず、アンチョコを用意してあるから安心しな」

 ケロがフロントカウンターの引き出しから取り出したのは、A4サイズのプラスチックケースだった。中には色んな言語で薬師湯の接客に必要となりそうな言葉が書いてあった。しかもご丁寧にもカタカナでフリガナまで振ってある。

「凄っ……、誰が作ったんですか?」

「ユーちゃん。彼女、こういうことは本当に上手なんだ。そもそも、サブカルショップの店員として海外からのお客さんを相手にするのに慣れてるからね。この辺は彼女の言うことを聞いておけばほとんど間違いない。でさ、とりあえず何語が通じるのかさえ分かれば、あとはその言語で書かれたプリントを渡せば万事OK」

 同じ引き出しから取り出したポケットファイルには「英語」「ドイツ語」「フランス語」「中国語」「ハングル(韓国語)」「タイ語」「インドネシア語」など、丁寧な見出しがつけてあり、それぞれのポケットには銭湯での入浴マナーがイラスト付きで書かれたパンフレットが用意されている。

「へぇ……、本当に便利ですね」

「とりあえず『Where are you from?』って聞くことだね。この時に自分の英語力に合わせた発音にすることが大事だよ。大して喋れないのに流暢なふりをして喋っちゃうとその後が大変。英語が分かる人だと思われてワーッて話しかけてくるから。苦手なら苦手ってことが相手に伝わるように、はっきりとカタカナ英語で『フェア、アー、ユー、フロム』って言った方がいいだろうね。そうすれば相手もゆっくり、ハッキリ話してくれる場合が多いから」

「はぁ……、僕が一人でフロントにいる時に外国のお客さんが来ないことを願います」

 そんなことをぼんやりと思い出していると、いかにも欧米からの観光客といった感じの人が暖簾をくぐり薬師湯に入ってきた。

「コンニチワ」

 彼は少し緊張したような表情で覚えたばかりといった様子の日本語を口にした。手にはスマホがあり、どうやら旅行者の口コミサイトを頼りにここへ来たようだ。

「あっと、えっと、はっ、ハロー」

 中学、高校それに浪人時代の二年を合わせたら八年間も英語を勉強してきたはずなのに、やっぱり何にも出てこない。慌ててケロに教えてもらったアンチョコを探すけれど、こんな時に限ってどこに行ったのかでてこない。

「Welcome to Yakushiyu! Are you by yourself?」

 不意に横から英語が聞こえてきた。見ると、そこにはユーちゃんの姿があった。ユーちゃんはマレーシア出身だけれど、中国系の家柄だからか、パッと見たところ外見は僕たちとあまり変わりはない。しかも独学で身に付けたという日本語は声優を目指しているだけあって、発音も完璧で、なんなら僕よりも滑舌がいい。

 ユーちゃんは僕に小さく頷くと、その客の応対を引き継ぎ、淀みのない英語で入浴料などの説明を始めた。時おり冗談でも挟んでいるのか、僕のぎこちない様子に引きつっていた客の表情も少しばかり柔らかくなったようだ。

 カードで入浴料とタオル代を決済すると、銭湯でのマナーを英語で記したパンフレットを渡し「Enjoy your time and get warmed up in the Yakushiyu!」と言い添えた。

「アリガトウ」

 彼は深々とお辞儀をすると、『男湯』の暖簾をくぐっていった。その後ろ姿が見えなくなると、僕はユーちゃんに頭をさげた。

「助かりました、ありがとうございます」

「どういたしまして。慣れだから、接客も外国語も。じきに蓮もできるようになるよ」

 ユーちゃんはカウンターの戸棚から自分の半纏を取り出すと羽織りながらやさしく応えてくれた。

「そうかなぁ……。あの、ユーちゃんにとって日本語も外国語なんですよね?」

 ちらっと僕を見やると噴き出した。

「『日本語も外国語』って、ちょっと変。それに私に敬語を使うのは止めてよ。薬師湯で働く四人はみんな仲間なの、変に先輩・後輩って上下関係を作らないって決まりがあるの知ってるよね? ああ、オカミさんとシゲさんは別だけど。あの二人にはお世話になってるからね。でも、居候の四人は基本的に平等だから変に気を遣わないで」

「はぁ……」

「まあ、その謙虚な姿勢が蓮の良いところなんだろうけど。あのね、日本に来る海外からの観光客のうち、英語が母国語の人なんて二割ぐらいだよ。一番多いのは韓国からのお客さんで約三割、それと中華圏の国や地域から約二割、この二つで半分ぐらい占めるの。だから相手もほとんどの人は片言の英語なんだから、お互い様よ。一生懸命に相手の言ってることを理解しようと努力して、こっちもなんとかして伝えようって頑張れば、それで何とか通じるから。契約書を交わすような大きな商談でもないんだから。一期一会ってことを忘れずに真摯に応対すれば、それでいいと私は思うけどな」

 その通りだけど……と思っていると、パチパチパチと小さな拍手が聞こえてきた。

「ユーちゃんの言う通りですよ」

 傍らには将棋盤を手にしたバタやんと丸さんが立っていた。

「言葉はね、品物を包む包装紙のようなものです。どんなに立派に飾り立てても、そこに収めるべき品物が陳腐では話になりません。目一杯の思いやりさえあれば、どんなに不格好でも十分なのです。もちろん、しっかりとした中身もあって、さらにそれに見合った言葉があれば最高ですが、見てくれに気を取られて大切なことがおざなりになっては本末転倒です」

「散々英語で論文を書いてきたバタやんが言うんだ、間違いねぇよ。まあ、とにかく薬師湯はマナーさえ守れば誰でも歓迎するっていう銭湯だ。聞いた話だけど、常連客に気を遣うあまり外国人や一見客はお断りってな狭い料簡の銭湯もあるらしいじゃねぇか。寂しいねぇ……、旅に疲れた人に湯も貸せねぇってのは、同じ日本人として恥ずかしいぜ、俺は」

「まあ、でも、銭湯の利用マナーを知らない客が増えることに不安を覚える人の気持ちも分からなくはありません。だからこそ常連の私たちがご存じでない方たちにやさしく教えてあげないと。この前も海パンをはいて湯船に浸かろうとした人がいたから教えてあげました。その様子を随分と驚いた表情でご覧になっていた方もいましたが、無理もないんです。だってヨーロッパの方のパブリックバスでは、そのほとんどが水着着用がルールなんですから。そんな訳で、誰だって悪気なんかないんですよ」

 バタやんは戸棚に将棋盤と駒の入った箱を戻しながら丸さんの言葉を引き継いだ。

「ま、てなことで、蓮にとっては初めての外国人のお客さんで冷汗をかいたかもしれないけど、早く慣れるこった」

 僕は照れ笑いをして頷くのが精一杯だった。

「じゃあな、おやすみ」

「今日も良い湯でした。おやすみなさい」

 二人が仲良く暖簾の外へと出て行く姿を僕とユーちゃんは見送った。

「さ、今のうちに蓮も夕飯を食べておいで。今日の献立は鰤大根だよ。もうね、大根にお出汁がシミシミで気絶しそうなぐらい美味しかった。それに鰤の粗にはたっぷり身がついてて食べ応えがあって」

「マレーシアの人って魚を食べるんですか?」

「地域によるけど、あんまり食べないかな。海に囲まれてるってところは日本と同じなのにね。でも、私は日本食が大好きだから、食べられないものは全くない。あっ、蜂の子とイナゴの佃煮だけはダメ。あれはビジュアル的に無理だわ」

 ユーちゃんは顔をしかめた。その顔は相当の変顔で笑ってしまった。

「でも本当に食事に行っちゃって大丈夫? さっきのお客さんが困ったりしたら、男の従業員がいた方がいいんじゃない」

 お腹は空いたけど、仕事を放り出す訳にも行かない。

「大丈夫よ、周りのお客さんに助けてもらうから。それに、どうしようもなくなったら電話で呼びだすから。走って戻ってくればいいだけじゃん」

「はぁ……、じゃあ、まぁ、お言葉に甘えて」

 僕は半纏を脱ぐと畳んでカウンターの戸棚に仕舞った。

「はい、ごゆっくり」

 僕が離れるのと入れ違うようにして女性客が二人ほど暖簾をくぐった。

「いらっしゃいませ」

 ユーちゃんは可愛らしい声で客を出迎えた。それを背中で聞きながら、僕は寮の食堂へと急いだ。

「あれ、蓮もこれから夕飯なの?」

 ガラス戸を開けると、葵ちゃんが「いただきます!」と手を合わせるところだった。

「うん、ユーちゃんが来てくれて代わってもらったところ」

 不思議と葵ちゃんとは普通に話ができる。理由は自分でもよく分からないけれど。

「あら、お疲れ様。すぐ用意するから、ご飯とお味噌汁は自分でよそって頂戴」

 台所と食堂を隔てる暖簾から顔を出してオカミさんが声をかけてくれた。食堂の大きなテーブルの隣には、炊飯ジャーとスープ用の保温器があり、食べる人が食器棚から自分の茶碗とお椀を出して好きなだけよそうことになっている。ちなみに、使った食器は自分で洗い、布巾で拭いて食器棚に戻すルールになっている。

 丼と見まがうほどの大きな茶碗一杯にご飯をよそい、味噌汁もたっぷりとお椀に注ぐ。今日の具は長ネギと油揚げだ。

「はい、お待ちどおさま。今日は鰤大根よ。魚正さんが鰤の粗をたっぷりと取っておいてくれたから。粗って呼ぶには、ちょっと身が残り過ぎて、こんなのでソロバンが合うのかしらってぐらいなんだけど。お代わりもあるから、たくさん食べてね」

 大振りの鉢に大根と鰤がゴロゴロと入っている。別に用意された小鉢は、小松菜の和え物に白菜漬けだった。

「いただきます!」

 僕が手を合わせると「はい、召し上がれ」と応えてからオカミさんは台所へと戻って行った。

 まず味噌汁の椀を手にした。しっかりと出汁が利かせてあり、しみじみと美味い。朝と晩、必ず用意してくれるけれど、何回口にしても美味いと思う。

 お椀を置くと、早速、大根に箸を差し入れた。大して力を入れた訳でもないのに、スッと下まで通り、軽く押すだけで半分に切れた。もう半分に切ると、茶碗で滴る汁を受けながら口へと運ぶ。ふくんだ瞬間、やわらかな出汁の旨味に包まれた大根の味が口一杯に広がった。そっと噛むとほど良い弾力を感じさせながらも、崩れるようにして喉の奥へと流れ落ちていった。

「ああ……」

 思わず溜め息のような声が零れた。続けて粗に箸を向けると、骨の間に挟まっていた肉がポコリと外れた。刺身ひと切れ分はありそうな大きさのそれは、脂がのっていて濃厚な美味さがある。それでいて新鮮だからか、生臭さは微塵もない。

 ガツガツと食べ進む僕を眺めながら、葵ちゃんが小さく笑った。

「そんなにお腹が空いてたの?」

 僕は口をもぐもぐさせながら小さく首を振った。

「ううん、そういう訳じゃないけど。でも、オカミさんの料理は本当に美味しくて、食べ始めると止まらなくなるんだ。本当はもっとゆっくりと味わった方が良いんだろうけど。箸が勝手に走り出すというか、暴走するというか。とにかく止まらないんだ」

「きっとオカミさんは蓮みたいな食べっぷりが嬉しいと思うよ。私も女子にしては、食べる方だと思うけど……。まあ、ユーちゃんには遠く及ばないにしてもね。四人のうちで一番食べないのはケロちゃんかなぁ。本当は、この鰤大根もケロちゃんに食べてもらいたくて作ったんだと思うけど」

「ケロの好物なの? 鰤大根」

「ううん、そういう訳じゃないけど。オカミさんは栄養のバランスを第一に考えつつ季節を感じられるものや、縁起物なんかを折々に取り交ぜて献立を考えてくれてる。ちなみに冬になると必ず鰤大根を出してくれるの。ほら、鰤は出世魚でしょ?」

 僕は大振りの鉢に盛られた鰤の粗をしげしげと見た。

「薬師湯の寮に来てくれた人たちが出世できますようにって。特にケロちゃんとユーちゃんは、それぞれアーティストや声優として成功したいっていう明確な目標があるんだけど、どうにも今ひとつ運に恵まれないところがあって」

 そんな想いが込められた料理だなんて知らなかった。ただ単に「美味い!」とばかりに馬食していた自分が少し恥ずかしくなった。

「まあ、とにかく、たくさん食べてしっかり働くことが一番大切かな。だから、食べましょう。食べ終わったら、蓮は釜場のシゲさんと交代してあげて。もう、お湯は安定してると思うけど、誰も見張り番が居ないのは危ないだろうから」

「うっ、うん。そうだね」

 そんな話を聞いたからだろうか、鰤大根はもちろん小鉢や味噌汁、炊いたばかりのご飯といった全てが一層滋味深く感じられた。

 食器を片付けて表に出ると、月は煌々と輝き星が瞬いていた。

「シゲさん、お待たせしました。釜場の見張り番を代わります。夕飯をどうぞ」

「おお、すまん。さっき、薪を足したところだから、特にすることはないけど、様子がおかしくなったら、すぐに携帯で呼んでくれ」

「はい。今晩のおかずは……」

 僕が言いかけるとシゲさんは手で制した。

「見るのが楽しみだから言うな! っていうか台所から漂う香りで見当はついてる。それが当りかどうか確かめるんだ」

 シゲさんは軍手と前掛けを外すと、寮へと早足で歩いて行った。

*  *  *

三月二十日(金)  天気:晴れ 記入:手塚蓮

 昨日に引き続き「薬師湯」の仕事を手伝う。手伝うというよりも邪魔しているという方が正しいかも。慣れないことばかりで冷汗をかきっぱなし。覚えることがたくさんあるのに、あれもこれも、オカミさんやシゲさん、それに寮のみんなに助けてもらい、なんとかこなせている状態。早く何とかしなきゃと思うけど……。

 特に今日は外国からのお客さんへの対応でパニックになりかけた。危機一髪のところでユーちゃんが助けてくれたから良かったけど。もう少しちゃんと練習して、最低限のことはできるようになろうと反省した。

 良かったこととしては、お客さんが少ない時間に湯船に浸からせてもらったこと。丸さんにバタやんとよっちゃんを紹介してもらった。薬師湯の常連さんはみんな良い人で、色々と話を聞かせてもらう。バタやんは元大学の先生で、よっちゃんは庭師さんだと言ってたけれど、丸さんは何をしている人だろう? オカミさんに尋ねたら「そのうちに分かるわよ」と教えてくれなかった。謎過ぎる……。

 今日の晩御飯は鰤大根! 味がしみしみの大根に身がたっぷりとついた粗と、味はもちろん食べ応えも満点! 今日も満腹になりました。明日は何かな? 楽しみ!

*  *  *

「本当にこれで全部か? 忘れ物はないだろうな」

 手にしていたものをリアカーに載せ、あらためて確認するように積み込んだ荷物を眺めながらシゲさんが葵ちゃんに声をかけた。

「えーっと、お料理はこれで全部。敷物とか飲み物はちゃんと積んだ?」

「うん、大丈夫。確認した」

 葵ちゃんの問いにケロが答える。

「ちょっと! テーブルに紙皿と割り箸が残ってた。もう、手づかみで食べることになるとこじゃん」

 大きな紙袋を掲げてユーちゃんが出てきた。「わりぃ、わりぃ」と軽く応じながらケロが受け取ってリアカーに載せる。

「はいはい、さあ、みんな行きますよ」

 最後にオカミさんが出てきて戸締りをした。

「それもリアカーに載せましょうか?」

 オカミさんが肩から提げていた大きなトートバッグを僕は指差した。

「ううん、これはいいの。ありがとう」

 オカミさんを先頭にユーちゃんと葵ちゃん、その後ろにリアカーがつづく。ケロがハンドルを引き、僕が右後ろ、シゲさんが左後ろからリアカーを押す。

「しかし、今年も上手い具合に晴れの日を選べたもんですね。見事な日本晴れ」

 シゲさんが空を見上げて呟いた。確かに雲ひとつない。

「そうねぇ、悩んだ甲斐があったわ。けど、覚えている限りだけど、雨が降ったことは一度もないかも。予想外に開花が早くて、ほとんど散っちゃったことが何度かあったけど……。でも、だいたいは晴れてたかな」

 ちらっと振り向いてオカミさんが答える。

「そんなに前からやってるんですか? 薬師湯の花見って」

「ああ、俺が世話になる前からだから。もう何十年も前からになる」

 僕の問いにシゲさんが答えてくれる。

「記念写真のアルバムを持って来たから、あとで数えてみるといいけれど、多分、四十枚は軽く超えてるわ」

 そんな話をしているうちに中野通りに出た。通りの桜はどれも満開で、風にそよそよと花びらが舞っている。

「またこちら側に戻ってこないとダメだけど、天神様にお参りしてから行こうと思うの。いいかしら?」

 新井五差路の交差点でオカミさんがふり向いた。

「そうですね、そうしましょう。大将が元気だったころも、花見の前には必ず北野神社を参拝してから哲学堂に向かったものです」

 殿を務めるシゲさんが声を張って返事をした。

 信号が変わるまで、みんなでぼんやりと並木を眺めた。頬を撫でる暖かな風は、ほんのりと桜の香りがして、ただ立っているだけなのに幸せな気持ちになれる。

 歩行者用の信号が青に変わるのに合わせてリアカーを押し出した。ケロ、シゲさんと力を合わせて一生懸命に押し進めたけれど、通りの真ん中あたりで信号が点滅し始めた。少しばかり慌ててなんとか赤に変わる前に渡り切った。

「意外と変わるのが早いですね。普段は全く気が付きませんでしたけど」

「ああ、俺もそう思う。一度、都議会議員の先生に『もうちょっと、年寄りのことを考えて、ゆっくり目にしてもらえませんかね?』ってお願いしたことがあるけれど。一応、調査をして渡り切れる長さにはなってるらしい。でも、なぁ。信号が点滅し始めると気が急いて……。慌てた挙句に転んで怪我するようなことにならなければいいけどっていつも思うよ。なんせ俺だって十分に年寄りだからな」

「シゲさんは別格でしょう? たぶんだけど百歳になってもピンピンして、釜場を守ってるような気がするよ」

 ケロが前を向いたまま口を挟んだ。

「だと、いいけどな……」

 普段なら憎まれ口には憎まれ口で返すだろうに、シゲさんは短く応じただけだった。

 数年前に境内を大幅に改築したという北野神社は、参拝者の姿もまばらで静謐な空気に包まれていた。境内の端の方にリアカーを置くと、六人揃って鳥居の前で一礼をし、オカミさんを先頭に参道を進んだ。

 最近、丸さんに教えてもらったのだが、北野神社は新井地区一円の総鎮守で、文武両道の神とされる菅原道真公を御祭神としていることから新井天神とも称されている。創建された正確な年代は明らかではないそうだが、十六世紀の天正年間に新井薬師の開祖である沙門行春というお坊さんが建立したとの謂れもあるそうで、地元の人たちからは鎮守社として長らく親しまれている。ちなみに境内には「新井」という地名の由来ともなった井戸が今も残っているそうだ。

 それぞれに賽銭箱に小銭を落とし、オカミさんに合わせて二礼をし、柏手を二つ打つと、皆一様に目を瞑り手を合わせた。

 ここ数年、神社やお寺にお参りすると、お願い事は決まって「大学に合格しますように」だった。そんなお願いをもうしなくて良いかと思うと、少しばかりホッとする。けれど、そうなると頼むことがない。少しばかり迷ったけれど、結局「元気に楽しく過ごせますように」とお願いして顔をあげた。

 周りを見渡すと、僕以外の人はみんな手を合わせて目を瞑ったままだった。そーっと、列から離れて参道の脇でみんなを待った。ケロ、ユーちゃん、葵ちゃん、シゲさんの順で列から外れ、最後までお願い事をしていたのはオカミさんだった。

「ごめんなさい、お待たせしちゃって」

 顔をあげると、待っている僕たちをふり向いて恥ずかしそうに笑った。

「ううん、大丈夫。でも、随分と熱心に、何をお願いしてたの?」

 ユーちゃんがオカミさんと腕を組んで尋ねた。その甘えるような姿は、まるで実の娘のようだ。

「うん? 何時もと一緒よ。薬師湯のみんなの夢が叶いますように。それまで、毎日元気で楽しく暮らせますようにって。月並みだけど、そんなことぐらいしかお願いすることが私にはないもの」

「えーっ、なんかもっと自分のお願い事とかってないの? 宝くじで一等が当たりますようにとか、素敵な男性との出会いがありますようにとか?」

 ユーちゃんの問いにオカミさんは大きな声で笑った。

「宝くじかぁ……、ここ何年も買ってないわ。そうね、一等が当たったら薬師湯をあれこれと大幅に改築できるわね。みんなの部屋も、もう少し綺麗にできるかも。それ、いいわね。そっか、今度買ってみるね」

「なんだ、結局、薬師湯とか私たちのために使うんだったら、意味ないじゃん?」

 ユーちゃんがぶら下がるようにしてオカミさんの手をぶんぶんと振った。

「うーん、でも、なんか、ちょっと嬉しいかも。やっぱりオカミさんに世話を焼いてもらうの、嬉しいもの」

 葵ちゃんが空いている方の手をつないだ。

「いい歳して、甘えん坊の赤ちゃんみたいだな」

 ケロが呆れた顔をした。

「あっ? ケロもオカミさんと手をつなぎたかった?」

 葵ちゃんがからかうような声をあげた。

「葵がこの重たいリアカーを引っ張ってくれるなら、交代するけど?」

 ケロが唇を尖らせながらリアカーのハンドルを握った。

「はいはい、みんな仲良くしてちょうだい。さあ、行くわよ」

 鳥居の前で一礼すると、ひょうたん池を左手に眺めながら西武新宿線に向かって真っ直ぐ進む。

 車が通り過ぎるたびに桜の花びらが舞い、その花吹雪の中を進むのは何とも心地よい。まるで舞台役者にでもなったような気分だ。

「座ってじっくりと眺める桜もいいけれど、やっぱり桜並木の下をゆっくりと歩くのも捨てがたいわね」

「ええ、そぞろ歩きをしながら桜を愛でてるだけなんですけど、なんだか満ち足りた気分になります。これから向かう哲学堂の桜は腰を据えてじっくりと眺めるべき桜だと思います。対して中野通りの桜は歩きながら楽しむのがぴったりです。その理由はよく分かりませんけどね」

 先頭のオカミさんの声に、シゲさんが応える。

 緩やかなカーブを過ぎると西武新宿線の線路を跨ぐ。踏み切りに向かって少しばかり勾配がきつくなり、腰を入れて押さなければリアカーが前に進んでくれない。

 この線路も数年後には地下に移されると聞いている。急いでいる人にとって踏み切りは厄介な存在だと思うけれど、僕は通り過ぎ行く電車を眺めるのが好きだ。なので正直に言うと少しばかり残念に思う。

 この前も、散歩の途中で踏み切りを通り過ぎる西武新宿線をぼんやりと十分ぐらい眺めていた。僕の隣には、近所の保育園からのお散歩途中といった様子の小さな子たちが何人かいた。みんな保育士さんの言うことをよく聞いて、通りの隅にちゃんと一列にならんでいる。その子たちと一緒になって、電車に手を振ると、時々応じてくれる車窓がある。それが嬉しくて、子どもたちと何本もの電車に手を振った。

 踏み切りを越えると、車道も歩道も少しばかり幅が広がったような気がした。途中で横断歩道を渡って通りの反対側に戻ると、ほどなくして哲学堂公園にたどり着いた。

「荷物運びの応援を呼んでくるから、ケロと蓮はここで待ってろ」

 シゲさんは自分の手で積み込んだ荷物を肩にかけ、大きなビニールシートを小脇に抱えると、哲学堂へと入って行った。

「そうね、まずは荷物を運び入れましょう。二人はリアカーの番をお願いね」

 オカミさんとユーちゃん、葵ちゃんはそれぞれ料理の詰まった風呂敷包みを両手で大事そうに抱えてシゲさんの後を追った。

 遠ざかる背中を眺めながらケロはリアカーに寄りかかり、スマホを取り出した。

「今年は去年より十日も遅いんだな」

 液晶画面をいじりながらケロは小さく頷いた。今日は三月最後の日曜日だ。

「花見が?」

「うん、毎年二月の終わりごろになると、オカミさんとシゲさんは天気予報ばかり見るようになるんだ。開花日とか満開になる時期とかの予想を天気予報でやるだろ? あちこちの予想をメモに書き留めて、今年の花見を何時にするのか決めるんだ。年によって咲く時期は二週間前後ズレるからね、難しいと思うよ。散ってしまったら花見にならないし、かと言って蕾ばかりじゃあ雰囲気がでないし」

「ふーん、そうなんだ。ケロは今年で何回目なの?」

「三回目。知らない人ばっかりで気を遣うと思うけど。でも、みんないい人だから」

 そんな話をしているとシゲさんが応援の人を連れて戻ってきた。手分けをして荷物を空にすると、荷台の蝶番を緩めて半分に畳み、持ち上げて狭い入口を通る。

 ちょっとばかり細い道をリアカーを担いで抜けると広場に出た。午前中のまだ早い時間だというのに、あちこちに敷物を広げた大勢の人で賑わっていた。

 広場の奥には川があり、その近くのひときわ大きな桜の木の下にオカミさんを囲んで人の輪ができていた。ざっと見た感じ三十人を超えている。

 畳んだリアカーをそっと置くと、僕とケロも車座に加わった。

「おう、みんな揃ったな」

 僕らが腰を下ろしたのを確かめるとシゲさんは「じゃあ、始めましょうか」とオカミさんに声をかけた。オカミさんは小さく頷くと、トートバッグから紫の風呂敷包みを取り出した。話をしていた人たちが静まり、オカミさんの手元をじっと見守った。

 結び目が解かれた風呂敷包みからは額に入った写真が一枚でてきた。四十代半ばぐらいだろうか、にこやかに笑う男性の写真だった。少しばかり眺めると、オカミさんは桜の木に写真を立てかけた。

「あなた、今年もみんなが集まってくれましたよ」

 みんなの視線が写真に集まった。僕は小声でケロに尋ねた。

「誰なんです?」

「オカミさんの旦那さん。確か二十年ぐらい前に亡くなったって言ってたかな。だから俺も会ったことはないよ」

 五十歳ぐらいのおじさんが「大将!」と写真に向かって声をかけた。その隣に座っている女性は目元をハンカチで押さえた。

「欣ちゃん、ありがとう。りっちゃんもね」

 オカミさんが声をかける。

「さあ、とりあえず乾杯しよう」

 シゲさんの呼びかけに、ケロが目配せをして腰をあげた。僕は慌てて缶ビールの入った段ボールを開け、配ってまわる。その間に葵ちゃんとユーちゃんはお料理の詰まった重箱やプラスチックケースを広げ、紙皿と割り箸を配る。

 広げられた大きな重箱には、オカミさんやユーちゃん、葵ちゃんの手料理がぎっしり。唐揚げに玉子焼き、筑前煮、太巻きに稲荷寿司、小振りなおにぎりもあれば、サンドイッチやポテトフライまである。どれも美味しそうだ。

「みんな行き渡ったか? 大丈夫だな? じゃあ、オカミさん、お願いします」

 オカミさんは深く頷くと口を開いた。

「みんな、今日は集まってくれてありがとう。鈴原も喜んでいると思います。みんなもよく知ってるように、鈴原はお花見と花火が大好きでした。でも、それはきっと、みんなに集まってもらって、賑やかにするのが楽しかったんだと思います。なので、亡くなってからも、こうやってみんなが集まってくれることが一番の供養になると思います。忙しいだろうに、来てくれて本当にありがとう……。しんみりすると鈴原は機嫌を悪くすると思います。みんなたくさん食べて、いっぱい飲んで楽しくやりましょう。では、あらためて、皆さんの健勝を祈念して、乾杯!」

 大勢が心を合わせて乾杯を唱和すると、こんなにも心に響くのかと驚いた。これまでも乾杯の場面に出くわしたことはあったけど、もっとふわっとして、特に心に残ったことはなかった。

 飲み物のお代わりや料理を配ったり、空き缶やゴミなどを集めて回ったりと、あんまり腰を落ち着けて飲み食いはできなかったけど、そのお陰で参加している人たちと話をすることができた。みんな薬師湯の卒業生ばかりで、一番年上の人は僕の父親と同い年だということが分かった。ひとり卒業すると、新しく誰かが加わり、また誰かが抜けて……、そんな緩やかな入れ替わりをくり返しつつ、こうやって年に一回の花見にみんなが集まってくるという。その温かな輪に僕も加えてもらったことになる。

 三十分ぐらい過ぎたころだろうか、シゲさんが声をあげた。

「さっ、あんまり飲み過ぎて訳が分からなくなるまえに、大将とオカミさんに近況報告をしてもらおうか。毎年のことだから分かってると思うけど、発表は年功序列。ってことで、今年のトップバッターは欣二、お前だ」

 シゲさんに指名されたのは僕の父と同い年くらいのおじさんだった。

「うーん、顔ぶれを見て、しまったと思ったんだよ。なんで今年は忠さん居ないの?」

 ぼやきながら欣二さんは立ち上がった。

「忠は痛風の発作でドタキャンだよ」

 シゲさんがそう答えるとみんなが笑った。どうやら毎年のトップバッターは忠さんという人らしい。

「えーっと、野村欣二です。平成元年に薬師湯を卒業しましたから、かれこれ三十年以上前になります。今は小さな会社を営んでいます」

「小さくなんてないでしょ? 何十人も社員を抱えて何を言ってるの。変な謙遜はダメよ。小さな所帯ってのは、薬師湯みたいなところを言うの」

 オカミさんがきっぱりと突っ込んだ。けれど、その声は温かく、つられて、みんなが笑った。

「自分でも不思議です、俺みたいなちゃらんぽらんな奴が曲がりなりにも会社を経営しているなんて。それもこれも、大将が根気よく仕込んでくれたお陰です。掛け算もまともにできない、漢字もろくすっぽ書けない俺に付きっ切りであれこれたくさんのことを教えてくれました。洗い場のタイルをブラシでこすりながら何百回も九九を言わされたっけ……。今でも夢に見ます。言い間違えてブラシの柄で頭を小突かれるのを。でも、夢でも会いたいです……。ああ、湿っぽいの大将は嫌いだったから、叱られちゃいますね。オカミさん、今日はお招きをいただき、ありがとうございました」

 一言ひとことを絞りだすようにして話し終えると、欣二さんは深々と頭を下げた。シゲさんが柏手を打つような大きな拍手をすると、みんなも手を叩いた。

 欣二さんは腰を下ろすと隣に座っていた女性の肩を叩いた。

「ほら、次は律子だろ?」

「えーっ、欣ちゃんの次に話すと歳がバレるじゃない」

 律子さんはそう言って笑いながらも腰をあげた。

 みんなは話をする人を見つめてじっと耳を傾けている。法事や親戚の結婚式の披露宴、それに部活のOB会など、大勢が集まる席に何度か呼ばれたことがあったけど、誰かが話をするからといって、みんなが静かに聞いているなんて、これまでに見たことがなかった。きっと、オカミさんやシゲさんが真剣な顔をして聞いているから自然とみんなも真面目に聞くようになるのだろう。

 律子さんも薬師湯を卒業した年を言い、近況を短く伝えた。若く見えるけれど、もう二人も孫がいるという。オカミさんは「そうそう、とっても可愛い赤ちゃんなの。りっちゃんの年賀状を見て毎年癒されてるわ」と口にした。

 話し終えると、自分より年下の参加者を指名するようにして次々と近況報告は淀みなく続いた。気が付けば僕が薬師湯に入る前に二階の二号室に住んでいたという人の番になっていた。

「木原仁です。先月、薬師湯を出て卒業生の仲間入りを果たしました。四月からは大阪で働くことになっています。関西にお住まいの方もいらっしゃるようなので、あとでLINEの交換をお願いします。薬師湯は毎日オカミさんの手料理が食べられて幸せでした。けど、来月からは初めての一人暮らしで僕はきっとひもじい思いをするに違いありません。腹が減って死にそうになったら訪ねて行きますので、その時は何か食わせてください。よろしくお願いします」

「だから、時々でいいから台所も手伝いなさいって言ったのに……。不器用だから僕には料理なんて無理ですって逃げて回るから、困ることになるのよ」

 オカミさんが呆れた声をあげ、みんながどっと笑う。

「さっ、じゃあ、現役生も挨拶をしな」

 シゲさんが促すと「はい! じゃあ最年長の私からやりまーす!」とユーちゃんが手を挙げて勢いよく立ち上がった。

「李雨桐と申します。木の下に子を書く李に、雨と桐箪笥の桐でリー・ユートンと読みます。日本に来て六年、薬師湯にお世話になって五年です。声優になりたくてマレーシアから来ました。最近、深夜に放送されているアニメや海外ドラマの吹き替えの仕事をポツポツもらえるようになりました。目指すは人気アニメのメインキャラです。頑張りますので応援してください」

「去年も思ったけど、なんか、声だけ聞いてたら外国育ちとは思えないね。うちの社員よりよっぽどしっかりとした日本語を話すと思うよ。凄いよねぇ」

 欣二さんが感心したといった様子で深く頷いた。「ありがとうございまーす。欣ちゃんの会社でCMを作るような話があったら、ぜひナレーションで使ってください」と返しながらユーちゃんは腰を下ろし「ほら、次はケロでしょ?」と指差した。

「うーん、ユーちゃんの後は分が悪いなぁ。えーっと、この花見には三回目の参加になります。蛙石倫次といいます。苗字が蛙石なんで子供のころから綽名はケロです。覚えやすいと思いますのでケロって呼んでください」

「うん、覚えてるよ!」

 律子さんが声をかける。ケロはちょっと頭を掻いて「どうも」と応える。

「美大に通ってましたけど、なんか違うなぁって思って去年退学しました。まあ、在学中から、あれこれと気になった分野には片っ端から手を出したんですけど、どれも中途半端で、まだ『これは!』ってものには出会えてません。なので、一応、アーティストを名乗ってますけど、自称してるだけで仕事とは呼べません。なので、一日も早く自称がとれるように頑張ります」

 ペコッと頭をさげると、ケロは腰を下ろし「さっ、葵の番だよ」と促した。葵ちゃんはもぞもぞと姿勢を直すと立ち上がり、「えへん!」と可愛い咳ばらいをした。

「佐山葵です。薬師湯にはケロと同じ時期に入りまして今年で三年目です。美容師の専門学校を卒業してブロードウェイの美容室『GENKO』で見習スタッフとして働いています。去年のお花見で『今年中にジュニア・スタイリストに昇格します!』と宣言しましたが、叶っていません。今年こそは頑張ります」

「あーっ、覚えてる! そっかー、まだ昇格できてないのか……、残念だったけど今年は大丈夫な気がする。ジュニア・スタイリストになったら私が指名するから、すぐ連絡頂戴ね」

 卒業生の一人が声をかけ、葵ちゃんは「はい!」と元気な返事をした。現役生の誰かが何かを言うと卒業生が温かい言葉をかけて励ましてくれる。誰が何を話すかなんて、その場にならないと分からないはずだから、自然とそんな声がでるような雰囲気になっているようだ。きっと、代々の卒業生にやさしくしてもらったから、自分もそうしようと思うようになるのだろう。

 三人の上手な挨拶にぼんやりと聞き惚れていたら、何時の間にか、みんなの視線が僕に集まっていた。ユーちゃんもケロも葵ちゃんも、三人とも大勢の前で話すことに慣れているのか上手過ぎて困ってしまう。それに、みんなの話を聞くことに一生懸命になりすぎて、話すことを何も考えていなかった。

「ほら、蓮。あなたの番よ」

 葵ちゃんが僕の背中を押した。

「大トリだからな! ちゃんとオチをつけろよ」

 ケロが茶化す。自分が終わったからって……、そんなにハードルをあげないでよ! と思いながら、もそもそと立ち上がった。

 車座になったみんなの視線が一斉に僕の方を向いた。僕は人見知りなうえに上がり症で、普段だったらパニックを起こしていてもおかしくはない。けれど、みんなの眼差しが温かいからだろうか、不思議と落ち着いていた。

「えーっ、と。手塚蓮と言います。薬師湯には少し前に入ったばっかりです……」

 落ち着いているはずなのに、なぜだか上手く言葉が出てこない。慌てて口を開くけれど、声に力が入らない。

 ふと、中学時代の学級会で何かを提案しかけて、その理由が上手く説明できなかった時にクラスのみんなから囃し立てられて泣きそうになったことがフラッシュバックした。さっきは大丈夫だと思ったけど、急に不安になった。

 どれぐらい時間が経っただろう、多分、十秒ぐらいだとは思うけれど、僕にはとても長く感じた。きっと聞いてるみんなは、もっともっと長く感じたに違いない。でも、誰も冷やかしの声を上げることもなく、優しい眼差しで僕の話を待ってくれた。

「蓮君、ゆっくりで大丈夫よ。話せることを、話したいことを、無理のない程度にゆっくりと話してくれれば、それでいいのよ」

 オカミさんが柔らかな声をかけてくれた。

「……ありがとう、ございます」

 僕が頭をさげると、オカミさんは微笑みながらゆっくりと頷いた。

 ひとつ大きな深呼吸をすると、僕は口を開いた。

「えっと、来月、やっと大学に入ります。高校時代もけっこう真面目に勉強していたつもりだったんですけど、希望したところには入れず、気が付けば二年も浪人をすることになってしまいました。何度かくじけそうになりましたけど今年やっと希望する大学に合格することができました。なので二年もかかって、やっと、やっと東京に出てきたというのが正直なところです……」

 なぜだか分からない。不意に浪人時代のあれこれが頭の中で広がって、あっと言う間に一杯になった。頑張っているつもりなのに模試の点数があがらず、予備校の講師からは「焦らずに基礎からしっかり勉強しないと」と何度も諭された。高校時代の友人らがSNSにアップしている楽し気な大学生活に何度も何度も嫉妬した……。

 ほんの一瞬のはずだけれど、気が付けば涙が頬を伝っていた。慌てて手の甲で拭ったけれど、その様子を笑う人は誰もいなかった。ただ、温かな眼差しで僕が話の続きを始めるのをじっと待ってくれていた。

「……だから、今の僕には皆さんにお話しできることが何もありません。ユーちゃんやケロ、葵ちゃんみたいに、これを頑張ってますって言えることが僕には何も……。とりあえず、ちゃんと学校に通って、何か打ち込めることが見つかるといいなって思います。来年、この花見に参加することができたら、その時には何かしっかりとしたことを報告できるようにしたいと思います」

 話し終えた僕が頭を下げて座ろうとすると、車座から声がかけられた。

「……きっと、君が頑張った二年間には、ちゃんとした意味があったと思うよ。その証拠に、希望していた大学の合格をつかみ取ったじゃないか。それで十分だと僕は思うけどな。それに、それ以上の意味があったことを、いつか分かる日がきっと来るよ」

 声の主は仁さんだった。

「それとね、勝手な解釈だけど、二年浪人をしたから、君は薬師湯に来れたんだと思うよ。だって、そうでなかったら僕と入れ違いで二階の二号室に入ることはできなかったんだから」

「うん、そう、そうだ。二浪? 君は二十歳だろうから二年間を途轍もなく長く感じるのかもしれない。なんせ、これまでの人生の一割にあたる訳だから。けど、これから四十、五十って年を重ねたら、その割合は毎年薄まって行くんだぜ」

 欣二さんがなぜだか恥ずかしそうに鼻の頭を掻きながら笑った。

「それ、大将の受け売りだろう? 偉そうに言うなよ」

 すかさずシゲさんが突っ込むと「だから遠慮気味に言ったじゃない」と抗弁した。

 その様子を見やりながら仁さんは立ち上がると、僕の隣にやって来て肩を叩いた。

「二階の二号室って出世部屋なんだよ。卒業して行った先輩たちは、みんな大成功してる。心配しなくても君の未来は明るいよ。僕が保証する」

「あっ、三号室だって出世部屋だぜ! なんせ、俺みたいな人間がこんなに立派になったんだからさ」

 欣二さんも立ち上がると僕の肩に手を回した。

「あーっ、ってことは俺もそろそろ芽がでてもおかしくないってことですね?」

 ケロが欣二さんの肩に手を回す。

「何を言ってるの、うちには出世部屋しか用意してませんからね」

 オカミさんが笑う。桜の木に立てかけられた額に納まった大将も笑っているようだ。

「私、来月オーディション強化月間なんです。そろそろ大役をつかめますかね?」

「もちろんよ! 私が太鼓判を押すわ」

 律子さんがユーちゃんとハイタッチをした。

「ちぇっ、万年風呂焚き当番の俺様はどうなるんだよ? もしかして、一号室だけハズレってか?」

 シゲさんがボヤくと、みんながどっと沸いた。

「じゃあ、ハズレ部屋で万年釜場の面倒を見ている俺は近況報告もへったくれもないから、例年通り一曲披露させてもらおうかな」

 何時の間に用意したのか、胡坐をかいたシゲさんの膝にはギターがあった。ピックで弾きながら弦をチューニングしているうちにシゲさんの表情が変わった。

「何時の間にギターなんて」

 腰を下ろしながらケロに尋ねた。

「来るときにシゲさんがリアカーに載せたじゃない。あれだよ」

 ケロが僕の耳元に口を寄せて教えてくれた。あんなに沸いていたのに、皆がしんと静まり返った。

「ちょっ、ちょっと待って! えーっと、はい、OK」

 ユーちゃんが慌ててスマホをスタンドにセットし録画をスタートさせた。

「なんだか緊張するな、カメラが回ってると思うと」

「だって、来れなかった人たちから『録画して!』って頼まれてるんだもん」

 シゲさんは小さく笑うと、ピックを弦にそっとあてた。

 はらはらと舞う桜の花びらに、ギターの調べがゆったりと流れる。その静かなギターの音に囁くようなシゲさんの声がシンクロする。

 満開に咲き誇る桜が、潔く散りゆく様子を人の一生になぞらえるような歌詞が、ポツリポツリとギターの音の間に差し込まれてゆく。

 無邪気な子どもは大きな夢を抱き、町へと飛び出してゆく。けれど成長するに従って、それまでは見えていなかった壁にぶつかり、夢はしぼんでしまう。それでも一生懸命に頑張っていれば、しぼんでしまった風船をそっと抱き上げて温かい言葉でもう一度大きく膨らませてくれる誰かにきっと出会える。そして、自分一人だけの小さな夢は、誰かと一緒に描く大きな大きな夢へと生まれ変わる。夢は大きくなればなるほど簡単には叶わない。だから、その夢は次の世代へと託される。どんな夢も必ず叶う、諦めなければ、託された誰かの手によって、いつかきっと……。

 そんな意味合いの歌詞が語りかけるようにしてギターの調べにのって漂っている。中野通りを行き交う車の騒音や、他の花見客の声は遮断されてしまったかのように聞こえず、ただギターとシゲさんの声だけが心に響いた。音が届く空間にだけ、結界でも張られたかと思うように、時間の流れが穏やかになり、ただただ、その響きに耳を傾けている人たちだけで、言葉を交わしていないのに一つになったような気がした。

 どれぐらい経っただろう。シゲさんが弦からピックを外すと、オカミさんが拍手をした。その双眸からは涙が溢れていた。

「もう……、今年は泣かせないでってお願いしたのに。毎年毎年、嫌になっちゃう」

「……すみません」

 シゲさんは短く詫びてギターをケースに仕舞った。

「驚いたでしょ?」

 葵ちゃんが悪戯っ子のような顔を僕に向けた。その頬も涙で光っていた。

「うっ、うん。なんか、ギャップが凄すぎて何て言ったらいいのか分からない」

 スマホをいじっていたユーちゃんがニッコリ笑った。

「よし! 今年は上手に録れた。去年は途中で落っことしちゃって雑音が入ったんだよね。だからスタンドをわざわざ持ってきたのよ。今年はバッチリ」

「あっ、それエアドロップしてくれない? シゲさんが本気で歌ってくれることなんて滅多にないんだから」

 ケロがスマホを差し出した。

「こら! 著作権侵害だぞ。印税払え」

 シゲさんが笑う。

「プロの歌手を目指してたのよシゲさんは。修業として新宿で流しをしてたらしいんだけど質の悪い奴らに絡まれて……。その時にたまたま居合わせた大将が助けてくれたんだって。それが切っ掛けで薬師湯で働くようになったんだよね?」

 そう教えてくれた葵ちゃんをちらっと見やると、オカミさんは深く頷いた。

「ねえ、シゲさん、私はもう何度も聞いたことがあるけれど、よかったら鈴原と初めて出会った時の話を、みんなにしてあげて欲しいんだけど」

 オカミさんに深く頷くとシゲさんが口を開いた。

「もう随分と昔の話だよ。俺は歌舞伎町のスナックやクラブで流しをしてた。客のリクエストに合わせて歌謡曲や演歌はもちろん、民謡でもなんでもね。一生懸命にやっていたつもりだったけど、ある晩、チンピラに絡まれた。よく分からない理由で、ほとんど難癖に近かった。『目つきが気に入らない』とか『下手くそな奴が金をとって歌ってるのが気に入らない』とか……。胸倉をつかまれたと思ったら足下を掬われて、気が付いたらよってたかって蹴られていた。しかも、商売道具のギターまで叩き壊されて。挙句に、左手の指を折ろうとしやがった。それを止めに入ってくれたのが鈴原の大将なんだ」

 シゲさんは言葉を切ると桜の木に立て掛けられた額をじっと見つめた。

「ちょっと大きなクラブでさ、大将は奥の方のボックス席で飲んでたようなんだけど、騒ぎを聞きつけて俺が組み伏せられている入口近くのカウンターまで出てきてくれた。で、『お前たち、楽しく酒を飲む場所で何を騒いでる』ってチンピラを一喝した。連中は属している組織の名前を口にして『素人はすっこんでろ!』と啖呵を切り、『とにかく、こいつの指をへし折らなきゃあ気がすまねぇ』って凄むんだ。大将はカウンターに立ってるバーテンに『この歌い手は指を折られなきゃあならないほどの失礼を働いたのか?』って静かに訊ねた。バーテンは返事に困りながらも大将のオーラに参っちまって『いっ、いえ、特に』って返事をした」

 みんな、瞬きをするのも忘れてシゲさんの話に聞き入っている。

「じっとチンピラの顔を見据えると大将は左手を差し出した。『何があったか知らないが、そんなにむしゃくしゃして誰かの指をへし折りたいなら、俺の左手で勘弁してもらえないか。どうやら、こいつはギターを弾くようだから左手が不自由だと困るだろう。そいつは少しばかり可哀想だ。俺はしがない銭湯の親父だから、多少不自由でもなんとかなる。さあ、五本ほどしかないけれど、思う存分にやっていいぜ』って。その迫力に圧倒されちまったチンピラは床に尻もちをついた。その体を起こしてやると、大将は『勘弁してくれるのかい? そうかい、それは良かった。まあ、気分を害したなら申し訳ない。これで、どこか河岸を変えて飲み直してくれ』とポケットに万札を何枚かねじ込むと店の外へと送りだした」

 そこまで聞いて、誰かが大きく息を吐いた。その気持ちはよく分かる。僕も聞いてるだけなのに肩に力が入ってしまった。

「チンピラが出て行くと、バラバラになって床に散らばったギターの破片を一緒になって拾ってくれた。『よく我慢したな。ギター、こんなにされちまって……』そんな言葉をかけてくれた。思わず俺は泣いちまったよ。東京に出てきて、どんなに辛くても泣いたことなんて一度もないのに」

 シゲさんは言葉を区切ると、空を見上げた。きっと、そのまま話を続けたら涙が溢れてしまうと思ったのだろう。しばらくすると、呼吸を整えて話を続けた。

「もらった紙袋に壊れたギターを突っ込んで店を後にすると、すぐに大将が追いかけてきた。『おい、これから新しいギターを買いに行こう』って。今だったらドンキとかがあるけど、昭和の終わりころだったから深夜の新宿で楽器を買えるような店はなかった。どうするのかと思ってたらタクシーを捕まえて『高田馬場まで』って。着いたところは質屋だった。当然、店は閉まってたんだけど大将の知り合いだったみたいで、通用口から中に入れてもらって、ギターをありったけだしてもらった。学生なんかが持ち込むんだろうね、結構、色んなものがあって驚いた。その時に買ってもらったのが、こいつなんだ」

 シゲさんはそっとギターのケースをなでた。

「マーティンD-28。一目惚れだね。でも、とても手が出る値段じゃなかった。すると大将が『商売道具に金をケチってるようじゃ一流になれねぇぞ』って。『今日は散々な目に遭っただろうけど、これで帳消しになるといいな』って買ってくれた」

「もうビンテージの部類に入るだろうから、今なら軽く百万ぐらいするだろうね」

 ケロが口を挟んだ。

「俺が流しで稼ごうと思ったら一年やそこらじゃあ間に合わないような値段だった。それを惜しげもなく買ってくれた。最初は『とても受け取れません』って尻込みをしたんだけど、『ただでくれてやる訳じゃない、お前への投資だ。そうだな、利子は週に一度でいいから、俺の店を手伝いに来い』って」

「その晩よね、シゲさんが初めてうちに来たの。ああ、晩というよりも明け方ね」

 オカミさんがしみじみとした声を零した。

「質屋から出ると『ちょっと、どこかで飲み直そう。でもって、お前の歌を聞かせてくれ。さっきは途中で余計な邪魔が入ったからちゃんと聞けなかった』って。それから大久保のスナックで明け方まで何曲歌ったかな。気が付いたら薬師湯の脱衣所で大将と一緒になって寝転んでた」

「本当にびっくりした。朝になって店に出てみたら、うちの人とシゲさんが二人して伸びてるんだもの」

 オカミさんの声にみんながドッと笑った。

「俺が道端で寝てしまうと凄い勢いで説教するのに、なんだ、シゲさんも同じようなことをしてたんだね」

 ケロが突っ込むとシゲさんが「面目ない」と笑った。

「本当は三年で薬師湯を卒業するって約束だったんだ。『ぜったいにプロになれ!』って大将は随分と支援してくれたんだけど……。果たせず仕舞いで申し訳なく思うよ」

「何を言ってるの、あの人こそ『シゲが成功するのを必ず見届ける』って約束をしたのに……。お互い様よ。ね、だから気にしないで」

 オカミさんがシゲさんの肩を揺する。

「ま、そんな訳で、俺は夢を追ってる奴を絶対に笑わないって決めてるんだ。笑ってしまったら、昔の自分を笑うことになるからな」

 その後、お昼過ぎまで皆でゆっくりと語り合い、料理とお酒を堪能した。あんなにたくさんお酒を飲んだのは初めてなのに、なぜか悪酔いはしなかった。きっと、やさしい人たちの言葉が僕を癒してくれたからだろう。

*  *  *

三月二十九日(日)  天気:晴れ 記入:李雨桐

 今日は薬師湯恒例のお花見。オカミさんと葵、私の三人で手分けをして、朝から大量のお弁当を作る。私は鶏もも肉の唐揚げを担当。昨晩から塩麹を使ったタレに漬け込んでおいたお陰で柔らかくてジューシーに仕上がった。面倒だったけど、二度揚げしたこともあって、時間が経ってもパリッとした衣で評判も上々! 将来、マレーシアに帰って仕事がなかったら唐揚げ屋さんをやるのも良いかも。

 オカミさんとシゲさんが吟味しただけあって、今日も天気に恵まれて満開の桜の下でお花見をすることができた。春休みに入っているからか、哲学堂公園はすごい人出。薬師湯の卒業生が場所取りをしておいてくれたお陰で、今年も一番大きな桜の下で車座になることができた。

 今年の参加者はオカミさんやシゲさん、現役生を含めて三十二人。毎年のこととはいえ、こんなにも大勢が集まるのはやっぱり凄い。そういえば、昨年、録音に失敗したシゲさんの歌を今年は上手に録音できた。許しをもらって薬師湯の公式アカウントにすぐアップすると、早速、卒業生の何人かから反応が! 苦労した甲斐があった。

※試し読みはここまでです。最期までお読みいただき、ありがとうございました! 気になる続きは書籍『中野「薬師湯」雑記帳』でお楽しみください。