『4月のある晴れた朝に100パーセントの女の子に出会うことについて』について

運命というものが仮にあったとして、出会うべくして出会っていたかつての恋人を僕らは忘れていないだろうか。4月のある晴れた朝、原宿の裏通りで100パーセントの女の子とすれ違う、そんなささやかな出来事はふとした瞬間にやってくるのだろう。

この話は記憶という僕らが一つ信頼している機能の揺らぎをボーイミーツガールと組み合わせた掌編である。

物語は「僕」が4月のある晴れた朝、原宿の裏通りで100パーセントの女の子とすれ違うところから始まる。そして、僕はすれ違う直前に彼女にどんな言葉をかけるか悩むが、どれも、しっくりこなくて結局何も言えないまま彼女は人混みの中に消えていってしまう。僕は後になって、彼女にどうやって話しかけるべきかわかるのだが、このセリフが物語の主題になっている。彼のセリフは「昔々」から始まって「悲しい話だと思いませんか」で終わる。

この物語の面白いところは「まだ始まっていないけれど、すでに終わっているかも知れない」ところである。僕は彼女に結局何も話しかけていないのである。しかし、話しかけなかったことが切ないと思わせるのである。読者である僕らもこの物語の僕も一歩も前に進んではいないし、一歩も後ろに退いてはいない。しかし、感情だけは確かに揺れている。失恋は告白が失敗した時に成立し、結婚はプロポーズが成功した時に成立する。そして、追随するように感情が押し寄せてくるのである。しかし、この物語は失恋といった目的のようなものを成立するための告白失敗という手段を何も経ていないのである。目的や手段がなく、しかし、構成は奇抜であり、言葉にできないうちに読者である僕らは切なさを腕いっぱいに抱えている。そして、僕らは一つ大きな疑念も抱えることになる。

「もしかすると、自分は忘れているけれど大切な人がいるんじゃないか、すれ違いざまに思い出せるけれど、すれ違わなければ二度と思い出すことのできない大切な人がいるんじゃないか」

そのたった一つの疑念を晴らせない限り、僕らは日常生活に一つの支障をきたしてしまう。それは、存在しないはずの恋人に想いを馳せてしまうことである。そして、この想いというのは一人でに解消することが全くの不可能である。村上春樹がこの小説で本当に書きたかったことは何なのか。それは、イマジナリーガールフレンドを冴えない男どもの脳みそに植え付けることでも、運命論のある種痛烈な必然性でもない。

「僕にとって彼女は100パーセントの女の子である」

それだけである。そして、僕のクリスマスは今年も未定である、ただそれだけであるのだ。

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