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浅葱色の覚書「普通にめっちゃいい読書感想文を書いてしまった。」 / 違国日記

「違国日記」(ヤマシタトモコ著)という漫画を読んだ。
抱えていた仕事がひと段落したので、退勤後に軽やかにスキップしながらTSUTAYAへ。「本買いまくるぞ〜ッ。積みまくるぞ〜ッ。」と店内を隅から隅までスキップしていると(「隅から隅までスキップ」って隈なく見ているのか、飛ばし飛ばし見ているのかわからなくなるね。)、件の「違国日記」が漫画コーナーにて平積みされていた。「そういやちょっと前に映画化されてたな。」なんて思い、全11巻という、大人買いするにはベストな巻数だったこともあり購入。ワクワクしながらスキップで帰宅し、スキップしながら読み始めた。


結論から言うと、めちゃくちゃ好みの漫画であった。絵柄もキャラクターもストーリーも哲学も、全てがストライク。主人公は小説家の高代槙生(35)と、その姪の朝(15)。朝の母(=槙生の姉)と父が交通事故で亡くなったことを機に、二人暮らしをすることとなった彼女らの生活の話。まあ、細かいことは自分で読んでおくんなまし。それまでの所謂”ショウジョマンガ”(というか、こういう「家族モノ」「日常モノ」)のステレオタイプから(明らかに意識的に)脱した内容となっており、読みながら「わかる!もっと言ってやれ!」と共感の嵐が吹き荒れていた。例えば、恋愛の形、家族の在り方、ジェンダー等々、それまで一定の形でしか描かれていなかったり、ひどい場合は描かれさえしなかったことに、この作品は向かい合っている。それも槙生が言葉を紡ぐときと同じように、丁寧に、慎重に。「こういうマンガもっと増えてくれ!有名になってくれ!」と心の中の私が叫んでいた。


さて、この作品を通して最も考えさせられたのは「つながり」に関してである。云うまでもなく、我々は他人とつながりながら日々暮らしている。家族、友達、同級生、同僚、上司、先生、いつも行くカフェの店員、一度だけ話したアイツや、SNSで名前だけ知っているアノ人…。上げていけばキリがないほどである。
我々はつながりすぎていないだろうか?それは「数」の話でもあるし、「強さ」の話でもある。SNSであまりに多くの人とつながっているし、友達や家族、恋人とあまりに強くつながっているように見受けられる。別に広くつながることも、強く繋がることも否定する気はない。そればかりを当たり前にしてしまうと、苦しむ人が現れるということである。殊にわたしは強くつながることが苦手だ。一つは性格が要因だろうが、なんというか、家族とか恋人とかに当たり前みたいに「強いキズナ」みたいなものを求められると、家父長制を押し付けられている感じ(そしてそれを周りの人が何も気にしていない感じ)が気持ち悪くてたまらないのだ。別に結婚したいとも思わないし、友達も恋人も家族も必要以上に干渉してほしくないのだ!わたしはそれが幸せなのだ!(このスタンスで幸せで居続けることは、家父長制への小さな抵抗でもある。)


そういった「つながり」の形が、「幸せ」の形が、作品として描かれているものはまだまだ少ないと思う。もちろん以前より増えている。「わたしたちは無痛恋愛がしたい」とかマジで最高である。
人間関係に歪さを感じ始めた人は、今一度「つながり」について考え直してみてはいかがだろうか。たくさんの友達を作り、深い人間関係を築くことばかりが「素晴らしい」と親や先生やマンガに教えられてきた。(何度も言うが、それら自体を否定する気はない。)でも少なくともわたしにとっては、現代はあまりにつながりすぎている。つながりすぎて張り詰めたその糸を、少し緩めよう。「違国日記」は手を貸してくれる。




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