小説『彼女が好きなものはホモであって僕ではない』とドラマ『腐女子、うっかりゲイに告る。』の主人公の解釈差異について

 どうも。新刊『#塚森裕太がログアウトしたら』発売を3日後に控えている浅原です。(開幕宣伝)

 今回は自分の書いた小説『彼女が好きなものはホモであって僕ではない』と、それを原作にしたドラマ『腐女子、うっかりゲイに告る。』について、主人公「安藤純」の解釈差異について語りたいと思います。というのも自分視点だと解釈に結構な差異があるのですが、一般視聴者視点だとだいたい同じに見えるらしいんですよね。よってこれは語ったら面白いんじゃないかと思い、語ることにした次第です。

 というわけでここからは小説『彼女が好きなものはホモであって僕ではない』とドラマ『腐女子、うっかりゲイに告る。』を両方鑑賞済の人間にしか分からない話となります。もちろん、内容にも思いっきり触れます。なのでどちらかに触れておらず、これから触れる予定のある人は触れてから読んだ方がいいかもしれません。まあ、別に今読んでもいいですけどね。あとがきから本を読む人っているし。

 では、始めます。

<序論>
 純くんの解釈差異に入る前に、ドラマ『腐女子、うっかりゲイに告る。』が原作小説と比較してどういう作りになっているか、全体の構成を語りたいと思います。と言ってもこれはドラマ終わって続編始める時にもう語っているんですけどね。説明のため、改めて。

 ざっくり言うと小説は「純-三浦」「純-ファーレンハイト」「純-マコト」の三軸構成になっているのに対し、ドラマは「純-三浦」を主軸に「純-ファーレンハイト」「純-マコト」をサブとして据える構成になっています。いや、そういう意図があったのかどうかは知りませんが、少なくとも出来上がったものはそうなっています。「純-三浦」軸の描写はこの軸に属する亮平や小野なども含めて濃く、逆に「純-ファーレンハイト」「純-マコト」軸の描写はマコト軸に属するケイトさん共々カットが多いです。加えて、ドラマで特別に追加(not変更)されたシーンは全て「純-三浦」軸の描写に割かれています。

 よってファーレンハイトやマコトさん、あとケイトさんに関しては「小説とドラマの解釈違いを論ずることはできない」というのが自分の感覚です。構成変化の煽りをモロに受けているので「解釈」というより「都合」で変わらざるを得ない面が大きい。しかし「純-三浦」軸は違います。原作そのまま軸が残っているので「解釈」の差異を述べることが出来る。

 そして冒頭で述べました通り、世間的にはこの軸は「原作に忠実」と言われることが多いです。特に純くんに関してはほぼそのままだと。ところがやはり冒頭で述べた通り、自分的には純くんの解釈が結構違います。

 結論から言いましょう。小説の純くんもドラマの純くんも「普通」に憧れています。しかし、小説純くんの求める「普通」において相手の女性は三浦さんに限定されていません。「普通」を手に入れたいが最優先で、その候補として三浦さんがいるような感覚。しかしドラマ純くんは違います。三浦さんをはっきりと意識し、三浦さんを相手に「普通」を得たいと願っている。

 これにより原作は「三浦紗枝という一人の人間を見ていなかった安藤純が彼女とちゃんと向き合うようになる話」だったのに対し、ドラマは「三浦紗枝という一人の人間に対してどうすればいいか分からなかった安藤純が彼女との向き合い方を学ぶ話」となっています。この差は小さいようで、大きいです。

 このような解釈の差異がどこに出ているのか、いくつかシーンを挙げて解説します。自分的に特に分かりやすいと思うのは以下の四つ。

① Track1ラスト付近の三浦さんとの会話
② Track3のマコトさんに対する態度
③ Track4のファーレンハイトからのメールが届く前に言いかけた言葉
④ Track5の三浦さんへのカミングアウト

 このうち②は「解釈」ではなく「都合」による変更の可能性があります。それはおいおい語るとして、一つずつ見ていきましょう。

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① Track1ラスト付近の三浦さんの会話
 これは最終的に純くんが三浦さんから「ホモ(ゲイ)なんてそうそういない」という言葉を引き出すことになる一連の会話のことです。ここ、本放送時にもツイッターでコメントしたのですが、シーンの意味がかなり変わっています。

 まず小説の流れは以下のようになっています。

1:純、第三者がどういう人をゲイっぽく思うか確認しようと思い立つ。
2:クラスで誰がゲイっぽいと思うか三浦さんに聞く。
3:三浦さんが亮平を挙げる。
4:純「亮平がホモだったらどうする?」

 小説の純くんはこの時点で三浦さんに思い入れはありません。現にこの直前、イヤホンを半分に分けて音楽を聴きながら「カップルに見えるけどいいの?」と関係性を茶化すような言葉を吐いています。最後の質問も現実のゲイがどう思われるか確認しようとする意図が強く、「三浦さんに自分を理解してもらいたい」という意識は希薄です。だから「亮平が」ホモだったらどうするという問いかけになっている。

 ところがこの流れが、ドラマだと以下のようになっています。

1:純、マコトがラブホで言った「その女の子なら純くんのことを理解してくれるかもね」という言葉を思い出す。
2:クラスの誰と誰で妄想するか三浦さんに聞く。
3:三浦さんが亮平と小野を挙げる。
4:純「クラスの中にゲイがいたらどうする?」

 スタートからもう違いますね。小説はちゃんと隠せているかどうかを確かめるための質問だったのに対し、ドラマは回想を入れて三浦さんに理解を求める感情を匂わせている。そして最後の質問、小説では「亮平」を対象にとっていたゲイ候補がドラマでは「クラス」になっています。この変化はとてつもなく大きい。なぜならドラマのやりとりだと純くん自身がゲイ候補に含まれる、つまり「僕がゲイだったらどうする?」という質問になりうるからです。

 小説の純くんは基本的に自分から行きません。来たものにそれっぽく対応するだけ。しかしドラマはこの時点で純くんから三浦さんに接近しようとしている。小説の感情図は三浦→純の一方通行だったのに対し、ドラマでは純→三浦の矢印も細いながら発生しているわけです。

 なおドラマではこの差異を発生させるため、このやりとりの前にオリジナルシーンを挟んでいます。色々なもの同士をカップリングさせる三浦さんとそれに付き合わされる純くんのシーン。たぶんここで「いいな」と思ったんでしょうね。単に解釈を変更しただけではなく、変更を自然に魅せる心理の流れを作っており、脚本の三浦直之さんがきちんと考えて物語を再構築しているのが伺えます。

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② Track3のマコトさんに対する態度
 ここはめちゃくちゃ分かりやすいですね。小説の純くんはそんな素振りを見せなかったのですが、ドラマではマコトさんと別れようとします。その理由はシンプルに考えるなら「三浦さんに失礼だと思ったから」でしょう。なので、ここでもドラマ純くんが三浦さんに対して特別な想いを抱いていることが読み取れます。

 しかしここは「解釈」ではなく「都合」で変わった可能性もあると僕は読んでいます。このシーン、小説そのまま放映したら確実に放送倫理に引っかかるんですよね。なので変更は必須。その中で話をスムーズに進める案として「別れを切り出す」が採用されただけで、そこまで深い意図はないのではないかと。そう考える理由は、このシーンの変更によって後のシーンと矛盾が生まれているからです。

 その矛盾が、Track5のカミングアウトで純くんが口にした「僕はただ、両方欲しかっただけなんだ」という台詞。

 ドラマ純くん、両方欲しがってないんですよね。まあ「とりあえず今は」という考えだったと捉えることもできますけど、繋がらないことは繋がらない。この矛盾が物語の「都合」で曲げられた結果として出た歪みっぽいので「解釈」ではなく「都合」による変更なのかなと思う次第です。なお、答えは知りません。脚本の三浦さんに聞くしかない。

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③ Track4のファーレンハイトからのメールが届く前に言いかけた言葉
 安藤純というキャラクターの小説とドラマの差異が爆発寸前まで行ったシーンです。もしここでファーレンハイトからメールが来ない筋書きだったら、差異は誰の目にも明らかになったのではないでしょうか。

 このシーン、小説の純くんは「自分はコウモリにもなれない」「幕を下ろさなくては」という想いから「三浦さん」と声をかけます。そして声をかけた三浦さんに見つめられて「手放したくないと思う程度には好き」と感じます。この流れなら切り出すつもりだったのは別れ話か、それに近いものでしょう。

 ところがドラマでは、三浦さんとはしゃぐシーンに「僕はこの子(三浦さん)のことが本当に好きなんだ」「この子となら、本当の僕のままで」というモノローグが入り、それから「三浦さん」と声をかけます。何を言おうとしたのかはわかりませんが、この流れで別れ話はないでしょう。どちらかというと前に進む類の言葉であったはず。「本当の僕のままで」というフレーズはカミングアウトすら匂わせています。

 要するに、小説では終業式で三浦さんに殴られる(比喩)まで出来なかった「向き合って語り合う」という行為を、ドラマの純くんはこの時点でやろうとしていると読み取れるわけです。だからドラマ純くんは三浦さんをちゃんと向き合おうとしている。三浦さんとの関係という点において、小説純くんよりかなり進んだ場所にいると言えます。

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④ Track5の三浦さんへのカミングアウト
 長々と解説してきましたが、ぶっちゃけここで答え言ってます。語りの中に小説にはない台詞が挿入されているんですね。

 「三浦さんなら好きになれるかもって本当に思ったんだ」と。

 この台詞、小説にはありません。なぜなら小説純くんが考えているのは「女の人と結婚して家庭を持つ」であって「三浦さんと結婚して家庭を持つ」ではないから。三浦さんでもいいけど、三浦さんでなくてもいい。ところがドラマ純くんの考えていることは「三浦さんと結婚して家庭を持つ」なんですね。だからこの台詞が挿入される。これが序論で述べ、そう考える理由をここまで語ってきた、小説純くんと原作純くんの大きな「差異」になります。

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<総括>
 いかがだったでしょうか。一見、三浦さんに対して同じような台詞を言い、同じような態度をとっている小説純くんとドラマ純くん。しかし実は向けている感情が割と違うのがご理解いただけたかと思います。

 とはいえ、ぶっちゃけ今まで語ってきたことは全て自分の妄想です。ドラマ制作陣に聞いたら「そんなこと考えてませんでした」という返事が来る可能性は大いにあります。まあそれも「解釈」の一つの楽しみなので大目に見て下さい。別に答えのある話ではないし、答えが必要な話でもないでしょう。

 あと別に僕は「勝手な改変をされた!」と怒っているわけでもないので、そこもご了承ください。作品の「芯」は変わっていないと思いますし、何より、小説とドラマは別作品なのである程度の改変はあって然るべきだと考えています。媒体が違えば魅せ方が違い、魅せ方を変えれば解釈も変わる。骨子を変えることなくどういう風に魅せるための変化を入れられるかが腕の見せ所で、こうやって解説されるまで多くの視聴者には見えないレベルの新解釈を行ったドラマ制作陣の腕前は、ドラマ全体を通して確かなものだと思っています。(なお、この新解釈が映像作品を創る上でどう有利に働くかと言うと、自分ばかり見ている小説純くんより曲がりなりにも三浦さんを見ようとしているドラマ純くんの方が感情が豊かなので、全体的にエモい画が作れます)

 以上、小説とドラマの「安藤純」解釈差異についてでした。最後に冒頭でも語りましたが新刊発売日が10/22と三日後に迫っているので、良かったら買って下さい。このURLを貼るためにわざわざNoteのIDを取ったんだ俺は。

 タイトルは『#塚森裕太がログアウトしたら』。誰からも愛される人気者のバスケ部エース、塚森裕太がSNSでゲイをカミングアウトしたところから広がっていく波紋を、当事者含む様々な視点から書いた連作短編集です。よろしくお願いいたします。

https://www.gentosha.co.jp/book/b13344.html

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