おしべとめしべのはなし

文:竹中杏菜

「自分は相手のこと好きじゃないけど、相手に好かれてるのが嫌じゃないからご飯食べに行くんでしょ?」

わたしは異性と2人でご飯を食べに行く。

その後は相手の家やホテルへ行くでもなく、コンビニに寄って2人でアイスを頬張る。季節は関係ない。

当たり前だ。
人間と人間がお互い楽しいから会いたいと思って、少なからずわたしは相手が人として大好きで楽しいから予定を取り付けて会う。それだけの話。

勿論相手に恋人がいる場合は配慮するが、多くの場合は相手にも恋人がいないからその心配もない。

性別が違うだけで一対一で話す機会を設けることの終着点を全て恋愛に置くのは、大概にしてほしい。

というか、そんな受け取られ方を一方的にされてしまうのは心外だし、何より相手に失礼だと思う。

ただ、性別が違うという理由で人との付き合い方が変わってしまうのは、あまりに勿体無いと思ってしまう。
生物学上での性別は自ら選び取れない。そんな先天的なものに、選択肢を縛られてしまうなんて私は嫌だと思う。

わたしたち人間の男女比は大体1:1で、人生最高の親友に巡り会える確率をもしかすると50%分も逃しちゃっているのかもしれない。

この人付き合いの形は一定の批判票を受けることは自覚しているから、一部の理解者としか会わないと自重している。

もちろん男性と女性はおしべとめしべであって、こんな屁理屈は生理的に無理だとこの文章から踵を返していく人もいるだろう。
この問題は、「男女の友情は成立するか」というよくある未解決事件である。

そんな人もいればこんな人もいる。
それなら、そんな人たちとこんな人たちの住み分けをすればいい。水と油はいくら混ぜても混ざらない。彼らは賢い。

異性が2人でご飯なんてそういう目で見られても仕方ないと思うかもしれない。
しかし、否応無しに表面的なもので判断されてしまうのは差別的だし、深層を突けば人の生き方に対する寛容さの問題なのではと思う。

主張したいことは、恋愛や仕事を度外視して、というか寧ろそこも包含して部分にフォーカスされた関係ではなく、人間と人間というフラットな関係でお酒を飲みに行く人間も実はいるんだぞということで、できればそんな人たちに住民権をくださいということだ。

欲を言えば、同じ考えの人がもっと増えれば、個人的によりフラットにたくさんの人とお話ができるのになとも思う。わたしはたくさんの人とお喋りしたい。

まとめると、色んな人と話せる機会における障壁がもっと少なくなればいいなということです。(常体敬体の乱れ)





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