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架空日記:私は「何者」なのか。
小さな頃から、風変わりな子だったと、親からは聞かされていた。
誰かとの会話を望まず、ひとりで遊んでいる子。
思えばあの頃からずっと、私は空想の世界に生かされていると思う。
成長するにつれ、私は周囲とのズレを感じ始めた。
おしゃべりな女の子についていくのが苦痛で。
苦痛に思っている私が「おかしいのでは」ないかと思った。
それでも成長痛は待ってはくれない。
私は望まなくとも成熟していき、社会に溶け込まなくてはならなくなった。
そのために私は「擬態」をした。
人真似をすることで、まず人の風体をした何者かになろうとした。
次第にそのアウトラインは、私の内側にも浸透していった。
結果的に、元いた私というものはアウトラインの波に呑まれ、海の藻屑となって消えていった。
私の社会性は飛躍的に向上した。
けれど、私は私が「何者か」分からなくなった。
笑うことが得意になった分、うそっぱちの笑いも増えた。
うそをつくことで、他人が笑うなら道化を演じるのも悪くはない。
私が笑っていれば、誰かが、救われると思っていた。
けれどそんな虚構人間を誰が許すものか。
他人が許しても、自分自身が耐え難くなってきた。
どれが私で、私はどれなのか。
すべてが曖昧になって、ぼやけた世界で、私を救ったのは空想だった。
空想の世界でなら自由になれる気がした。
本当の私というものに、なれた気がした。
とうに喪われた「本当の私」が取り戻せるような気がした。
空想は私を拒絶したりしない。否定もしなければ、求めることもない。
私は救いを空想に求めて、続くように、空想を書き起こすようになった。
ああそうだ。大いにこれは現実逃避だ。
私は、細胞分裂し続ける私を、もう見ていられなくなったのだ。
この日記に皆がオープンカーで祝ってくれるような救いはない。
ただ、書き起こすことで、私は「何者か」であろうとしている。
そんなはなしだ。